165-1、闇の中の翠玉。俺が華麗に進化を遂げること。
―――――――――――――……………満天の星空が広がっていた。
店を出た俺達はさっきまでいた城塞の、最も高い塔の上に立っていた。
振り返ると、もうそこには暖簾など影も形もない。ただ幻のような花びらが一片、風にさらわれて儚く目の端を通り過ぎていくばかりだった。
広大な城塞の全景が、遥かな夜空の下、冷たく見渡せる。
廃墟は深く重たい眠りに就き、生きて輝くのは白く眩い星達ばかりだった。
歌が聞こえてくる。
魂の歌声は星の瞬きと相まって、廃墟を抜ける風と厳かに響き合う。
フレイアはすっかり気力を取り戻して、星々に負けず鮮やかな紅の瞳で空を睨んでいた。
ツーちゃんの真っ赤なワンピースが燃えるみたいに風に揺れて、パタパタと軽い音を立てている。華奢な少女の白い素足は、石造りの床の上にくっきりと浮かび上がっていた。
――――ppp-p-pppn……
――――rrr-n-rrr-n……
――――tu-tu-tu-n……
何か大きなものの蠢く気配が、夜と廃墟とを小刻みに震わしている。
魂の歌が段々と激しく、強い怒りに染まって轟き始める。
嘆きを孕んだ絶叫が、やがて空を真っ二つに引き裂いて魔海中を打った。
――――O-oo-ooOoo-O-ooo-n!!!
俺は大きく目を瞠る。
星空を蹴散らし、夜空へ覆い被さるようにして現れたその魂獣は、かつて見たよりもずっとずっと巨大で禍々しく、黒い魚それ自体よりも遥かに濃く黒く、地獄の火炎の如き魔力を全身から濛々と迸らせていた。
この大きさを、はたして何になぞらえるべきか…………世界中の夜を一つに塗り込めたような途方もない漆黒は、遥かに広がる砂漠の如く見えた。
胸ひれが、長く裂けた羽に似た歪な形に変わっている。
二つの円らな瞳は、一目見るだけで胸の潰れそうなまだら模様に血走っていた。
「レヴィ…………なの、か…………?」
俺が息を飲んだその瞬間、ツーちゃんが俺達を囲って琥珀色の魔法陣を輝かせた。
「――――来るぞ!!!!!」
刹那、レヴィが巨体を捻って急降下し、周囲に渦巻かせた濁流を俺達へと叩きつける。
ツーちゃんがごく短く、それこそ針を弾くような小声で何か唱えると、魔法陣が竜巻状に閃光を立ち昇らせて黒い水流を打ち消した。
光が止むや否や、フレイアが放たれた弾丸の如く飛び出す。
二匹の火蛇が彼女と彼女の剣に螺旋を描き、火炎を盛らせた。
紅玉色の瞳が輝きを増すと、刃上の火蛇はさらに白熱し、加速する。
フレイアはレヴィの脇腹へと、思い切りよく全身で斬り込んだ。
――――O-O-ooo-n!!!
レヴィの苦痛に満ちた悲鳴が鼓膜を震わす。噴き出した血飛沫と潮の鮮烈な赤さに、俺は己の心臓まで裂かれたかと思う。
レヴィが悶え暴れる。
ぶん回された彼の尾ひれがフレイアを強く打った。
「――――フレイア!!!」
フレイアは咄嗟に火蛇を二重のベールにして衝撃を受ける。しかし、城塞の一角へ真っすに叩きつけられる。
直後、雷光に似た光が辺りを包んだ。
大魔導師の詠唱は静かに、速やかに力場を伝わった。
「――――聞け、獣。
――――我は琥珀。在りし火、その残渣。
――――我は一切を漂白する。
――――…………白すら果てよ!!!」
光が無数の矢となって俺達を打ち貫く。痺れ上がった全身がたちまち、砂となって虚空へ散らばっていく。
途方もない眩さに意識が急激に霞んでいく。
今わの際じみたレヴィの悲鳴が、砂となった身体の一粒一粒を残らず引き千切った。
――――O-o-o-o-o-ooo-n!!!
最早何色でもない、人の言葉では表し得ない猛烈な光の嵐。
圧倒的な力に、俺はただレヴィの断末魔を聞いていることしかできなかった。
これでいいのか、わからない。
レヴィの声をもっとちゃんと聞くべきなのではないか?
元はと言えば、俺達が悪かったんだ。他に手段が無かったとはいえ、俺達はジューダム王をおびき出すために、ナタリーとレヴィを騙してひどく傷付けた。
俺はまだ彼女達に謝ってすらいない。
こんな暴力的なやり方はいけない。
このまま力づくで終わらすなんて絶対にいけない。
裏切りはもう繰り返したくない。
だけど…………どうしたらいい?
