167-1、怒りに染まる闇。俺が見つめた数えきれない街角のこと。
――――――――…………黒炎が一層激しく噴き上がり、龍の如く全身をうねらせて襲い来る。
その破壊力は凄まじく、熱波と爆風は飲み込んだ全てを悉く炭へと変えた。
火蛇達が咄嗟に俺とフレイアを守ってベールを張る一方で、ツーちゃんは街全体を覆う広大な魔法陣を展開させた。次いで燃え残った力場の糸を針状に縒り合わせ、雨と降らせる。
微細かつ猛烈な雨が龍を穿つと、黒炎は到底この世では耳にしえない壮絶な悲鳴を天に轟かせ、激しい蒸気を飛ばしながら溶けていった。
しかし、その煤まみれの黒い蒸気はまたしても巨大な龍となるや、瞬く間に俺達の視界を漆黒に包み込んだ。
ツーちゃんの険しい声が脳内に叩きつけられた。
「――――フレイア!!!!!」
言われるが早いか、フレイアは火蛇を思いっきり白熱させ、ベールを極限まで輝かせる。
降りしきるツーちゃんの雨が上空から真っ直ぐに伸びる白糸のように、辺りをほのかに照らしている。
フレイアの紅玉色の瞳が苛烈に周囲を睨み渡す隣で、俺は路地の石畳を見つめていた。
蒸気が酸となって地面を溶かし、足の踏み場もないヘドロの海へと変えていく。時折呻くみたいに、そこから正体不明の泡が沸き出てきた。
弾けたその飛沫が火蛇のベールに触れると、バチッと電撃じみた音を立てる。フレイアの横顔は、その度にわずかに強張った。
力場へ潜る手段を考えなくては――――…………。
そう思う間に、一際大きく沸いた泡が大量の飛沫を飛ばした。
「――――――――ッ!!!!!」
俺とフレイアは、ベールに張り付いた無数の飛沫がみるみるうちに人の手形へと変わっていくのを目にして息を飲んだ。
次々と沸く泡が飛沫を重ね、手形が何重にも張り付いていく。
全身を抑え込まれた火蛇の…………フレイアの恐怖が、俺にまで伝染して吐き気を覚えた。
ざわりと胸に障るこの感触が何によるものかはわかっている。
邪の芽め。何て嬉しそうにしやがる…………!
俺は蒼褪めるフレイアの背中へ寄り、ツーちゃんを呼んだ。
「――――ツーちゃん!!! こっちだ!!!」
真っ黒に降り積もった手形がベールを突き破ろうと乱暴に爪を立てる。フレイアは歯を食いしばって、火蛇を力強く燃え上がらせた。
手が幾つか炎に包まれ溶け落ちるも、押し寄せてくる勢いの方が遥かに重い。
火炎とヘドロが異様な臭気を放ち、肌を、鼻腔を、目を…………全身のありとあらゆる粘膜をひりつかせた。
俺は素早く――――自分でも不思議なくらい滑らかに意識をツーちゃんの雨音へと走らせた。
力場に飲まれるな。
黒く遮られた視界の向こうへ。
繋げ…………!
――――――――…………細かな雨が針となり、ヘドロの海を穿つ。
黒々とたゆたう水面は雫が作る輪を深く静かに飲み込み、二度と浮かび上がらせない。
雨音は、もうどれだけ耳を澄ませても聞こえなかった。
ヴェルグはこちらの意識が力場に回るよりも速く…………いや、当の俺が意識を意識と自覚するよりも速く汲み取って、手がかりを奪っていくようだ。
圧倒的な力で魔力場が塗り潰されていくのには経験がある。けど、俺自身がこんな風に乗っ取られてしまっているとしたら、一体どう斬り込んだらいいんだ?
