159―1、滅びし世界の残火。俺が幻の過去を聞くこと。
フレイアが颯爽と血を払い、剣を収める。
流れるような手慣れた所作に、俺は見惚れるやら感心するやら。安堵と喜びに全身の力が抜けていく気がした。
彼女は俺とヤガミの方を向くと、誇らしげに微笑んだ。
「…………霊体の消滅を確認いたしました。呪いも魔術も、もう心配ありません」
呼吸をゆっくりと整えながら、フレイアが戻ってくる。
彼女は俺の無事を素早く確認し終えた後、ヤガミに言った。
「…………随分とご無理をなさいましたね。それだけ深い傷の処置は、この場では厳しいです」
「…………刃についた血を払うの、時代劇みたいだったな。本当にやってるの初めて見た」
「ジダイゲキ?」
怪訝そうに眉を顰めるフレイアに、ヤガミは苦笑しつつ言葉を続けた。
「何でもない。それより王の元へ急ごう」
「馬鹿言うなよ!」
目を剥いて怒鳴る俺に、ヤガミは最早苛立ちすら見せず淡々と返した。
「王に攻撃を通すのは容易じゃない。ヤツの力場に直に潜れる俺が必要だ」
「そんなの、ヴェルグにでも頭下げてどうにかするよ! どうせ全部見ているんだから…………! とにかく、お前はマジでもう本当に下がっていろ! この期に及んで反抗期みたいな強がりは止せ!」
灰青色の瞳が心底面倒そうにこちらを睨む。
蒼ざめ、冷や汗すら乾いた彼の顔は見ているだけでもゾッとする。
俺は畳みかけて訴えた。
「とにかく…………今の助太刀には感謝しているけど、ここまでで十分だから。フレイア! 早く救護の人を呼んでこの馬鹿野郎を連れて行ってもらおう」
「そうですね」
フレイアが頷き、味方に連絡を届けようと念話を試みる。
顰められた眉にさらに険しく皺が寄ったかと思うと、彼女はふと集中を取りやめ、剣の柄に手をかけた。
「フレイア…………?」
一拍遅れて、俺も気配に気付く。
ヤガミが低い声で呟いた。
「…………どうやら駄々をこねるまでも無いようだ」
漂っていた霧が、まるで道を開くように晴れていく。
薄れゆく霧へと馴染んでいく大鮫のシルエット。霧の狭間から現れた男は、俺達と正面から向き合った。
たなびく漆黒のコートの裾が、物悲しい月光をほのかに照らし返している。
水銀じみた重い眼差しが夜の底に深く沈み込む。ヤガミのそれと同じ色をした瞳は、やがて俺へと突き付けられた。
「…………しつこい虫共だ。いくら叩いても性懲りもなく息を吹き返す」
火蛇が大きく旋回しながら、俺達を囲う。
フレイアの紅玉色の瞳が再び強く火を熾し、燦然と息を吹き返す。彼女の身体中の傷が歯ぎしりするみたいに血を流したが、その横顔は依然、凛としていた。
ヤガミが乱れた髪を額へ掻き上げ、長く息を吐く。
路地にぶちまけられたヘドロがズルズルと巻き上がって、彼の折れた剣の刃を歪に形作った。血やら砂やらがたっぷりと染み付いた泥の塊は、何か黒とも言いきれない奇妙な色を宿している。
俺は王を見つめ返す。
ヤガミの力場は、とりもなおさずアイツの力場でもある。
言うなれば直接対決だ。
フレイアが顎門の相手をしている間に、俺達はアイツと決着をつける…………!
ヴェルグ…………あの魔女には、頼るべきだろうか?
そもそも、今いる戦力を考えたら縋らない選択肢などあり得ない。フレイアは強がっているだけで、激戦続きで最早限界に近い。ヤガミに至っては、限界と呼ぶのすら躊躇われる程なのだ。
だが…………。
「…………コウ、止せ。…………嫌な予感がする。わかるだろう?」
ヤガミが囁く。
俺が黙殺して、それでも彼女へ呼びかけようとした時、見越したように王が言った。
「無駄だ。あの魔女はすでに力場に力を与えている。…………でなければ、俺の顎門がとうに貴様らを喰い殺していた」
「何…………!?」
淀みない口調は、決してはったりとは聞こえなかった。王は怯む俺にとりわけ軽蔑めいた眼差しを送り、フレイアへと目を移した。
「ローゼスを倒したか。…………つくづく、葬ってしまうには惜しい剣士だ。いずれは蒼の剣鬼にも劣らぬ使い手にもなり得たろうものを」
「…………そう仰いますからには、貴方からはもう少し手応えを頂けるのでしょうか?」
火蛇が火炎を躍らせ、その身を大きく威圧的にうねらせる。
何かを探るような火蛇達のまなこが、俺には大胆な煽り以上に不安に思えた。霧に溶けた顎門の居場所がまだわかっていないのか。
王は目を細め、ヤガミを睨んだ。
退屈と失望…………怒り、憎悪。
剥き出された感情が、鋭い光を放った。
「…………まだ生きていたのか」
「お陰様で」
隣から窺えるヤガミの表情は、控えめに言って死人一歩手前だ。
それでも何かを虎視眈々と狙う瞳の奥の諦めの悪さが、王を刺激したようだった。
「肉体とは醜いものだな。…………望み通りだったか、貴様の旅は…………? 己が、まだ腐っていないだけの肉の塊だと知るためだけの、くだらない冒険譚は?」
