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157-2、選択の時は訪れる。俺が究極の誘惑に駆られること。

 クラウスの咽喉を掻き切った切っ先は、そのままフレイアへと襲いかかった。

 フレイアは咄嗟にレイピアに片手を添え、狂える銀刃を辛うじて受ける。


 飛び散った火花が眩しい。

 俺は倒れたクラウスの傍に寄り、改めてどうしようもない現実を目の当たりにした。

 夢であってほしい…………何かの間違いであってほしかった。


 だが、魔術の世界はそれであればこそ一層残酷に、彼の死が決して幻ではないという圧倒的な虚無と無音とを俺に突き付けてきた。


 クラウスの肉体から、まだ熱い血が無情に流れていく。

 赤い川は路地の上を幾筋もに枝分かれしながら、ヘドロのたっぷりと詰まった側溝へと垂れていった。

 後には白い鎧が冷たく輝くばかり。


 フレイアの苦しそうな息遣いが聞こえる。


「くっ…………!!!」


 ローゼスの剣圧に押され、フレイアが地を滑る。


「ジーク!!」


 フレイアが名を呼ぶと、火蛇の一匹はすぐさま俺の元へとやってきてベールを張った。


「フレイア…………! 今は…………!」


 今は俺なんか放っておけ、とは言えない。

 さっきの黒い魚の咆哮で産まれたばかりの異形の牙の魚の群れが、唸り声とも叫び声ともつかない奇妙な鳴き声を上げてこちらへ押し寄せてきていた。

 彼らは世界のあらゆるものを満遍なく喰らい尽くす。


 どうする…………!?


 とりあえずクラウスの剣を手に取り走り出す。

 ズシリとくる金属の重さが、心強さよりもむしろ不安を掻き立てた。こんなものを振り回して駆けずるなんて、俺にはとても出来そうもない。

 だけど、このまま置いておいてもしょうがないんだ。

 ごめん、クラウス。…………。


 そうこうする間にも、フレイアとローゼスは熾烈な攻防を続けていた。

 自らの剣を滑らせ、フレイアは思い切って刺突へ出る。

 翻ったローゼスの剣がさらにフレイアを追い詰めるも、フレイアは竜巻じみた風を纏う彼の刃を火蛇の渦で相殺し、いなしざま低い姿勢から空いた相手の脇へと突きかかった。


 ローゼスがすかさず飛び下がる。

 フレイアが間髪入れず追撃する。


「シグルズ!!」


 彼女の剣から火蛇が飛び掛かり、ローゼスを囲う。

 鋭く短い詠唱が路地に響く。

 刹那、凄まじい閃光が辺りを眩ました。


「…………っ!」


 俺と共に、集ってきた牙の魚までもが一斉に身を固める。

 直後、フレイアは全身をバネにして飛び出し、ローゼスの喉元に刃を迫らせた。

 火花が力場を砕く。

 ローゼスは自らの剣を盾にして、危うくフレイアの一撃を防いでいた。


 だが、火蛇は未だローゼスの元にいる。

 フレイアの紅玉色の瞳は、その眼差しそのものがローゼスを炙る炎と化している。

 火蛇はローゼスの腕へ素早く巻き登ると、剣を持つ手と刃を鮮やかな火柱で包んだ。


 よろめくローゼスに、フレイアが猛然と打ち掛かる。

 炎上しながらもなおも剣にしがみ付く…………声一つ漏らさず、断じて振ることを止めぬローゼスに、彼女は躊躇なく斬り込み続けた。

 火柱はローゼスの操る風とぶつかり合い、悪魔じみた唸り声を上げて火の粉を飛ばす。


 息もつかせぬせめぎ合い。

 薙ぎ、払い、打ち、突く。

 火花は途切れない。

 ローゼスはフレイアの多彩な攻撃を搔い潜り、機を突いては鋭い一撃で周辺の建物を打ち崩し、自らの領域を保ち続けた。


 巻き上がる粉塵に、火蛇の火の勢いが若干弱まる。

 フレイアが自らの刃に蛇を呼び戻したその刹那、一瞬足場を取られたフレイアの攻撃が止んだ。


 ローゼスはここぞとばかりに刃を冷たく研ぎ澄ませ、刃上を流れる風をかまいたちの如く、フレイアに向かって投げ放った。


「――――!!!」


 咄嗟に火蛇のベールがフレイアの身を守る。

 が、風刃の全てを防げはしなかった。


「フレイア!!!」


 フレイアは身を転がし、風刃の下を潜り抜ける。

 彼女のふくらはぎを数筋抉って、刃はようやくおさまった。


 ローゼスの銀の刃に再び風が集い始める。

 いつしか差し始めた月光が、ローゼスの兜の目庇を妖しく光らせ、その下にあるはずの眼差しを、より黒々と淀んだ闇の内に潜ませた。


 先程火蛇が放った閃光を恐れて、一旦は遠巻きに怯んでいた牙の魚達がまたこちらへ集まって来る。

 ローゼスは突進してきた一匹を横薙ぎに斬り捨てると、他の魚達を一切気に掛けず、血濡れた剣をまっしぐらにフレイアへと向かわせた。


 フレイアは即座にレイピアで応じる。

 が、踏ん張りのきかない身体はわずかに崩れる。

 ローゼスは獲物をゆっくり締めあげる大蛇の如く、そんな彼女を追い詰め、捩じ上げ、苦しめた。

 迸る魔力は残虐な喜色を滲ませ、朧月をじっとりと陰気に湿らせる。


 フレイアの下腿の傷から鮮血が噴きこぼれる。足先へと伝う血の筋に、俺は自分の血まで失われていく心地がした。


 ああ、どうにか力になれる方法はないのか…………!