雨糸が無音の中、頼りなくきらめくのを俺は成す術無く見つめている。これでもツーちゃんは最大限、俺とフレイアを守ってくれているのだろう。
しかしこの景色も、いずれヴェルグに掠め取られる。次の瞬きの隙にも、何をどう捻じ曲げられるかわかったものじゃない。
火蛇は業火と燃え滾って握り潰される圧に耐えていた。
背中越しに伝わるフレイアの体温は、最早彼女自身が発火してしまうのではないかと思える程だ。
ここにあるはずなのは、ツーちゃんの扉。
ヴェルグの扉。
俺自身の扉。
フレイアの扉…………火蛇の扉は、邪の芽のせいで使えないが。
あとは…………。
「…………この街の気脈の扉」
あえて声に出して響かせる。
どうせ心の中は読まれているのだから、せいぜい自分がやりやすいようにやってやろう。
自己暗示も時には武器になる。…………例えそれが、とんでもなく危険な呪いだったとしてもだ…………。
――――――――…………街の景色を思い浮かべる。
ほんの一瞬のこと。
とてもとても断片的な記憶。
…………かつて耳にした市場の賑わい。
色とりどりの広場のパノラマ。
並んだたくさんの屋台。
香辛料の香り。
威勢の良い男女の呼び声。
耳を掠める密やかな異国語。
異邦人の俺を珍しがる、行きずりの眼差し。
…………
路地に敷き詰められた石畳の複雑な模様。
丸く、四角く、三角に、時に交差して、延々と続いていく。
色付きの石だけ踏んで跳ねる子供達。
パステルカラーの屋根の連なり。
風にそよぐ洗濯物。
白い雲が長く伸びる。
ワンダの吠え声。
風に乗って微かに漂いくる、乾いた肥料の匂い。
……………
石を割って伸びる草。
竈の中で踊る炎。
かぐわしいパンの香り。
スープの湯気が街角を霞ませる。
肉の脂が焼け落ちる。
黄金色の酒がグラスに溢れる。
空を飛ぶ千切れ雲に茜差す。
竜の影。
鐘の音。
菫色に暮れなずむ影。
母親が子供を呼んでいる。
家路を辿る靴音。
石畳に舞う砂埃。
…………
俺に市場を案内する青年の語りは軽くて楽しい。
彼の空色の瞳には、小さな街の灯りがいくつもいくつも灯っていた。
ブロンドの髪が夜景に明るく揺れる。
酒場の蒸れた熱気がわっと蘇って、遠く過ぎ去った。
子供みたいに足を弾ませて、少女は広場を歩いていく。
片手には屋台で買ったばかりのサンドイッチ。足元には尻尾を振ってまとわりつく、ビーグル犬みたいなワンダ。
翠玉色の瞳はくるくると街と人とを見つめている。
目一杯の憧れを込めて。
紅玉色の瞳は俺と世界とを交互に映し出す。
彼女が数える世界の物の一つ一つを、俺は繰り返して覚える。
グゥブ1匹だって、君と繋がる記憶なんだ。
眼差しは遠く、当たり前に広がる街をのんびり眺めている。
…………蒼玉色の瞳は、窓の外ばかり見つめていた。
小さな窓枠の向こうの大きな街を、慣れた目で見渡して…………。
あの眼差しは真摯な祈りを捧ぐ瞳だったと、今ならわかる。
彼女の世界に今少し、触れている気がする。
…………
魔術師達が紡ぐ魔術には、必ず命の網が使われていた。
自分を培った土地の息遣いを汲み取って。
拍動する記憶をいくつも重ね合わせて。
魔術は生まれる…………。
「――――ツーちゃん」
答えは返ってこない。
静か過ぎる雨が、ほんの微かに雨脚を強めただろうか?
雨雫のちらつきはやがて声無き囁きとなり、ツーちゃんの詠唱…………彼女の風景と重なった。
――――…………それは泡沫。
――――…………虚ろを宿し、光を映す。
――――…………微かなるもの。
――――…………永劫の闇。
――――…………幻想の旋律。
――――…………価値無きもの。
――――…………不確かなるもの。
――――…………儚きもの。
――――…………果てなきもの。
――――…………止め処なきもの。
――――…………か細いもの。
――――…………か弱きもの。
――――…………愛おしきもの。
――――…………それは泡沫。
――――――――…………踏みしだかれ、無惨に焼き払われたはずの街の姿が刹那、目の前に蘇る。
ささらの如くきらめく雨の中、蜃気楼となって揺らぐ無限の景色は、確かに誰もが思い描いてきたサン・ツイードの姿そのものだった。
風となって無数の記憶が駆け抜けていく。この地の魔術師達の息吹が、力場を撫でて滑っていく。
背中越しに、フレイアが大きく息を飲むのがわかった。
彼女もまた、この街、この気脈を編む一糸だ。だがその糸から繋がる、膨大かつ繊細な織物の全景は、彼女も今まで見たことがなかったに違いない。
蒼の主だって、ここまで鮮やかに見通したことはあっただろうか?
俺は街の気脈に触れながら、同じく呼吸を深くしていた。
扉はすでに、風穴となって開いているかに見えた。
しかし、これだけでは足りない。
大きな記憶の欠失が、俺を呼んでいた。
この街がこの街であるために、なくてはならない一欠片。
それを呼び起こさなくてはいけない。
そう…………これは全て幻なのだ。
幻の泡沫が、その命を最も強く輝かせる時。
その光だけが、闇を打ち払う。
フレイアの胸にチクリと痛みが走る。
俺にも通じて、思わず躊躇いを覚えた。
だけど魂はもう決めていた。
悲しみを感じるよりも、現実を見つめる方がずっと早かった。
俺は砂時計を返すように、世界を傾けた。
フレイアの震える声が耳元で響いた。
「…………コウ様…………」
それと同時に世界が崩れ落ちる。
バラバラと砂の城が崩れるように、泥の塊が落ちていく。
悲鳴と血と…………涙が、世界をあっという間に塗り替えた。
無数の涙は雨と重なる。
深く深く降りしきる。
俺は大魔導師の呟きを聞き届けた。
――――…………唯一つなるもの。
――――…………かけがえのなきもの。
――――…………それは泡沫。
雨は涙に。
涙は雨に。
滝となって降り注ぐ。
闇が白く輝く光の豪雨に濡れ、絶叫じみた血煙を上げながら溶け出した。




