177-2、冥国の「奇跡」。俺が血濡れの轍を辿ること。
――――――――…………サンラインもジューダムも、同じ「裁きの主」の眼差しの下にある。
だけどその在り方は、全然違う。
混沌の地平の中で、俺は思い知った。
…………奇跡の起こる国、サンライン。
主の恩寵は遥かな国土を潤し、あまねく命を豊かに育む。
白き恵みは時に嵐と吹き荒ぶも、それは主の確かな存在の証として、人々の魂に刻まれる。
主の寵姫は常に主の傍らで祈っている。
主の声は彼女達が歌い紡ぐ。
白い雨は人の祈りある限り、いつまでもいつまでも降り注ぐ…………。
――――――――…………魔法の国なら、どこも似たようなものだと思っていた。
不思議な力と光に祝福され、命は皆、険しくも美しい世界でかけがえのない宝石みたいに輝いている。
そこには残酷があり、苦しみもある。しかしそれ以上に愛があり、誇りがある。
言うなれば奇跡とは、世界そのもの。
ただ在るだけで、全身全霊で味わえるものだと。
…………酔っ払いの戯言めいた俺の讃美歌はともかくとして、そんな世界がありふれたものではないと、ようやく気付いた。
というか…………本当はもっと初めからわかっていてもよかったはずなんだ。
オースタンで生まれ育った人間なら、普通は身に染みている。
奇跡はまず起こらない。
魔法なんて無い。
…………神様はいるか、いないか、わからない。
――――――――…………奇跡を信じる国、ジューダム。
俺は主の眼差しを通してその景色を見た。
その地はどこまでも暗く、果てしなく枯れていた。
ひたすら魔海だけが黒く深く、永遠の朔の夜となって空を包んでいる。
常闇の中、痩せた竜が蝙蝠みたいに羽ばたいている。
草木は地下を微かに流れる水脈と、どこからともなく運ばれてくる霧だけを食んで生きていた。
最初の種がどこから来たのかは誰も知らない。調べる術もない。
もうここにしか生えていないから。
…………人々もまた同じだった。
遥か古、何処からか流れてきた力ある一族。
透き通るような肌と栗色の髪、灰青色の瞳が連綿と継がれている。
彼らは細い草の根を噛みしめ、淡い霞を啜り、その地に居付いた。
彼らは一族には主の加護があると固く信じていた。
閃く命の一瞬の眩さをその奇跡と呼ぶのなら…………、ああ。本当に恵まれていただろう。
風にそよぐ花も麗らかな日差しも、絶対に必要では無いと俺も思う。
自らの命を燃して灯す魔術のほのかな明かりが父母の愛であり、誇りであり…………彼らの太陽だったんだ。
一族は長い流浪生活の中で培った知識と術を、常夜の帳の内でより洗練させた。
一族の繋がりはさらに濃く、水よりも遥かに濃い血となって紡がれていく。
骨ばかりの竜を捕らえて掛け合わせ、少しずつ、少しずつ、力ある竜を作りもした。
あたかも一族の才に長けた者同士を掛け合わせ、より大きな力を実らせていくように。
やがて彼らは時空の扉を超え、霞より大きな糧を得るようになる。
夜の外から収穫した種は歪な螺旋を描いて逞しく育つ。
最早、一族に隠れ住む理由はどこにも無かった。
彼らは暗澹たるその地を祖国と謳った。
彼らは固く奇跡を信じていた。
奇跡とは、世界。
世界とは、力。
力こそが紛れもない加護の証だった。
…………主の眼差しが最も強く注がれる者。
…………それは最も濃い血、ひいては才を宿す者。
…………それは加護と奇跡の体現者。
…………大いなる魔海にまします主の依代。
その人は「王」と呼ばれた。
「王」のもたらす全てが主の恵みだった。
人は「王」と繋がることによって主と繋がり、日々の糧を得る。
愛と、誇りと、太陽に浴する。
…………ジューダムに雨は降らない。
だが恵みはある。
「王」がいる。
――――――――…………ジューダムの戦の歴史は、壮絶な血風となって俺へ叩きつけられた。
白い腕が無数の刃の中を激しく踊る。
緑色の閃光が力場を無惨につんざき、耐え難い悲鳴を沸き立たせる。
黒い竜の大群が空を覆う。
一際巨大な、異形の竜がその爪と牙で数えきれない命を食い散らかしていた。
ありとあらゆる苦痛が際限無く雪崩れ込んでくる。
嘆きも、執念も、憎悪も、絶望も、混沌のまま迫ってくる。
そこには獣がいた。
そこには刃があった。
そこには銃すらあった。
たくさんの名前が千切れ積もっていく。
夥しい死骸が積み重なり地平を作る。
ついには闇の水平線と重なり溶け合う。
肉のうねる音がする。
風も、波も、飲み込んで、
吐息が、産声が、
歓喜が、虚無が、混然と押し寄せる。
鋭い痛みが内臓を抉り抜き、身体を支える骨という骨が記憶の轟音に砕かれる。
俺は血泥と暗闇といくつもの灰青色の瞳に苛まれながら、さらに深く…………細かく、魂を散らした。
…………耳を澄ませ。
聞こえるはず。
濁流に惑わされるな。
黒を塗り重ねて、塗り込めて…………辿り着け。
最後の「王」の景色へ…………。
…………




