162-2、地獄の番犬と暗く深い水の「塔」。俺が見えない琥珀色と戯れること。
闇の奥で、魔獣がゆっくりと首をもたげた。
「あれは…………勝てない――――――――…………!」
フレイアの口からこぼれ落ちた言葉に、俺は耳を疑った。
呪われ竜の首をいくつも斬り落とし、山のような魔人にも臆さず真正面から立ち向かう彼女が…………いきなり「勝てない」だなんて。
俺は目を大きく見開いて、迫りくる魔物を目の当たりにした。
それは大きな…………小高い丘のような巨躯の犬であった。
ぶ厚い毛皮の上からでもわかる、張り詰めた筋肉。
頭が3つ、低く項垂れている。いずれも昏い、血走った目つきで俺達を睨みつけ、歯を剥き出してわずかにタイミングを違えて、湿った吐息を漏らしていた。
オースタンでよく知られた地獄の番犬の名が、口をついて出た。
「ケルベロス…………」
フレイアが釘付けになっていた目をハッと瞬かせ、こちらを見る。
と同時に、ケルベロスが重たげな身体を一挙に弾かせてこちらへ飛び掛かってきた。
「――――お下がりください!!!」
フレイアが俺を思い切り突き飛ばし、火蛇を2匹いっぺんに剣に渦巻かせる。
俺は暗闇となった空間に転がり込み、彼女とケルベロスとの闘いに意識を凝らした。
――――――――…………針の弾かれる音がして、透明なシャボン玉が花咲くように一面に現われ出た。
誰の魔術かと不思議がる間もなく、俺は一つの巨大なシャボン玉の内にパクリと取り込まれた。
俺を包んで虹色に光る玉は、グラグラ、ユラユラと不格好に揺れて心許ない。
一方でフレイアは、大小無数のシャボン玉が浮かび流れる空間を、まるでスズメ蜂のように鋭く跳ね回って戦っていた。
泡を蹴り、弾き、また飛ぶ。
足場と呼ぶにはあまりに脆い泡の上を、3つ首の獰猛な魔獣を相手にフレイアは難なく渡っていく。
ケルベロスは見えない壁や大地を蹴って、そんなフレイアへ天地無く襲い掛かる。
火蛇がベールを張り、一つの首からの牙の攻撃を防ぐ一方で、火矢となって突き出されたレイピアが別の首の喉元へと走る。
と、ふいにフレイアの足元の泡が割れた。
落ちる…………!
否、わざと足を滑らせた彼女を捕らえ損ねた3つめの首の顎が空を切った。
休む間の無い追撃を、フレイアは流れてきた泡を盾にしていなす。
それの弾けた拍子に、彼女はケルベロスの背に飛び乗りざま、深い斬撃を喰らわした。
凄まじい声を上げて、獣が暴れる。
あっけなく弾き飛ばされたフレイアはいくつかのシャボン玉をブレーキ代わりに体勢を立て直し、再び火蛇を猛らせた。
「―――――――――ッ…………!」
俺は肩を震わせた。
フレイアの息がもう上がっている。何とか渡り合えているように見えるが、これも本当に短い間だけだろう。
ケルベロスはまだ本調子ではないと、滲み出る魔力の拍動がおぞましく囁いていた。
血の味がする。
脳の髄が燃えるように熱い…………。
フレイアはすぐに割れてしまう儚い足場を器用に利用して、ケルベロスの攻撃を躱している。
だが、次第にケルベロスの一撃一撃がより素早く、精確になってきているのが俺の目にも明らかになってきた。
防ぐだけで精一杯の状態が続いていく。
ふいにケルベロスは、フレイアが飛び移ろうとしていたシャボン玉に爪を掛けた。
足場を崩されたフレイアが構えを崩し、彼女の額を獣の爪が危うく掠める。
次々と泡を割られ、みるみるうちに追い詰められていくフレイアに、俺は声を張った。
「フレイア!! ダメだ!! 逃げよう!!」
真っ赤に迸った紅玉色の一瞬の視線に、心臓が止まりかける。
…………違う。
逃げないんじゃない。
逃げられないのか…………!
「…………っ」
俺はぶよつくシャボン玉の中で、ぐっと緊張を飲み込んで呼吸を整えた。
思い切って目を瞑る。
ケルベロスの吠え声に、血飛沫の跳ねる音が混ざった。
誰が怪我をした?