ヤガミが小さく息を吐き、出せる限りの声で答えた。
「…………お前の記憶を見てきたよ。俺とお前の力場の中でな。…………小さな、白い魂が導いて見せてくれた」
王が固く口を引き結ぶ。
眉間に寄せられた深い皺が、俺の昔の記憶からそのまま蘇ってきたみたいだった。
灰青色の眼差しは混じり合い、濁り淀む。一体どちらが鏡の内で外なのだろうと、そんなことが頭の片隅に浮かんで音も無く消えた。
話すヤガミの口調は、淡々としていた。
「「王」の力場は随分と居心地の悪い代物だったが、お前がジューダムで過ごした十年も同じくらい不快だった。…………俺とお前が別人になるには、十分な時間だ」
何があったのか、俺は尋ねたくて堪らなかった。
十年前と言えば、俺がアイツを刺した時だ。あれから後の、ジューダムの王となったアイツの話。
あの日から、ヤガミと王の世界が分かたれた。あーちゃんが「勇者」の力で世界を全く新しく創り直して、二つの運命が生まれてしまった。
あれ以来ヤガミは、横浜の親戚の元に預けられて生きてきたという。ただの地球の人間として、ジューダムのことも魔術のことも全く知らずに、自分の母親…………ユイおばさんの正体さえ知らずに、会ったことも無い父親のことを「いない」と言い切って…………。
「正体」という言い方自体が、おかしな話になってしまっていたのだ。
ヤガミの中では…………いや、むしろ世界の中では、全部が「真実」に他ならなかった。
あーちゃんの力が、世界をそのように創ったから。
あどけない子供だったあーちゃんが、来ると信じ切っていた当たり前の「明日」。
唯一、俺だけを痕跡として残して、彼女が思い描いた以外の世界は跡形もなく崩れ去った。
ヤガミは呼吸を整えている。
その間、王から目を逸らすことはなかった。
「世界が崩壊したその日――――お前はジューダムにいた。先代の王…………お前の父親に連れ去られ、囚われていた。内乱で死んだ他の王子に代わって、「王」を継ぐために」
王は身じろぎもせず聞いている。
苛立ちが目元に皺を作っているが、止めようとする様子はない。
俺もまた口を挟めなかった。灰青色の冷たさに、足も咽喉もすっかり浸されていた。
「…………一度国から逃げたお前を「王」とするためには、償いが必要だった。お前の世界では、母さんと弟は病気で死んだのではなかった。
先代の王が…………脱走の見せしめと、王子「誘拐」の罪で…………殺したんだ。魔海にも還さない、呪わしいやり方で…………」
血の味が舌に染みる。ヤガミと編んでいる共力場のせいだろう。
ぬめる鉄の感触に、俺は思わず口を拭った。
ヤガミは王を見つめている。火蛇の舞わせる火の粉が、二人の間をチラチラと照らしている。
静か過ぎる力場が、肺に泥を積もらせていくみたいだった。
「世継ぎの儀を避けるため、お前はかろうじて肉体だけをオースタンへ逃がした。だが…………長くは逃げられなかった。…………お前が独りで生きていける世界なんて、どこにも無かったんだ」
じわりと脳裏に記憶が滲む。
かつて一度だけ見たアイツの涙が、邪の芽につけられた手のひらの傷を伝って血となり、路地に垂れる。
幻想のはずの赤い雫は、どうしてなんだろう。やけに鮮やかに見えた。
ヤガミの話は続いた。
「お前はすぐに捕まった。…………しかし、王は見誤っていた。お前は俺と同じで…………「王」の力を、肉体からでも扱うことができたんだ」
今となっては、もう俺とアイツの内にしか残っていない世界の痕跡がまざまざと蘇る。
あの夕焼け。
あの血雫。
あの日、アイツは…………。
「お前は父を殺し、新たな「王」となった。…………皮肉な話だ。お前はお前の手で王座を奪った」
王殺しを偶然にも目撃してしまった、あーちゃん。
あーちゃんに呼び出されて、あの高台へやってきた俺。
ジューダム王が初めて、口元を歪ませた。
「…………いつまで話し続ける気だ? 死ぬまでか?」
ヤガミが笑う。
彼は嘲りの色をたっぷりと瞳に込めて重ねた。
「ふん、やっぱり隠したいのか。この期に及んで…………。…………お前はずっと、同じものに怯えて、縋っているんだな」
王が血の気の無い手をヤガミへと向ける。様子を見守っていたフレイアが、火蛇の炎の勢いを強くした。
「ヤガミ様!! お気を付けください!!」
「わかってる」
背後からたくさんの白い腕が伸びてくる。
火蛇がそれを一気に焼き払ったのと同時に、正面から大鮫・顎門が飛び出してきた。
ヤガミが地面に泥の刃を擦らせ、砂を跳ねさせる。
俺は顎門が一瞬逸れた隙を狙って、ヤガミの…………王の力場に飛び込んだ。
――――――――…………水面にたくさんの輪が広がる。
泥の雨粒が、水面の内にも外にも激しく降り注いで、飛沫を立てる。
白く小さな、半透明の魚が、素早く視界をよぎって水面を突き抜けた。




