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扉の魔導師<BLUE BLOOD RED EYES>  作者: Cessna
【最終章】魔道を行く者
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178、カーテンの向こう側。夜を彩ることと、愛すること。

 ―――――――――…………乾いた手に血がこびりついている…………。



 教室にはもう誰も残っていなかった。

 シンと静まり返った空気が冷たく立ち込めている。

 軋む木の床の上には、薄っすらとした埃だけがぼんやりとわだかまっていた。

 血の跡も何もかも、すでに綺麗に掃除されている。


 窓の外を覗いてみると、同じく静けさに包まれた校庭が砂漠みたいに広がっていた。

 廊下から忙しない足音がパタパタと軽い音を立てて近付いてくる。誰のものかはすぐに察しが付いた。


 窓から差し込む夕暮れが目に滲みる。

 また夜が迫ってきている。

 夜は嫌いだ。

 あの土地の景色を思い出して、気が沈む。


「おい…………大丈夫か!? どうして勝手に行っちゃうんだよ!?」


 息せき切って教室に入ってきた相手の焦げ茶色の瞳が、夕陽を浴びてサッと赤く染まった。

 目元と頬が少し怯えたみたいにぎこちなく強張っていた。


「保健室に行ったらもう帰ったって聞いて、びっくりしたよ! …………っていうか、熱は? あるだろう、まだ? どうして先生にまで嘘吐くんだよ? 帰る途中でまた倒れたらどうするんだ?」


 何も言わず、自分の席から鞄を拾い上げて担ぐ。汗ばむ身体に、重さはやけにずっしりと沈み込んできた。

 外身は当然ながら、中身まで汚されていて散々だったが、最早何の感情も湧いてこない。


「…………それ、俺言いつけといたからさ。明日、新しいの用意してくれるって。…………鞄自体は、残念だけどさ…………」


 先程までの調子を一変させた、低く抑え込まれた声が傍に寄ってくる。

 顔を上げた拍子に、鞄があっさり背から引き剥がされた。


「持つよ。一緒に帰ろう」


 赤と茶に揺れる瞳が俺を映す。

 その妙に真っ直ぐな眼差しを正面から受けたら、何でか「返せ」とは言い難くなってしまった。


「…………行こう」


 歩き出した鞄に仕方なくついていく。

 動くと、余計に頭が痛んだ。体調のせいなのか、殴られたせいなのかは区別がつかない。酷い吐き気がしたが、もう吐き出せるものも無い。苦い唾を飲み込んで、床を踏みしめて歩いた。


