170-1、因果斬り裂く風の音。私がまだまだ果てない夜を翔けること。
急な事態に呆然とするばかりの私を、シスイさんが竜の背に放り乗せる。
竜はその間も、高速で夜を滑り抜けていく。
私はいつの間にかきっちりとハーネスに括られて、竜の鞍の上にぴたりと固定されていた。
「シスイさん! グラーゼイさんが…………!」
振り返ると、シスイさん自身は手綱だけを手に竜の腰の辺りに立ち、後方へ目を光らせている。
彼はこちらを向かず、短く言った。
「魔人が来る。…………掴まっていろ!」
えっ、と息を漏らす間もない。
背後から緑色の閃光が鋭く差したかと思うや、竜は風ごと巻き上げて急上昇し、そのまま輪を描いて逆さになった。
風を裂いて旋回し続ける竜の挙動に、私の悲鳴は自分にも聞こえない程に掠れた。
逆さまになって一瞬見下ろした地上の景色が赤々と燃えている。
さっきの閃光の名残みたいな、緑色の燐光のようなものが辺りにチラチラと舞っていた。
グラーゼイさんはどうなっただろう?
探す暇を与えず、また閃光が差す。今度は幾筋もの光が、私達の周りを囲って眩く差した。
シスイさんが竜を翻らせ、その隙間を即座にくぐり抜ける。
と、その直後感じた嫌な気配に、私はまた全身を粟立てた。
これは、幻霊――――…………っ!?
しかし、その醜悪な姿を再び私が見ることはなかった。
「死」に捕らえられたかと思ったその時には、すでに魔物の姿は闇夜に掻き消えていた。
鋭く風を切る音がして、薄い刃のようなものがこちらへ戻ってくる。
その刃をシスイさんは片手で難無く受け止めると、構えた姿勢のまま竜を旋回させた。
今の…………この人が投げたの?
私は彼の手に握られている武器を見て少し意表を突かれる。
…………ブーメラン? これで幻霊を…………?
そういえば、最初に助けられた時にもこれが飛んでいくのを見た。目を瞬かせていると、シスイさんが話しかけてきた。
「珍しい武器だろう? このジコンは伝家の宝刀だ。見えないもの…………因果だけを断つ」
「因果…………ですか?」
「不思議な話だ。…………君の力には敵わないが」
険しい警戒を投げ続けていた目が、ふいに柔らかくこちらへ向けられる。
こんなひどい戦の最中なのにも関わらず、どこか生き生きと彩られた眼差しに、私はやっぱりなぜか兄を重ねた。
ちっとも似ていないのになぁ。でも、ちょっぴり落ち着く。
私は頭がクラクラするのが治まるのを待って、シスイさんに尋ねた。
「シスイさんは、「勇者」の力のことを知っているんですね」
シスイさんは竜を緩く傾けつつ、答えた。
「ああ、コウさんからざっと聞いた。あんまり途方もないんで、実感は湧かないがな。…………まぁ気楽にしていてくれ」
「気楽って言われても…………」
それはそれで困るなぁ。
地上では魔人の放った閃光のせいで、火が一層激しく踊っていた。緑色の燐光が風に攫われハラハラと流されていく。夜全体を震わせる魔人の足音が、燃え盛る炎をより不穏に、禍々しく猛らせた。
グラーゼイさんの姿を探そうと目を凝らすも、見つけられない。通りを覆う死者の人だかりは少しも減っていないようだが…………。
シスイさんは竜を風に紛れさせるようにゆっくりと流し、話した。
「幻霊は通常の手段では倒せない。コウさんのように因果の糸を見出す目があるか、このジコンで姿を現す寸前に斬るかするより他に方法は無い。だのに…………マズいな。かなり集まってきているようだ」
「まさかグラーゼイさんが危ないんですか!? っていうか、どこにいるんですか!? 私、見えません! 幻霊も…………っ」
