166-3、果てない命の子守歌。俺が魔海に届ける鎮魂歌のこと。
――――――――…………翠玉色の瞳から、虹色のクジラの夢の中へ。
俺は再び小さな魚の大きな群れとなって、力場を舞った。
レヴィの歌は時の枷をも振り解いて、遥かな魔海を駆け巡る。
暴力的な嘆きが紡ぐ崩れた旋律は、レヴィとナタリーの歌に抱きすくめられた端から美しい歌へと変わっていった。
瞬き程の時間も要らなかっただろう。
地獄の慟哭と天国の景色は、ほんの少し位相を変えるだけであっという間に重なった。
それがずれた時と全く同じように…………。
その歌はあまねく魂に、どこまでも深く、遠く届いた。
――――ppp-p-pppn……
――――rrr-n-rrr-n……
――――tu-tu-tu-n……
ナタリーがレヴィを優しく見つめている。
レヴィもまた、愛情深く目を細めて彼女を見つめ返す。
慈しみ、労わり合うかのような二人の仕草を、俺は広く泳ぎながら見守っている。
俺はレヴィ達をゆっくりと取り巻きつつ、やまびこみたいに伝わってくる扉の気配を汲み取って、歌を遥か彼方へと流し続けた。
――――p-p-p-n……
――――r-r-r-n……
――――tu-tu-tu-n……
――――p-pp-n……
――――r-rr-n……
――――tu-tutu-n……
やがて力場に見えないさざ波が爽やかに寄せてくる。
すぐに、白い雨が海を豊かに打ち始めた。
無数に跳ね上がる飛沫の冷たい感触が、次々に俺へ訴えかけてきた。
――――「もっと」
――――「もっと遠くへ」…………
俺はたくさんの身体で心地良い刺激を味わいつつ、扉を開いていく。
誘い誘われながら、歌は響き渡る。
魂の大合唱は、魔海をくまなく覆う。
翠玉色の眼差しをずっと近くに感じていた。
ナタリーは目を瞑って、気持ちよさそうにレヴィと魂の歌を紡いでいたが、同時に俺を見てもいた。
ツーちゃんが言った通り、俺は彼女の魂の鏡像なのだろう。
俺はナタリーの「無色の魂」が深く鮮やかに、時に淡く透き通って色付いていくのをじっと見守っていた。
歌と共に抜けていく、色とりどりの感情。
美しい景色ばかりではない。
黒に黒を幾重にも塗り重ねてやっと辿り着く、悠久の暗黒。
どんな光も到底及ばぬ、残酷な程に痛ましく輝かしい純白。
そのあわいに満ちる無数の灰色の内にも、銀河中の星を搔き集めても足りない数の色がまどろんでいた。
レヴィは染まらずに歌い続けている。
一度泥沼に落ちた彼は、もう何も怖がってはいなかった。
未だに臆病ではあるだろう。
しかし、それよりもずっと優しくなった。
歌が、何よりもそれを教えてくれている。
誰も、ずっと染まらずにいることはできない。
だが、それは永遠に染まったきりではないという意味でもある。
何色でもいい。それは世界の色だ。
けれど永久に塗り潰すことなどできやしない。
何度でも、何度でも、染まっては洗われる。
染まり続ける。
命は歌う。
――――p-ppp-n……
――――r-rrr-n……
――――tu-tututu-n……
レヴィの虹色がいよいよ美しく輝きだす。
歌が大きく世界を揺らした。
雨が、波が…………伝承の夜が、一斉にきらめき出した。
旋律が最高潮に達したその瞬間、またシャランと宝玉の擦れる音がした――――――――…………。
――――――――…………O-o-o-o-O-o-o-o-o-O-o-o-n…………!!!