 前を行く潰れた鞄は、ゆっくりゆっくりと階段を下りていった。一段一段、慎重に気を遣いながら。

 時々、目線だけがこちらを振り返った。

 どうやらこちらを気に掛けているつもりらしいことに、しばらくしてから気付いた。


 人気のない校内は異様に広く、大きく、暗く感じられた。

 昔の記憶と重なって、ここがどこだかすら覚束なくなる。その度に、下へ下へと渦巻く鬱屈した感情が頭の中を搔き乱した。


 …………早く帰りたい。

 でも、帰っても何も無い。

 もう一歩だって歩きたくない。

 でも、ここにだって一秒もいたくない。


 取り留めも無い考えを延々と繰り返していたら、日差しのかかる踊り場でふと鞄が立ち止まった。

 眩暈に波打つ視界の中、真っ直ぐこちらへ向けられた焦げ茶色の瞳が、影に染まってなお深く色付いていた。


「お前…………ウチへ来いよ。おばさん、今晩も仕事だろう? 朝までほっといたら死んでそうなんだもん、お前」


 動いていても、止まっていても疲労が圧し掛かってくる。

 首を振ったのを、相手は見もせずに再び歩き出した。


「…………おい、待て…………」


 呼びかける声が弱々しく途切れる。あまりの自分の貧弱さに心底嫌気が差した。靴を履き替えるのにすら手間取る有様で、苦しいというより、惨めだった。

 本当に…………本当に、このか弱い身体は煩わしい。

 どうして殺してやれないのか。


 焦げ茶色の瞳が、そんなこちらの姿をじっと見守るみたいに見下ろしていた。

 憎々しい視線を跳ね除けてどうにか立ち上がると、やはり胃が裏返りそうになった。


「…………自分の家に帰る」


 振り絞ってようやく伝えると、相手は無言でこちらの手を取った。

 少し湿った滑らかな手。

 「やめろ」と咽喉まで出かけたのを、向こうがきっぱり遮った。


「だって、またどっか行っちゃいそうなんだもん。お前。…………気持ち悪くなったらすぐに言えよ? 誰か大人を呼んでくるから」


 そうしてまた歩き出す。ゆっくりと。


 いつもより穏やかな相手の喋り方に、逆立ったものが行き場なく萎れる。

 触れる手のひらの冷たい感触には寒気がするほど馴染めなかったが、だけどどこか懐かしい、ちぐはぐな心地がした。


 淡々とした声が、静かに続いた。


「…………タナカはアイツのお父さんが連れて帰ったよ。知り合いの病院でもう一度傷を診てもらうんだって」


 言葉はさらに流れるように連ねられた。


「気にするなよ。どうせアイツが勝手にぶつけたんだろう? 事故だよ。そもそも、熱があるヤツに絡みに行く方がどうかしているんだ。…………っていうか、ざまぁみろだよ。アイツ、いつも人の顔やら身体やらにケチつけてからかってさ。あの部分、一生髪はえてこなきゃいいのにな!」


 次々と重ねられていく安っぽい罵りを黙って聞き流す。

 繋がれた手の滑らかさに、それにしても慣れない。何でこの手には全く傷が無いのだろう。

 何で躊躇いも無く、人の手を取ったりできるのだろう。


 やはり振り切ろうと思った矢先に、焦げ茶色の瞳が風見鶏の如くこちらへ振り向けられた。


「…………気にするなよ」


 握る手に、ほんの微かに力が込められる。

 バツが悪くなって、堪らず目を逸らした。


「…………何をだよ?」

「何も変じゃないよ。お前も、ソラ君も、おばさんも…………。言いたくないって言っていることを無理に問い詰める方が、よっぽど失礼なんだってウチの母さんは言ってたし、俺もそう思う。…………お前は変じゃないし、悪くないよ。むしろ…………結構、格好良いと思うよ。…………その、髪とか、目…………とかさ」


 言ってから急に恥ずかしくなったのか、相手の顔が緊張した犬か猫みたいに皺だらけになる。鞄がまたふいとこちらへ向けられ、焦ったように前へ進み始めた。


 「変なのは、タナカのハゲ頭だけだ」とかブツブツ吐き捨てながら、鞄が信号の変わった横断歩道を渡っていく。それに続く繋がれた二つの腕も、千切れかけのロープみたいにたわみがら、何とか長い道路を渡り切った。


