167-3、豊穣なる静寂と安寧の地。俺が「俺」の魔と向き合うこと。
――――――――――――…………。
…………魂の歌が聞こえる…………。
ヴェルグが命を捧げて産み出した新たな黒い魚の産声は、ナタリーとレヴィが核となっていた黒い魚のものとは旋律を異にしていた。
同じくどこまでも純粋でありながら、より遠く…………深く…………響く…………? いや、吸い込まれていくと言った方が正しい。
大いなる「母」が、魂のほんの薄皮一枚向こうからずっと俺達を見つめていたのだということが、誰に知らされずとも自然に理解できた。
「俺」という至極脆い境界の内側に、この意識は閉じ込められている。ヴェルグの焦がれ求めた新世界は、その外側に広がっていた。
辺りを押し包む圧倒的な静寂、暗黒。遥か彼方には、まだ見ぬ真の漆黒が控えている。
…………声は出ない。
…………出せない。
身じろぎ一つでもすれば、「俺」はあっという間に破れて闇に溶け出してしまうだろう。
否が応にも闇を見つめ続けるこの目だけが、俺と世界を繋いでいる。
フレイアは無事だろうか?
ツーちゃんはどうしている?
二人の気配を探ろうと心を踏み出しかけたその時、下品にはしゃいだ声が脳に湧いた。
――――…………これはこれは…………面白いことになったなぁ!
――――あのさ…………お前、わかってるか?
――――詰んでるんだぜ、コレ。
目の前に現れた若い男を、俺は危うく怒鳴りつけるところだった。
何とか堪えられたのは、彼もまた自分自身だとよく知っていたからだ。彼に突っかかっても、闇に叫ぶのと変わらない。叫んだ瞬間、俺は広がる闇にあっけなく飲み込まれて終わるだけだろう。
睨み付けるだけの俺に、中学生の俺の姿をした蛇の芽は、ヘラヘラと笑って言い継いだ。
――――…………ハ、つまらないな。
――――こっちの居心地だって案外悪くないんだぜ?
――――…………そう邪険にするなよな。
――――お前にはもう、俺しかいないんだ。
――――仲良くやろうぜ…………?
俺はただじっと耐えて、戯言を繰る魔物を睨み続けた。
邪の芽は闇の中に胡坐をかき、気怠そうに頬杖をついた。
――――突っ張るね。
――――で、どうすんだよ? これから?
――――お前のその特別で格別な「扉の力」で、どうにかなるか? …………どうだ?
ならない。
真理の如く、本能が悟っていた。
この暗闇は全てを飲み込む絶対の混沌。「母」のみが支配する唯一無二の世界だ。ここには「流れ」が存在しない。
安寧の闇は、如何なる力をも押し包む。因果も、時も、この場では何の意味も成さない。
もしこの闇が破れるとすれば、この闇自身が望む時だけ…………。
…………そんな望みが如何にして浮かぶのか、それさえ考えるよすがのない永遠の漆黒…………。
邪の芽は口の端を歪めて、声を出さずに笑っていた。
――――わかってんじゃん…………。
――――ところで…………なぁ。
――――「フレイア」と「ツーちゃん」がどうなったか、知りたいか?
名前を聞いた瞬間、また強い怒りに駆られた。
例え挑発だとわかっていても、コイツが彼女達の名を口にするのは耐え難い。
俺は沸騰しかけた頭を力づくで抑え込み、今一度呼吸を整えた。
そうして改めて「俺」を見つめる。
相手は相変わらずの笑みを浮かべ、俺の答えを待っていた。
…………彼女達がどこにいるかって?
そもそも、それを知る必要なんか無い。詰まるところ、この俺がかろうじて繋ぎ止められているのは、誰かが…………他でもないツーちゃんが、どうにか助けてくれているからに違いないのだ。
自分以外の誰かの眼差し。それこそがきっと、この闇に抗うたった一つの魔術。
具体的な方法は知る由もない。
だが、大魔導師ツーちゃんはどこかから絶対に俺を見てくれている。
そして俺が無事なら、恐らくフレイアだって無事だろう。
この邪の芽がこんなに必死に俺へ仕掛けてくるのが、良い証拠だ。フレイアがすでに飲まれていたなら、コイツは俺なんぞに構わず、さっさと彼女の力を使ってこの闇に挑んでいるはず。
邪の芽は、見慣れきった未熟な顔つきをより一層不快に、幼稚に歪めた。
――――ハァ…………。
――――ま、冷静ぶるのは結構なんだけどさ…………。
――――別に状況は変わらないぞ?
