181―1、詩と、心と、剣と。俺が夜明けの扉を開くこと。
――――――――…………邪の芽のまつろわぬ魔の力は、たちまち俺の内で大きな花を開いた。
花と呼ぶには少々、漆黒が過ぎる。
だがそれは瑞々しかった。まさにこの身を流れる血みたいに熱く、鮮やかに鼓動しながら咲き誇っている。
心の臓の奥の奥まで深々と張られた根を伝って、実に心地良い律動を刻んでいた。
邪の芽が望んだ、唯一無二の業火。
俺が望んだ、果てないカーテンの向こう。
愚かで夢見がちな二つの旅路は今、晴れて交わった。
俺はもう、何にも縛られない…………!
花弁はみるみる色付き、やがて俺の右手のひらの傷から、薄く鋭い黒銀の刃を実らせた。
真っ直ぐで脆い、手折れば簡単に砕けそうなちゃちな銀の輝き。強烈な懐かしさが湧き上がってくる。
俺はすぐに、俺の剣の正体を思い出した。
「…………ああ、これがいい」
染み入るように手に馴染む、一本の古いカッター。
…………俺はこれが気に入っている。
これは世界を切り拓く刃。壊すばかりじゃない。創るための刃。
ずっとずっと同じ暗闇を過ごしてきた。何枚も何枚もこれで紙を裂いては、小さな世界を生んで、そして捨てて…………。
少しずつ、許せる何かをこの手で折り上げてきた。
ヤガミを刺したのもこのカッターだ。
あの日、何よりも俺の間近にあって、誰よりも強く強く激しく俺を語っていたもの。
俺の初めての詩。
飾れなかった魂。
紛れもなく…………もうどうしようもなく、俺自身。
…………おかしいな。
もう惨めだとは思わない。
「よし…………行こう」
何度でも。
どこまでも。
夜の向こうへ。
俺は右手に握り締めたカッターを、目の前の闇に大きく振りかざした。
「――――――――俺は扉の魔導師だ!!!」
――――――――…………真っ直ぐに、思い切って線を引け!
躊躇うな!
決めたら、一直線に。
…………世界を拓くにはそれが大切なんだ。
速度が必要だ。
走れ。
転んだって、止まれやしない。
やけっぱちになって、すっ転んで。
取り返しがつかなくて、途方に暮れて。
…………だから何だ?
止まりやしない。
欲しがる限り、魂は走る。
切り裂け。
象れ。
世界はそこにある。
この手は必ず届く。
真っ直ぐ。
ひたむきに。
ただ前へ。
出来ないなら、少し慎重になるだけ。
考えてみるだけ。
それでも、心は走っている。
止められやしない。
叫びも。
嘆きも。
世界を彩る力になる。
明日への道になる。
走る限り。
満ち満ちていた闇が切り取られ、世界がみるみる晴れていく。
流れ落ちる無数の星が迎えてくれる。
どこかで誰かが歌っている…………。
…………祈っている。
「王」達の記憶が再び色鮮やかに流れ込んできた。
彼らの世界の残酷な彩度が、俺の血を一層滾らせる。
どんな絶望も、悲しみも、どこかに真っ白な場所を残しているから。
だからこそ痛々しく、凄惨になる。
感情は地獄を生む。
地獄は魂で出来ている。
奇跡を信じるから。
夢を抱くから。
切に願うから。
深く愛するから。
…………走れ。
繋いで、繋いで、折り上げろ。
悲鳴も慟哭も、
迸れ。
弔いの歌が長く重く聞こえてくる。
遠く揺らめくのはかけがえのない灯。
悲劇を見つめる強い瞳。
全てはやがて知恵となり、実る。
小舟に乗って漂う、小さな魂達が俺を見守っていた。
たくさん、たくさん、
流れていく。
白く透明な魚が一緒になって泳いでいく。
無垢な子供の魂、だなんて形容は俺はしない。
彼らが口ずさむのは漆黒でも純白でもない歌。
数限り無いグラデーションが、彼らの辿り着けなかった世界をどこまでも色付かせていく。
蛹のまま眠り続ける蝶の如く…………。
…………さぁ扉を開いていこう。
このカッターならば触れられる。
眼差せるもの全てに。
信じるのなら、何へでも。
力場に歌が溢れている。
三寵姫の祈り。
レヴィの歌。
異邦人達の未だ知られぬ旋律…………。
崩壊の流星が大きく一つに渦巻き、巨大な螺旋を描き始める。
俺は果てしなく貫かれた時空の力場の真ん中で、大きく深呼吸をした。
捩じれた扉を、折り曲げて、折り曲げて。
一つ、一つ、命が宿るように、心を尽くして。
聞こえる、見える、感じる世界を繋いでいく。
祈り。
叫び。
望み。
育まれた世界が鼓動を打ち始める。
美しい。
誰も、誰も縛れない。
波立つ魔海が飛沫をきらめかせる。
さぁ。
紡げ。
歌え。
走れ。
大きな何かが応えるまで――――――――…………!
…………幼馴染の声が、輝く時空の奔流の中から滴った。
―――――――――…………神様気取りか…………?
―――――――――ふざけろ…………!
俺は熱い血の味を感じながら、答えた。
―――――――――ああ、そうだな。
―――――――――…………そうやって作る。
―――――――――…………そうやって生きる。
アイツは静かに、水面越しから叫ぶみたいに続けた。
――――――――時空の逆流が収束していく…………!
――――――――…………あり得ない!
――――――――この新たな扉がどこへ続くのか、お前はわかっているのか!?
――――――――自分が、何をしでかしているのか…………!
俺はカッターの柄を握り締め、最後の…………最初の扉へと刃をかざした。
――――――――わかっているとも!
――――――――…………でも、俺は所詮神様じゃないからな。
――――――――知らねぇよ。
――――――――夜明けの先のことなんて。
苛立った、咽ぶような声が、迸った。
――――――――ふざけるな!!!
――――――――こんな…………途方もない世界にして、どうするつもりだ!?
――――――――俺は望んでいない…………!!!
――――――――俺は…………!!!
輝き逸る黒銀の刃を、大渦の壁にあてがう。
そうして俺は分からず屋に声を張った。
――――――――「許されない」か!?
――――――――…………知るかよ、馬鹿野郎!!!
――――――――俺だけじゃない!! 誰も知らねぇんだよ、そんなことは!!!
――――――――大体なぁ…………!!!
世界よりも何よりも、俺にはわかっているんだ。
肉体のヤガミが、どうして霊体のお前と融合したか。
お前が魂から望むもの。
望んではならないと、足掻けば足掻くだけ呪いになる、鮮烈な願い。
ユイおばさんの声が、歌に乗って響いた。
――――――――…………自由に生きてね。どこまでも、いつまでも…………。
魔海が全身全霊で歌っている。
これこそ饗宴だ。
凄まじい速度で世界が回っている。
あらゆる時空が溶け合い、一つになる。
サンライン中の気脈がはちきれんばかりに湧き立っていた。
数えきれない彩りを孕んだ透明な泉が空にも大地にも満ちて、命という命の眼差しを扉へと導く。
…………決めたら、迷わない。
一直線に。
「――――――――…………ハッピーバースディ、新世界」
思い切って斬り裂くと、この上なく快い音がした。