 言葉がどれもこれも咽喉に引っかかって出てこない。

 じんわりとした目の周りの熱が頭痛に掻き消されて、そのまま眩暈の大渦に沈められていく。

 引き上げなくてはいけなくて…………でも、どうしても、今日の自分には難しかった。




 閑散とした街を抜けて、のろのろと坂を上っていく。

 段々空が紫色に染まっていく。

 ポツポツ星が見えてくる。


 それからは特に何も話さなかった。

 ズキズキと疼く頭痛だけがひたすらにうるさくて、だけどそれ以外の世界の全ては静か過ぎて、何だか小さなボートでポツンと海を漂流しているかのようだった。


 いっそこのままどこにも着かなければいいのになと、いつしか心の片隅で夢想するようになっていた。

 別にそこまで居心地が良かったわけじゃないが、ただ、ずっとこのままなら、少なくとも永遠に夜はやって来ない…………。


 夕闇に淀んだ帳の中を、オールを漕ぐようにして引いていく手をじっと睨んで眩暈を紛らわしていた。

 この手がここにある限りこの夕は終わらない。今にも倒れそうで、吹き抜けるそよ風にさえ凍えている。それでもここにいたかった。

 この不快な手だけが繋ぎ止めている。


 時折強い風が吹くと、あかぎれた自分の手がヒリヒリと鋭く痛んだ。滲む血の赤さに、また惨めな気分がじんわり立ち上ってくる。

 波立った水面へ小石を投げ込むように、声がかかった。


「…………大丈夫か?」


 見透かされて、何と答えただろう。答えなかったかもしれない。


 相手は一層強張った面持ちで歩き続けた。ゆっくりと。不安と緊張を煮詰めた感情が手のひらからひしひしと伝わってきた。


 もう一度焦げ茶色が振り返った時には、今度こそ手を離そうと決心していた。

 夜は必ず訪れる。永遠の夕暮れなんて、幻だ。

 この手のひらの感触だって、もうすぐ消える。

 馬鹿みたいな妄想は、いい加減止めだ。


 夜からは誰も逃げられない。

 その次の夜も、その次の次の夜も、死ぬまで追ってくる…………。




「――――ただいま! 母さん、いる!?」


 辿り着くなり鞄を背負っていた背中は、脇目も振らず自宅の玄関へと飛び込んで行った。

 いとも簡単に離された手を握り締めると、無性に空っぽな感じがする。

 「ああ、やっぱりな」と、身体が夜に沈んでいった。


 明るい玄関にほかされた綺麗な鞄と、場違いに汚れた鞄の脇を通って、慌ただしく人影が現れる。

 母親を急かす声がこちらへまた近付いてくる。ぐらぐら揺動する世界の中で、自分の掠れた吐息だけがやけに響いてみっともなく聞こえた。


「母さん!! はやく、はやく!!」

「あら…………あらまぁ! セイ君、大丈夫!?」


 額に大きな手が添えられて、もう一度同じ甲高い声が同じことを叫ぶ。

 傍らでは、自分まで熱に浮かされたような焦げ茶色の瞳が、じっとこちらを映していた。


 矢継ぎ早に色んなことを尋ねられて、口ごもってしまった。

 ロクに呂律も回らなくて、もう何をどうごまかすことも出来ない。歩き止めたら完全に力が抜けてしまった。

 空っぽの手が死体じみた蒼色をしている。それを見た途端に、より気力が萎えて言葉が立ち消えていった。


 本当に、身体とは何と呪わしいのだろう。どうしてこんなにも苦しむ必要があるのか。まるで檻だ。

 苦痛と融合した全てがおぞましい。


 苛立ち任せに唇を噛むと、それだけで血の味がした。目元が熱くなって、それだけは絶対に嫌だと必死で堪えた。


 焦げ茶色の眼差しがまだこちらを見ている。目が合うと、相手はハッとしたように家を振り返り、今度は父親を呼んだ。

 慌ただしい気配がして、夜空が目の前にいきなり大きく広がって、それからもう何も考えられなくなった。


 震える感覚だけを辛うじて覚えている。

 知らない大きな身体に抱きかかえられて、赤と白の光が激しく点滅して、何が何だかわからないうちにすごく眠たくなって、焦げ茶色の眼差しの不安な、興奮した揺れる色合いだけが傍にあって、脳にこびりついた夜か、本物の夜か定かでない夜が窓の外を一杯に埋めていて、成す術もなく、羽根のような温かさの中で、意識が途絶えた。