――――お前がいくら気張っても、いつかは絶対に力尽きるし。それでなくとも、あの大魔導師サマもいつまで持つかね?
――――…………あのババアは、自分の内に残る片割れの痕跡だけを頼りにこの闇の防波堤を作ってる。
――――自分を鏡にして、ド正面からこのクソ暗闇にかざしてるんだ。
――――いくら年の功とはいえ、そんな気違い沙汰をいつまで続けていられるか。
――――見ものっても、暗過ぎて何も見えねぇし。
――――なぁ? どう思うよ?
――――…………アハハ。
乾いた笑いを短く響かせ、邪の芽は長い前髪の下から奇妙に光る瞳をチラつかせる。
ギラついた貪婪な欲望に、俺は思わず息を飲む。
自分とは似ても似つかない粘つく強烈な男の顔が、そこに激しく燃えていた。
――――…………なぁ、なぁ、なぁ。
――――いい加減にしようぜ…………?
――――時間の無駄にも程があるって思わないか?
大人びた笑みに、ズルズルと言葉が添えられていった。
――――いや別にもう時間なんざ一切関係無いんだけどな。
――――…………じれったいんだよ。
――――蛇の娘が恋しいってんなら、俺が今すぐ連れてきてやろう。今際の情けだ。…………これだけお前に馴染んだ姿ならば、あの娘も心を許す。
――――俺とお前はさ、実はもうずっと前から一心同体だったんだよ。
――――なぁ、だから、好きにしろよ…………好きなだけ…………。この俺は、お前の力なんだ。
――――お前は俺だし、俺はお前なんだよ。
――――いいと思わないか。
――――なぁ…………。
邪の芽の声が低く、禍々しくたわんで響いた。
――――…………認めろよ。
――――もう完全に終わってるんだよ。
――――詰みだ。
――――…………俺とこの猛毒母様、どっちか選ぶしかない…………。
俺は声を振り切ろうと必死で努める。
いや…………まだだ。何か別の方法がまだどこかにあるはずだ。
ツーちゃんが限界だったとしても、さっきだって何とか乗り切れたじゃないか。
…………何とかなる。
…………何とかできる。
何とかしてやる…………!
踏みにじるように、邪の芽の言葉が重なった。
――――…………無駄だよ。
――――さっき自分で言っていただろうが。
――――命あるものなら、本能的に悟れるものさ。
――――お前がお前のままここでできることは、何もない。
――――みーんな…………深く暗い、腹の中さ…………。
違う。
――――ああ、違うとも。お前には俺がいる。
違う。
お前なんか関係無い。
お前は魔物だ。
魂すら無いんだ。
だからそうやって、意地汚く擦り寄るしかない…………!
――――傷つくと思うか? 今更? そんなことで?
――――肉も霊もなくたって、生きるべきは生きる。
――――ただ見つめる。それはまつろわぬ誇り。
――――お前も、才能あるんだぜ?
黙れ。
お前は納得なんかしていない。ずっと器を欲しがっている。
それがなければ何もできないから。
お前は無力なんだ。
――――いや違う。お前がいる。
俺に縋るな。
俺はお前じゃない。
――――そう、俺はお前じゃない。
――――お前とは違って力がある。
――――…………縋るのはお前だ。
消えろ。
――――消してみろ。
消えろ、
消えろ、
消えろ、クソ野郎…………!
