20、嵐の後。俺がタンポポの種になること。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳、ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
だが魔法に不慣れなフレイアは時空の移動に失敗してしまい、俺達は誤って別の国へ飛んでしまう。
そうして辿り着いたのは影の国・トレンデ。俺達はそこでサンラインからやって来た魔術師・イリスと魔人・クォグに襲われた。
フレイアは彼らに抗するため、「裁きの嵐」と呼ばれる大竜巻を招来したものの、それによって俺と彼女は離ればなれになる。
一人になった俺は苦闘の末に魔人を退け、何とか竜巻から脱したが…………。
それからすぐ、突風が俺を吹き上げた。
俺は今にも爆発しそうな胸の鼓動を耳にしながら、そのまま煽られるようにして上空へ吹っ飛ばされた。
竜巻から投げ出されると、眼下にトレンデのだだっ広い耕地が見えてきた。俺を吐き出した竜巻は地面をずるずると走っていき、急速に勢いを減じていった。未だ残る炎の明かりが弱弱しく揺れている。
俺はどこからか湧き起こってくる不思議な上昇気流に乗って、ふんわりと空を漂っていた。
蛇は細く大きく俺の周囲を回っていた。彼らの纏う炎はまだどこか暗く、禍々しく荒んだ色合いを帯びていたが、次第にその輝きはおとなしくなっていくように見えた。
俺はそんな二匹の火蛇をおずおずと見やりつつ、一瞬前の出来事を断片的に思い返した。
意識を包む、真っ白な光。
空を裂く怒涛の咆哮。
狂ったように舞う火の粉。
フレイアの笑顔。
瞳の、深い紅。
(…………俺は、魔人をやったのか)
俺は高く高く、果ても知らず流されながら、魔人の額へ下ろした刃の軌跡を最後に思った。
ぞっとするほど真っ直ぐな、しなやかな重さを伴った一閃。絶対に斬れるという確信が、素人の俺の内にさえも生まれた。
…………確かに俺は「殺せ」と指示したし、他に選択肢は無い程に追い詰められてもいた。だが、自分があんな風に思い切れるというのは、今となっても信じ難いことだった。
あれは、本当は誰が放った一撃だったのだろう。
俺は茜差す空を、ゆるゆるとどこかへ移動させられていた。たなびく雲の下で、俺はタンポポの種に似ていたかもしれない。
俺はフレイアの行方が知りたかった。あるいは蛇が教えてくれやしないかと期待したが、願いも虚しく、蛇は気ままに(彼らはもうすっかり澄んだ橙色をしていた)空を旋回しているばかりだった。
(――――…………コウ様?)
ふいに、掠れた少女の声が意気消沈した俺の意識の奥に、ポツリと落ちてきた。
まだ念話が生きていたのかと驚きつつも、俺はすぐにそちらへ飛びついた。
「フレイア!! 無事か!?」
フレイアは俺の問いに力無く応じた。
(本当にコウ様、なのですね。…………ええ。フレイアはどうにかまだ戦えます)
「違う、戦えるとかじゃなくて、無事なのかって聞いているんだ!」
俺はじれったくなって、重ねて尋ねた。
「フレイア、今、どこにいるんだ?」
(あぁ…………どこ、でしょうか? とても説明のしづらい状態です)
「何か俺にできることはない? 俺は…………えっと、今、竜巻から抜けて、飛ばされているんだけど」
フレイアはしばらく黙っていた後に、改めて今気が付いたというような調子で、明るく答えた。
(そうですか、それは何よりです! 良かった。魔人はそちらには行かなかったのですね! ではそのまま風に乗って、貯水池まで…………)
消えかかっていく声に慌てて、俺は何度も彼女の名前を呼びかけた。魔人のことより何より、途切れてしまうと、もう二度と通じなくなるような気がして必死だった。
しかしフレイアは、そういう俺の声をすんなりと遮ってこぼした。
(大丈夫です。コウ様、どうか落ち着いてお聞きになってください)
「! わかった」
答える俺に彼女は、まさに言い聞かせるみたいに、ぽつぽつと語った。
(「裁きの嵐」は、私とイリスの両方を「玉座の間」に飛ばそうとしました。ですが、私の信心が足りなかったためでしょうか、どちらも近くの領域に留まったままで終わりました。
ああ…………いえ、本当は、私のことは琥珀様が助けてくださいました。それでなければ私は今頃、コウ様とこうしてお話しできていなかったかもしれません。イリスがどうなったのかは…………すみません、わかりません。痕跡線を見失い、もう魔力を追跡できなくなってしまいました)
「…………「玉座の間」? どういうこと? 「裁きの嵐」って、何?」
俺が問い詰めると、フレイアは悲しそうに答えた。聞いていると今にも泣き出しそうな顔が頭に浮かんできて、胸が苦しくなった。
(申し訳ありません。それは…………そのことについては、もう少し待っていただけませんか? 何からお話しすべきなのか、今はまとめられる自信がないのです)
「いや、いいよ。俺がちょっと不躾だった。ごめん」
フレイアは(そんなこと)と蚊の鳴くような声で呟くと、弱々しく話を継いだ。
(嵐は裁きの主の力ですから、私は魔力を使用しておりません。ですから、グレンズ・ドア…………時空の扉を開くだけの力はまだ残っています。ご安心ください。こうして意識の交信ができていれば、そして琥珀様のお助けがあれば、私がお傍にいなくとも、時空移動は可能となるでしょう)
俺は眼下の水路の流れを目で追いつつ、段々と近付いてくる貯水池の鏡じみた水面へと視線を移しながら、フレイアに尋ねた。
「でも…………そしたら、君はどうなるんだ?」
(私のことはお構いなく)
「そう。じゃあ、今から君のところへ行くよ」
(えっ!?)
頼りなくも、ひどく焦った声が俺の意識に甲高く響いた。
(どうしてそうなるのですか? 私のことなど、なぜ)
「自分で考えてみてくれ。俺はもう、お手上げだ」
言いながら俺は、貯水池のほとりで両手を振っているツーちゃんに手を振り返した。
俺は自分の目が良かったことに人生で初めて感謝した。ツーちゃんは宙に浮いたボードに、火蛇に呼びかける詠唱の文句を綴ってくれていた。
俺はその通りに、言葉をなぞった。
「降りよう。
雨の滴る下へと。
翼なきものはやがて砂と赤土の懐へ還る。
…………降りよう、竜の子」
――――降りよう。
俺は喉の奥でもう一度繰り返して、静かに地上へと舞い下りて行った。風の勢いが次第に弱まってくると、蛇たちがらせん状に地へ向かって渦巻き出した。
俺は彼らが作った道筋に沿って、旅の後のタンポポの種がそうするように、静かに身を大地に落とした。火蛇は俺の着地を見届けるなり、どこへともなく姿を消した。
すぐにツーちゃんがこちらへ駆け寄ってくる。
俺は身を起こしつつ、フレイアから伝わってくる本気の戸惑いと、煮詰まっていく困惑の末の沈黙に苦笑した。言葉が無くても、こんなにも意思が伝わるものかと、ちょっと感心した。