荒々しい狂暴な吐息がすぐ近くに感じられ、全身の細胞が恐慌状態に陥りかける。
「――――…………」
腹を据えて、耳を澄ます。
魂を薄く――――翅のように、透明に広げていく。
一つ…………、
二つ…………、
深呼吸。
「――――――――…………」
…………フレイアが哀れっぽく俺を呼んで泣いている。
よくよく耳を凝らせば、邪の芽の悪ふざけだとすぐにわかる。
煮え滾る怒りをも腹の奥底に溶か込んで、魔海へ意識を潜らせる。
もっと…………。
もっと…………自由に。
もっと…………静かに。
俺を隠しているらしいこの泡がケルベロスに見つかるのも、恐らく時間の問題だ。
どうせ魔海の藻屑と散るなら、もっとのめり込んで行こう。
――――――――…………静寂に静寂を塗り重ねて、さらに広がる静けさ。
黒に黒を塗り重ねて、初めて見える色。
その景色はまさしく大海の如く、深く豊かに遥かにたゆたっていた。
「…………」
虚無と呼ぶには、あまりにも濃密な時間が文字通り瞬く間に飛び去って行く。
こここそが「塔」だと、俺は直感的に知った。
「ツ…………ツーちゃん!? いるのか!?」
答えは無い。
圧倒的な静寂が、まるで息づいているかのようにたちまち俺へと群がってくる。
少しでも気を許せば、あっという間に魂を塗り潰されてしまうであろう闇の内で、俺は再び呼びかけた。
今度は声でなく、想いだけで。
でなければ、きっと番犬は耳聡く囚人の脱走に勘づいてしまうから。
――――――――…………答えてくれ。魔導師・琥珀…………。
ツーちゃん…………。
…………
……………………
………………………………
…………………………………………
―――――――――…………こよなく深く、闇に浸る。
何かが蛍のようにフワフワと俺の周りを行き交っていた。
これも監視の魔物か?
蛍達は目を向けるなり、吸い込まれるみたいに光を失って、ただ微かな聞こえない歌だけを後に残して消えた。
後の闇は一層濃く、かぐわしく煙る。
俺は魂の歌を胸の内で密かに口ずさんで、孤独な心を慰めた。
――――ppp-p-pppn……
――――rrr-n-rrr-n……
――――tu-tu-tu-n……
15の頃のヤガミの顔が、ふと頭に浮かぶ。
アイツが泣いていたのは、こんな闇の中に閉じ込められていたからだったのかな…………?
小さく胸に灯った何かが、優しく黒く塗り込められていく…………。
――――ppp-n-ppp-n……
――――rrr-rrr……
――――tu-tu-tu-n-tu-tu-tu……
……………………
……………………
……………………
――――――――…………また、針の落ちる音が聞こえた。
今度は毛足の長い絨毯の上へそっと落としたような、本当にわずかな音だった。
俺は目を凝らし、闇の内にキラリと光った針を拾い上げた。
――――――――…………ツーちゃん?
細く尖った先を指で弾くと、歌と美しく響き合う。
と、いきなり蛍達が一斉に光を点滅させ始めた。
「!?」
動揺して思わず針を落としかけるも、寸での所で危うく握り締める。
俺は飛び交う蛍達をまじまじと眺めながら、深く息を吐いた。
ええと…………。
もしこの蛍も魔物なら、この明滅はきっと警報的なものだろうけど…………。
「…………」
本当にそうだろうか?
調べる術を求めて、黙って気配を探ってみる。
というか、警報であるのなら、いずれ何らかのアクションがあるはずだが…………。
「…………」
蛍はゆっくりゆっくりと辺りを飛び回り、一向に何かを仕掛けてくる様子が無い。
コイツら、一体何なんだ?
思い返してみれば、こういう意味不明な目に遭った時はいつも誰かしらが傍にいて、何らかの答えらしきものを用意してくれていた。
けど、今は誰もいない。
判断材料さえも見つからない。
蛍は不規則に、人魂じみた動きで往来を続けていた。
敵意もなければ、特段何か語り掛けてくる風でもない。せいぜい、見ようによっては俺の傍に集まりがちであるというぐらい。
歌いかけたり、耳を澄ませたりしてみても、暖簾に腕押しというか、タカシに説法というか…………。
しばらくの後に、俺はある決断をした。
「よし…………捕まえてみるか」
俺は針を服に留め、近くに浮いている一匹へ狙いを定めて両腕をおもむろに伸ばした。
なるべく気配を殺し、近付いたところで、一気に捕らえる!
…………何度かトライして、ようやく一匹だけ捕まえることができた。
手のひらには驚くぐらい何の感触も伝わってこなかった。ただ明るい空気を包んでいるだけのよう。
指の隙間から漏れるほの黄色い明かり――――何だか、琥珀色に滲んでいるようでもあった――――を見つめつつ、俺は考えた。
どうしよう? これ…………。
「…………」
両手が塞がっていては、選択肢はおのずと限られる。
俺は蛍に耳を添え、本人の希望が特に無いのを確認し、頷いた。
「よし、潰してみよう!」
手に力を込めかけたその瞬間、凄まじい子供の金切り声が鼓膜をつんざいた。
「やめろ!!! この…………大馬鹿者がぁぁぁ――――――――――――ッ!!!!!」
手中の光が爆発的に広がって、辺りの蛍も同様に急激に光を発散させ始める。
俺は尻餅をつき、光がみるみるうちに闇を蝕んでいくのを唖然として見守っていた。
「な、何だ!? 何が起こっている!?」
いよいよ光が空間を埋め尽くす。
黄色い…………いや、琥珀色の…………光は、俺の眼前に小さな人型のシルエットをくっきりと形作った。
影を穿って、琥珀色の眼差しが強烈に俺へ差している。
俺は逆光を背負ってムカつく程に堂々と立つ、強気な、生意気な、居丈高なその少女の姿に、歓喜の声を上げた。




