159-3、重なる傷と慟哭。俺が夜に置き去りにされること。
顎門が弾かれたように火蛇から離れ、一目散にジューダム王の元へと走る。
王は崩れた瓦礫に寄りかかり、貫かれた胸を押さえて俯いた。
「やった…………のか?」
俺は傍にいるヤガミに問いかけた。
彼は辺りに渦巻かせていた泥水をバシャリとその場で散じさせ、折れた剣を地面に突き立てた。
ひどく息を荒げている。
乱れた前髪に遮られて顔色は窺えないが、危険な状態なのは間違いない。
「ヤガミ!? 大丈夫か!?」
「…………ジューダム王は?」
血走った目に気圧され、俺は言葉を飲んで王を見やる。
王の胸からは夥しい量の血が溢れていた。苦しむ様子は肉体と同様か、それ以上ですらある。
しかし、完全に彼を打ち倒すことはできなかったようだ。
俺とソラ君で放った白い矢は、王の胸元で力強く握り締められていた。
ソラ君…………俺を導いてくれた白く輝く魚の気配はもう失せている。
王は歯を食いしばって胸から鏃を引き抜くと、そのまま握り砕いて破片を風に流した。
「…………」
王の瞳を、俺は見つめ返す。
人は眼差しをこんなにも激しく燃やせるものか。
そうしている間にも、王の胸の傷はみるみる塞がっていった。細胞一つ一つの生まれる音すら聞こえるようなその有様に、悔しさよりも恐怖を覚える。
王は蒼く透き通った顔で俺へ言葉を投げた。
「貴様…………何を見た? 見るな…………その目で俺を見るな!!!」
灰青色の瞳は今までに増して荒っぽく濁っていた。血と泥にどっぷりとまみれたその眼は、それでもどこかに鈍い光を執拗に潜ませている。
泥中に埋まった小さなガラス片の主張から、俺はあえて目を逸らさなかった。
「知らねぇよ。…………なぁ、もういい加減にしようぜ。…………こんなやり方を続けてもお前の首が締まるだけだぞ!」
ジューダムの戦のやり方は、おかしい。残酷に全てを喰らい尽くして、なおも止まらない。
それをずっと続けてきた者達にとっては、当たり前のことなのかもしれない。それなりの誇りすらあるだろう。
…………だが。
「お前には無理だろう!? でなきゃ、共力場があんな景色になるわけがないんだ!! 間違ってんだよ!!」
「貴様に何がわかる…………!? たかが一瞬、ほんの隙間を覗いただけで…………俺を何もかも理解したつもりか!? …………ふざけるな!!」
「わかんねぇよ!! わかんねぇけど…………」
言葉を遮って、ヤガミが俺の手を掴む。
冷たく湿ったその異様な感触に、俺は息を飲んだ。
ヤガミは血濡れた顔を上げると、痛ましげにその目を細めた。
「…………コウ、無駄だ」
「でもお前だって…………」
「ああ、お前の言うことは正しい。よくわかってる。けどな…………」
ヤガミが激しく咳き込む。
フレイアは俺達から一歩離れて、火蛇を周囲に舞わせたまま王と顎門を睨んでいた。
顎門は王から離れず、同じく獰猛な目つきでフレイアを警戒し続けている。
硬直状態の中、王がまるでヤガミの言葉を継ぐみたいに話した。
「…………言ったはずだ。この戦は、最早お前の手には負えないと。
何かが誤っていたというのなら、その始まりからして全てが誤っている。今更、何かを変えることなどできはしない。俺達が生まれて生き抜くために…………ただそれだけのために、一体どれだけの魂を費やす必要があるか、お前にはわかるまい!
…………何も知らずにほざくな。例え俺が間違っていようが…………世界は正しい」
王の魔力が辺りを落雷の如く震わす。
黒い魚の叫びがサンライン中に轟いて、力場はさらに険しく緊張した。
力場に潜ろうにも、肝心のヤガミが命の瀬戸際にあってはこれ以上の負荷はかけられない。
フレイアが火蛇を、大きく広げて燃え上がらせた。
煌々と輝く紅玉色の瞳が火花を散らせる。レイピアの刃に映った炎が、顎門を誘って揺れた。
王は掠れた声で言った。
「貴様は我が弟の魂までも利用した…………。その冒涜を、俺は断じて許さない。それが他でもない、俺と同じ世界の残渣たるお前の仕業であるなら、猶更だ。
…………下賤な魔術師め。魔海の塵となれ」
王の周囲に赤黒い魔法陣が輝く。
詠唱一つなく一斉に生まれ出た白い腕達が、俺達ではなく顎門へと向かっていった。
次の瞬間、顎門は片っ端から腕達を喰い千切り、路地を文字通り血の海へと変えた。
フレイアが瞳を大きくして顔を引き攣らせる。レイピアの柄を握り締める手が、微かに震えるのを見た。
「…………ジーク! シグルズ!」
フレイアの呼びかけに火蛇がさらに激しく燃え、白熱する。
顎門は垂れ落ちる血で全身に細かな紋様を浮かび上がらせ、その巨体をより大きく、魔人の頭をも一飲みにできる程の大きさへと肥大させた。
力場全体を、心臓の鼓動に似た強い律動が包んでいる。
サンライン中のジューダムの兵士から血が流れ込んできているのか。顎門の紋様が拍動ごとに輝きを増していった。
「下賤な魔術師」と俺を罵ったお前は、一体何をしている?
