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166-1、晩夏のヒマワリ。俺が追いかけた少女の背中のこと。

 周囲を包んでいた深い闇が、墨絵のように霞んで晴れていく。

 代わりにほの黄色い光を帯びた空気が辺りを満たして、俺とナタリーとを温かく包み込んだ。


 俺がもう一度名前を呼ぼうとしたのを、翠玉色の眼差しの微かな揺らぎが押し留める。

 ナタリーは裾の長い衣をゆっくりと摘まんで――――ほつれた糸の先は、俺の手のひらの上へと繋がっていた――――俺の方へと歩んできた。


 彼女はおもむろに俺と同じ目線に屈むと、小麦色の腕を大きく振り上げて俺の頬を打った。


「…………っ!?」


 空気の弾ける清々しい音。

 肉体はもちろんのこと、レヴィ中に散らばってしまったはずの俺の魂までもが隅々まで痺れ上がる。

 ナタリーはすっくと立ち上がるなり、両手を腰に当てた。


「…………これで、おしまい。許してあげる」


 唖然としている俺に、彼女は複雑な笑みを浮かべた。


「別にミナセさんだけの責任じゃないって、わかってるし。…………大人の身勝手なんて今に始まったことでもないしね。…………八つ当たりは今のでもうおしまい。…………やっと止められる」

「ナタリー…………」


 白い衣の裾を重そうに引きずり、彼女は俺に背を向ける。

 またしても口を開こうとする俺を、彼女は見透かしていた。


「もういいって言ってるでしょう! …………ミナセさん、しつこいよ!」


 俺は立ち上がり、物寂しげな背中に歩み寄ろうとする。

 その身体()を突き飛ばすような目つきが、すぐに振り向けられた。


「触らないで。…………」

「…………ごめん…………なさい…………」

「…………」


 肩を落としてたじろぐ俺を置いて、ナタリーはどこへともなく歩き始める。

 彼女の歩く足元に、水面を弾いたような白い輪が鮮やかに広がった。


「…………」


 ナタリーが何も言わないので、俺も何も言えずについていく。

 やがて彼女はそのまま、こちらへ目を向けることなく話した。


「私…………初めて「感情」に振り回されたよ。レヴィが魔海の色に染まって…………私も、同じように感情の大渦のど真ん中に叩き落された。

 そこから眺める世界は、「無色の魂(カラーレス)」」を通して見ていた世界とは、全然違ってた。…………あんなに凄まじい怒り、悲しみ、憎しみ…………愛おしさ、喜び、切なさ…………どれも感じたことが無かった。ずっとそうなんだろうなと想像していたものを、独りで噛み締めていただけだったみたい。

 …………私、本当に自分には心が無かったんだって、思い知っちゃった」


 水面を渡るナタリーの素足には、傷一つ見られなかった。

 どころか彼女の身体は全身、今創られたばかりの彫像みたいに綺麗で、非現実的な瑞々しさを湛えていた。


 白くぞろびく、擦り切れた衣の裾が水鳥の尾のように水面を波立たせる。

 俺は小さな飛沫を上げながら、彼女を追いかけた。


「それは違うよ、ナタリー。…………誰だって他人の感情なんてわからない。こんな…………人も魔物も何もない、大勢の魂で煮え繰り返る大鍋の中にでも放り込まれない限り、そんな風にどぎつく感じることなんてあり得ないんだ。

 …………誰だって勝手に想像して、わかったってことにしているだけ。それで十分なんだ。それは紛れもなく本物の心なんだよ!」


 ナタリーは歩みを止めない。足跡は雨粒のように、水面を躍らせていく。

 彼女の日に焼けたブラウンの髪が、退屈そうな所作で耳に掻き上げられた。


「うん…………ミナセさんが言うなら、そうなんだろうな。…………アナタは何だかんだ言って大人だからね。…………私と違ってさ…………」


 ささくれた言葉に、俺は口を噤む。

 彼女はまだ怒っているのだろうか…………。

 それも当然ではある。いくら「おしまい」と区切ったところで、簡単に気が済む問題ではないだろう。

 そもそもあれだけひどく傷つけておいて、心がどうのとか、どの口が言うかって話だ。


 俺はさらにしょんぼりと肩を落とし、謝った。


「悪かった。…………偉そうなこと言って」

「別に嫌味を言ったわけじゃないよ」


 ナタリーは少し考える風に宙を仰ぎ、それから話し継いだ。

 もどかしいぐらい落ち着いた、大人びた話しぶりだった。


「本当に違うの。…………私が言いたかったのは、そうじゃなくて…………自分がどれだけ子供だったか、わかったってことなの」

「子供…………?」


 振り返った彼女の翠玉色の瞳は真っ直ぐに研ぎ澄まされている。

 衣から大胆に剥き出された肩に、俺は少しドキリとさせられた。

 布を持ち上げる身体の曲線は、どう見ても大人にしか見えない。


 俺はさりげなく目線を外して、話を続けた。


「子供って言うけど…………大人だって、人のことはわからないよ。誰だって、何歳になったって、きっと本当は何も見えていない」

「…………そういうことじゃなくってね」


 首を傾げている俺に、ナタリーは難しい形に眉を寄せた。


「知らないことがあるってわかったの。心を揺さぶるような、壊すような…………それによってこそ心の形がわかるような…………そういう自分だけの激情を、私はまだ知らない。

