138-2、眠たくて幸福な日々の思い出。私が長い夜の始まりを迎えること。(後編)
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けた俺は、自警団の少女ナタリーらとの出会いを経て、サンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加する。
そこで俺達は五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムから襲撃を受け、危機感を募らせる。
その後、リーザロットの悲願であり、「勇者」の使命でもある戦の和平を実現するため、俺達は少数精鋭で、都市・テッサロスタの奪還を目指して遠征を行った。
旅はつつがなく進むかに見えたが、その途上で俺達はまたもやジューダムからの刺客と遭遇、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。
魔導師・グレンの助けにより、何とか奪還の望みを繋ぐも、ジューダムの支援を行う「太母の護手」の指導者を倒して、目標達成まであと一歩まで迫ったという時、再びヤガミが俺達の前に立ちはだかった。
大混戦の中、俺とフレイアは急遽時空の扉を潜り抜け、オースタン…………俺の故郷、地球へと逃れた。
そこで待っていた真の「勇者」こと俺の妹・水無瀬朱音と、もう一人のヤガミ……ジューダム王の肉体を連れてサンラインへと戻ってきた俺は、最終決戦に挑むため、中立国・スレーンへ同盟を持ちかけに向かう。
スレーンの頭領・シスイとの決闘に勝利し、晴れて同盟を結んだ俺達は、いよいよサンラインへと帰国する。
何も言えないでいたら、兄が頼りなく話し始めた。
「えーっと…………何と言ったらいいのか…………」
兄が片手で首の後ろを掻く。もう片方の手には、およそ兄らしくない上品で洒落た彫刻の木箱が収まっていた。
お土産かな? でも、兄ならもっとこの世に不要な感じの物を絶妙にセレクトしてくるはず。この人がくれた修学旅行のお土産とか、処分に困らなかった試しが一度も無い。(かろうじてまだ捨ててはいないけども)
ヤガミさんは兄の隣で、黙って腕を組んで様子を窺っている。捲った袖から見える案外逞しい腕に付いた、たくさんの傷跡。チラと目が合うと、ふっと大人びた笑顔になる。隠れたいけど、隠れる場所がない。
兄が言葉を続けた。
「一度、あーちゃんとちゃんと話さないとなって思って、来たんだ」
「…………何を話すの?」
「そのー…………えーと…………これからのこととか? 気になることとか?」
「何で疑問形なの。大体、そういうことならもう大概、リーザロットさんから聞いている。気になることも、ない」
「ああいや、違くて。そのー…………もっとこう、そういう、ビジネスライクではない話でー…………何て言うかー…………」
イライラしてきた。
何が言いたいのか全然わからないし、何ならもしかして、私に何か物申したくてやって来たのだろうか。
どうせ市場の件だろうな。一瞬でも喜んだ自分が馬鹿みたい。言われなくたって、騒ぎを起こすべきじゃなかったってことぐらい、よくわかっている。だから引き籠っていたのに。今更帰ってきて、わかったような口を利かないでほしい。
我慢ならず自分から攻め寄ろうとしたところを、ヤガミさんの言葉が遮った。
「もし困ったことがあったら、気兼ねなくお兄ちゃんを頼ってほしい。…………それだけだろう?」
兄がしかめっ面でヤガミさんを振り返る。ヤガミさんは淡泊な表情でそれを受け、次いで私の方を見た。
「可愛い妹ともっと仲良くしたいんだとよ。…………別に何があっても無くても、暇潰しにでも話しかけてやれば、コイツも安心するし、喜ぶと思うぜ」
柔らかだけどぞんざいな語り口に、思わずキョトンとしてしまう。
あれ…………こんな人だったっけ? 王子様はどこ?
