150-2、決戦。俺の運命の日の始まりのこと。(後編)
リーザロットは天幕の内でお茶を飲んでいた。
客が来ている。
翠の主と、魔導師のエレノアさんだ。
「ごきげんよう」
優雅に挨拶をするエレノアさんの隣で、前に会った時と同じく何だかもっさりとした風貌の翠の主が、お茶菓子をリスのように頬張りながらぞんざいに頭を下げる。
誰かに似ている…………? と、その時ふいに思ったが、そんな他愛のないことはすぐに意識の外へと消えていった。
エレノアさんは俺達と入れ違いに席を立つと、およそ戦場には似つかわしくない、軽やかで繊細なレース仕立てのコートを颯爽と羽織り、リーザロットに言った。
「では、これで失礼いたしますわ。…………主との「謁見」、誠におめでとうございます。これからもぜひ良いお時間を過ごしてくださいね」
「ありがとうございます。今後もご指導のほど、どうぞよろしくお願いいたします」
「あら、ご存じありませんの? 魔道に教えるべきことなんて、ただの一つもありませんことよ? …………さぁ、行きましょう。翠姫様」
呼びかけられて、翠の主が立ち上がる。
彼女は
「じゃ、またー」
と、まるで帰りの会の後のようなアッサリとした挨拶を残し、緑色とも茶色とも言えない妙な色の毛布? ショール? をバサリと肩にかけ、エレノアさんに並んだ。
改めて見ても、どちらが三寵姫なんだか…………。
すれ違いざま、翠の主は俺を見てピタリと立ち止まった。
「…………?」
どうしていいかわからず、ただ微妙に微笑む俺に、翠の主は言った。
「…………うーん。やっぱり、そんなには似ていない、ような」
「へ…………?」
「でも貴方には、まだまだたくさんの未来がありますものね…………」
「な、何のお話ですか…………?」
見入られて、初めて翠の主の瞳の色に気付く。
俺はまたてっきり、ナタリーのような鮮やかなエメラルドグリーンを思い描いていたのだが、そこに灯っていたのは俺やあーちゃんと同じ、焦げ茶色の、大地や木の幹のような深く濃い色だった。
俺の考えを察したかのように、はたと相手は目を瞬かせる。
その瞬間、透き通るような翠玉色の、南国の海のような世界が目の前に広がった。
「あっ! …………え?」
一瞬の幻は、ほんの一秒にさえ満たない内に立ち消える。
俺の前にある二つの瞳は、あたかも最初から何も変わっていないかの如く、元の焦げ茶色を慎ましく湛えていた。
「ま…………こういうことですね」
ふ、と相手が微笑む。
活発であどけない、無邪気そのものの表情に、俺はちょっと意表を突かれた。
黙って立ち去ろうとする彼女に、俺は慌てて声をかけた。
「あっ、待って…………」
「待ちませんよ」
「えっ?」
翠の主は首だけを振り向け、やたら遠くを懐かしむみたいな不思議な視線を寄越した。
「時は待ちません。…………ただ流れ続ける。どこまでも」
彼女はポケットをまさぐって何かを取り出すと、おもむろにこちらへ投げつけてきた。
「うわ!」
危うく受け取ると、そこには正方形の美しい黒蛾竜の鱗が輝いていた。
虹色に妖しく息づくように揺らめくそれは、一目で本物の逆鱗と知れた。
「えっ…………え!? こ、これって…………」
「女王竜の逆鱗」
場にいた全員が、一斉に息を飲む。
ただ一人、エレノアさんだけが平然としていた。
「あら、翠姫様。結局渡すことになさったの?」
「うん。…………顔を見たら、やっぱりこれは彼の手にあるべきものでしょうなーって思って」
「あらそう、良かったわ。わざわざ一緒に取りに行ってきた甲斐がありました」
俺は混乱の渦中で、どうにか言葉を発した。
「でっ、でも…………だとしたら、こ、これ…………とんでもないものなんじゃ…………?」
