143-3、愛しき偶像への恋歌。彼女が眠る路地裏のこと。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けた俺は、自警団の少女ナタリーらとの出会いを経て、サンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加する。
そこで俺達は五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムから襲撃を受け、危機感を募らせる。
その後、リーザロットの悲願であり、「勇者」の使命でもある戦の和平を実現するため、俺達は少数精鋭で、都市・テッサロスタの奪還を目指して遠征を行った。
旅はつつがなく進むかに見えたが、その途上で俺達はまたもやジューダムからの刺客と遭遇、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。
魔導師・グレンの助けにより、何とか奪還の望みを繋ぐも、ジューダムの支援を行う「太母の護手」の指導者を倒して、目標達成まであと一歩まで迫ったという時、再びヤガミが俺達の前に立ちはだかった。
大混戦の中、俺とフレイアは急遽時空の扉を潜り抜け、オースタン…………俺の故郷、地球へと逃れた。
そこで待っていた真の「勇者」こと俺の妹・水無瀬朱音と、もう一人のヤガミ……ジューダム王の肉体を連れてサンラインへと戻ってきた俺は、最終決戦に挑むため、中立国・スレーンへ同盟を持ちかけに向かう。
スレーンの頭領・シスイとの決闘に勝利し、晴れて同盟を結んだ俺達は、いよいよサンラインへと帰国する。
―――――――…………コウ兄様。
そう、コウ兄様ね。
ご主人様が花姫亭へと導いてくださった…………「お姉様」の、お友達。
どのようなお姿でしたか…………。
とても可愛らしい方でしたと、思うのですが。
…………子グゥブ?
ふふ。確かに、そんな人懐っこい無邪気な眼差しをしておられましたけど。
貴方になら、何でも話せてしまいそう。
…………そう、何だって聞いてもらいたくなってしまう、優しい兄のような。
コウ兄様。
こうしてまたお会いできて、嬉しい。
例え触れられなくとも、お声が聞こえなくとも、貴方がただそこにいらっしゃる。
それだけで、私は小鳥のように浮かれています。
どうかリーザロットの傍で、お話を聞いてください。
今だけでいいの。
私が…………私の夢が、ここで慎ましく花咲くことをお許しください。
――――――――…………私はよく夢を見るの。
昔から、独り誘われるようにして、いつともどことも知れない時空に迷い込む。
例えば今夜のような、この世の何もかもが優しく抱かれたような、祝福された夜に。
またある時は、この世の何もかもが見放されたような、寂しい夜に。
「ご主人様」は、私と旅人を巡り合わせるのです。
「ご主人様」は、このサンラインを見守っておられる眼差しです。
そのお姿は、人には計り知れないと伝えられています。
ただ傍に在ることをこの胸で感じるだけ、祈ることだけが、私達に許されたことなのだと、教会の方は教えてくださいます。
それでも、自分なりのお姿をあてがうことを…………時々、私は考えます。
優しく甘やかな心地になりたくて。
果てなく孤独になりたくて。
それに見合う「ご主人様」のお姿を、こっそり夢に思い描くのです。
罪深いことでしょうか?
「ご主人様」を自分のお傍まで引きずり降ろして、仮の形を与えて、自在に振る舞わせて…………。
少なくとも教会の方が聞いたならば、眉を顰められてしまうでしょう。
私のこの気まぐれな遊びを「ご主人様」がどうお考えなのかはわかりません。
抱かれた偶像、その一つ一つを眺めるのは、結局は私自身を見つめるのと同じこと。
リーザロットはリーザロットと戯れているに過ぎない。
「ご主人様」は気になさってはいないと、私は信じております。
…………どんな「ご主人様」なのかって?