 目が覚めた時には、すっかり高く月が上がっていた。

 見慣れない窓を見慣れない柄のカーテンが長く覆っている。丸い月はカーテンの隙間から、こっそりとこちらを覗き見ていた。


 ぐったり湿った身体を大きな毛布が包んでいる。柔らかく優しい香りがするその中で寝返りを打つと、不安と安らぎとが入り混じった灰色の気持ちがさざ波のように広がった。


 …………帰らなくては。

 思い切って上体を起こすと、まだ少し眩暈がした。何もかもが見慣れない。薄暗いパノラマが変に現実離れして浮ついている。


 ベッドの隣の学習机に、唯一見知ったボロの鞄が立てかけられていた。

 棚上に飾られた家族写真の中の、焦げ茶色の瞳の笑顔に、何だか遠いような近いような半端な印象を抱く。


 壁に掛かった時計を見上げると、まだそれほど遅くはないとわかった。もう深夜のような気がするが、夜はまだまだ続くらしい。


 疲労感が肩に重く垂れ込めている。吐き気も頭痛も一応は治まっていたが、代わりにひどく喉が渇いた。


 毛布から足を下ろしかけたその時、部屋のドアが少しだけ開かれて白い明かりが差し込んできた。

 間にチラっと光った眼差しと、ちょうど目が合った。


「あ…………起こしちゃった?」


 囁かれた声に、同じく声を潜めて返した。


「いや、今起きた。ここは…………お前の部屋か?」

「うん、そう」


 おずおずと相手が部屋に入ってくる。音を立てないよう慎重に扉を閉め、明かりは付けない。

 細い月明かりの下で、その眼差しはやはり深く濃く色付いていた。


「実は…………入るなって言われてるんだよね、母さんに。休んでるの邪魔しちゃいけないからって。…………どうせアンタはうるさくして起こしちゃうからって」

「いい」


 短過ぎた言葉の後をどう続けていいかわからない。

 向こうが何か話すだろうと待ったが、予想外の沈黙が流れた。


 焦げ茶色の瞳がじっとこちらを見ている。全く緊張感の無いその緩んだ面持ちに、こちらも次第に気を張っていたのが解けてくる。流石に疲れ過ぎているのか。

 カラカラに乾いた咽喉が苦しくて、少し咳き込んだ。


「あっ…………大丈夫か?」

「平気。少し喉が渇いた…………」

「わかった。ちょっと待ってて」


 引き留める暇もなく、細い背中が小動物の如く素早く扉をすり抜けていく。

 仕方なく部屋の中で待っていると、階段を上るわずかな軋みが聞こえてきて、すぐにまた人影が滑り込んできた。


 大きな水のペットボトルと、なぜかワイングラスを2つ、片手で不安定に抱えている。

 夜行動物はカーペットの上へ直に腰を下ろすと、ワイングラスに水をなみなみ注いだ。


「ほら」

「あ…………ああ」


 突き出されたグラスを、勢いに押されて手に取った。

 この飲み方が普通なのかどうかはともかくとして、水を口に含むと、文字通り浸み込むように美味しく、気が付くと一気に飲み干してしまっていた。


「もっといる?」

「うん」


 素直に零れる。

 得意げに傾けられたペットボトルからグラスへと水が景気良く流れていく。最後に、水面に小ぢんまりと月が浮かべられて、またこちらへ差し出された。


「はい」

「…………ありがとう」


 呟きに、相手は黙って頷いた。


 そうしてまた奇妙な静寂が流れる。

 焦げ茶色の瞳と改めて目が合って、向こうは首の裏を掻きながら、声を落として話した。


「身体の調子、どう? ウチの前で倒れて救急車乗ったの、覚えてる?」

「…………少しだけ」

「風邪だけど、それより栄養失調だって。貧血。レバーとか食べなって言ってたよ、先生」

「…………そうか」


 何も答えないでいると、いつの間にか空になったグラスにまた水がなみなみ注がれている。

 冷たく揺れる月を眺めていたら、水面に影がかかった。


「何、見てるんだ?」

「…………月」

「月…………?」


 聞いた相手は首を傾げて隣に登ってくると、こちらの視線に合わせてカーテンを少しめくって、「ああ」と納得した風にまた水面へ目を落とした。


「なんか…………随分ロマンチックなことを言うんだな」

「…………言うんじゃなかった」

「いや、嫌いじゃないよ」


 睨み付ける目を何でもないように受け流し、焦げ茶色の瞳は再び夜空を見やる。


 大人びても見えるし、とことん無邪気にも見える横顔は、月明かりを宿して半分明るい。

 零された言葉は、どうしてか独り言じみていた。


「なんか…………わかるよ。月から来たみたいな雰囲気してるなって、つくづく思ってたから。…………お前のおばさんと弟君も、同じ感じがするんだ。ウチはいかにも純地球産一家って感じだけど、八神一家は違うぞって初めて会った時から思ってた」


 月を仰ぎながら、相手は言葉を続けていく。

 実際、半ば以上自分自身に話しかけているようだった。


「いいなぁ…………。大変だろうなとも、思うけどな…………。ここは月と違って、すごくごみごみしていて、とてもうるさいからさぁ…………」


 水面から空へ、相手に倣って目を上げていく。

 薄い雲が一筋、心細そうに虚空を漂っていた。


「月と地球じゃ、きっと食べ物も違うしな。…………給食食べるのだって、いつも辛そうだもんな。レバーとか、俺も超苦手だし。月から来たんじゃもう、絶対無理だよな、あんなの。何か別の手段を考えるべきだな。貧血とやらには」


 偶然言い当てているが、確かにここの食べ物は身体に馴染まない。

 だがそれ以前に、単純に金が無く、食事自体あまりしていないのだ。そんなことはきっと想像すらつかないだろうが。


 傷の無い手の甲が、それこそ本当に月の人みたいに生白い。


 その手が小さく固く握り締められているのに、その時気付いた。何か掴みかねているのか、まだ諦めきれず探っているのか。動かない拳からは、落胆寸前の悔しさともどかしさが、静かに滲み出ていた。


 空を眺める横顔も、ただぼんやり月を仰いでいるのではない。

 ひたむきに目を凝らしている?