女王竜の逆鱗は、黒蛾竜の女王が天寿を全うするその瞬間にしか手に入らない。
一切の魔力を使うことなく、いつでも、どんな世界にでも飛んで行けるという、凄まじい力を宿しているとかいう宝具。
それがまさに今、この手に収まっている。
震えているのは、俺だけじゃない。
誰もが突然の衝撃に言葉を失っている。
翠の主はスマホの新機能でも説明するかのように、淡々と続けた。
「それ、本当にすごいですよ! 思うだけで、どんな時空にだって一瞬で飛べちゃうんです。
…………ピョーン! って、肉体が飛んでいくわけじゃないんですけどね、魂はストンッ! て、どこへでも移っていけるんです。
ほら…………魂って「根源」を介して、色んな時空に繋がっているじゃないですか? それを、いつでも、自由に渡れるようになるんですよ。
いつにだって、どこにだって…………もうほとんど貴方が貴方でないような、そんな時空にだって」
俺は手のひらの上の逆鱗を見つめながら話した。
「で、でも、それじゃあ、肉体は…………っていうか、元の時空はどうなっちゃうんです…………?」
「どうもなりませんよ。そのまま」
円らな焦げ茶色の瞳を見つめる。
灯台の光のように、翠玉色が一筋走った。
「まぁ、あくまで理論上はですけどね。実際に確かめる手段は、誰にもありませんから。
飛んで行った人は二度と戻ってこられないし、残された人は逆鱗の持ち主が飛んで行ってしまったことに気付けない。ちょっとわかりにくいかもですけど…………飛んで行っちゃった人の肉体も魂も、まだそこにあるんですよ。
逆鱗の持ち主の心は、あらゆる時空に及んでいる、自身の魂の間を移動するだけなんです」
…………よくわからない。
例えば俺が今、どこかへ飛んだとしたら、今の俺はどうなる?
この逆鱗は、どこへ行くんだ?
心中を察するのは魔術師の癖なのか嗜みなのか、翠の主は俺の疑問に勝手に答えた。
「貴方が今飛んだら、逆鱗は貴方と一緒に飛びます。その逆鱗は持ち主にだけ、ずっとついていく。残された時空で逆鱗の扱いがどうなっているのかは、知る由がありません。多分、「そんなものがあったような気がする」…………そんな具合になっているんじゃないですかね?
ただまぁ、逆鱗も永久不滅ってわけではないみたいです。どのくらいの後のことなのかはよくわかんないですけど、段々と力は弱まっていくようです」
「…………頭がこんがらがってきた…………」
項垂れる俺に、翠の主は特別優しくするでもなく、言葉を重ねた。
「まぁ、やってみないことにはようわからんと思います。…………って言って、わかった時には取り返しがつかないことですけども」
彼女はやや間を置き、また俺の心を読んだ。
「なぜ貴方に渡すのか? …………それは貴方が持つべきものだからです。
なぜ貴方が持つべきなのか? …………」
沈黙する瞳に、翠の光がキラリと差し込む。
彼女のぱっちりとした一重の目は、真っ直ぐに俺を見続けていた。
まだニキビ痕が残る若い顔立ちが、真剣な眼差しをより純粋に研ぎ澄ませている。
翠の声は、静かだった。
「それが因果だから。…………全然理由になっていないのはよぅくわかっていますが、私からすれば、それが何よりの理由です。
きっと…………使うわけがないと、今は思っているでしょう。けれど、貴方もやがて選択を迫られる。…………早ければ、今晩にだって」
「…………使いませんよ! っていうか、こんなの…………結局、ただの、自己満足じゃないか?」
俺と彼女の間に結ばれた焦げ茶色の視線が、ゆっくりと、大きくたわんだ。
「…………そう、自己満足。本当にその通り。…………でも、それでもいいから手を伸ばしたい時が、来るんです」
翠の主はそのまま頭を元の方向へ戻し、振り返らずに言い残した。
