148、戦前夜に至る日々。私が朱色の波打ち際で見守ること。
ついに戦が始まる――――…………らしい。
だが正直な話、私の当事者としての意識はとても低かった。
だって「勇者」とは名ばかりで、現在はただの引きこもりに過ぎない。
何なら身の回りの全てが、未だに映画の撮影か、大掛かりなドッキリのようにすら見えた。
全部紛れもなく現実だってことは、もうよーくわかっている。
命がけの戦いだということも、頭では一応理解しているつもりだ。もちろん、私だって死んじゃうかもしれない。
それでも、どうにも色んな物事が遠かった。
お兄ちゃんやヤガミさん、リーザロットさんにグラーゼイさん、フレイアさんやクラウスさん、それにグレンさんも、会えばみんな優しく声をかけてくれる。けれども、彼らの意識の中心には常に戦が渦巻いていた。
みんな、いつだってどこか緊張していて、忙しない。
表立って私に感情をぶつけてくる人は誰もいなかったけれど(お兄ちゃんでさえも)、どうしてもヒリついた空気は伝わってきた。
そういう意味では、大変なことが近付きつつあるという実感は否が応でも湧いてくる。
でも、それが自分の未来にどう関わってくるのかというと、やっぱり頭の中のイメージは漠然としていた。
とにかく…………遠いのだ。一から十まで、何もかも。
地球(彼らはオースタンと呼ぶ)も、サンラインも、ましてや会ったこともない異世界の戦の相手ともなれば、最早銀河の彼方よりも遥か遠くに感じた。
この距離が直接の不安を和らげてくれる一方で、自分自身をもやたらに非現実的なものに思わせていた。
みんな、四六時中戦支度に明け暮れている。
私は何もせずにそれを眺めながら、風のように過ぎていく日々を、味のしないガムを延々噛みしめるみたいにして過ごしていた。
一応、時折開かれる作戦会議には同席して説明だけは聞いているが、何とも現実味が無いのは一向に変わらない。
時々、自らの頬をつねって自分が実在しているか確かめてみるも、まぁ痛いばかりで空しいだけだ。
こうなってくると、自分のことより他の誰かのことを考えている方がまだ気持ちが楽だった。
とりあえず、その方が退屈しない。
私は日々を、自分という窓の外の風景をぼんやりと覗き込んで過ごした。
まず兄は…………いきなりだが、何をしているのかよくわからない。
実家にいる時からそういうヤツといえばそういうヤツだったのだが、今はもう少し前向きな話として、わからなかった。
「扉の魔術師」。それがサンラインでの今の兄の呼び名らしいが、それは私と同じく、たまたま持っていた不思議な力によるところが大きいようだ。(それによって私が見つけられるまで、「勇者」と勘違いされていたらしい)
兄はその力を求められて、あちこちから呼ばれ、案外頻繁に街へ出たり、館の実験室に通ったりしていた。
直接聞いてみたところによれば、なんでも魔力の流れを把握する手伝いをしているのだとか。魔術の専門的な話には興味が無いし、兄の様子が変に通ぶっていて鼻についたので深くは聞かなかったのだが、来る決戦の準備には必要不可欠な対策なのだそう。
グレンさんや、あのウサギ頭のウィラック博士が、主に兄と行動を共にしていた。
兄は終始ウサギさんに怯えていたが、最初に見た時よりかは大分慣れた風であった。
少なくとも、逃げ出したり叫び出したりせず、不便が無い程度には普通に会話をしている。
次々と放たれる専門用語にもどうにか食らいついていて、いつもよりも大分大人っぽく(いや、もう本当にいい大人なんだけどね)見えたことは間違いない。
時々廊下で騒ぐ二人の声を耳にすると(正確に言えば騒がしいのは兄だけだ)、しみじみ兄の逞しい成長ぶりを思う。
「…………というわけで、トメル妖精鱗粉の変質作用により、君と我々精鋭隊との共力場は格段に強度を増すこととなるわけだ。素晴らしいだろう?」
「わかりました、ウィラックさん。しかし、そのお薬には妖精の鱗粉の他に、パパベラ抽出物も入っているって、さっき仰っしゃっていましたよね?」
「ええ、言いましたね。それが何か?」
「ってことは、競合によりリージュ様反応が起きうるのではありませんか? 昨日俺が断固お断りした、高速獣変化促進剤みたいに」
