164-2、大魔導師、旅の始まり。俺が極上の祈りに酔いしれること。
フレイアの瞳に映る己の姿を見る限り、幸いにしてまだ何の動物にも魔物にも変化してはいないようだった。
最初は少し引っかかりのある喉越しだったが、次第に後味がまろやかになって美味しくなってきた。
程良い甘さとアルコールに肩が軽くなり、身体がほっこりと温まる。
〇×▷◆△。人間の発声器官で再現できる名前ではないのだが、俺とフレイアは気に入った。
一方のツーちゃんは何が気に入らないのか、両手であざとくグラスを持ってちびちびやりながら、変に顔を顰め続けていた。
「…………苦手ならもらうけど」
話しかけてみると、予想通り猛禽じみた眼差しが返ってきた。
「違う。…………そのような能天気な話ではない」
「じゃあ、何が気になるのさ?」
「…………全てだ」
ツーちゃんは荒っぽくグラスを置くと、奥のエルフを睨んで声を張った。
「貴様、何者だ? …………なぜコウをここへ誘い込んだ?」
「え」と思わず声が出る。
俺はただ扉の気配に従っただけのつもりだったが…………。
エルフはやけに足の高い杯(カクテルグラス? みたいな?)を長い指にひっかけて持ったまま、百合の花みたいに麗しく顔を傾けた。
「君は誤解をしているね。私は誰も呼びつけたりなどしない…………必要が無いんだ。彼は彼の因果によってここへ辿り着いた。他の誰もがそうであるように、ね」
エルフは杯を唇に寄せ、さらに言葉を継いだ。
「と…………言っても、そんなことはとっくのとうにわかっているのだろうね? …………君は、どちらかと言えばこう尋ねたいのじゃないかな? 「なぜ、私はここにいる?」…………」
無言なれど、琥珀色の眼差しはなおも相手を厳しく責めている。
エルフは笑みを崩さず俺へと目を移し、話をした。
「君自身はどう思う? 呼ばれたと思うかい?」
「え? あー…………その…………」
琥珀色の圧に気圧されつつも、俺は声を落として答えた。
「いや…………その、未熟者だから、よくわかんないですけども…………普通に、流れを辿ってきただけ…………のつもりです」
「ああ、そうだろうとも。因果への介入というものは、一見可能に見えて絶対に不可能なことなのだ。…………例えば、君のポケットの中の女王竜の逆鱗を持ってしても」
「えっ」
俺が声を上げるのと同時に、フレイアの瞳に火が灯る。
微睡みはたちまち霧散し、彼女の表情にツーちゃんに勝るとも劣らない強張った警戒が走る。
エルフは気持ち良さそうにその熱を浴びて、静かに笑いの吐息を漏らした。
「ふっ。…………燃ゆるは愛、紅き灯かな…………。
そう邪険にしないでおくれ。私は君達の物語が一等好きなんだ。…………素晴らしい歌だからね。
…………私がなぜここにいるのか。君達がなぜここにいるのか。私達はなぜ出会ったのか。いずれにも答えは無いよ。私はどこにでもいる、ありふれた歌い人。そしてそこの彼は、世界を渡り歩く永遠の旅人。因果などと大層なものを持ち出さなくとも、いつか顔を合わせることもあろうというもの…………」
エルフは杯を空にすると、さも楽しそうに歯を見せて笑った。
「運命は無限だ。私達は何にも導かれていないし、同時に全てを定めづけられている。…………逆でもいいよ。君達が好むなら」
涼やかな笑顔と裏腹に、言葉は研がれたナイフのように深々と俺へ滑り込んできた。
「業というものは、確かにある。だが、それが紡ぐ全てを見通すことは誰にもできない。魂がいくつあっても、生まれ出ずる世界の数には遠く及ばないのだ。
魔道は探求の道。思うに、琥珀色のお嬢さんは求める何かを目掛けて遥か彼方からずっと羽を休めることなく飛んできたのだろう? そうして望んだとおりの道へと至り、多くを蓄えたと見える。相応の寄り道をしながら…………時には到底語り得ぬ、険しい景色を乗り越えて…………。