 真っ直ぐ、一面、夜を映して…………。


 その横顔がふいにこちらを振り返り、恥ずかしそうに笑った。


「ごめん、変なこと言って。俺、いつも皆によくわかんないって言われてるんだ。気にしないで。…………いやぁ、それにしてもさー…………」

「…………月じゃない」


 ふと答えた自分に、己自身驚いた。

 恐らくは全く予期していなかったであろう調子に、相手もまた困惑していた。


「え? えっと…………じゃあ」


 「どこから?」

 そう聞かれるに決まっている。

 しかし、身構えていた所に飛んできたのは全くの別の言葉だった。


「きっと、もっと綺麗なところなんだな。ここからずっと遠い場所で…………夢の中にしかないような」


 全てを見透かした瞳がふ、と綻んだかと思うと、カーテンと窓がおもむろに開け放たれた。


 吹き抜けた冷たい風に、初めて呼吸をしたような気持ちになる。

 広がった空には星がいっぱいに灯っていて、月は丸く、見下ろす街は穏やかに美しく闇の底に沈んでいた。


「…………お前の家って、どのへん?」


 尋ねる声は風と重なって清々しい。

 窓枠へ身を乗り出して、探して指差した。


「多分…………あれだ」

「あの赤っぽい家?」

「いや、その隣のアパート。…………2階の、真ん中の部屋」

「あそこか」


 予想した通り、部屋は今も真っ暗だった。今晩もあの人は仕事に行っているらしい。倒れたのがまだバレていないのなら、良かった。

 隣で景色を見ていた顔が、「あ」とわざとらしく声を上げた。


「そういえば、お前のおばさんなんだけどさ…………」

「わかってるよ。仕事だろう。連絡つかないはず。…………色々迷惑かけて、ごめんな。おばさん達にも…………」

「ううん。来るって。ウチに、これから」

「え?」


 焦げ茶色が感情を隠しきれなくなるのを、一瞬だけ垣間見た。

 動揺、憐み、あと…………。

 いつも通りを装う声が一拍置いて続いた。


「病院から連絡した時に繋がったんだ。きっともうすぐ迎えに来てくれると思う。…………今晩はウチにいてもいいよって言ったんだけどね…………。…………やっぱり、帰りたいよな…………?」


