154-2、白い雨は誰がために? 俺が黄金色に魅せられること。
――――――――…………大勢の人が死んでいく。
こんな風にならないように頑張ってきたのに。
どこで歯車が狂ったのだろう?
ヴェルグが紡ぎ出すのは呪いの力場。
物に思いを込める魔術の力場とは全然違う。
呪術は、思いが思いを呼んで、どこまでも自分勝手にひた走る。
術者はそんな人々の思いを自在に束ね、練り上げ、時にはわざと拡散させ、魂を翻弄する。
…………力場にこだまする人々の声は、地獄の沸き立つ音そのものだった。
死んだことにすら気付かない者は、永遠の苦しみの内に。
死にかけている者は、壮絶な痛みと怨嗟の内に。
死を抱える者は、悲嘆に溺れ。
死から逃げ惑う者は、恐怖と混乱に急き立てられて…………。
それぞれの思いはうねり、互いを締め付け、ねじ切り、噛み合い暴れ回る。
魔海の奥深く…………遥かな水底から押し寄せてくる巨大な存在が、それらをさらに苛烈に煽り、吠え立たせていた。
迫りくるは…………「黒い魚」。
前に教会の総司教さんが話してくれた。魔海の深層で生まれ出ずる、人の感情の双子のような生き物。
レヴィが…………レヴィの心を司る、ナタリーの悲しみが、あれを呼び寄せてしまった。
恐らく今までに訪れたものとは比べ物にならない規模の災厄が、訪れつつある。
悲しみは強く、禍々しく、どす黒い吹雪の如く荒れている。
敵味方など、もう何も関係無い。死は平等に俺達を襲う。悲しみと苦しみがこれ以上無い程純粋に分厚く渦巻いている。
重なり合ってひしめき合う魂の絶叫に、俺はあっけなく引きずり込まれた。
抗うべきだったのは、わかっている。
しかし、あまりに重たい…………!
――――――――…………黄金色の眼差しが直上で煌々と輝いていた。
今や、ここに巻き込まれた全ての魂が、この瞳の鮮やかさに辱められていた。
俺達は何も隠せない。
その目は強く、圧倒的で…………この地上の他の何よりも俺達を怯えさせた。
それは絶対者だった。
俺達を潰すも、絞めるも、解き放つも、あれは思いのままだ。
晒された感情を悉く踏みしだき、あれは俺達を支配している。
吹き荒れる凄絶な痛みと絶望の嵐に、俺は千切れ飛びそうだった。
「―――――――――コウ君!」
リーザロットの声が、叫びに紛れて微かに耳に響く。
小さな氷の結晶がふっと頬を冷やして、俺は危うく自分を立て直した。
危ない…………。
本当に死者の混沌に…………呪われた流れに取り込まれてしまうところだった。
「――――――――リズ! 皆は!?」
すぐに返すも、魂の絶叫は再び厚く重く降り積もる。
腹に目一杯力を込めて、俺はリーザロットの気配を手探った。
死んでいる場合じゃない。
…………どこだ?
いくら耳を澄ませても、聞こえてくるのはどんどん大きくなる悲痛な叫びばかり。
一体どれだけの人が死んでいるのだろう?
生と死の境目が、完全に崩れてしまっている。
呪術の力場は恐ろしい。少しでも気を許せば、真っ逆さまに混沌へ逆戻りしてしまう。
俺は時折肌に触れる氷晶の冷たさに助けられながら(冷たさが、生きていると思い出させてくれるんだ)、何とか一縷の思いを掴んだ。
どうやら彼女はずっと俺を呼び続けていたようだ。
こんな混沌の嵐の中、少し不思議なくらい、あの子は俺だけを呼んでいた。
「――――――――フレイア!」
「コウ様! よくぞご無事で!」
パッと、闇に一つの花火が弾けるように、彼女の思いは明るく俺を照らしてくれた。
一度気付くことができれば、彼女の声は他の叫びに紛れることなくハッキリと聞こえてきた。
フレイアの気配は俺のすぐ隣にいるみたいに肌にぴたりと寄り添っていた。
「ご安心ください! …………今はフレイアだけを心にお留めくださいね」
火蛇の炎が黄金色の瞳を遮って揺らぐ。
火の粉を星のように瞬かせ、二匹の蛇が螺旋を描いてヴェルグの瞳の光の内へ溶けた。
眼差しを浴びた肌が火照り、触れる雪片の冷たさが際立って身に染みる。
そうか。あえてヴェルグの力に同調しているのか。
確かに、あれに馴染んでしまうのが今は一番安全ではあるだろうが…………。
悩んでいるうちに、リーザロットからも声が届いた。