それでも、何でか気持ちは和むから不思議だった。
兄の方を見やると、兄は気恥ずかしそうに口を引き結んでいる。何か考えているのだろうが、どうせ下手くそだ。私の兄なのだ。
私はおずおずと、尋ねた。
「…………そうなの?」
兄は何やら口の中でごにょごにょと言ってから、「うん」と紛らわしく頷いた。
「うん…………そう。その…………そのね、俺は…………俺は正直、頼りないと思うんだ。あーちゃんから見たら、普通にただのオッサンだろうし、ニートだし…………。でも、これだけは伝えたい。
俺、あーちゃんのためなら何だってするつもりだ。どんなこととだって戦うし、何からだって守ってあげたい。だから…………俺がいるところでは、もっと気を楽にしていてほしいんだ。
無理に大人ぶらないでいい。上手に生きようとしなくていい。もし「そんなこと全然考えてない!」って言うんだったら、ごめん。でも…………俺はあーちゃんが心配なんだ。あーちゃんは俺と違ってとっても責任感が強いから、独りで思い詰めて苦しんじゃってるんじゃないかって思っている。
何も話したくないなら、もちろんそれでも構わない。でも、どうか覚えておいて。俺は、どれだけ頼ってくれたって、すごく嬉しいんだ。必ず全てを叶えられるとは言わない。けど、それでも力の限り、頑張る。
…………俺達は家族だ。何があっても、俺はあーちゃんの味方だ。君は絶対に絶対に独りじゃない。…………俺が…………お兄ちゃんが、いる」
一息にまくしたてた兄は顔を赤くして、また唇を引き結ぶ。目を横へ泳がせて、首の後ろを掻き、ついに俯いてしまう。
前髪の下から遠慮がちに寄越される眼差しは、昔、泣いている私の前で戸惑っていた兄の目と全く同じだった。
心底困りながらも、私を気遣ってくれている。
私がどれだけ泣き止めなくたってずっと傍にいてくれる、優しい目。
思えば兄はいつもこうだった。
私が困っていたり、寂しがっていたりしたら、とにかく寄り添おうと一生懸命になってくれていた。
そして時々、わけわからないことを言って地雷を踏み抜く。
そして時々、こうやって、とても欲しかった言葉を掛けてくれる。
私は、そんな兄を頼りにしていたから。
かけがえのない家族だと、信じていたから。
勝手に独り離れていくこの人が、どうしても許せなかった。
追いかけていけない無力な自分への苛立ちを、この人へ向けていた。
私はきっと、この人が大好きだったのだろう。
今もきっと、変わってはいないのだろう。
私は素直になれない。
それでも、この人は私のお兄ちゃん。
いつだって同じ眼差しで、見守ってくれる。
上手にできたかなんて、気にする必要なんか微塵も無いんだけど。
少しだけ笑って、私は兄に言った。
「…………キモい」
「えぇっ!?」
兄がパッと顔を上げる。
強かに打たれたボクサーみたいに呆けている兄に、私はさらに追い打ちをかけた。
「重いし、恥ずかしいし。そもそも…………そんなこと、言われなくてもわかってるし」
「…………」
兄が瞬きし、肩を落とす。隙だらけ。どこもかしこもガラ空き。
私は一拍置き、思い切って言った。
「…………そっちこそ、無理しないでよね。話したい時に倒れられてたら、頼れないし。余計な心配させないで」
兄の顔に日差しが差し込んで、屈託のない笑顔が綻ぶ。
私は溜息を吐いて、手を差し出した。
「あっ、仲直りの握手? いいよ! ちょっと汗ばんでるけど…………」
「ちがう。届け物。グラーゼイさんから預かってきたっていうやつ。それでしょ?」
私が目線を向けると、兄はしょんぼりとして手を引っ込め、木箱を渡してきた。
「あ…………はい、どうぞ」
ちょっと可哀想だが、家族は握手なんてしない。それこそキモい。
改めて眺めてみると、やはり惚れ惚れとする装飾の箱だった。百合に似た花の透かし彫りが、全体にわたって丁寧に施されている。白い花びらの色が目に浮かんでくるようで、香りさえ瑞々しく漂ってくるようだった。
私は首を傾げ、兄に尋ねた。
「これ、中身は?」
兄はわざとらしく肩を竦めると、投げやりに答えた。
「さぁ? 知りたいなら「勇者殿」に聞けって、教えてくれなかったから。何か、前に外出した時の埋め合わせだとか何とか言ってたけど。…………あぁ、あと、あーちゃんによろしくって。よろしく~」