…………しかし、世界はまだまだ広いよ。果てなく広い。「私はなぜここにある?」ただ一つその答えを出すことさえ、遠く遠く目眩むような道のりだ。
現に君は、この店をすら知らなかった。…………魔海のこんなにも気安く楽しい店を、君は知らなかったのさ。…………未知へと飛び込むことを己が忘れていることさえ、知らなかった」
ツーちゃんの盛大な舌打ちが聞こえる。
必ずしも憤怒に満ちているとは言えない複雑な横顔が、俺には新鮮だった。
エルフの瞳は琥珀色に、紅玉色に、そして焦げ茶色に、緩やかに流れていった。
「だが、選択と決断は無意味ではない。それは常に私達を象っている。いっそ私達自身と言っても過言ではない。…………例えば今、飲むか? 否か?」
エルフが俺とフレイアの空っぽのグラスに目をやる。
彼は慈悲深い僧侶のようにも、したたかな大悪魔のようにも見えた。
「…………折角だから、もう一杯ぐらい飲んでいったらどうだい? 私が奢ろう。いくらでもね。…………私の、これと同じものを」
杯を蠱惑的に揺らすエルフを見て、俺とフレイアはツーちゃんを振り仰ぐ。
ツーちゃんはいつの間にか飲みきった〇×▷◆△のグラスを主人へと突っ返し、エルフに言った。
「…………ふん、流石に大盤振る舞いだな。戦の最中でなければ、この私が貴様という貴様を一滴残らず飲み干してやっていたところだが。
…………貴様の正体はもう見当がついた。…………分際も弁えず、白々しい説教をアホ程喰らわせおってからに…………腹が立つ。腸が煮えくり返る。そこの駄ワンダと良い勝負だ。この三流詩人めが」
エルフが唇をいたずらっぽく歪ませ、肩を竦める。
俺とフレイアが何が何だかと見合わせているうちに、エルフは主人に注文を済ませていた。
「マスター。…………「永久の祈り」、赤を3つ」
「旦那はもういいんで?」
「私は…………そうだな。白をもらおう」
「はいよ」
聞いたツーちゃんが眉間をこれでもかとばかりに皺くちゃにする。
エルフは琥珀色の猛追を優しく受け流し、神々の如きアンニュイさで頬杖をついた。
「虹色の獣が泣いているのだから、これぐらいの滋養は必要だ。…………古より脈々と受け継がれる、あの美しい歌声…………大いなる御姿…………。彼を鎮めるなら、一つ運命も訪れよう」
「虹色の獣…………レヴィのことですか?」
俺の問い返しに、エルフはただ微笑み杯を受け取る。
俺達の前に並べられた杯には、フレイアの瞳の色とよく似た、深く鮮やかな真紅の液体が満たされていた。
吸い込まれていく心の加速度に、本来ならば魂にて支払うべき対価の重さを自ずと察する。
華やかな香草と果実の香りに、懐かしい甘い匂いが丁寧に深々とくるまれている。水面に映った己の頬が、爬虫類じみた鱗に覆われつつあることさえ気にならない。
一口浸れば、あっという間に俺は溶け出してしまうだろう。
見つめているだけなのに、俺はもうすっかり酔ってしまった気分だった。
エルフはそんな俺と、同じく放心して見惚れているフレイアをまじまじと見て、ポツリと呟いた。
「…………願わくば、良い旅を」
彼は己の杯をしばし眺め、ツーちゃんへと眼差しを送った。
「…………君は、いつか永遠の果てを目にするのだろうか? 因果の轍が辿り着くその先を目にして、君は何を思うのだろう? …………君の旅は、どこへと続いていくのだろう…………?」
ツーちゃんが子供の姿に似合わない大仰な杯を両手で傾ける。
彼女はしかめっ面で杯を置くと、少し赤く染まった顔でエルフを思いきり睨みつけた。
「黙れ! 酒が不味くなる! 何をどう答えようが、どうせ貴様は好き勝手に見て好き勝手に歌い散らかすだけであろう! 訳知り顔で綴られた貴様の物語なぞ、私は昔から少っっっっっしも好かんのだ!