これは…………ジューダムの兵にとってすら、道を外れたやり方なんじゃないか?
俺達だって「銀騎士」を使った。でも、これは違う。これではあまりに残酷だ。
そうまでして、お前は、何を…………?
せり上がってくる恐怖に、言葉が浮かぶより先に沈んでしまう。
そんな俺の隣で、ヤガミがか細いながらも息を整えて立ち上がった。
「! …………おい」
俺が肩を支えると、彼はまたこちらを仰いだ。
疲れて擦り減った灰青色は、不思議な澄んだ丸みを帯びていた。
「…………あのさ、コウ」
「何だよ? もう無茶は言うなよ、頼むから…………。俺とフレイアで、きっとどうにかするから…………」
「楽しかったぜ。…………最後だから言うけど、俺、人生で一番楽しんでた」
「最後…………って、何言って」
「本当に楽しかったんだ。ガキの頃が人生最高で、もうあれ以上は無いって諦めていた。あとはもう消化していくだけって、本気で思っていたんだ。変わろうとする気力さえ、あのままだったら一生湧いてこなかったと思う。
ありがとうな。…………今まで我儘ばっか言って悪かった。ぶっちゃけ結構ムカついてたろう? …………でもお前、いっつも付き合ってくれるんだよな。どんな無茶振りでもさ…………俺以上に、無茶苦茶で…………」
「喋るな! それ以上、聞きたくない!」
強く睨むも、ヤガミは微笑んだだけだった。
「…………俺はお前が好きだよ。…………結局、一番楽しいんだ。どれだけ痛くても、苦しくても…………いつだってお前が壊してくれるんだ。…………お前が、勇者なんだよな」
突き立てられていた剣が、地面から離れる。
ヤガミはその刃の先へ、腹から流れ出る己の血を集め始めた。
ゆっくりと、顎門の拍動とまるで同じリズムで刃が研ぎ澄まされていく。
「おい!! 何してんだ!? 止めろ!!」
血はみるみる剣へと形を変えていく。
本気で掴みかかろうとしたその刹那、ヤガミはふと苦しみを忘れたような柔らかな目をした。
「もっと遊びたかったな。…………自分でも呆れるよ。ガキのまんまだ。ずっとずっと遊んでいたかった。…………永遠に夕暮れの中にいたかった」
真っ赤な刃が、王へと向けられる。
ヤガミはどこに残っていたんだという力で俺を突き飛ばし、言った。
「戯言終わり! …………俺の分のラーメンはフレイア師匠に奢ってやってくれ! どうせ気に入るからさ」
「おい、馬鹿言ってんじゃねぇ!! ふざけんな!! ふざけんな!! ふざけんな!!!!!」
王の眼差しと、ヤガミの眼差しが交わる。
振り抜かれた血の刃が辺りに霧となって弾け、彼と王とを赤い力場に包み込んだ。
それは丁度、時計の長針と短針が重なるみたいにピタリと二人の時間が揃った瞬間だった。
ヤガミから王への声が、霧を震えさせた。
――――まったく…………馬鹿だよ、お前。大馬鹿だ。
――――死ななきゃ治らない。
傲慢で不敵な笑みが、最後に滲んだ。
――――肉体が欲しいんだろ? くれてやるよ、そっくりこのままな。
――――これで晴れて一つ、元通りだ。
――――…………なぁ、ヤガミ・セイ?
ヤガミが、王と溶け合う。
「ジューダム王」は腹を押さえて蹲り、直後、怒りに吠えた。
「――――――――貴様ァ!!!!」
魔力か、憤怒の叫びか、鼓膜に突き刺さるものの正体はわからない。
転がり出てきたフレイアが、俺を抱えるなり路地から飛び出した。
「フレイア!? 何で逃げるんだ!? ヤガミが、ヤガミが…………!!!」
フレイアの紅玉色の瞳が頼りなくくすんで、またすぐに強く炎を灯した。
「だからです!!! 今のコウ様に…………貴方にあの方は殺せない!!! …………私にも!!!」