 眼差しに差す色の意味がよくわからない。不安でも心配でもない。けれど、そこに映り込む自分の表情はもっと不可解だった。


 答えあぐねているのは、夜が来てほしくないからではないと思い当たって、密かに狼狽した。

 むしろ連なっていく夜のことなんて今の今まで忘れていたとすら言ってもいい。

 …………いや、ちゃんと覚えてはいた。だけど、それよりも月の話に気を取られていた。


 追いかけてくる闇夜が、何故か今は怖くない。

 迎えに来るという人のことが頭に浮かんで、それで暗く気を塞ぐことも無かった。素直に嬉しい。ただ、安堵と喜びの裏側にあるものがわからない。

 何かが残念なんだ。でも、それが少しも悲しくないのも、初めてだった。


「やっぱり落ち着かないよなぁ。…………友達の家なんてさ」


 焦げ茶色の瞳がチラとこちらを見る。

 さざ波立った場所へ、もう一つ小石が投げられた。


「折角、もっと仲良くなれるかなって、思ってたんだけどな!」


 風の流れる音が緊張とカーテンとをはためかせている。

 真っ直ぐな眼差しが、傷の無い手が、何かを掴もうとしていた。


 目を逸らしかけて、止めた。

 同じ夜にいたかった。

 同じ夜を追いかけたくなった。


 「ああ、帰りたくないのか」と唐突にわかって、同時に帰るべき場所のことが重なって、引いたはずの熱がぶり返してきた。

 名前しか知らない感情が胸の内を蹴飛ばしている。

 咽喉が掠れる。


 でも…………言わなくては。

 今夜口にしなければ、多分、もう二度と言えなくなる。


 絞り出した言葉は、夢へ落ちるみたいにストンと夜へ染み込んだ。


「学校で…………会える。明日も…………その、後も」


 次に瞳に滲んだ色の意味は、あまりに明白だった。映る自分はと言えば、相変わらずよくわからない。

 ただ身体が変に火照って、とにかくそれを悟られたくない。


 ずっと隠したかった、言いたくなかったことを思い切って話してみたらどうなるだろうと、考えた矢先のことだった。

 階段を上がってくる慌ただしい大きな足音が部屋に響いた。


「――――やべ! 母さんだ!」


 焦げ茶色の視線がハッと飛び跳ねて扉へ向かう。握られていた拳はすんなり解かれて、素早く窓を掴んでいた。


「…………早く、そっち側を閉めて! カーテンも!」


 指示されるままに窓とカーテンを閉めるも、水とワイングラスを隠すには圧倒的に時間が足りなかった。

 努力の甲斐無く扉が開け放たれ、白い照明が無慈悲に頭上から降り注いだ。


「コラ!!! コウ!!! 何してるの!?」

「ひっ、ごめんなさい!!」

「セイ君を起こすんじゃないって言ったでしょうが!!! …………って、あぁっ! ちょっとそのグラス…………それ、高いから使っちゃダメって何度言ったら…………!」

「だって、これしかキレイなのがなくて」

「お馬鹿!! コップが洗われてないのはアンタのせいでしょう!! アンタはもう、本当にもう、どうしていつも、いつも勝手に…………」

「やめてよ、母さん! 友達がいるんだから…………」

「全部アンタのせいでしょ!!」


 ワイングラスがおばさんの手によってひったくられ、言い合いが交わされる。

 ひとしきりしておばさんはこちらを振り向くと、打って変わって、とても優しく話しかけてきた。


「ごめんねぇ、セイ君。うるさくして。体調はどう? 気持ち悪くない?」

「…………大丈夫です。…………ご迷惑おかけして、どうもすみませんでした」

「いいのよ、そんな…………大人みたいなこと、言わなくていいの。困った時はいつでもおばちゃんの家においでね。コウも、こんなだけど、セイ君のことをいつも気にしているんだから。…………許してあげてねぇ。この子なりに、君を心配しているのよ」

「母さん!」


 叱られた小型犬の皺寄せ顔が、こちらを恨めしそうに見やる。

 見ていたらちょっとおかしくなって、思わず笑みが浮かびかけた。


「いえ、あの…………ミナセ君は水を持ってきてくれたんです。色々、話もしてくれて…………」


 皺くちゃの顔が少し緩む。

 楽しかったと言うべきか、安心したと言うべきか。どう繋げようと考えていたら、玄関のインターホンが鳴った。

 咄嗟にあの人が来たと悟った。


「あら、きっとユイさんだわ! セイ君、良かったねぇ! ちょっと出てくるから、待っててね!」


 来た時と同様、慌ただしくおばさんが去っていく。

 玄関のドアが開く音がして、畏まった話し声が続いた。

 残された焦げ茶色の瞳は、しげしげとこちらを見ていた。


「やっぱり…………帰るのか?」

「…………うん」

「なぁ」

「何だ?」

「名前で呼んでいい? お前のこと」


 明るい照明が気の抜けた表情を余計に無防備に晒している。

 恐らく自分も似たような顔をしていたことだろう。肩の力がまた一段抜けた。


「いいよ。…………お前のことも、いいか?」

「もちろん」


 階段を大人の足音が上ってくる。迎えに来た人の顔を見たらもっと身が強張るかと思っていたが、それ程でもなかった。

 常に擦り切れ、疲れ果てている相手の顔が、今日はいつになく温かく、若々しく見えた。


「セイ」


 呼ばれて、立ち上がる。歩くとまだ少しフラついたが、倒れずには済みそうだった。


「お母さん…………仕事は?」


 尋ねると、無言で蒼くあかぎれた相手の手が頬に添えられる。走ってきたのだろう。手のひらが珍しく熱を帯びていた。

 相手はこちらの熱が下がったのを認めると、ようやく胸を撫で下ろした様子で答えた。


「お仕事はお休みしたの。だから今日はもうおしまい」

「…………大丈夫なの?」

「ええ、大丈夫」


 声音の内に潜む虚ろが、こちらの胸の内にまで広がる。

 それ以上は何も言えなかった。言うべきでもない、言う資格など無いということが、ぼんやりとする頭にもわかった。


「さぁ、帰りましょう」


 頷き、従う。

 世話になった礼を、帰り際に二人で何度も伝えた。見送りに出てきてくれた一家にあれこれと気を遣われている内に、また元通り身体が固まってくる。車で送るというおじさんの申し出を、結局は断り切れなかった。