「ご明察。…………ですが、こちらには極めて強力な抑制剤も含まれております。リージュ様反応に伴う体毛の脱落は、滅多に発生致しません」
「滅多に…………具体的にどのくらいの頻度か、エビデンスと共にお答え頂きたい。それと、その抑制剤とやらの作用機序についてもぜひ伺いたい。…………なるべく…………いや、出来る限り、詳細に」
「構いませんが、非常に専門的なお話になりますよ」
「大丈夫です。…………一旦持ち帰って、一昨日知り合った魔術学院の人と検討しますので」
「そんな学生などいなくとも、私が十分に説明致しますのに」
「ありとあらゆる角度から十分に検討したいのです! …………それはもう綿密に! …………」
一方グレンさんは、働き過ぎてやつれていた。
このままでは戦の前に過労死してしまうのではと皆ハラハラしているのだが、そういうギリギリの状態の方がむしろ頭は冴えると言って、実際その通りに仕事を捌くから頼もしく、しかしそれだけに一層、不安は募るのだった。
「あの…………お茶でも、淹れましょうか?」
一度、死体のように談話室のソファに沈んでいるのを見つけたのでそう声をかけてみたら、まるで初めて出会ったみたいな表情で私を仰ぎ、それからそのいつもより若干ギラついたヘイゼルの瞳を溶けるように優しく細めて、こう返してきた。
「ありがとう。「勇者」…………いいや、アカネ君。随分と明るい顔をするようになったね。…………一瞬、どこの異世界に飛ばされてしまったかと思ったよ」
彼は苦しそうにソファから頭をもたげると、掠れた声で続けた。
「…………しかし、折角だが、お茶は結構だ。眠気を払いたいのは確かなのだが、実は先週からウィラック氏に頂いた処方を内服し続けてしまっていてね。あれはお茶と一緒に摂取するのは、あまり好ましくないのだ。
…………気遣いかたじけない。それでは」
彼はわずかによろめきながら立ち上がると、ざらついた手で薄汚れた襟を正し、部屋を出て行った。
重症だなあ…………としみじみ思ったが、止めようもなかった。
リーザロットさんもまた、連日休むことなく立ち働いていた。
最近雰囲気が少し変わったように見えるのだが、あるいは兄から聞いた「謁見」とかいう難しい儀式を済ませたせいなのかもしれない。
ひどく疲れているはずなのにも関わらず、肌や髪がいつにも増して艶々として、本当に女神のようだと見惚れてしまうことがある。
自信がつくと人は綺麗になるというから、まさにそういうことなのかな?
もしくは…………好きな人でも、できたとか。
恋をすると…………って現象は、学校でもちょくちょく見かける。彼氏ができると幸せオーラが全開になって輝き出し、しばらくすると何事もなかったかのように平然と別れている、あれ。
リーザロットさんの好きな人か…………女の私からしても羨ましい人だ。
一体誰なんだろう?
…………実は、クラウスさんだったりして。
姫と騎士、身分違いの恋。
とってもロマンチックだ。
ヤガミさんとかも素敵かも。
こちらも美男美女で、見た目はすごくお似合い。
敵国の王の片割れ、時空を超えた出会い。
うん、こっちもドラマチック。
…………兄は無い、な。
美女とブタ、月とすっぽん、姫とニート。
うん、全然ロマンもドラマも感じない。
っていうか、そもそもアイツにはフレイアさんがいるし。
…………フレイアさんと兄は、多少ぎくしゃくとはしつつも、結構仲良くやっているようだった。
ちょっと前に見た時は喧嘩? しているのかと思ったものだけれど、よくわからない人達だ。
そもそもちゃんと付き合っているのかすら、実はよくわからない。
兄はずっとデレデレしているし、フレイアさんはフレイアさんで、兄程わかりやすくはないけど似たようなものだから、きっとそうなんだとは思うけど。
とにかく、本人達はこっそりのつもりで所構わずあちこちでいちゃつく様があまりにもあからさまで、むしろこちらの方が身を隠したくなるぐらいだった。
「コウ様…………お怪我の具合はいかがですか? 少しお辛そうに見えます」
「平気だよ。ちょっと疲れているだけだから」
「フレイアが変わって差し上げられたら良いのですが…………。もっと私に、力になれることはありませんか?」