レヴィの一段と腹に響く叫びが、黒い魚に囚われた魂を解き放った。
魔海の力場に虹色の光が満ち溢れ、魚になった俺の身体は悉く小さな泡へと変わっていった。
泡になった無数の目に映り込むのは、レヴィを抱き締めるナタリーの満開の笑顔。
フレイアの眼差しと声が、俺に触れた。
――――――――「やりましたね、コウ様!!」
彼女の喜びが注がれたばかりのサイダーの如く俺を弾けさせる。
弾けた俺はそこからみるみる肌の感覚を取り戻していく。
次いでツーちゃんの満足そうな声が、頭に響いた。
――――――――「…………まこと、魔道とはわからぬものよ…………」
――――――――…………光が引いていく。
…………夢から醒めるように。
俺達は破壊の名残深いサン・ツイードの街の中に、揃って立っていた。
フレイアがぴたりと俺の脇にくっついて、同じくすぐ隣にいるナタリーと何やら睨み合っている。
少し向こうで背を向けているツーちゃんは、夜空をゆっくりと泳いでいるレヴィ…………もういつもの白黒のクジラの姿に戻っていた…………へ何か合図を送ってから、こちらを振り向いた。
「ナタリー、頼みがある」
ナタリーは視線を大魔導師の方へ移すと、
「何?」
と、翠玉色の瞳を瞬かせた。
そこに宿る「無色の魂」の色彩はたゆたいながらも、揺るぎない。
ツーちゃんは腕を組み、話した。
「貴様には「勇者」の元へと向かってもらいたい。…………よく働いてくれた。いずれまた会うことがあれば、この私自ら褒美をくれてやろう」
「「いずれ」? …………っていうか、ミナセさんはここにいるじゃない」
「あっ、それはですね…………」
口を挟みかけた俺を遮り、ツーちゃんが説明した。
「それは間違いであった。それはただのニートに過ぎぬことが判明した」
「そう。俺、扉の魔術師なんだ。で、「勇者」は俺の妹。あーちゃんって言うんだ」
「ともかく」
ツーちゃんはふと湧いた俺の疑問に先回りして答えつつ、ナタリーを見て続けた。
「ヴェルグの瞳を介して垣間見た事情ゆえ、私もまだ直接「勇者」に会ったことはない。だが、彼女の魔力の気配はグレン…………我が弟子より伝え聞いたものを、レヴィに教えておいた。賢い魂獣だな。人間であれば、こうもすんなりとはいかぬ。良い飲み込みぶりだ。できればもっと時間をかけて観察したかった。
…………貴様は、レヴィと共に「勇者」を助けよ。…………時間は無い。早く行け」
琥珀色の瞳が威圧的に輝くのと同時に、フレイアがハッと顔色を変えて上方へ向かって剣を抜く。
戸惑う俺とナタリーに、ツーちゃんは表情を変えずに言い切った。
「ヴェルグが来る。…………私達を本気で殺すつもりだ。…………貴様は逃げろ。私の結界が破られぬうちに」
黄金色の眼差しの圧力が、俺の全身を穿つ。
琥珀色の瞳が一気に魔力を漲らせ、辺りに強い風を――――幾重にも張り巡らされた渦巻く糸のような力場を吹き巡らす。
フレイアの火蛇が赤々と燃え上がる。
紅玉色の瞳には研ぎ澄まされた灼熱の闘志が、鋭く灯る。
「――――…………ッ、わかった! どうか皆、気を付けて!!!」
弾かれたように駈け出したナタリーを、急降下してきたレヴィが拾い上げてそのまま空中へと全速力で連れ去る。
去り際、見上げた俺とナタリーの目が一瞬だけ合う。
別れの言葉を叫ぶ暇もなく、糸の力場が突如叩き落された黄金色の稲妻によって真っ二つに斬り裂かれ炎上した。
炎の合間を縫って、レヴィが遠く消え去る。
力場の糸が綿あめの如く、べとべとと無惨に溶けていく。
炎が次第に黒く、高く激しくなり、二つの柱を作り上げた。
柱の間から、黒いドレスの少女が真っ白な顔をこちらへ向けている。
蒼白という言葉すら生温い、凄まじい怒りと絶望の形相に、俺はそれだけでもう呼吸を奪われた。
黄金色の瞳が、遥か銀河の先からでも睨み通せるような邪悪かつ異質な光を放っている。
美しい――――真に圧倒的なものだけが帯びる、魅惑的な力――――が、世界の終わりを告げる鐘のように、力場を襲った。