兄の棘のある語りを聞き流しつつ、私は「まさか」と縮込まった。
…………いや、でも、まさかね。
こんな私なんかのために、あんな立派な大人の人が気を回してくれる訳がない。「勇者」だのなんだの言ったって、所詮はただの小娘なのだ。
フレイアさんみたいに強くもなくて、リーザロットさんみたいに優雅でもない。ただの貧相な、不愛想でつまらない子供。
考える傍らで、兄が喋っていた。
「っていうかさ、どこに行ってきたの? まぁどこ連れて行かれたにせよどうせちっとも楽しくなかったでしょ? アイツ強いけどちょっと嫌なヤツだからさ。何か言われたとしても全然気にしなくていいよ! 俺なんか前にこんなこと言われてさ…………」
渡す前に綺麗に磨かれたのが、手触りでわかる。
箱の中身が気になる。
でも、どうしよう。
まだそうと決まったわけじゃないけど…………どうしよう。
「…………それでさ、アイツ目をこーんな三角にして言う訳だよ。「サンラインに魔術の心得のない戦士はおりません。男子たるもの、「獣人変化」の一つも覚えておらぬなど…………」到着したばっかの人間に言うか、普通? …………あっ、今の物マネ似てたって? 本気出せばもっといけるんだけどね。本当、格好と態度ばっかり立派でおっとなげないヤツでさぁ…………フレイアにも隙あらばパワハラばっかりするし…………」
私は箱から目を上げてヤガミさんの方を向き、頭を下げた。
「あの、今晩は来てくださってありがとうございます。その…………とっても嬉しかったです。本当に、お疲れ様でした。お身体、大事にしてください」
それから私は、未だ一人喋り続けている兄を横目で見て付け足した。
「あと、その…………こんな兄なんですが、もしよければ、これからもよろしくお願いします。今日もヤガミさんがいてくださって、本当に助かりました」
「まぁ、アカネちゃんが言うなら」
ヤガミさんもまた兄を見て苦笑する。
私は恐縮しながら、もう一度頭を下げた。
「ありがとうございます! …………今晩は、これで失礼します。もう遅いので、また明日に改めて挨拶に伺います」
「気にするな。…………それより、困ったことがあったら本当に言えよ。コウに言い難かったら、俺でもいい。抱え込むな」
「ありがとうございます。…………それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
ヤガミさんがそれとなく兄を止めに行くのを見て、私も部屋の扉の取っ手に手を掛かる。
今更気付いて引き止めようとしてくる兄にアイコンタクトだけで別れの合図を送り、私は扉を閉じた。
外から何やかんやと聞こえたが、まぁ、もういいよね。お世話はヤガミさんに任せたし、もう本当に特に話すことがない。
そんなことよりも、今は木箱の方が重要だ。
私は箱を抱えて、ベッドの縁に腰を下ろした。
心臓が高鳴っている。
嫌だな。なんでこんなに動揺しているんだろう。馬鹿みたい。
そっと箱の蓋に手を添え、木製の留め金を外す。
開くと爽やかな花の香りが広がって、気持ちが軽く舞い上がった。
中にはやはり、あの市場で見かけた朱色のショールが、さざ波のように綺麗に折り畳まれて収まっていた。
おずおず手に取って両手で広げてみる。
音色すら聞こえてきそうな、繊細な織り。
ひんやりと流れる心地良い手触りに、思わず心を奪われた。
間違いない。絶対にあのショールだ。
鏡に映る自分の平凡な姿に、夕焼けのようなグラデーションが場違いに鮮やかに映えている。
身の丈に合わないものを手にしている気がしてきて、そそくさとまた畳み直した。
…………どうしよう。
覚えていてくれたんだ。
そんなに物欲しそうに見えたのかな。
…………いや、そういうことじゃない。
ただの親切なのは、よくわかっているけれども。
「うわぁ…………どうしよう…………」
意味不明に顔が火照ってくる。暑い。
どうしようも何も、どうしようもないのだけど、でも、どうしたらいいのだろう。
初めて男の人にプレゼントをもらってしまった…………。(兄と父を除く)
ああ、折角兄と仲直りできてホッとしたのに。
ようやく気持ち良く寝付けるかと思ったのに。
これじゃとても眠れないよう…………。