「そんなこと。君はいつもすごく頑張ってくれているよ。…………君の方こそ、大丈夫かい? 隈ができちゃってる」
「いえ! これは…………あの…………昨晩コウ様が…………」
「あっ! あー…………そっか…………ごめん…………」
「いいのです。コウ様とあのお薬を使うのは、初めてではありませんし…………何よりフレイアは、その…………コウ様のお傍にいられて、大変嬉しく思っております」
「うん…………俺も…………君で、良かったって…………思っている」
「コウ様。もしよろしければ、今晩もお手伝いを致します。まだ塞がっていない傷も、たくさん残っておりますから…………」
「ありがとう、フレイア。…………でもその話は、ここじゃ…………ほら、ヤガミ達もいるし…………」
「あっ、ごめんなさい…………」
「あっちで話そう」
「はい」
ひそひそ、こそこそ。頬なんて染めちゃって、何の話をしているんだか。
ああいう二人を見ていると前にはよく感じていたモヤモヤは、なぜか今はそんなに気にならなかった。
もちろんウンザリはするんだけど、不愉快ではなかった。
長年のわだかまりが解けたからなのか、単にそれどころではない状況だからなのかはハッキリしないけれども、まぁせいぜい適度に幸せになってくれればいいと自然に思えている。(…………ウンザリはするけどね)
あの二人、互いに深く思い合っているのが交わし合う眼差しでよくわかる。
憧れというか尊敬というか、とにかく相手をかけがえなく思っているのが、傍から眺めているだけで伝わってくる。
…………気付けばいつも、いいなぁと拗ねてはいる。
…………。
…………ああ、いけない、いけない。
こういうことを考え始めると、しんみりとしてしまうんだ。
寂しいとか、恋しいとか、今は禁物。
…………早く気を紛らわさなくちゃ。なるべく愉快なことを考えなくちゃ。
愉快なこと…………しょうもないこと…………くだらないこと…………。
例えば、そうだ。
丁度今そこで睨み合っている、ヤガミさんとクラウスさんのこと。
二人とも、普段はとても優しくて格好良いお兄さん達なのだけど、二人揃っているとどういうわけかちょっと残念になってしまうみたいだ。
この間なんてまるで私の同級生の男子達みたいなくだらない口喧嘩をしていて、幻滅を通り越して、心底呆れてしまった。
何でも…………修行の傷の手当の軟膏を誰が塗るとか、どうとか、こうとか?
今更、修行?
っていうか、軟膏なんかで、そんな大怪我が治るものなの?
私には二人の言っていることがいちいち理解できなかったが、それでも彼らがらしくなく取り乱していることは了解できた。
直前に兄とフレイアさんのウザい絡みを見せつけられていたことも相まって、二人は至極感情的になっていた。
「だから! そもそもこうなった原因はリーザロットだろうが! 頼んで何が悪い!?」
「蒼姫様とお呼びしろ、無礼者! お前如きの怪我に、お忙しい姫様のお手を煩わせるなどあり得てよいものか! 唾でもつけておけ!」
「お前も頼めばいいだろう! それとも何だ? 断られるのが怖くて、ビビってんのか?」
「黙れ!! 貴様、よくも…………」
「オイ、暴れるな! 傷に響くだろうが!」
「――――コウ様が憎い!!」
「いきなり話を飛躍させるな! いや、気持ちは死ぬ程わかるけどよ! …………というか、お前こそ外に誰かいないのか? お前はそっちに頼めばいいだろう!」
「選べないんだよ!! それこそわからないのか!! 大戦に臨んで唯一人だなんて、選べるものか!!」
「俺に当たるな! …………だから、リズなら後腐れ無くやってくれるだろうって話なんだよ!」
「蒼姫様とお呼びしろ!!」
「ああ、面倒くせぇ! そんなに一人が好きなら、一人で頑張ってろ! 俺は頼むけどな!」
「させるか、この…………っ!」
怪我人達の不毛な掴み合いを止めるべく、私は寸でで口を挟んだ。
「あの…………そんなに誰かの手が必要なら、私が手伝いますよ?」
私の申し出に、二人は一瞬息を飲むようにしてから、同時に大きく首を振った。
とりわけクラウスさんは本当に苦しそうに、肺の奥底からようやく声を絞り出すようにして答えた。