「―――――ッ…………!?」
急に、がっちりと噛みしめられた歯の感触が戻ってきた。
ハッとして目を見開くと、俺は自分の身体を取り戻していた。
足元には琥珀色の魔法陣、周囲には強風が吹き荒れている。
何が起こったかと考えるより先に、ツーちゃんが嘆息と共に吐き捨てた。
「…………やはりか」
一面を覆っていた光の奔流が、炙り出されるみたいに黒い炎に蝕まれていく。
炎はあっという間に空間を喰らい尽くして燃え上がると、低く唸りながら狂暴に踊り上がった。
漆黒の火炎が凝り固まり、一層巨大な…………爛れたひれをいっそ優雅にたなびかせた、禍々しいクジラの姿となる。
いつの間にか俺の隣へ戻ってきていたフレイアが、眉間を険しくして呟いた。
「届かなかったか…………」
ツーちゃんがどこからともなくふわりと俺達の前に降り立ち、言葉を継いだ。
「いいや、フレイア。貴様の刃は、確かにかの獣の肺を貫き心の臓を裂いておった。…………だが、最早あれはそのような表面的な手では止められぬらしい」
話している間にも、レヴィは新たな濁流を従えてこちらへ猛然と向かってくる。
ツーちゃんは指先で宙にいくつもシャボン玉を浮かべると、まとめてレヴィへと吹き飛ばした。
レヴィにぶつかったシャボン玉が次々と弾け、また鋭い閃光を放つ。
目眩んだ獣が軌道を逸らしたところを、ツーちゃんはすかさず琥珀色の光の銛で追撃した。
レヴィが続々と投げ放たれる銛をくぐり抜け、ぶつかったシャボン玉の閃光に再度晒され呻く。ツーちゃんはレヴィを睨み据えたまま、容赦無く光の銛を打ち続けた。
銛に貫かれたレヴィの身体から、赤い血が花と咲き乱れる。
ツーちゃんは顔色を変えず、淡々と話した。
「あの泡も、この銛も、およそ形ある魔ならば…………例え呪われ竜だろうが、三つ首ワンダだろうが、一撃で屠る代物だ。だが見ての通り、それでも仕留めるには遠く及ばぬ。これはつまり、あれが再生の「核」を宿している証だ。この獣自体が黒い魚の「核」とも言うべき存在ではあるのだが…………さらに中心がある」
フレイアが剣を構え、火蛇を鮮やかに舞わせる。
紅い眼差しが見つめる先では、獣が狂乱の果てに自らシャボン玉へと身体をぶつけながら、銛の雨の中を真っ向から突進してきていた。
ツーちゃんは腕を組み、俺へ語り継いだ。
「幾度となく心の臓を斬り裂かれてなお、これだけの力を維持させる「核」。…………あの獣と深い繋がりを持ち、なおかつ魔海の源泉と高い親和性を持つもの。…………コウ、正体はわかるな?」
俺は食いしばった歯をさらに軋ませて、頷いた。
「…………ナタリーがいない」
気配が無い………感じられないのは、彼女の魂がこの地の誰よりも濃く、この魔海の憤怒に染まりきっているからに他ならない。
彼女へと至る手段は、俺にはもうわかりきっていた。
そしてそれは、まさに俺の心からの望みでもあった。
「…………行ってくる」
絞り出した低い声に、フレイアが凄まじい形相を振り向ける。
俺は彼女に目をやって、それからツーちゃんに頼んだ。
「サポートをよろしく」
大魔導師は「ふん」と小さく息を吐き、フレイアに命じた。
「フレイア! 私と貴様でこの獣をできる限り鎮める。…………それがコウの命を守る最善の策だ」
「ですが…………!」
フレイアが声を高くするのを遮って、ツーちゃんがパチリと指を鳴らす。
針の弾かれるほんの微かな音が重なって、次の瞬きの後にはすでに俺は、小さな小さな幼魚の大群と化していた。
フレイアが目を丸くして何か叫ぼうとしている。多分「スイミー」とかそんなことじゃないか。
そんな彼女を横目に、俺…………いや俺達? は突撃してくるレヴィの口の中へ力強く泳ぎ出した。
ツーちゃんの高らかな詠唱に合わせて、琥珀色の光が火蛇と綾を成し巨大な一つの銛を作り上げる。
黄金にまで冴えわたる閃光が二蛇をみるみる白熱させる。
魔導師の声が、頭に響いた。
「――――――――行け、コウ!!!」
耳の痛む風切り音を立て、金色の捕鯨銛が打ち出される。
俺は光より速く、大鯨の咽喉へと飛び込んだ。
――――――――…………今謝りに行くぜ、ナタリー!!!




