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155-1、慟哭の黒い魚。俺が生命の輝きに翻弄されること。

 黒い魚が吠える。

 …………泣いている。


 それは魂の声そのものだった。

 この世界に渦巻く、ありとあらゆる命の、その片割れとして生み出された巨大な獣。

 発生の根源は今やサンラインだけに留まらないだろう。あの魚はジューダムの命さえも搔き集めて、魔海の奥底から吐き出された。

 海も天もひび割れさす絶叫が、ひたすらに物悲しい。


 実際に魚を呼んだのはナタリーとレヴィだ。でも、決して彼女達だけじゃない。

 そもそもそれが目的であった太母の護手達はもちろんだけど、それ以上に、この戦で散った数多の魂がこれを願った。


 さながら呪術の力場の如く…………というか、まさにそのものなのだが…………世界の終わりを思い描き、さらにはその先の救いに縋ろうとして果たし得なかった絶望が、こうして黒い魚を顕現させてしまったのだ。


 そして、呪いは増幅する。

 今、圧倒的な混沌を目の当たりにして、力場はさらに狂乱の度合を強めていた。


 海はコールタールのように粘つき、色を失っている。

 ずぶずぶとうねる波の合間から、くすんだ銀色と大蛇の鱗が鈍く、頼りなく輝いていた。


 空は暗い。無防備なまでに澄み渡っていた夜空は見る影もなく、のっぺりとした暗澹たる黒だけが一面に広がっている。

 わずかに薄い黒を滲ませた雲が、力無く散り散りに漂っていた。

 星は死んだのだろうか?

 何も見えない…………聞こえない。


「…………フレイア、戻ります」


 フレイアが薄い氷片で作られた足場を駈け上り、こちらへ戻ってくる。氷片はすぐに砕けて粉状に散り、辺りを一瞬ばかりほの白くきらめかせた。


 火蛇が鮮やかな火の粉を散らし、俺とリーザロットとを守るように旋回する。

 フレイアは俺の様子を確認しつつ、すぐさまリーザロットへ告げた。


「蒼姫様、ご警戒を。ジューダム王です」

「ええ」


 紅と蒼の眼差す先に、灰青色の二つの光がふっと揺れる。

 初めは微かに、そして急激に増してきた衝撃的な魔力の圧に、俺は息を詰まらせた。


 顎門のシルエットが不気味にタールの海を滑る。

 彼は大量の血肉を飛び散らせて水面から跳ね上がると、闇をくぐるようにして姿を現したジューダムの王の周りを大きく巡り、黒く虚ろな悪魔の目を俺達へと向けた。

 銀騎士達が付けたはずの傷はもうほとんど塞がり、争いの中で欠けていた牙も、元通り白く研ぎ澄まされている。


 ジューダム王は俺達を静かに見つめ、釣鐘の残響じみた、低く響く口調で言った。


「――――…………手品はこれで終いか?」


 そう問う王の目は、俺へ向いている。

 憎しみに満ちた昏い瞳は、錆びた金属片を最奥に潜ませていた。わずかな滲みすら許さない、冷たい静寂が表面に張り付いている。


 彼は黒い魚へと目を移し、そびえる巨体を仰いだ。


「…………太母の護手共は、この獣を「母の大きな御使い」と呼ぶ。これがこの地に終焉をもたらすだろう。…………もう一匹の獣、「歌う御使い」の力のみが、これを御しうるが、今となってはそれも貴様らには叶うまい」


 俺は前に出て、王に怒鳴った。


「ナタリーとレヴィをどこへやった!?」


 王は冷ややかに俺を見、魔法陣をうっすらと正面に描きながら続けた。


「あのクジラと導き手、この黒き魚、そしてこの魚が慕うもの…………もう俺には全く関心が無い。俺が欲するは()の扉、唯一つ…………。

 俺達はただ、満ちるまで喰らう。

 「主の御心のままに」。

 それこそがジューダムの戦…………在り方だ」


 魔法陣が真紅に妖しく輝き始める。

 ジューダム語の詠唱が、意味を成して突き刺さってきた。



「――――――――我は冥宮の「王」。

 ――――――――昏きより来たりて、喰らうべきを示す。

 ――――――――渇望と思慕の業を、この身をもって贖わん。

 ――――――――目覚めよ、我が血族!

 ――――――――汝らが主との契約を、遂行せよ!」



 爆発的に高まる魔力が俺の咽喉を抉る。リーザロットの瞳が蒼く燦然と輝き、フレイアは火蛇のベールを二重に白熱させた。


 俺は目を見張って、思い切って意識を解く。

 どこまでも飛んでいけるように。風にでも、海にでも、溶け込めるように…………――――――――!