「…………ご提案、大変かたじけなく思います。アカネ様…………。常時であれば一も二も無く飛びついていたところでしょう…………。ですが、やはり…………超えてはならない一線は、この私にも一応ございまして…………」
ヤガミさんは、そんなクラウスさんの後を継ぐようにして、こう話した。
「アカネちゃん、ありがとう。けど、大丈夫だ。詳しくは話せないが…………これは俺達の…………男の問題なんだ。…………アカネちゃんにそんなことをさせたなんて、コウに知られたら…………」
「兄なんて関係ありませんよ。…………もちろん、無理にとは言いません。でも、本当に困っているなら何でも言ってください。人の手当てなんて初めてで…………あんまり役に立たないかもしれないですけれど…………頑張りますから」
クラウスさんが頭を抱え、ヤガミさんが口を引き結んで天井を仰ぐ。
それから二人はもうひとしきり高校生みたいな口喧嘩をして(さっきにもまして乱暴で、幼稚だった)、変な意地と見栄を持って回った遠回しな言い方で散々ぶつけ合ってから、それぞれ私に挨拶をしてバラバラに部屋を去っていった。
あーあ。グレンさんに続いて、また断られちゃった…………。
私は多少の無力感に打ちひしがれつつ、若干の微笑ましさも覚えていた。
私にもせめて、ああしてくだけて話せる相手がいたらなぁ…………。
…………くだけてほしい、と言えば。
私の護衛をしてくれている、グラーゼイさん。
弛みとは無縁も無縁の、とっっってもお堅い人なのだが、できればもう少しぐらい素の表情を見せてくれたらなと思っている。
何も人間の顔に戻ってほしいというわけではなくて(むしろ彼のオオカミの頭が最近は結構気に入ってきた。モフモフしていて、実に好奇心をそそられる…………)、もっと単純に、もう一歩だけ近付いて話してほしいなと思う。
もちろん、彼の性格上絶対に無理なのは、この短い付き合いの間でもよく承知している。
彼は精鋭隊の隊長という仕事に誇りを持っていて、それ故に、決して護衛としての態度を崩さない。
リーザロットさんやグレンさんに負けないぐらい…………いや、あるいはそれ以上に責任感が強い人なのだ。
それでも、たまにふっと親切にしてくれる。
いつだってあくまで紳士としての対応なのだが、そういう折の横顔には、微かながら「仕事」モードじゃない素朴な表情が垣間見えた。
私より遥かに大人で、強くて、「勇者」のことなど本気で「仕事」以外の何者でもないと思っているはず。
けれど、無性に気になる。
本当はどういう人なのかなあと。
そんなことをするべきでも、望むべきでもないというのは重々わかっているが、たまに「お茶でもしませんか?」と話しかけてみたくなることさえある。
ほとんど夢のような話だが、他愛もない話をして、できれば、一瞬だけでも笑ってくれたらな、と。
そんなことをつらつら考えて見つめていたら、ふいにグラーゼイさんがこちらを振り向いた。
焦って目を逸らすも、彼は怪訝そうにこちらを見返してくる。
白銀の鎧に包まれた大きな身体がゆったりと動いたかと思うと、彼は静かに私の前に屈んで言った。
「…………何かございましたか、勇者殿?」
私は慌てて首を振り、俯き加減のまま、おずおずと答えた。
「いえ…………。ただ…………見ていただけ、です」
いやいや、見ていただけって、馬鹿じゃあるまいし。
グラーゼイさんは一切表情を変えず、ただ一言、
「そうですか」
と呟き、また立ち上がって威厳ある姿勢に戻った。
懲りずにもう一度その横顔を盗み見る。
すぐにまた目が合いそうだと感じて、今度は先んじて別の方向へと視線を散じた。
ちなみに彼からもらったショールは、今もあの箱の中に大事にしまってある。
初めて男の人からプレゼントをもらって、初めはかなり舞い上がってしまったけれど、数日経って良い加減落ち着いてきた。
というか、やっと身に染みてきた。
面倒な「勇者」のメンタルケアも結局、彼の大切な仕事の一環。
グラーゼイさんは本当に私に心を尽くしてくれている。
お返しするにはせめて、心健やかで大人しくしていることが一番なのだ。
私はあの箱を開くと広がる、豊かな朱色の波を思って、心を静めた。
あの美しい色が、今の私の密かな慰め。
…………憧れ。