そうですね…………。
コウ兄様にお伝えするのは、特に恥ずかしく思えます。
貴方の、私にとって最も好ましい部分が、よく重なっているからでしょうね。
…………コウ兄様。
私は…………いつも、本当は自分はここにいないのではないかと、感じております。
そしてそれが正しいとも。
私は物心ついた頃から、自然と魔術に親しんでおりました。
印や魔法陣、詠唱、それらはいずれも後からついてきたのです。
初めに魔術があって、それから言葉や形が連なった。
ちょうど魔海の景色から世界へと萌え出づるみたいに、幻が次第に私の中で像となって結ばれていきました。
花姫亭の娘は、皆、少なからずそんな風ですけれどね。
世界の形を知るより先に、魔海の色を知る。
そして世界に馴染みながら、段々と海の深さを忘れていくの。
忘れて…………やがて、溺れる。
ついさっき、偶像のお話をしました。
どうしてあんなことをお話ししたくなったかというと、私達にとって、それはとてもとても大切だからなんです。
唯一、最後まで世界から自由な夢。
誰に何をいかに奪われようとも、それだけは決して消えない。
そういう自分のためだけの、とっておきの魔術が、私達の魂と魔海とこの世界とを辛うじて繋ぎ止めているのです。
本当はどこにもいない私。
「ご主人様」の眼差しに見つめられるだけの私。
そのかけがえのない影こそ、愛しき偶像…………。
それにしても…………本当にとりとめもないお話ばかり。
眠らずに耳を傾けてくださるコウ兄様は、やっぱりとても優しい方ね。
貴方のその長閑で健やかな瞳が、言い表しようもなく好きです。
優しいコウ兄様。
よろしければ、もう少しだけ…………。
もう少しだけ、お話を聞いてください。
全部、全部、他の誰にも言えないのです。
実は…………私には、偶像を想うよりももっと、強く想うことがあります。
語れば「ご主人様」の心がざわめくから…………何より私の心がひどく波立つから、今まで決して言葉にはできませんでした。
今夜、こうしてコウ兄様と触れ合っていればこそ、初めて向かい合う勇気が湧いたのです。
偶像の一つ…………なのでしょうか。
ですがその影の姿は、あまりにも私からかけ離れています。
狂暴で、残酷で、苛烈で、粗野で…………それなのに、息が止まる程に美しい。
巨躯の漆黒の騎士。
彼の蒼白い刃が、私の夜を大きく、鮮やかに斬り裂くことがあるのです。
彼に裂かれた夢は瞬く間に晴れて、私は風と共にたちまち世界に引き戻される。
彼が誰なのか、私にはわからない。
私は願ったことすらないのです。…………あのような、鮮烈な魂のありようは。
…………怖いはずなの。
何よりも大切なはずの繋がりがあんなにもあっけなく千切れて、言葉と形の世界に独り取り残される。
忘れてしまうはずの記憶も、ハッキリと残っていて。
彼の剣の風を切る音が、いつまでも耳に響いていて。
心はまるで、嵐の後の空みたいで。
目覚めると、きまって身体が熱いの。
なだめようのない昂ぶりが、私の血をぐらぐらと沸かせている。
夢を失った罪悪感ですぐに祈ります。
だけど、私は何を祈っているのでしょうか?
あの影の恐怖を拭ってほしい?
与えられた導きの役目を果たせなかったことを、謝りたい?
…………違う。
私は裁きを待っている。
抱いた思いが裁かれることを…………。
漆黒の騎士の夢の後、「ご主人様」はいつにも増して深く沈黙なさいます。
それが何より恐ろしい。
だって、あの方だけはご存じのはずなのです。
…………私が、あの冒涜の騎士に焦がれているということを。
…………コウ兄様。
どうか私の懺悔をお聞き届けください。
「ご主人様」にさえ届けられない私の言葉を、どうか…………。
私は漆黒の騎士の来訪を待ちわびています。
彼の夢の後の、孤独で切り離された世界が…………待ち遠しいのです。
私はあの瞬間に…………確かに「自由」を感じているから。
途方もない空しさと引き換えでも、私は「ここ」にいると思える。
揺るぎない眼差しも偶像の鏡も、もう私を繋ぎ止めはしない。
魔海のさざ波がどんなに遠く微かでも、私は生きていける。
迸る血が教えてくれる。
自分の魂の色すらわからなくなったというのに、どうしてあんなにも彼の世界は清々しいのでしょう?