私の旅だと? くだらん! やるべきことは既に決めている。貴様なぞ知らん! 私は私の望むままを行く! 未知なぞ恐れるものか…………これまでも! これからもな!」
エルフが静かに笑い、「永久の祈り」の白を傾ける。
彼の声は、変わらず爽やかで澄み渡っていた。
「…………ああ、それはとても面白い道だね。そうなると、彼は「扉の魔術師」、いや…………」
「黙れと言ったはずだ! 魔海中からのブーイングを鼓膜に直接叩き込んでやろうか?」
「ふふ…………ふふふ」
何が何だか。
それはともかくとして、俺もフレイアと一緒に真紅の雫を頂くとしよう。
ブランデーに似た、だけど真水の透明感も確かに残した味わいが、舌の上でとろけてたちまち霧と失せた。
心が洗われるよう…………というのが比喩ではないとわかる。
正確に言えば、これはお酒ではないのかもしれない。どんな蜜よりも甘く、どんなアルコールよりも濃く、そしてどんな水よりも遥かに澄んでいる。
一滴一滴が、魂に染み入る。
涙よりも、血よりも、もっともっと奥深い場所へ…………。
「…………俺、行かなくちゃ」
気付けば、俺は空の杯を置いて立ち上がっていた。
フレイアが同じように立ってこちらを見ている。
ツーちゃんに目をやると、彼女は残った酒を煽ってこちらを仰いだ。
「…………疲労は癒えたか?」
素っ気ない口調の内に、労わりの調子が聞き取れる。
フレイアは紅玉色の瞳を、生まれたばかりの火の粉みたいに瑞々しく輝かせて答えた。
「はい。時は来たと、存じます」
「ならばよし。…………店主」
ガマ主人が哲学者めいた目を上げる。
ツーちゃんは彼に、歯切れよく伝えた。
「世話になった。良い水を使っているな。やはり人間共の作るものとは別格だ。…………気に入ったぞ。また来る」
「ありがとうございます」
主人が畏まって礼をする。
それからツーちゃんはエルフの方を向くと、ぶっきらぼうに付け足した。
「馳走になった。…………だがリリシス。次にこの私に舐めた真似をしたら、タダではおかぬぞ」
リリシス…………。
って、あの伝承を綴った大詩人!?
俺とフレイアは目を大きくして、またもや見合わせる。
どうも言っていることが妙に壮大だなとは思っていたが…………。だけど、だとしたら、もっとたくさん聞けることがあるのでは?
呆気に取られている俺達に、エルフ、もといリリシスが言った。
「残念だが、先にも述べた通りだ。私達は定めづけられているが、無限の時空の渦中にある。かの「裁きの主」でもない限り、君の歩む先を見晴らすなどという無粋はできないよ。
しかしまぁ、とても面白い流れの中に君達があることは確かだ。…………この先、命の在り様が如何様にあるとしてもね…………」
俺は苦笑し、灰色の瞳が優しく細められるのを見守る。
ううむ、これは…………どうやら、話しても埒が明かなさそうだ。むしろ、あんまり追及しても不安が増すばかりで悪影響しかなさそう。
ツーちゃんは「ふん」と吐き捨てるように顔を背けると、俺とフレイアにもう一度命じた。
「行くぞ!」
「あ、はい! 只今!」
フレイアが返事をし、暖簾をくぐるツーちゃんについていく。
リリシスは潮時とばかりに、自らの杯へと意識を戻した。
「店主様、リリシス様、ご親切にありがとうございました!」
フレイアが礼儀正しく言うのに合わせて、俺も急ぎお礼を言って下がろうとする。
そこを、主人が引き留めた。
「あ! お客さん、ちょっと!」
「はい?」
振り返った俺の目と主人の趣きある目とがかち合う。
主人は微かにその目を狭めて、躊躇いがちに話した。
「その、変なことを聞いて恐縮なんですが…………お客さん、どこかで私と会ったことはありませんかねぇ? お客さんの、その…………目の光、とでも言うんでしょうか…………何だか妙に懐かしくってねぇ…………」
俺はリーザロットの魂を通して花姫亭を覗いていた時のことを頭によぎらせ、言葉に詰まった。
何と説明したものだろうか。まさか女の子の目の中から覗いてましたとか、キモいことを正直に言うわけにもいくまいし…………。
答えあぐねていると、主人がそのまま流した。
「あぁいや、覚えが無ければ気にしないでください。…………私らウミガエルは、若い時期を魔海の外で過ごすんですがね、その時期の記憶はどうにもぼんやりとしていましてねえ。万が一どこかでお世話になっていたらいかんなぁと思って、お尋ねした次第なんです。
まぁ、きっと私の勘違いでしょう。つまらんことでお引き留めして申し訳ございません。…………どうぞ、お気を付けて行ってらっしゃいませ」
不器用に微笑む主人に、俺はどうにか絞り出した言葉を置いた。
「いえ…………縁は、あったと思います」
「ん? そうですか?」
「蒼い眼差しが、俺と貴方を見つめていた。…………桜色の花びらの下で」
リリシスが酒に微睡んだ目を向けてくる。
主人が不思議そうに瞬きするのを、俺は目元を緩めて受けた。
「…………それじゃあ、また」
会釈して、俺はツーちゃんとフレイアの背を追う。
そうして暖簾をくぐれば、そこは――――――――――――――――……………。