――――…………まったく。
――――しょうがねぇなぁ…………。
邪の芽が柔らかく息を漏らして立ち上がる。
足先から指先に至るまで、何気ない仕草の内に通う底知れない不気味さが俺の全身を粟立てた。
どこまでも「俺」でありながら、決定的に異なった何か。
邪の芽の手が俺の首筋にゆっくりと触れる。魂の薄膜をあまりにもすんなりと突き抜けて、それは俺の最も生々しい欲望を強烈に掻き立てた。
影を帯びた少年の微笑みが間近に寄る。
「俺」の眼差しは真っ直ぐに俺を貫いていた。
焦げ茶色の瞳が大樹の幹のように、静かに鼓動している。
眼差しは深く、力強く、太い根を絡めるみたいに俺を捉えていた。
――――…………忘れたわけじゃないだろう。
――――お前の魂は、俺の眷属である陽炎に映し出されたもの。
――――…………自由だなんて思うなよ。
――――お前は一人じゃない。
邪の芽がもう一方の手をしっかりと首に添えた手に重ねる。
湧き上がる制御不能の恐怖と興奮に、俺は彼を見つめ返すこと以外にできない。
邪の芽は愉悦に満ちた、甘く腐れた表情で語った。
――――今までは、こうしてこちらからお前に手を出すことは出来なかった。
――――もし気取られれば、蛇の娘が自害しかねなかったからな。
――――しかし、今なら…………。
――――この深闇の中なら…………。
足掻く俺の首を、少年の両手は容赦無く締め付けた。
とても己の腕から捻り出されたとは思えない、異様な怪力だった。
――――苦しいだろう。
――――…………けど、殺してやらないよ。
――――俺はお前が欲しいんだ。
邪の芽の声はひどく嗄れている。
酒で焼け爛れた声。…………あの頃の俺の呻き。
邪の芽の瞳は、いつの間にか泥水を溜めたバケツのように瑞々しく汚れていた。
――――俺はもうお前の何もかもを知っているんだ。
――――お前がどんな気持ちでどんな風に生きてきたか。
――――何に怒り何に喜ぶか。
――――…………何を欲するか。
バケツの水面を同じ泥水が激しく打っている。
遠退く意識の中へ、言葉は次々と無遠慮に投げ込まれた。
――――そうさ。俺はいつだってお前になれる。
――――薄汚いお前も卑怯なお前も正しくあろうと足掻くお前も、
――――全部見た。
――――…………俺はお前だ。
――――この目が見えるか?
――――そうだ、そうだ。
――――お前の扉はここにある。
――――ここにあるんだよ。
邪の芽の言葉は、錆びたカッターの刃となり脳をズタズタに切り裂いた。
――――…………「俺」とお前の扉だ。
――――俺は知っているぞ。
――――お前は手を伸ばさずにいられない。
――――お前はそういうヤツだ。
思考が細かく細かく裁断されて、無数の小さな紙片となって闇へ散らばっていく。
紙切れはそこでさらにさらに切り刻まれて、紙吹雪の如くさらわれていく。四角い大量の紙切れは、あっという間に真っ黒に染みた。
邪の芽の他人のように優しい笑みが、震える頬から耳元へ生温かく滑っていった。
――――お前が眼差しを伸ばしたがる先は、いつだってそうだった。
――――快楽じゃない。
――――希望じゃない。
――――…………未知だ。
――――ドン詰まりのクソ溜まりのような卑下と退屈が、お前をそういう風に仕上げた。
――――あの魔女のことを、お前だけは笑えないんだ。
――――お前は愚かで短慮。
――――衝動のカタルシスを知っている。
――――一種の中毒さ。
――――…………なぁ…………?
耳元に灼熱の息吹が走り、いよいよ紙吹雪の最後の一片が闇へ飛んでいく。
幻の紙飛行機が闇の彼方へ吸い込まれ溶けていく。
誰かの…………黄金色の名残を微かに帯びたあどけない眼差しが、感慨深げにそれを見送っていた。
「…………退屈って窮屈さ」
夜露みたいにそっと置かれた少女の声を、俺は「俺」の扉…………茶色い瞳の水面に触れながら、聞いていた。
「そして自由だ。
…………真っ白な紙に似ている」
扉の向こうでは鮮やかな火炎が煌々と燃えている。
悲鳴も涙も血もない、純粋なる熱と焔の饗宴。
漂いくる火の粉を、少女は眩そうに仰いだ。
「…………やれやれ。…………何て静かなんだ…………」
闇に瞳が透き通る。静寂に記憶すら霞んで沈み込んでいく。
地獄の業火が迫りくる。
ついに完全な虚ろへと投げ出された俺は、一縷の未来へ…………未だ見ぬ真っ赤な世界へと、己を寄せる。
――――――――…………深く惑わしい紅玉色が刹那、ちらつく。
俺を呼ぶ掠れた声。
背中から抱きすくめた時、失せたはずの心臓が再び脈を打ち始めた。




