176-3、開け、最後の扉。俺が時を超えて挑むこと。
顎門が獰猛に身を捩って現れた光に牙を食い込ませるも、それは微動だにしなかった。ただ突き刺さる牙を黙って身に沈ませるばかり。
やがて大鮫は光から離れると、いつの間にか正面に立っていた王の背後へと消えていった。
「…………ソラ」
王が光を見つめて、低く呟く。
俺は白い光が小さな魚の姿に変わるのを見た。
「君は…………」
魚はゆっくりと俺の周りを巡り、辺りから押し寄せてくる白い腕を遠退かせる。
散らばったままの逆鱗の欠片と、空を覆うツーちゃんの魔法陣から舞う琥珀色の火花が、まるで魚に操られるみたいに吹雪いた。
ソラ君…………ヤガミの弟。もう一人のジューダムの王子。
先代の王に魔海にも還れない程の強力な呪いをかけられ、殺されたという…………。
これまでにも何度も俺を助けてくれた。
彼は単なる霊体ではないと、感覚の冴え渡っている今ならよくわかる。
この子は人じゃない。多分、最初から違っていたんだろう。かつては確かに人の器の内で生きていた。
けれど、今は完全に…………。
「魂獣…………いや、まつろわぬ魔…………?」
零れた俺の言葉に答えるように、ソラ君が細くしなやかな身体を捻った。
瞬きの内に、小さな魚が輝かしく透き通った肌の少年へと姿を変える。
兄と同じ、深い灰青色の大きな瞳。水彩のように淡くなびく栗色の髪。
いなくなった日そのままのあどけない笑顔に、俺は言葉を失くした。
ソラ君は王を振り返って華奢な手を伸ばすと、こぼれそうな瞳を懐かしそうに…………悲しそうに細めた。
聞こえない声が彼の兄の名を呼んだかもしれない。
「ソラ…………何で…………」
王の声が微かに震えている。
彼はついに抑えきれず、大きく声を張った。
「なぜお前まで!!!!!」
割れた吐息が、夜風に擦り切れていく。
ソラ君は虹色にほの光る逆鱗の欠片を指先に集結させ、正方形の形に組み直した。
「何をする気だ…………?」
俺の問いに、聞こえない声が答える。
音も時も容易く超越して、不思議な魂獣の放つ穏やかな律動は、魂に強烈に響き渡った。
――――――――…………ソラ君は、永遠に魔海に溶けることのない「彷徨う魚」。
彼には力が無かった。
邪の芽のように世界を染め上げることなぞ出来ないし、そもそも望みもしない。
アカシックレコードの守り人のように、世界を見続けることも、見通すこともしない。
その魂はただ一つしかなく、数多の世界の伝承を歌うこともない。
ただ、彼にはある存在だけが寄り添っていた。
永遠に寄り添う眼差し。魔海より全てを見守る、ただ一つの眼差し。
それは力ではない。彼を助けることもなく、導くこともない。
だが決して、片時とて離れることのない、白き瞳…………。
「…………「裁きの主」…………」
最も近しく、長く連れ合う定めでありながら、彼らは溶け合わない。
互いがそういう存在であることを望んでいるのか? 俺にはわからない。
ともかくも彼は白き恵みのもっとも近くにあって、そして外に居続ける。
故に最も「まつろわぬ」もの――――――――…………。
気付けば琥珀色の火花がすっかり弾き飛ばされて、力場は白い光と、火照る熱風に包まれていた。
ツーちゃんの声も、誰の気配も一切感じられない。
満ちているのは緩やかなソラ君の魂の声…………歌にも似た、豊かな律動だけだった。
一度砕かれた逆鱗は今や時空を超えることはおろか、覗くことすら不可能なはず。
それなのに、これから何が起ころうとしているというのだろう?
王が何か叫んでいる。
王…………?
いいや、王じゃない。確かにアイツの声だけど違う。
もっと遥か遠くから聞こえてくる。
ずっとずっと遠く。
もうどこにもない場所から…………。
――――――――…………光がオーロラみたいに揺らぐ。
さわさわと風に撫でられるみたいに、それは次第に柔らかに翻る。
やがて光は薄いレースのカーテンとなり、ゆっくりとひだを流し始めた。
カーテンの奥に窓が見える。
窓ガラスの開くカラカラという音が耳に伝わってきた途端に、俺は自分の身体が半透明に薄れ、力場に馴染んでいくのを感じた。
熱く迸る風が俺を超えて窓の向こうへ吹き去っていく。
一緒に飛び込んで行きたい気持ちと、留まりたい気持ちとがせめぎ合った。
あの窓は扉だ。
俺が今いるのは、ソラ君の力場の中。
俺が見ているのは、彼の扉に違いない。
俺と同じ半透明の白い魚が螺旋を描き滑り抜けていく。
耳を澄ませば、また王の声が律動と重なって聞こえてくる。
言葉にならない魂の底からの呼び声。
彼のかけがえのない人を呼んでいる。
「…………」
俺はソラ君が描いた軌跡の先…………カーテンに霞む窓の奥を見据えた。
その先に何が待つのか、ソラ君が何をしたいのか。予感はある。本当は俺でなくて、彼の兄にこそ見せたいのだろう。
俺には本当にこの先へ立ち入る覚悟があるか?
あの日も俺は飛び込めやしなかった。
飛び込むべきじゃないと固く戒めていた。今ですら足が動かない。
待つのは拒絶だ。…………殺したい程の…………。
ソラ君の奏でる律動が一段と高く跳ねる。
それは記憶にこびりついた赤い雫の滴る音とぴったり同じで、俺は刃物で深く突き刺される激痛を腹に覚えた。
「…………ッ!」
抑えた腹から、鮮やかな血が流れ落ちる。
誰かにやられた訳じゃない。俺の罪悪感が…………俺自身がこれを蘇らせた。
「…………」
俺はむせた拍子に手のひらへ散った血を見つめ、それを強く握り締めた。
そうしてもう一度、窓を睨む。
カーテンの向こうを射る。
フレイアの最期の笑顔が頭によぎる。
贈られた言葉が傷に染み入る。
――――――――…………お二人がまた仲良くなれますように。
紅玉色がパッと明るく胸に瞬いて、足に熱が迸る。
「…………っ、…………!!」
俺は腹の痛みを堪えてぐっと背筋を伸ばし、両手で強く頬を打つ。
深呼吸すると、血の錆くさい匂いが脳を抜けた。
意識を窓の奥へと向ける。
大きく呼吸して、ゆっくり全身を風に乗せて放つ。
ソラ君が描いた軌跡をなぞって、窓へ滑り込む。
勢いをつけて、カーテンを引き千切れ――――――――…………!
俺はジューダム王に向かって、思いきり魂をぶん投げた。
「決めたぜ…………!!! 今度こそ、お前の世界を叩っ壊してやる!!!」