「――――っ、いけない!」


 我に返ると、すでに俺の方にまで牙の魚が押し寄せてきていた。

 俺を守ってくれている火蛇(ジーク)が、喰らい付いてきた魚の牙を弾き、微かな火花を散らせる。

 まずは自分の身を守らねば…………!


 ひとまず瓦礫の隙間に逃げ込めば、いっぺんに飛び掛かってこられることはない。上空からの襲撃にも警戒しつつ、俺は戦場を小動物のように逃げ惑った。


 逃げながら…………崩れた建物の中や、ヘドロの残骸を渡って這い回りながら…………俺は反撃の糸口を探していた。


 フレイアとローゼスの戦いの様子は何とか窺える。一進一退の攻防は、どうやらローゼスの優勢であるようだ。

 次第に見ている俺の方に焦りがこみあげてくる。

 フレイアの怪我から滴る血の跡が路地のあちこちに染みをつける一方で、ローゼスは着実に、執拗に、獲物をいたぶっている。


 黒い魚の魔力が、またぐんと強まった。

 街中の死者と生者の悲鳴が混じり合い、耳を聾する。

 氾濫するヘドロに飲み込まれた魂が、必死に何かを求めて暴れ喘いでいた。


 瓦礫を潜り抜けてきた小柄な牙の魚を火蛇が炙る。俺はその死体を喰らいに群がってきたさらに小さな魚を、クラウスの剣でがむしゃらに斬ったり刺したりしてどうにか追い払う。


 だが…………。



 ――――――――…………俺は意識の半ばを力場に潜らせながら、ただならぬ気配の蠢きを感じ取っていた。

 上陸した黒い魚の叫びが、質を変えてきている。


 混沌と絶望の大波が、一つのうねりを成し始めていた。どこへ向かう「呪い」なのか、俺にはわからない…………いいや、わかりたくない。

 ほとんど予知に近いような予感が、きっとこの地の誰もの胸に芽吹いている。

 ただ、誰もそれを言葉にできない。


 太母の護手達の描く魔法陣が夜空に赤黒く冴えていた。迷いのない真っ直ぐな線の輝きが、超然とした静寂を街に降り注いでいる。

 分厚く天を覆っていた雲はいつ、どこへ消えたのだろう?

 不気味な程に穏やかな星の瞬きが、何か途方もなく邪悪な囁きかけに聞こえた。


 もう二度と明けないかもしれない夜を、牙の魚の大群が泳いでいく。

 千切られた無数の魂の叫びは悲鳴となって、黒い魚の咆哮に吸い込まれていく。

 異形の魚の声は、とりわけ強く黒い魚と響き合った。


 リーザロットはどうしているだろう?

 彼女の気配が途絶えていることに、今の今までどうして気付けなかったのか。

 耳をすませば、遠いさざ波が聞こえてくる。魔海の波打ち際で、誰かが泣いている…………。


 …………ヴェルグは何をやっている?

 イリスやリケのなりふり構わない虐殺が、魂の混沌を爆発的に賑やかしている。

 サンラインの民もジューダムの兵も取り込んで暴力的に膨らんでいく黒い想いは、黒い魚の痛みとなってやがて発露する。

 アイツはなぜこんな状況を放っておいている?


 こんな風になるのは、ヴェルグにはわかりきっていたはずじゃないか。

 俺にはむしろ…………アイツこそが、他の誰よりも黒い魚をけしかけているように見える。

 ジューダム王も、太母の護手も…………このサンラインすらも、本当はアイツにはどうでもいいことなのではないか…………?


 そうだとすれば、あの魔女の狙いは…………――――――――。



 空を真っ二つに斬り裂いて、痛ましい悲鳴が落ちた。

 またどこかで大きなヘドロが弾けたのだろう。ひどい悪臭がこの路地にまで漂ってくる。

 そのうちに空を行く異形の魚群が、まるで追われるように一斉に群れを割って退いていった。


「な…………何だ!?」


 俺は瓦礫の隙間から空を仰ぎ、そこで新たに産まれ出でた魚を目にして絶望に打ちひしがれた。


 夜空の中で夥しく羊水を滴らせていたのは、ジューダム王の顎門をも一飲みにしてしまいそうな、本当に巨大な牙の魚であった。

 双頭の、硬い岩のような鱗に頭部を覆われた魚が、こちらを見下ろしている。


 恐怖はそれだけではない。

 崩壊した建物の上に立っているローゼスの背後には、双頭魚と同じだけ大きな人の姿がそびえていた。


「…………魔人…………」


 大きく乱暴に息を荒げた、岩壁じみた肉体を誇る魔人が、目を血走らせて立ち尽くしていた。

 フレイアは紅い瞳を大きく燃やして、全ての敵を見据えている。大きく揺れ動く肩が、緊張と気迫で微かに静まった。


 血の滴る音が雨音みたいにあちこちから聞こえてくる。

 魔人はタリスカが相手取っていたはず。それがどうしてここにいるのか…………。


 …………考えたくない。

 握り締める剣の重さが、何十倍にも何百倍にもなって圧し掛かる。


 悲鳴の満ち満ちる戦場とは対照的に静かな夜空を、魔法陣が呪わしく澄み渡らせる。

 黒い魚の率いる混沌が、いよいよ大きな一つの渦を巻きつつあった。


 俺の内側――――ほんの薄皮1枚皮膚を隔てたところで、カッターの刃を引き延ばす場違いに軽い音が響く。

 これまでになく最高に慕わしく無邪気な邪の芽の笑顔が、俺に息を吹きかけた。



「…………手を伸ばせよ。

 終わりをこのまま待つのか? それとも、踏み出してみるか?

 選べよ。

 …………さぁ」



 震える唇を噛みしめると、錆びた魔力の味が口いっぱいに浸みた。

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