134-2、アオイ山の激闘。俺が前人未踏の気脈に挑むこと(後編)
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けた俺は、自警団の少女ナタリーらとの出会い等を経て、サンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加する。
そこで俺達は五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムから襲撃を受け、危機感を募らせる。
その後、リーザロットの悲願であり、「勇者」の使命でもある戦の和平を実現するため、俺達は少数精鋭で、都市・テッサロスタの奪還を目指して遠征を行った。
旅はつつがなく進むかに見えたが、その途上で俺達はまたもやジューダムからの刺客と遭遇、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。
魔導師・グレンの助けにより、何とか奪還の望みを繋ぐも、ジューダムの支援を行う「太母の護手」の指導者を倒して、目標達成まであと一歩まで迫ったという時、再びヤガミが俺達の前に立ちはだかった。
大混戦の中、俺とフレイアは急遽時空の扉を潜り抜け、オースタン…………俺の故郷、地球へと逃れた。
そこで待っていた真の「勇者」こと俺の妹・水無瀬朱音と、もう一人のヤガミ……ジューダム王の肉体を連れてサンラインへと戻ってきた俺は、最終決戦に挑むため、中立国・スレーンへ同盟を持ちかけに向かうのだった。
――――――――…………。
誰なのか。
何なのか。
あれの正体を、彼女は知っているという。
「とても古い世界の主よ…………」
囁き声は優しく澄んでいる。
リーザロットに似ている。というよりは、彼女本人なのだろう。この女性は彼女が見せる、「蒼の主」の魂の一面。
「蒼の主」は、決して一重の存在ではない。
白く透き通るような肌が暗闇の中、眩しい。
雪像のような裸体に、俺は恍惚としていた。
彼女は指先から花びらを散らせて俺を撫で、言葉を継いだ。
「でも、皆忘れてしまったの。
…………いいえ。本当は皆、ちゃんと知っている。
それでも、決して彼女を想い浮かべることができないの。かつて人々が…………誰よりも彼女自身が、そういう在り方を望んだから」
蒼玉色の揺らめく眼差しは闇の底をしんみりと見つめている。
俺はそれを追って視線を伸ばす。
女神は俺の背をトンと柔らかく押し、ふわりと宙へ浮き上がった。
「私の大切な人。ここからは貴方が先に行ってください。これは貴方の物語であるべきなのです。
貴方がこれから会いに行くのは、とても古い主。
だけど、最も新しい主。
…………大丈夫。貴方ならきっと歌えます」
待って、と叫んだが届かなかった。
蒼の主は花吹雪となって儚く散り、静かな月光を後に残すのみになった。
彼女の言葉だけが頭に響いた。
「大切な人。どうかよく思い出してみてください。貴方は知っているはずです。この力場のことを。この力場を探し続けてきた子達のことを。
…………思い浮かべて」
…………手を伸ばすと、かすかに白い指先が触れた。
――――――――…………ふと、ツーちゃんの顔が思い浮かぶ。
何となく、この暗闇とぼんやりとした気配に、彼女の魔術を思い出したのだった。
それと一緒に、彼女そっくりのヴェルグの澄ました顔も、ふっと瞼の裏に映って消えた。彼女の呪いの力場もこんな漠然とした闇を抱えていたような…………。
懐かしくも寂しげな琥珀色の瞳と、思い出すだに禍々しい黄金色の瞳が、何か探すように一瞬だけ交差して闇の内へと溶けていく。
…………今のはなんだ?
まさか、彼女達がここに?