あの褐色の肌の、溶岩のような灼熱の眼差しの剣士だけが、私をそこへ導いてくれるの。
彼の二振りの刃が斬り拓く、あの荒涼とした自由が、この胸に焼き付いて離れない。
「ご主人様」は今も私の告白を聞いておられるはず。
それでも、これだけ胸の内を開いてもまだ何も仰らない。
貴方のいない世界をこんなにも強く夢見る私を、なぜ裁いてくださらないのです?
コウ兄様、コウ兄様。
貴方だけが、私の寄る辺です。
あの方の見つめる世界の内に、本当にあの騎士はいるのでしょうか?
それとも、彼もまた私の拙い偶像なのでしょうか?
いいえ。そうではないと、私はとっくに知っています。
コウ兄様が私の影でないように、あの騎士も私でない。
あの旅人だけが、私の世界に決して馴染まない。
あの人だけが、どうしても忘れられない。
誰か私を叱ってください。
これ以上私があの漆黒の嵐に巻き込まれぬよう。
引き返せない程に惹かれてしまう前に…………。
――――――――…………コウ兄様。
貴方は、私の世界を開く扉になってくださると言ってくださいました。
わかっております。
漆黒の騎士に望むのと同じことを貴方に願うべきでないことは。
ただ想いを聞いて頂けただけで、どれほど感謝すべきかも。
でも、やっぱり言葉にするのは、とても危ないのですね。
こうして語って、かえってどうしたらいいのか、どうしたいのか、わからなくなってしまいました。
ずっと叫びたくて堪らなかったのに、その先のことなんて考えてもいなかった。
「ご主人様」はいつも、最後まで黙っていらっしゃる。
けれどコウ兄様は、耳を傾けてくださって…………。
…………ねぇ、コウ兄様。
もう少し…………もう少しだけ、近くへ来てください。
貴方の眼差しをもっと間近に見たい。
…………嬉しい。
そのまま、そう、私に寄り添っていて…………。
目覚めたらまた、私は貴方を忘れてしまうのでしょう。
忘れたくありません。
いっそこの心地良い時間がずっとずっと、世界の終わりまで続けばいいのに。
「ご主人様」のことも、漆黒の騎士のことも忘れて…………。
…………それはいけない?
どうして、コウ兄様?
蒼の姫の…………務め?
ああ、コウ兄様。どうかその名は口にしないでください。
それは絶対に絶対にいけないことです。
蒼の主は、この世に二人とは存在しません。
それに、それでなくとも…………私などが「ご主人様」と直接に見えるだなんて、思うだに恐れ多いことです。
私の罪深いことは、もうよくご存じのはず。
私にあの方を想う資格なぞ、あるはずもないのです。
コウ兄様。
貴方と出会えてよかったと心から思います。
例え何が変わらなくとも、明日の世界は必ずや違って見えるでしょう。
貴方の魂がいつも傍にあると、私の魂にはきっと深く刻まれました。
こうして鏡越しに貴方と額を合わせているだけでも、気持ちが綻んで、甘やかに溶け広がっていると感じます。
…………たくさん聞いてくれて、どうもありがとう。
何も責めないでくれて、ありがとう。
ああ、月が沈んでいきます。
花の時間はもう、おしまいです。
さようなら。
可愛い、茶色い瞳の、優しいお兄様。
願わくば、また明日――――――――…………。
――――――――…………鏡台の傍らの小さな明かりが静かに消される。
薄れいく意識の中で、俺は何を叫んでいただろう。
伝えたいことがあまりに多過ぎる。
俺は俺であることがもどかしくてしょうがなかった。
「コウ兄様」じゃ、遠過ぎるんだ。
もっとあの子の近くに行きたい。
あの子の扉を開くには、どうすればいい――――――――…………?




