154-5、目覚めた世界の詩。俺がこの世の果てと対面すること。
「外」の世界そっくりの海原。夜空がいつの間にか数えきれない星々をきらめかせている。
フレイアは海面を黒々と埋める牙の魚の死体を足場に、向かってくる大鮫へ剣を振るっていた。
と、フレイアと戦っていた顎門が急旋回し、こちらへ突進してくる。
迫りくる血濡れた巨体に息を飲んだ矢先、足元の魔法陣がふっと消えた。見やって初めて、俺は火蛇が魔法陣を縁取っていたとわかった。
リーザロットとフレイアの共力場はこうやって繋がっているのか。
感心する暇もなく、フレイアの尖った声が刺さった。
「シグルズ!」
火蛇が俺とリーザロットを囲い、白熱したベールを張る。
すかさずリーザロットが、高い波を立たせた。
短くも毅然とした詠唱に、止まった息が腹の奥へと吸い込まれていった。
「――――…………来たれ、我らが毒獣」
夜を映す水面が、刹那だけ静寂に包まれる。
その後、全身の血が内側から弾け飛ぶような衝撃と共に、黒い大蛇の群れが水底より現れ出た。
数えきれない真っ黒な口が開かれ、赤い舌を伸ばして牙を剥く。
間髪入れず顎門へと飛び掛かった最も巨大な大蛇の反対側から、フレイアも斬りかかった。
顎門は大蛇の牙を紙一重で躱したが、追ってフレイアが伸ばした一撃に貫かれ、背から血を弾けさせた。
身をよじって火の粉と血を振り払い、顎門が距離を取る。
リーザロットは蒼玉色の瞳を夜空のどの星よりも激しく燃やして、詠唱を重ねた。
「――――…………集え、我らが雲獣」
空をつんざく高い声に、海が、風が、一斉に震え上がる。巻き込んできた強風がどこからともなく分厚い雲を俺達の上空に搔き集め、たちまち鳳凰が形作られた。
空そのものの憤怒を体現したかの如く、鳳凰は猛る。
リーザロットが見下ろすと、鳳凰は顎門へ向かって急降下した。
顎門は血の尾を引き、全速力で逃げる。
フレイアが敢然と駆け、傷ついた大鮫の進路を断つ。
凍える風が力場に舞っている。ダイヤモンドのような雪結晶のきらめきが力場全体に満ち、リーザロットの詠唱が継がれた。
「――――…………戦え、我らが白獣」
ハッとして辺りに目が向く。
そこには「白い雨」の白銀の鎧をまとった騎士達が、剣や槍などを手にして大勢集っていた。
ただ、魔力は感じない。生きていれば当然伝わってくるはずの彼らの多彩な色が、ことごとく白く凍てつかされていた。
降りしきる雪結晶に覆われて、白い鎧は銀色に眩く光る。
やがてその存在が何なのかに思い至って、血の気が引いた。
彼らは「銀騎士」。
フレイアと旅立ったあの日、影の国トレンデでイリスが俺達に差し向けてきた魔物…………。
リーザロットは揺るがない眼差しで俺を見ると、冷静に話した。
「いいえ、コウ君。彼らは「守護霊」。…………愛する家族を守るための存在。遺灰と鎧と、祝福によって生まれる…………」
「遺体の…………灰…………」
それはあの燃える車輪が作り出したものか。
それとも、戦の中で炎に巻かれたものか。
リーザロットは答えず、言い継いだ。
「霊魂の想いを汲み、この雪をして彼らを鎧に繋ぎ止めています。…………さぁ、白き獣達よ――――我が主の祝福の下に、立ち上れ!」
銀騎士の大群が海を駈ける。
彼らはたちまち波に乗り、溶け、うねる。
顎門は鳳凰と大蛇達に追われ、フレイアの刃に刻まれている。
銀色の波が、無数の刃をかざしてそこへ降りかかった。
「――――――――…………ッ!」
顎門が串刺しにされる。
溢れた夥しい血に、俺はヤガミのことを頭によぎらせた。
彼の肉体の怪我のことを思ったのか、ジューダム王のことを考えたのか、咄嗟に判断がつかない。
…………アイツ、どこにいるんだ?
太母の護手に連れ去られたヤガミも、王も、気配が探れない。
ふいに黄金色の眼差しが俺を通り過ぎる。
黒いレースの擦れる音に気を取られたと思ったら、突如足元から強い衝撃が突き上げてきた。
波が煽られ、鳳凰が高速で天へと身を滑らす。フレイアが海面下へ潜っていく大蛇共を蹴って身を引き、火蛇を自分の周囲に取り巻かせる。
顎門は好機を逃さず、翻って牙の魚の死骸の内に潜り込み姿を隠した。
衝撃は長く不穏な地震へと変わり、海が、空が、戦慄きだす。
遠くに浮かぶ巨大な帆船だけが、悠然と時の中を泳いでいた。
船は赤々と燃える火の尾を伸ばして、海上を歩む。航跡上のジューダムの船はことごとく火炎に包まれて、さながら漁火の如く、暗い海を照らしていた。
ぼんやりと見えた乗り手の姿に、身の毛がよだった。
「幻霊…………」
その姿形が目に映り込む。わずかな凹凸だけを湛えた虚ろな顔。土でも岩でも水でも氷でもない奇妙で無機質な身体に、おぞましい血濡れのボロを纏わりつかせている。
テッサロスタへの遠征の折、裂け目から現れた異形の魔物。魔術でも呪術でも倒すことのできない、ただ因果の糸によってのみこの世に結び付けられた存在。
海を遥かに覆う巨大な蜘蛛の巣のイメージが、脳裏に浮かんで失せた。
怯え惑う人々の叫びと嘆きが続々と力場に混ざり込んでくる。
うねり暴れる波と、今にも張り裂けそうな夜空に挟まれて、力場の混沌は黒々と粘ついていった。
波間を縫ってたくさんの銀色が物悲しく光る。
鳳凰は夜空を搔き乱して飛び回り、辺りに強い風を吹き荒れさせる。
大蛇達が、海をめくらめっぽう持ち上げては叩きつけた。
死んだ牙の魚の背びれを掴んで構えるフレイアの緊張と闘志が、火蛇と紅玉色の眼差しを爆発寸前まで熱していく。
リーザロットは待ちわびた表情で水平線を睨み、瞳を一層蒼く輝かせた。
やがて放たれた蒼の主の一言は、遥か遠い時空の果てから届いたかのようだった。
「――――――――…………おかえりなさい。
…………私達の獣」
空と海との境が細く長く裂ける。
世界がゆっくりと、重たい瞼を開ける。
黒い――――白いぐらい眩しい閃光が溢れ出て、俺は身を強張らせた。
全ての音があっけなく薙ぎ倒され、それから全てが悉く蘇った。
覚醒した世界は、それまでの世界がおもちゃの宴に過ぎなかったと痛切に思い知らせた。
俺は人生で最も目を大きくして、現れたそれを見た。
鳳凰も、大蛇も…………海そのものさえ飲み込みかねない、途方もなく巨大な魚。
レヴィに似ている。
喰魂魚に似ている。
顎門に…………似ている。
この世の果てがやって来たのだと誰の目にも明らかだった。
…………真っ黒な世界の終わりの咆哮が、響き渡った。