「…………さよなら。またいつか、どこかで会えるといいですね」
言葉の響きに潜む、素っ気ないのに慕わしい感触に、俺はつい黙らされてしまった。
エレノアさんが優美な所作で別れの挨拶をする。
二人が出て行った後に、ようやく俺は息を吐いた。
「ハァ…………何だかとんでもないもの、貰っちゃったな…………」
リーザロットがやって来て、皆と一緒に俺の手のひらの上にある逆鱗を覗き込んだ。
「どうしますか、コウ君?」
「どうするsって言われても…………どうしよう?」
「とりあえず持っておけばいいんじゃねぇの? 念のためにさ」
「念のためって?」
「最悪の場合、コウ様だけでも生き残れるように」
発言したフレイアの顔を見上げる。
俺はなるべく感情を高ぶらせないよう話した。
「…………俺だけ逃げたって意味が無いよ」
「シスイ様も仰っしゃっておりました。いつでも身を守っていいと」
「ヤガミに言ったんだろう」
「今ならお前にも言うだろうな」
ヤガミを見やる。腕を組んだ彼は、もうフードを下ろしていた。
「ヤガミ、お前まで…………」
「その選択が逃げになるかどうかは、お前次第だ」
俺は俯き、言葉を詰まらせた。
「でも…………俺は…………」
リーザロットの手が、逆鱗ごと俺の手を包んだ。
「…………リズ」
「セイ君の言う通りだと思います。…………貴方の心が選ぶ道を行けばいい。コウ君にはできるわ。他でもない貴方が、私に教えてくれたのですもの」
それからリーザロットはフレイアを振り向くと、俺の手を彼女に託して言葉を継いだ。
「フレイア、命令です」
「はい」
「コウ君を守って。この手を、絶対に離さないように。魂に誓って」
「…………」
フレイアは蒼玉色の瞳をしばし見つめていたが、やがてこくんと頷き、毅然と返事した。
「…………はい!」
フレイアの手の熱が、ひんやりとした逆鱗の温度と徐々に混ざり合っていく。
俺は逆鱗を落とさないよう注意しながら、フレイアの手を握り返した。
紅玉色の瞳が大きく瞬き、白い頬がサッとリンゴみたいに赤く染まる。
「…………見せつけやがって」
うんざりと呟くヤガミに、リーザロットが笑いかけていた。
――――――――…………やがて、日が落ちる。
ジューダム王へと奇襲をかけるために、俺達は大戦の始まりの合図より一足先に仕掛けに出た。
刻を告げる線香が消えたのを潮に外へ向かう。
着いた先の海岸にはすでに、黒いドレスを身に纏った少女が一人、海原を臨んで立っていた。
幻想的なシルエットがゾッとするほど夕日に映えている。
振り返った少女は甘く、だけどこの世の何よりも冷たく、言葉を落とした。
「…………ようやく来たね、伝承の」
戦慄したのは、俺達のジューダム王急襲計画がバレていたからではない。
彼女――――ヴェルグの笑顔が、この上なく澄んで、透き通っていたからだった。
「さぁ――――踊ろう。この夜が明けるまで」
ヴェルグの華奢な手のひらが、百合のように空へ高く開かれる。
瞬間、開戦を告げる花火が盛大に上がった。
街中の相殺障壁が一斉に展開し、同時に水平線の向こうから、無数の火矢と濁竜が放たれる。
…………戦が、始まった。
予定変更なんて聞かされていない。
ヴェルグめ。
何が目的だ?
何をしに現れた?
だが、今更後には引けない。
こうなったらなんとしても突破してやる。それしかない…………!
俺は声を張って、俺達の決戦の火蓋を落とした。
「――――――――行こう、皆!!」
フレイアの火蛇が引き抜かれた刃の上を俊敏に滑る。
リーザロットの詠唱が悠然と茜空を渡る。
俺は灰青色の瞳へ鋭く視線を飛ばした。
「――――――――ヤガミ!!」
「ああ!!」
勇ましい応答が、俺を思いきりよく共力場へと叩き込んだ。