「いいえ」
蒼の主が、そっと俺を諭した。
「それは貴方の心が映した気脈の姿。ここでは…………ううん、どこであっても、貴方の心が世界を形作るのです。
さぁ、よく見て。…………ここは永久の闇の中ではありません。貴方の心が映し出すものを、きちんと見つめてあげて」
――――――――…………真っ白な身体にチラチラと燃える炎をまとった火蛇が、俺の身体をこそっと撫でて過ぎ去った。
円らな2つの瞳。
揺れる二又の小さな舌。
レイピアの冷たい銀色が炎を鈍く照らし返している。
火蛇が何を訴えているのか、俺にはわかっていた。
痛い程に胸を締め付けてくる、フレイアの感情の片隅で熾火のようにくすぶっている淡い期待。
「いつかきっと、誰かが世界を変えてくれる」という、夢想することさえ大それた想いが火蛇をこうさせるんだ。
ずっと、何となく気付いてはいた。
彼女はいつだって心の奥底で願っている。
自分でもそうと知らずに。
――――――――…………灰青色の湖。
鏡のように果てしなく広がっている。
虚無に似ている感情、感傷。
だけどそれとは確かに違う。そういう色をしている。
彼は魂を求めている。
あると知っているから。
何もかも無意味だと知っている。
そしてそれを信じていない。
彼は生きたがっている。
さらに見果てぬ夢を吠えるなら、愛したがっている。
――――――――…………白々と冴える、蒼の主の眼差し。
花吹雪が華麗に舞う。
伝わるは少女の好奇心。
女神は一心に祈っている。
森羅万象その全てが、慈しまれ愛されてあることを。
――――――――…………琥珀色と黄金色の気配がゆっくりと混ざり合う。
針の先がピンと弾かれる微かな音と、黒い奔流のドッと押し寄せる音が響き和する。
音も無く落ちていく針が強張った灰青色の水面に波紋を走らせる。
ひんやりと澄んだ月光が刃物のような水面を明るく照らし出す。
白い蛇が2匹、互い違いに身をくねらせて泳いでいった。
水を引いた後には、ポツポツとささやかな炎が灯っている。
俺は弱々しく人魂じみた炎を一つずつ辿って、呼吸を整えた。
そうして蒼の主に目配せをした。
「…………ありがとう、リーザロット」
「どういたしまして、コウ君」
聞き慣れた声。
俺は安堵し、今一度、気脈の最深部へと挑んだ。
…………。
……………………。
――――――――…………いる。
相も変わらず、黙りこくっている。
とても古い何か。
遠く時の彼方に葬られたもの。
かつては誰もがその名を口にしていた。
今はただ、影の主…………――――――――。
――――――――…………ゆくりなく、暗闇に火焔が立つ。
影よりなお濃い、黒々と血の通った炎。
火炎はほんの刹那、翼を広げた鳥の形を成したかに思えたが、すぐに灰となって闇に散っていった。
残された静寂の中、琥珀と黄金の輝きが星空となって空を飾り始める。
すっかり風に運ばれ消え去ったかに見えた灰の塵は、まだかろうじて宙に浮かんでいた。
ツーちゃんの居丈高な声が響いた。
――――この阿呆めが!
あどけない少女の声は矢継ぎ早に話し続けた。
――――なぁーにが、「影の主」だ!
――――何にも見えないよう~、僕ちん全然わかんないよう~! って、年端も行かぬ童ならばともかく、貴様は一体いくつだ? オッサンが如何にか弱いふりをしたとて、薄気味悪いばかりだ!
――――ハァ。全く、そのようではいつまで経っても先が思いやられるわ。
――――皆が忘れた? 誰も知らない?
――――馬鹿めが。
――――では、今そこにおる貴様は何だ?
――――貴様は今、それを見ているのではないか?
――――ああ、そうだ!
――――他でもない、貴様が! それを知っておるではないか!
――――それとも何か? 誰ぞに印鑑付き証書付きで保証してもらわねば、己の目にしたものすら信じられぬと抜かすか?
――――ハッ! どこまで行っても貴様はワンダ以下だな!
――――…………コウ!
――――貴様はもう魔術師であろう。
――――魔道を行くと、心に決めたのであろう。
――――ならば、己が魂を信じよ!
――――貴様が今再び見出し、瞳に映しているそれに、名を与えるのだ。
――――わからぬとは言わせぬぞ。この世界に、唯一人として観客なぞという者はおらぬ。
――――貴様は、物語なのだ!
――――貴様が、物語るのだ!
――――コウ。
――――私は貴様を甘やかさぬぞ。
――――貴様の行く道だ。
――――…………行け。
――――扉の魔術師――――――――…………!
両手を広げて、赤いワンピースの少女が俺へ笑いかける。
彼女の琥珀色の眼差しが、俺の逆鱗を温かく、心地良く燃え上がらせた。
――――――――…………ヤガミが俺を呼んでいる。
我に返った時、俺は荒れ狂う空の真っ只中にいた。
驚いたことに(俺の相棒に任せていたなら、当然でもあるが)、まだ白竜ともシスイともそれ程離れていなかった。
ただ、雲塊はもう、うんと間近にある。
火蛇の炎の結界が、太陽みたいに白熱していた。
いつの間にかヤガミの剣から離れて、2匹で守っている。
「コウ! 大丈夫なのか!?」
乗り手の切羽詰まった呼びかけに、俺は揚々と答えた。
「ああ、大丈夫だ!
俺、これから魔術を使うぜ! 行きずりの扉に頼るだけじゃない、ミナセ・コウの魔法を見せてやる!」
「…………ハァ!?」
ヤガミが手綱を握る手をわずかに緩める。
俺は高らかに、ホイップクリームを泡立てるように、思いきり声を張った。