 夜は漠然と広い。あちこちの家の明かりが白に橙に儚く眩い。

 大人達の傍らで、しばらく大人しくしていた焦げ茶色の瞳が、最後にハッと瞬いた。


「セイ!」


 顔を上げると、大きな目とかち合った。


「またな!」


 精一杯の勇気を奮って、返した。


「おやすみ…………コウ。…………またな」


 車が走り出す。

 夜の奥へ奥へと遠ざかっていく家の明かりを、長らく見つめていた。




 家に帰ってきて、明かりを点ける。

 チカチカと震える電灯が擦り減った床を照らし出す。

 世界が夜の底でそっと息を吹き返した。


 古ぼけたカーペットと明るいプラスチックのテーブルが小ぢんまりと佇んでいる。

 今朝使ったばかりの食器がまだ洗い場を埋めていた。冷蔵庫がその隣で、いじましい唸り声を低く響かせている。

 取り込まれた洗濯物を乗せた籠が、誰を待ちわびるでもなく影を伸ばしていた。


 散らばった弟のおもちゃを拾って片付ける。もう癖になっている。どれも見慣れた小さな人形、積み木、絵本、薄汚れたぬいぐるみ。

 わずかばかりの化粧品と手鏡が仕舞われている棚の下へ戻して、カーペットの上に座り込んだ。


 写真は一つとして飾られていないし、絵も花も無い。この家はいつまで経っても隠れ家じみていると思う。

 それでも、慣れた壁に寄りかかると落ち着いた。


 洗濯物の馴染みある色の重なりにホッとする。微かに漂う化粧水の香りが心地良くて、このまま目を瞑りたくなった。


 退屈とよく似た自分の弱い息遣い。食器を洗う水音が耳を冷たく流れる。

 疲れ果てた人の俯く顔はさっきまで以上に蒼白かった。いつもよりも余程疲れが(かさ)んでいるらしい。弟を預けてきたとしても、きっと休まりはしないのだろう。心も、身体も。…………明日はきっとあの人が倒れるに違いない。


 弟のいない部屋は、いつもよりも遥かに広々と感じられた。泣き声も寝息も聞こえないと、本当に静かだ。部屋から大切な色がすっかり抜けてしまっている。

 ここが現実なのか、夢の中なのか、それとも本当に海の底なのか。もう見当もつかない。

 …………ああ、疲れた。


 立ち上がって洗ったばかりのシャツに着替えたら、なぜか無闇に悲しくなった。よく知った洗剤の香りがより寂しさを募らせる。肌に触れる薄っすらとした温もりが、抱えきれずにいた何かを溢れさせた。

 わだかまる心地良さに、また蹲る。沈んでいく言葉は底抜けに重く、掬えない。


 閉められたカーテンの向こう側に思いを馳せた。

 あの部屋からは、今もこの家が見えているだろうか? あの焦げ茶色の瞳は、まだこちらを見ているのだろうか…………。


 窓辺に寄り、少しだけ外の様子を覗きみる。こちら側から仰ぐと、山の影に覆われてあの家は見つけにくい。どうにか見つけた部屋の窓のカーテンは、自らの手で閉めた通り、ぴったりと閉じられていた。