 捕まって、戦の餌にされて、それでもわからなかった。…………確かに怒ったし、悲しかったよ。すごく苦しかった。でも、それも黒い魚がどっさり運んできた感情と比べたら…………何だか底の浅い怒りに思えた。

 私は私のためだけに怒っていたの。それ以上でもそれ以下でもなく…………ただ嵐の如く吹き荒ぶ理不尽と、それに蹂躙されるばかりの惨めな自分が耐え難かった」


 ナタリーの足取りは優しく軽い。

 言葉は風みたいに俺を掠めていった。


「そして何より、私は奪われるものを持っていなかった。

 こんなことを言ったら、もしかしたらとてもヒドイのかもだけど…………私は、私以外に失うものが何もなかったんだ。自警団の皆、サン・ツイードの街、アナタ…………好きだなぁって思うものはたくさんあったけれど、むしろ遠いなって、わかっちゃった。…………私にはレヴィより近いものって、なかったんだよ」


 胸に杭を打たれたような痛みがズシリと圧し掛かる。

 彼女から吐き出された言葉を、俺は受け取りかねていた。


 二度と治らないだろう傷口が、目の前に開いている。

 足を止めかかる俺を、引っ張るみたいに彼女は言った。


「やーめーてってば、ミナセさん。本当に、もう怒ってもいじけてもいないんだってば。

 …………そういう風に思ってね、これって何よりの子供の証拠だなーってやっと自覚したってだけの話なの。まだなーんにも知らなかったんだって、やっと身に染みてわかったってわけなの」

「ナタリー…………俺は…………」

「あのね、念の為言っておくけど、ミナセさんはほぼほぼ何にも関係無いからね! 最早、話はアナタに留まらないの。もっとね…………広い世界への…………気付き? 的な、真剣な、深ぁーい話なんだから!」

「広い…………世界…………?」

「そう」


 ナタリーが歩いていく先に、白く薄いベールのようなものが揺らいでいる。

 あれが扉かなとふと頭に浮かぶ。俺がどうこうするまでもなく、このままスルリと自然にくぐっていけそうだった。

 ナタリーは小さく肩を竦めて、重ねて話してくれた。


「それでも、止められなかったんだけどね。いくら自分のことがわかったところで、ぐるぐる絶え間なく渦巻く感情に揺さぶられて、私も何が何だかわかんなくなっちゃってて…………アナタの声が聞こえて、ようやく自分を立たせることができた。

 …………ずっと止めたかった。でも止められなかった。ミナセさんのこともね、いっそ殺してやる! ってぐらい大嫌いになってたの。アナタが消えたら、ぐるぐるはもっと苦しくなるってわかってたのに、感情が暴れて、どうしようもなかった」

「…………」

「でも、アナタの声は必死だった。ちょっと支離滅裂で意味わからなかった所もあるけども…………ぐるぐるの中で私へ一心に向かってきてくれるアナタを、私は見つめずにはいられなかった。

 アナタはアナタの話ばっかりしていたね。ハッキリ言って、少しも聞きたくなかったし、すごくイライラした。だって何をどうさらけ出されたところで、だから何? としか思えないし。「もう二度としない」っていうのだって、それでいいなら何でも許さなくちゃいけないことになっちゃうし」


 俺は黙ってビンタされた頬をさする。

 ナタリーはそんな俺をちらと見て、前へ進んでいった。


「けどさ…………聞いているうちに、自分が子供でどうしようもないってことも含めて、「ああ、こんなもんかもなぁ」って思えるようになってきたの。

 もちろん、まだモヤモヤはしているよ。アナタを思いきりはたいてそこそこ気は晴れたけど…………こういう状況…………こうでしかありえなかったってことを、受け止めきるのはまだ大変そう。

 それでもね、わかってはきているんだ。どんなに綺麗な思い出も、残酷な現実も、あるがまま、ありふれている。私も、アナタも…………多分、あのジューダム王だって…………その真っ只中。誰もがぐるぐるの中」


 扉の気配が香り高く晴れやかに広がる。

 雨雫のような足音が、爽やかに和した。


「ミナセさんの言う通りだろうなって思うよ! きっと皆…………サンラインの人も、ジューダムの人も、オースタンの人も、魔力がある人も無い人も、関係無いんだ。何もわからないまま生きるし死ぬし、喧嘩するしわかり合えないし…………それでも、そこで笑ったり恋したりし続ける。…………たまーに色んな全部を許せなかったり、許したりして」


 ナタリーがベールの前で俺を振り返る。

 翠玉色の瞳が少し冷ややかに、それ以上に愛らしく細められた。


「ねぇ、ミナセさん。これから私がもっと年を取って、色んなものを積み上げていって、だとしても、きっとわからないんだろうね? 誰が何を考えているかなんて。

 でも…………それならせめて、アナタみたいに一生懸命でいたいと思うよ。実際は傍から見るよりもよっぽどひどい生き方なんだろうけども、私はそれ、いいと思う。どんなにムカついても意味不明でも納得できなくても、結局私、信じたくなっちゃってる。…………アナタって子供騙ししないんだ、いつだって…………。

 …………ねぇ、ミナセさん」


 ナタリーが俺に手を差し伸べる。

 翳りを帯びた晩夏の陽みたいに、彼女が俺に笑いかけた。


「連れてってよ。…………心無い、彩りの世界へさ」


 俺は彼女の手を取り――――散らばった魂が身体に満ちていくのを感じた――――頷いた。


「…………うん、行こう」


 俺はベールを掻き上げ、彼女を導いた。

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