 ――――――――…………灰青色の湖が遥かに広がり、白い光をほのかにくゆらせる。

 蠢くたくさんの白い腕が――――到底俺の言葉では描ききれない多彩な命が、一斉に花開いて力場に魔力を迸らせた。


 それは、殺意と呼ぶには無邪気だった。

 例えるならまるで、波打ち際で遊ぶ飛沫のよう。


 彼らに抱き込まれた黒い潮流が、たちまち灰となって彼らの腕を彩る。

 彼らが唸らせる風は、金臭い血の匂いを色濃く帯びていた。

 吹き荒ぶ寒気に肺と脳がジンと痺れて締め付けられる。追って細かな、砂粒のような金平糖の雨が舌の上をバラバラと走った。


 それが過ぎると雪が降りしきる。

 いつの間に海は干上がった? 俺達はいつの間にかひどく息苦しい、深い霞のかかった空間に包まれていた。


 雪の勢いがみるみる増して、吹雪へと変わるのにそう時間はかからない。

 王の姿も、兵達の姿も、あっという間に窺えなくなった。

 空はうんと濃い灰色に覆われ、鳳凰の雲は押し潰されるみたいに分厚い乱層雲に飲み込まれた。


 火蛇の熱がじぃんと肌に伝わってくる。フレイアが目をギラつかせて、辺りを睨んでいた。一体何が起こるというのか。

 雪雲の彼方から鳳凰の鳴き声がした。

 大蛇達の気配が弱い。眠ってしまったみたいに平らかな呼吸音だけが、降り積もった雪の下の大地から微かに漏れてきた。


 傍らのリーザロットが何か呼びかける。

 すると俺の前に、白々と冴える鎧姿の勇壮な騎士達が現れ出た。

 大半は銀騎士のようだったが、中に一人、一際ガタイの良い騎士が混ざっている。大仰な兜の下には皮膚の厚い毛まみれの獣の顔。鼻先の一本角が目立って頼もしい。

 彼は…………人間か?


「扉の魔術師様をお守りしてください」

「合点承知、姫様!」


 獣騎士の野太い声に、俺は瞬きする。

 応じた騎士はこちらを振り返って兜の目庇を上げると、チャーミングな皺をたっぷりと湛えた獣の目で俺にウィンクした。


「どうも、デンザです!」

「ああ!」


 精鋭隊員の、サイの頭をしたオジサン。彼もいたのか。

 リーザロットが、俺が挨拶を返す間もなく彼に尋ねた。


「デンザ。紅の主のご様子は?」


 デンザは目庇を下げると、向き直って自慢のハルバードを構えながら答えた。


「海岸線を放棄し、サン・ツイードへ。…………健闘しておられますよ。私がおらんでも、まぁ問題無い…………むしろ、静かになって良いと」

「そう。…………ウィラック先生は?」

「グレン様の補佐に。魔人共だけでなく、改造竜まで出てきましたんでね。スレーンの竜乗り連中がいなけりゃ、とっくに障壁は突破されていたでしょう」

「…………そう」


 リーザロットが重ねて溜息を吐く。

 彼女の指先が散らした桜色の花びらが、たちまち凍てついて砕け粉と舞う。桜色の風が一筋、霞の中を流れた。


「…………ジューダムの主力が相手です。くれぐれも油断の無きよう。…………フレイア!」

「はい!」


 リーザロットの姿が風の中へ消えるのを追って、フレイアが火蛇の輪をくぐり消える。最後に俺へ送られた眼差しに、目だけで健闘を祈り返す。

 残された俺は、デンザが高々とハルバードを振り上げるのを見た。


「さ…………来ますよ、勇者様! いっちょ派手にやったりましょうや!」


 大音声の詠唱と同時に、辺りに爆音が響き渡る。凄まじい閃光が差したかと思うや否や、吹き飛ばされた霧の奥から猛然と白い腕が襲い掛かってきた。

 デンザが地を叩き割らんばかりの踏み込みと共に、ハルバードを吹き下ろす。


「さぁ!!! 祭りだァ!!! ――――暴れようぜ、兄弟!!!」


 旋風となってハルバードの刃先が駆け抜ける。

 豪快に千切れ飛んだ腕の後ろから、さらに大勢の兵士が湧いて出てきた。


 デンザの号令に応じた銀騎士が雄叫びを上げて戦闘に乗り出す。

 彼らの身のこなしは今までよりも一層軽く、鋭く、苛烈で、本当に命ある騎士…………いや、命漲る猛獣のようだった。


 竜巻と化して並みいる敵を薙ぎ倒し、それでもまだ飽き足らず、デンザは四方八方に構わず大輪の花火を打つ。

 惜しげもない魔術の連続爆発に、俺の鼓膜はキーンと鳴りっぱなしだった。


「ちょ…………あの…………デンザさん! これだと、扉が…………!」

「ハーッハッハァッ!!! まだまだまだまだァーッ!!! よっしゃぁあぁぁぁあぁァァァァァァ――――ーッッッ!!!」


 ダメだ。フレイアやタリスカとは別の意味で聞く耳を持たない人種だ。

 俺は鳴りやまぬ爆音にフラフラとしつつも、どうにか意識を束ねて、辺りの景色に集中した。

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