151―1、黒く透明な悪意。俺が呼び寄せる、未曾有の災厄の始まりのこと。
――――――――…………フレイアの火蛇が火矢となり、俺の傍らを突っ切る。
俺はかろうじて、ヴェルグの呼び出した黒い蔦の魔術から逃れた。
安堵する暇無く、蔦は鞭の如くしなり俺へ再び襲いかかる。
ヤガミの抜き放った剣が、それを一刀両断した。
間髪入れずヴェルグの背後に回ったフレイアがレイピアで彼女を斬り付ける。
ヴェルグは影のように掴みどころのない足取りでそれを躱すと、自らの下に魔法陣が展開しているのに目を見張った。
「ほう――――…………?」
小さな驚きの声を、たちまち蒼玉色の煌めく火柱が覆い尽くす。
ヴェルグはあっという間に大火炎に包まれた。
蒼く猛々しい炎の内に揺らぐ人影は、灰となって散り散りに搔き消えた…………かに、見えたが。
ヴェルグはすぐに姿を現した。
黒く透明なヴェールをまとった彼女は、あたかも薄いカーテンをくぐるみたいに炎を避けて、優雅に火炎の前に歩み出てきた。
ヴェルグは優しく微笑み、リーザロットに声をかけた。
「腕を上げたじゃないか、蒼の主。ほんの一欠片であれ、まさかこの僕が身を焼かれようとは…………。しかし、訳も聞かずに攻撃するのは、少々不躾だね」
蒼く輝く光を纏ったリーザロットは、険しい口調で言い返した。
「何をなさりに来たのです、ヴェルグ様? 私達を止める気ですか」
フレイアが、ヴェルグの背に剣を突き付けていた。
紅玉色の瞳が白熱している。
二匹の火蛇が、瞳を真っ直ぐに敵へと向けていた。
ヴェルグは微笑みを崩さず首を傾げると、俺へ柔らかい眼差しを――――底知れない悪意の、たっぷりとこもった眼差しを――――投げ、こう話した。
「逆だよ。君達の名案を、僕にもぜひ手伝わせてほしくてね」
リーザロットは彼女を睨む目を緩めず、問いを続けた。
「いつ、私達の計画にお気付きになったのです?」
ヴェルグは答えず、今度はヤガミへと目を向ける。
ヤガミは極めて冷静に、彼女を見つめ返した。
「やぁ。君は、僕とは初対面だね。ジューダム王の肉体よ。よければ教えてくれないか? なぜ君は我らサンラインに与する? 答えようによっては、僕は総司令官として君をここで処分しなくてはならないのだけれど」
どす黒い魔力が酸の雨となって肌を焼く。
…………焼かれていると感じる。
ただのこけおどしだ。
まだ、誰も本当に溶かされたりなんてしていない。
最も激しく魔力に晒されているはずのヤガミは、それでも顔色一つ変えずに答えた。
「…………ただ、俺が俺となるために。
こちらからも聞かせてもらう。なぜ女王竜の逆鱗に手を出そうとした? 何を企んでいる?」
逆鱗?
そうか。ヴェルグはこいつを目当てに、俺を襲ったのか。
俺はまだ海辺で蠢いている蔦の切れ端を見て、舌打ちした。
ヴェルグは白く華奢な肩をすくめ、可憐に首を振った。
「逆鱗? 何のことだい?
僕はただ「扉の魔術師」に力を貸そうとしただけだよ。ちょっと前まで「勇者」と呼ばれていた、その勇敢な青年にね。…………君達は勘違いをしているね。本物の「勇者」は別にいると分かった今、僕は彼にあまり関心が無い」
背筋を走った寒気に、俺は思わず口走った。
「お前!! またあーちゃんに手を出したら…………容赦しないぞ!!」
ヴェルグがにこやかに俺を見る。
彼女は眼差しだけで俺達を見回し、ゆらりと黒いスカートの裾を海風に揺らした。
「…………君は面白いね、全く。…………ただまぁ、もし本当に君が「女王竜の逆鱗」を持っているのだとしたら…………「勇者」の力は、もう僕には無用のものにはなるね」
「何だと!? どういう意味だ!?」
「さぁね? それより急いだ方がいいよ。戦はもう始まっている。…………蒼の主。状況はわかっているだろう? まだかの剣鬼をどこぞに隠しているとしても、民の命のことを思えば、君には一刻の猶予も無いはずだ」
「…………」
リーザロットがフレイアに視線を送る。
フレイアは眉間を狭め、構えたままゆっくりと一歩、ヴェルグから離れた。
「ふふ…………茶番だね」
ヴェルグが愉快そうに零す。
リーザロットは、ヤガミと俺に言った。
「…………仕方がありません。このまま始めましょう」
「おい、本気か? 危険過ぎる!」
「俺もそう思う」
ヤガミと俺の発言に、リーザロットは苦しげに応じた。
「他に手立てがありません。…………大丈夫。タリスカが近くにいます。万一の時には、彼が対処します」
タリスカはずっと姿を隠している。俺達からすらも気配を消しているのは、不測の事態を考慮してのことと言っていた。
彼がまだ現れないということは、彼もまた今は様子見という判断なのか。
リーザロットは言葉を続けた。
「ヴェルグ様。そのお姿は…………未だ霊体の欠片でいらっしゃいますね。ご本体はいずこに?」
「欠片も本体も、僕には大差無いものだよ。…………僕はいつも、紅の主の傍らにいるよ。僕はイザベラの「依代」だからね」
フレイアはヴェルグから眼差しを離さない。
三寵姫の一人、紅の主は彼女の実姉である。
きっと胸中は複雑だろう。
ヤガミが共力場を通じて、俺に合図を送ってきた。
灰青色の凪が、さざ波に破られる。
俺は彼がヴェルグと自分を繋ぐように言っているのだと理解した。
「リズ、わかった。…………やろう」
俺はヴェルグに目を向ける。
ヴェルグの黄金色の瞳が、あどけない外見には不似合いな艶やかさで光った。
「ああ、それがいい。伝承の。…………蒼の主、王の欠片、蛇の娘、骸の剣鬼、それに…………うん、悪くない。
始めたまえ。僕は貞淑に付き従おう」
リーザロットが一つ息を吐き、詠唱を始める。
ヤガミが灰青色の霧を晴らして、もう一人の己の力場へと呼びかける。
フレイアの火蛇が、茜色の太陽へと溶け込むように空へ昇った。
どこかで二重の刃の擦れる高い音がする。
ヴェルグの魔力場は黒く透明な泉となって、俺達の内に溢れた――――――――…………。




