179―1、張り裂ける夜。俺が最後の記憶の欠片に触れること。
――――――――…………夕陽が沈む。
最期の命を真っ赤に輝かせながら。
茜色に燃える森に囲われて、灰青色の瞳は今、真っ向から俺を睨み付けていた。
ソラ君の集めた逆鱗は再び砕けかけている。
ツーちゃん達が用意してくれた魔弾は手放してしまったし、開いた扉はすでに閉じつつある。俺の手にはもう何も無い。
ソラ君が兄に見せたがっていた景色は、虚無の彼方へと沈んでいく。
ジューダム王の背後に、大鮫のシルエットがゆらりと浮かんだ。
「…………コウ」
血反吐を吐きつけるような声に、憎しみ以外の色は一滴たりとも混ざっていない。
彼は決して目を逸らさなかった。
「ソラの望みだと言ったな。あれが…………」
「ああ」
「あれが…………」
顎門の瞳が火花の如く散る。
白く尖った幾重もの牙の連なりに、血の色が鮮やかに蘇る。
無防備な魂に剥き出しの緊張が深々と刺さりくる。痛みと絶望の地獄は今も薄皮一枚隔てて時空を覆っている。
ほんの少し…………たった一瞬意識を傾けるだけで、あっという間に落ちていける深淵。
そのクレバスの底から、王の声は響いた。
「俺には…………あれこそが、呪縛…………そのものだ」
彼と彼の国の轍がまた轟音と共に広がり始める。撒き散らされた夥しい血痕と肉塊の感触が意識に強烈に打ち込まれ、夕暮れを塗り潰そうとする。
灰青色が深く、残酷に研ぎ澄まされた。
「俺はこの手であの全てを壊した…………!!! この手で、何一つ…………何一つ守れず…………裏切った…………何もかも!!!」
滝と流れ落ちる血の熱。内臓が引き千切られる激痛。魂に焼き付いた鮮烈な赤。身の内に湧き上がってくる感覚を腹の底へ歯を食いしばって押し留める。
この夕暮れの中で、その痛みは何よりも相応しく身体に馴染む。
右手の拳が汗ばむ。
王の声は幻の傷へ生々しく染みた。
「お前はあの全てを傍観していた「裁きの主」に何を感じる…………? 俺は軽蔑している。この世の何よりも…………。奇跡だ、加護だと、どれだけうわべを塗り固めた所でアレの残酷は変わらない。俺は…………「王」は、あの眼差しに呪われ、祭り上げられた幻想だ! 永遠に無力なまま…………死ぬまで、死してなお、偽りの依代を演じ続ける!
幻は無力だ…………! どこまで行っても、芯には虚ろしかない。お前とソラは、変わらぬ力無き地獄を繰り返して見せたに過ぎない。…………「王」の意志は、あのようなまやかしでは変わらない!!!」
揺らめく灰青色が腹の痛みを一層激しく抉り起こす。
気を失いそうになる限界で、俺は言葉を吐き出した。
「呪いは、祝福でもある…………。ただ見つめているという存在が、どれ程巨大なものか。わかっているからこそ、お前は苦しんできたんだろうが…………!
お前が「裁きの主」を憎むのは、奇跡をくれないからじゃない。苦しい時に助けてくれなかったからでもない。…………お前は、そういうヤツじゃない」
灰青色と顎門の瞳が重なり合って光る。
俺は激化する痛みの中で、叫んだ。
「お前は…………自分の苛立ちをぶつけているだけだ!!! お前が本当に許せないのは、ずっと、ずっと、ずっと昔から…………テメェ自身だけだ!!!」
顎門が尾を大きく弾かせ、猛然と迫ってくる。
俺は息を吐いて、痛みに意識を預けきった。
暗闇へ…………空っぽの自分を放り込む。
逆鱗が悲鳴じみた光を放ち、ついに砕け散る。
溢れ出した虹色の光が夕闇を包み、瞬く間に辺り一面を覆い尽くした。
同時に、同じだけの闇が意識に圧し掛かる。
地獄としか言いようのない痛みや絶叫が脳細胞の隅から隅までを覆い尽くし、奥歯を噛み砕きたくなる程の壮絶な怒りが、衝動となって突き上げてきた。
身体が粉々に引き裂かれる。
子供の、女性の…………ソラ君とユイおばさんの泣き叫ぶ声が鼓膜をつんざく。
鬱屈したどす黒い津波を破って、王の叫びが俺を貫いた。
「お前に…………お前にわかるものか!!!!!」
逆鱗の欠片が、微かなきらめきを放っている。小さな半透明の白い魚が、闇の波を素早く横切って渡っていく。
俺はソラ君の軌跡が映る逆鱗、再びそこへ意識を飛ばした。
痛みと地獄が刹那ばかり遠退き、またすぐに押し寄せてくる。
次々と逃げ移る俺を追って、王の声と顎門の牙が雷雨の如く激しく乱れ掛かった。
「母さんも、ソラも、死んだ!!! 俺の目の前で…………!!! あの男の魂獣に生きたまま全身を食い千切られた!!! ――――俺だけ死ねなかった!!! 俺だけ、漂白され、拷問され、怒りに染まればまた漂白され、繰り返し、繰り返し、擦り潰された!!!