「――――…………コウ君、フレイアの言う通りに!」
「…………リズ! 君は? 君はどこに…………?」
「私は、主の下に――――…………」
ふと、思いの一端へ考えが飛ぶ。
ああ、「裁きの主」だ。
この世界を真に見つめる、唯一つの眼差し。
この世の何が裏返ろうとも、リーザロットだけはヴェルグを必要としない。
今の彼女はあの瞳に対抗できる。彼女が一緒なら、俺も怯えることはないのだ。
そうこうする間にも、絶望への流れは加速度的に増していく。
俺は火蛇の明かりを、一心に胸に思い描いた。
とはいえ、いかに力があっても「裁きの主」は都合の良い救いの神様では決してない。
戦うのはあくまで、自分達でなくてはならない。
「よっしゃ…………!」
俺は再度気を引き締めて、力場に臨んだ。
――――――――…………揺れる橙色の明かりを隔てて、他人事みたいに感情が流れていく。
やはりヴェルグは凄まじい魔術師だ。
…………というより、これこそが人ならざる者の本来の視界というべきなのだろう。
力場に渦巻く心は最早心ではなく、魂はただ、車窓の景色のように冷淡に流れていった。
対するジューダムの力場は、ヴェルグの呪術の展開に合わせてめまぐるしく変化を遂げていた。
元々一心同体であった彼らの共力場はそのまま、一つの柔らかでしなやかな心模様を織り上げて、荒れ狂う絶望の濁流を器用に受け流していた。
永遠の苦しみを飲み込み、幾重にも包み込む。
重なりはやがて美しく、調和された文様を成す。
壮絶な痛みと怨嗟を惜しみなくかけ流し、闇へと濾し流す。
透明になった苦痛は思い出のように愛おしく遠い。
悲嘆に溺れる者を深く沈め、眠らせる。
深く深く…………闇はかけがえのない玉のように艶めく。
恐怖と混乱はそうした世界の中で、自ずと色褪せる。
さざ波がやがて引いていくみたいに、当たり前の光景と成り果てる。
ヴェルグが闇のどこかでひんやりと微笑み、肩を竦めた。
「…………さすがに手慣れたものだ。…………君の父君。先代の王はもっと美しくこなしたものだけど…………」
ジューダムの力場が大きくたわむ。
数多の腕の一斉に祈る様子が、頭に浮かんだ。
瞬間、白く眩い光が力場全体を照らした。
神々しく清らかな、その光の雨に、俺は思わず呟いた。
「「裁きの主」…………?」
名をこぼすと同時に、白い雨はすみやかに散じていく。
王の…………ヤガミの…………深くたゆたう灰青色の瞳が、光を濃く滲み込ませて失せた。
リーザロットの声が、俺にそっと耳打ちした。
「…………彼らもまた白き眼差しの下にあるのです。…………主は、私達だけの主ではない。彼は…………あまねく魔海の主」
…………それは、つまり…………。
「ジューダムの王座は、主の定めし座。…………三寵姫と同じように」
闇が戻ってくる。
暗がりを沸き立たせていた絶望は、虚無に似た、だけど決してそれとは違う澄み渡った凪へと、すっかり置き換えられていた。
…………何も聞こえない。
…………何も感じない。
気付けば俺は、ヴェルグの後ろ姿を見つめていた。
「ふむ…………。確かに、彼もまた「王」を継ぐにふさわしい才の持ち主だ」
人形のように細いウエストをひねらせて、ヴェルグがこちらを振り返る。
ドレスを飾る黒いレースが軽やかに揺れて、漆黒に濡れた髪がふわりと弾んだ。
「少し力を借りるよ、伝承の」
この世のいかなる宝石よりも美しい黄金色の眼差しは、一切の有無を許さなかった。
彼女は白く滑らかな手で俺の頬を撫で、この上なく愛らしい笑顔を作った。
俺はフレイアを呼んだ。
ひたすらに助けを叫んでいるのだが、それは金縛りの最中みたいに全然声にならなかった。
苦しい。
身体が鉛と化していく――――…………。
ヴェルグは大人びた顔を俺のすぐ近くに寄せると、頬に沿わせた指先で俺の唇に触れた。
背筋を駆け抜けた怖気に、俺は息を止めた。
「…………怖がることはない。初めてでもないだろう? …………折角のパーティだからね。もっともっと、友達を誘おうよ…………」
黄金色に吸い込まれる。
重なった唇のとろける感触。
俺は全身が砂となって崩れ落ちるのを感じた。