「落ち着いて。そう離れてはいない。大丈夫。…………幻霊は強力な魔術に引き寄せられる。隊長はそれをわかっていて、最小限の魔力で戦っているんだ。だが、これ以上あの死者の軍団の数が増えれば…………」
「…………ッ」
どうしよう。
助けに行きたい。
私のせいだ。
私がいるから、シスイさんは困っていて…………。
「君のせいじゃない。」
穏やかな声がもう一度降りかかる。
シスイさんは迫りくる魔人を睨み、言葉を継いだ。
「単に状況が難しい。俺達は今、魔人を引き付けている。このまま助けに行けば、隊長さんの方にも攻撃がいくだろう。…………隊長さん本人は、さっさと君を連れて逃げてほしい所だろうが…………俺は君と同じく、やれることはやるべきだと思っている。だから、機を待っている」
黒い瞳が私を映す。
私は思わず呟いた。
「じゃあ、助けに行ってくれるんですか…………!?」
「ああ、構わないだろう?」
「はい…………!」
良かったと思うと同時に、胸が思っていたよりも遥かに温かくなる。
シスイさんは地上の様子を窺い、ふと明るく声を漏らした。
「おっ…………どうやら俺達が行かなくても大丈夫そうだぞ」
「え?」
「援軍だ。それもとびきり強力な」
見下ろす大地に、パッと白く魔法陣が咲く。
まるでコンピューターで描いたが如き正確無比な円の整然とした輝きに、私は見るだけで圧倒された。
(――――――――…………時間だ、魂達)
(――――――――あるべき海へ還りたまえ)
街の一角をすっかり飲み込んだ巨大魔法陣は、微かに、だがハッキリと聞こえた誰かの凛とした声を合図に、爆発的な閃光を放った。
竜も私も、シスイさんも、皆が一斉に目を細める。
ゆくりなく意識が遠退く。
するとその刹那、今度はまた別の誰かの声が、時計の秒針みたいに無機質に聞こえてきた。
(――――――――…………ほう)
(――――――――魔術と呪術の複合だね)
(――――――――…………我らが隊長殿にすら悟らせぬとは)
(――――――――いやはや、大した術者だ)
(――――――――こんな真似が可能な使い手は、そうはお目にかかれない)
意識が解放された途端に、今一度魔法陣が輝きを放つ。
否、それは街一帯を覆い尽くす白煙の噴出に他ならなかった。
風に乗って煙が大量に漂ってくるのを見るや、シスイさんがギョッとした様子で竜を風上へ去らせる。
私は声の主達に思い至り、つい大声を張った。
「グレンさん! ウィラック博士!」
シスイさんは「やれやれ」と溜息混じりに肩を竦めつつも、私と同様に安心したらしかった。
「これなら隊長さんの方は一安心だ」
「でも、幻霊は倒せないんじゃ…………」
「倒せなくても、いなすことはできる。それだけの魔術師…………いや魔導師だ、グレンさん達は。
となれば、俺達はさっさと逃げるとしよう。…………魔人が」
来る前に、と言いかけただろうか。シスイさんが言葉の途中で険しく表情を変え、激しい羽ばたきで竜を翻す。
緑色の閃光が、立ち込めていた煙を貫いて竜の翼を掠めた。
「…………うん、早く逃げよう」
引き攣りながらも不敵な笑みを浮かべるシスイさんにつられて、私も頬と瞼を緊張に強張らせる。
竜は水平姿勢に至るなり、一気に加速して弾丸の如く星空を駈けた。
緋色の流星と一体になって私は風を浴びている。
シスイさんが半ば独りごとのようにこぼすのが耳に入った。
「王の力がまた戻ってきたか…………! これは骨が折れるぞ…………!」
見れば、魔人が私達の後を追って壮絶な勢いで飛んできている。…………そう、飛んできている!
ボロボロだがとんでもなく大きな、墨を荒っぽくぶちまけたような黒い翼が、傲然と魔人を空へ吊り下げていた。