「セイ」


 水仕事を終えたばかりのひんやりとした手が肩に添えられる。

 その人は何が悲しいわけでもないだろうに、すごく寂しそうに微笑んでいた。


「…………何を見ているの?」


 ガラス細工のような肌が透き通っている。深い、宝石のように円らな灰青色の瞳が、穏やかに緩んだ。

 躊躇いつつ、探した先を指差した。


「…………友達の、家」


 疲労にくすんだ宝石がほのかに明るく瞬く。

 続いた声はそよ風によく似ていた。


「コウ君?」

「…………うん」


 こそばゆい。嘘を吐いている気分にさえなる。熱に浮かされて何か勘違いしていただけじゃないかと、急に不安が押し寄せてきた。


 でも、あの眼差しは…………そんな嘘は吐かない…………気がする。

 月を眺める千切れ雲みたいなあの横顔が、まだすぐ近くに思い出せる。

 見つめたものを見つめたままに映す、あの焦げ茶色の瞳の奥に息づくものは、結局最後までわからなかった。

 けれどあの瞳の見つめる先を追いかけていたら、夜が波にさらわれるみたいに飛沫を上げた。


 あの瞳は…………怖い。

 ついどこまでも、いつまでも、追いかけたくなってしまう。かと思えば、いつの間にか何も見透かされていて、逃げ出したくなる。


 夜風がたなびく雲を吹き流し、月を微かに曇らせる。

 そよ風がまた優しく囁いた。


「良かったね。…………良かった」


 寂しい、とふいに感じて灰青色に寄り添う。

 今にも泣きだしそうな自分が隠しようも無くそこに映っていて、驚いた。


「セイ」


 同じ高さに並んだ眼差しに、知らない感情が淡く揺れている。

 少しだけ…………あの焦げ茶色と似た色。


 わからない。

 苦しい。

 雲がゆっくり月から離れていく。


「私は嬉しい。貴方が貴方の世界を生きていくことが…………。あそこから逃げてきて、本当に良かった。どれだけの犠牲を払っても、それだけの価値があった」


 相手の瞳をただ見つめ返す。

 寂しい、寂しいと必死で縋っている小さなこの声に早く気付いてほしかった。

 遠い誰かを見つめている目だと、どうしてわかってしまうのだろう。離れ流れていく小舟ように、遠く遠く言葉が漂った。


「セイ。苦しい思いをさせてごめんね。賢い貴方に、たくさん無理をさせてしまってごめんね。…………頼りないお母さんで、ごめんね」


 止めてくれ。

 そんなことが聞きたいんじゃない。

 どうして言いたいことが沈んでいってしまうのかわからない。

 感情が一杯につっかえた胸が粉々に砕けそうだった。


「貴方の行く道に、どうかこれからもたくさんの幸せがありますように。…………たくさん、たくさん遊んで…………笑ってね」


 細く白い腕に抱き締められる。汚れた髪を包み込んで撫でられた。

 何度も。

 温かく。

 柔らかく。


「セイが楽しく生きてくれたなら、私は本当に嬉しいの。貴方はソラと同じ、私のかけがえない宝物。…………私に恵まれた、大切な大切な奇跡」


 熱い。

 苦しい。寂しい。

 目の前の肩に顔を埋めると、もっと胸が締め付けられた。


「…………自由に生きてね。どこまでも、いつまでも」


 遠く投げられた言葉を追いかけようと必死だった。

 どれだけ考えても届かないのはわかっている。いつだってそうだ。この人の願いを、自分は叶えられない。この愚かな頭には、まだわからない。


 この身体と心はいつも無力だった。

 今すぐに喜んでほしいのに。

 ずっと笑っていてほしいのに。

 耐えきれず目から零れたものを留めることは出来なかった。


 頭から背中へ、撫でる手が下りていった。


「…………つらかったね、セイ。貴方は本当に頑張り屋さん。たくさん、たくさん我慢させてごめんね…………。私のために、無理をしてくれていたのよね。…………もうおやすみなさい。また熱が出てしまうもの。もう休んでいいのよ」


 優しい手が濡れた顔を拭い、そっと離れる。

 待ってと言いたかったけれど声にならず、また涙が溢れた。


 もう一度、白い腕と手が身体を包み込む。

 いつまでも、いつまでも、きっと望めば永遠にだって傍にいてくれるだろう温もりを感じながら、少しずつ少しずつ、止め処なく、胸の堰が崩れていく。

 色んな気持ちが名付けられないままに溢れ出ていった。


「いい子、いい子ね。…………もう十分。貴方はとても優しい子…………」


 悲しいのか、悔しいのか、寂しいのかわからない。

 心が洪水に飲まれている。

 離れたくない。

 苦しい。

 悲しい。


「きっとお友達とも、仲良くできるわ。…………コウ君も、とても優しい子だから。…………きっとずっと仲良くできるわ」


 カーテンの向こう、夜の向こうの眼差しが思い浮かぶ。

 真っ直ぐな瞳。強い眼差し。

 …………あんな風だったなら、もっと強かっただろうか。

 この人をこんなに悲しませずにいられただろうか。


 苦しい。

 寂しい。

 苦しい…………。


 耳元を柔らかな声が撫でた。


「…………手、荒れちゃっているね。お母さんと一緒になっちゃった」

「痛い…………」

「うん…………そうだね」


 温もりが綿帽子みたいに軽く離れていく。その人は棚から薬用のクリームを取り出すと、こちらの手を取ってあかぎれに塗った。

 薬の香りが化粧水の香りと混ざり合う。

 滲みる痛みにまた溢れそうな涙を、今度は洗い立てのハンカチが抑えた。


「今日のセイは泣き虫だね。…………いつもそうやって泣いたらいいのに」


 受け取ったハンカチで目を抑え、鼻を拭う。

 見つめ返した灰青色には、すっかり泣きはらして疲れ果てた、間の抜けた赤い子供の顔が映っていた。


「ありがとう…………」


 …………強くなりたい。

 すぐにあの目と同じにはなれなくても、いつかもっと自由になりたい。

 あの目が夜を彩ったみたいに、世界を見つめたい。

 負けたくない。こんな檻に。


「…………お母さん」

「…………なぁに?」

「交代しよう。塗ってあげる」


 クリームを手に取って、細い手に、塗ってもらったのを真似て擦り込む。

 少し困ったみたいに喜ぶ顔が、苦しいのを少し…………ほんの少しだけ、和らげた。




 …………ずっと夜が恐ろしかった。

 何度でも訪れる夜が、終わらない日々が、押し寄せる暗闇が、今にもこの愛おしい小さな隠れ家を踏み潰してしまいそうで、悲しかった。

 どこにも居場所なんて無いと思いたがっていた。今にも壊れそうだから。もし壊れてしまったなら、とても立っていられないから。


 身体がいつからかまた火照っている。だけど、もう泣きたくはなかった。

 小さな窓から仰ぎ見る夜空はまだまだ暗くて…………それでも、何となく淡く揺らいで見えた。



 ――――――――…………これから重ねていく夜の先にもあの眼差しがあるのだと、なぜか無邪気に信じられた…………。

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