お前がオースタンで生温く生きてきた時間なぞと一緒にするな!!! お前が今、感じている痛みすら…………夜毎の俺の悪夢には遠く及ばない!!! 俺には無かった…………お前のような力も!!! お前の仲間のような存在も!!!」
顎門の鰭が逆鱗の欠片を掠め、弾き飛ばす。
全身に走った激しい火傷のような痛みに意識が遠退きかけるのを、ソラ君の軌跡が辛うじて結び留める。
王の激情は、さらに迸った。
「あの男…………人の紛い物め!!! 許さない!!! 殺しても、殺しても、殺しても殺しても殺しても殺しても殺し足りない!!! 「王」だと!? ふざけるな…………!!! ふざけるな!!!!! ふざけるな!!!!!!!!」
肩から胸へ、袈裟斬りに衝撃が走る。
思わず逆鱗から引き戻された身体へ、刃物の感触が重く長く引き伸ばされて激痛と共に沈み込む。
溢れた血の海から無数の黒い腕が生えてくる。
細く、太く、歪な形をした腕達はたちまち俺の全身を覆い尽くし、戦の血の嵐を意識に赤黒く吹き荒ばせた。
「こんな力が奇跡だと!? こんなものが恩寵だと!? この力で一体何が築ける!? ただ破壊し、喰らい尽くすばかりの力で!! 何が恵めると言うんだ!!!!!」
底知れない恐怖がせり上がってくる。
顎門の大きく裂かれた口が眼前に開く。
その寸前で、危うく瞬いた逆鱗の欠片へと飛び移る。
虹色の閃光が闇を縫うみたいに、意識に差した。
白と黒がせめぎ合う。
激しい光の点滅が頭の中を暴れ回る。
もう時間が無い…………!
ソラ君が泳ぎ回る。白光が恒星の如く熱を帯びる。暗闇が世界を凍てつかせる。
俺は皮膚を剥がれるような灼熱と極寒に焼かれながら、逆鱗を探す。
戦の悲鳴は鳴り止まないばかりか、さらに生々しく血の味を口内に満たす。はらわたの破ける感触に、吐き気がする。
王の声が痛烈に響いた。
「どこにも…………自由などありはしない!!! 闇に色なぞあるものか!!! あるわけがない…………俺には…………!!!」
ふと、ソラ君の描いた滑らかな曲線がたわむ。
逆鱗が奇妙な色の光を散らす。
不安がわっと乱れ咲き、頭を隕石に殴り飛ばされたような感覚に襲われた。
身体が戻ってくる…………。
それと共に、腹の痛みが最も強く熱を持つ。
茜色が見える。真っ赤に燃える空が広がる。
すぐ目の前で、栗色の髪の少年が顔を引き攣らせて泣いていた。真っ逆さまに落っこちる戦闘機のようなその眼差しに、15歳の俺が映っている。
少年の振り上げた幅の広い刃が逆鱗と同じ色に閃く。
濁った灰青色が叫んでいる。
無惨に擦り切れた魂を、灰の一片すら残さない程に熱する。
命の咆哮は、王の声に掻き消された。
「――――――――俺は許されない!!!!!! 絶対に許されちゃいけないんだよ!!!!!!」
少年の刃が俺の腹を貫く。
…………咽喉から溢れた血にアルコールが混じっている。
当時の自分の、いつでも悪酔いしていた感覚が痛みの内からまざまざと蘇ってきた。
頭痛。
混濁。
眠気。
酩酊。
目の前が水面みたいにチラついている。
…………馬鹿なヤツ。
こんなことを気にしていたのか…………。
こんな痛みは、とっくに知っているっていうのに。
…………馬鹿なヤツ。
ずっと馬鹿だ。
昔から、
どうしてただ一言、
たった一言、
…………。
馬鹿野郎。
馬鹿野郎。
「この…………大馬鹿野郎…………!!!!!」
逆鱗の欠片が黒と白と青と赤に入り混じり、歪みきった高音を立てて光り輝く。
力場が決壊する…………!
ソラ君とそれに寄り添う「裁きの主」、そしてアイツの力場が…………「王」の呪いの地獄が、混沌となって溢れ出した。
そう、混沌だ。
まともな規模の力場じゃない。
サンラインが時空ごとひび割れて、扉という扉が無秩序に逆流してくる。夜が張り裂けるのを肌で感じる。
ツーちゃんが必死に俺を呼んでいた。
彼女の焦り(と怒り)が無数の針となり、かろうじて俺を混沌の奔流から繋ぎ止めてくれている。
紅の主や、宮司の魔力もまだらに舌に触る。だがジューダムのあの魔女と騎士は、未だに彼らを放さない。
俺は深く息をして、もう一度意識を取り纏めた。
握り締めた右手を緩め、激痛と悲痛にあえて身体を預けきった。
数えきれない「王」達の呪詛がみるみる俺を覆い尽くす。
だが…………それをも潜り、突き抜けていく。
やがてツーちゃんの呼ぶ声が細く、弱く聞こえなくなり――――ソラ君の軌跡も、遠く、彼方へと離れ――――…………、
俺は、もうほんの砂粒程もない逆鱗の最後の名残へと辿り着いた。




