127-2、若き竜乗りの夜間飛行。空と大地の狭間にて。俺が孤独な旅路の道連れとなること。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けた俺は、自警団の少女ナタリーらとの出会い等を経て、サンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加する。
そこで俺達は五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムから襲撃を受け、危機感を募らせる。
その後、リーザロットの悲願であり、「勇者」の使命でもある戦の和平を実現するため、俺達は少数精鋭で、都市・テッサロスタの奪還を目指して遠征を行った。
旅はつつがなく進むかに見えたが、その途上で俺達はまたもやジューダムからの刺客と遭遇、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。
魔導師・グレンの助けにより、何とか奪還の望みを繋ぐも、ジューダムの支援を行う「太母の護手」の指導者を倒して、目標達成まであと一歩まで迫ったという時、再びヤガミが俺達の前に立ちはだかった。
大混戦の中、俺とフレイアは急遽時空の扉を潜り抜け、オースタン…………俺の故郷、地球へと逃れた。
そこで待っていた真の「勇者」こと俺の妹・水無瀬朱音と、もう一人のヤガミ……ジューダム王の肉体を連れてサンラインへと戻ってきた俺は、最終決戦に挑むため、中立国・スレーンへ同盟を持ちかけに向かうのだった。
竜達の厩舎は、本宮の傍らにひっそりとあった。馬の厩舎とよく似ているが、一部屋はそれよりもかなり大きい。
以前フレイアと乗った緋王竜のセイシュウと同じぐらいの通常種もいれば、タリスカとナタリーが乗っていた藍佳竜よりも、もっと大きな竜もいた。
皆、水辺に佇むワニのように、たっぷりと夜の染みた藁の上でじっと身を潜めている。暗いので姿がよく見えないのが惜しい。時折月の光に照らされて、彼らの金色の瞳がキラリときらめいた。
シスイが、彼にしては弾んだ声で言った。
「さて、誰と行くかな? と言っても実はもう決めているんだが。…………おいで、スイコク」
言いつつ彼はある竜房から比較的大きめの一頭を選んで引いてきた。暗くてはっきりしないが、灰みがかった白い竜である。瞳は金貨みたいに丸く輝いている。
スイコクは特に不愉快そうな様子を見せるでもなく、パッチリと瞬きして俺を見た。
「安心してくれ。全く人見知りしないから」
「はぁ」
「灰香竜って言うんだ。珍しいだろう?」
「はぁ」
わかんないけど。
シスイは全く気にかけず、スイコクを鞍やらハーネスやらのどっさりと置かれている部屋へと連れていくと、いそいそと彼に一式を括りつけ始めた。
横顔からでも上機嫌なのが見て取れる。
竜に触れている時の彼は血色が良い。竜に話しかける表情なんかは、彼が里の頭領だなんてことを簡単に忘れさせてしまう程に無邪気だ。
ただの若き竜乗りのシスイは、むしろ頼りがいがあった。
「よしできた。行こう」
シスイが俺を誘い、スイコクと共に外へ出る。
彼は着物の裾を翻して颯爽と竜に跨ると、俺に後ろへ乗って命綱を付けるよう言った。
「え…………これ、ですか…………?」
渡されたそれは、あまりに普通の縄であった。皮製ですらない。ただの薄汚れた荒縄だ。
不安を吐露すると、シスイは事もなげに返してきた。
「平気さ。今晩は風が穏やかだし、あんまり激しく飛ぶつもりもないから」
「でも、何だか…………ちょっと、ほつれているような気も…………」
「あぁ、古いからな。だが結び目は確かだろう。…………安心していい。万が一落ちたら、ちゃんと拾うから」
屈託のない笑顔が月夜に眩しい。
そういう問題じゃない! と叫びたい一方で、シスイなら本当に拾ってくれそうとも思える。彼の腕が確かなのは、よくよく承知している。
観念しておずおずと竜に乗ると、シスイはスイコクの腹を蹴って直ちに彼を出発させた。
「さぁ、飛ぼう!」
スイコクが風となって駆ける。
広がった翼が向かい風を孕んで、その身体を大地から力強く浮き上がらせた。
地の上の川を滑るような、一瞬の不思議な感覚の後、灰白の翼が大きく雄々しく羽ばたいた。
一度、二度、三度。より強く、さらにしなやかに、羽ばたきが続く。
身を切る冷たい風に、たちまち胸にわだかまっていた曇りが斬り裂かれていった。
代わりに湧き起こってくる高揚感に、思わず笑みがこぼれる。
何の飾りも衒いもいらない、ただただ感情が迸るに任せた。
シスイは鋭く口笛を吹き、月へもまっしぐらな急角度で竜を昇らせていった。
星空が流れていく。
煌々と照る月の映し出す山脈の影が、まるで巨人の背のようで、何だか夢の中を泳いでいるような心地だった。
地上は真っ暗で何も見えない。時々、山肌に沿って集落の明かりがポツポツと灯っている。
高い。そして寒い。
目の前にシスイの背中がなければ、心細くて堪らなかっただろう。
シスイの黒い短い髪が風に揺れている。オパールの耳飾りが白々とチラついて見えた。
「あの…………シスイさん」
「ん?」
俺の存在を今、やっと思い出したかのような声が返ってくる。
薄々そんな気配は感じていたので驚きはしないが呆れはする。
俺は彼に、ようやく尋ねることができた。
「どうして俺を連れてきたんです?」
シスイはほんのちょっと宙を仰いで考えてから、振り返らずに答えた。
「…………君が異邦人だから、だろうな」
彼はそのまま静かに続けた。
「誰でもない誰かと話したかったんだ。こうして空にいる間は、いつもそんなことを考えている。だけど本当に誰かと言葉を交わしたことは、一度も無かった。
…………皆、必ず誰かだった。俺自身だってそうだ。名前から離れて、ただ語りかける自由は誰にも許されない。…………だから、ひたすらこの空と大地と竜に向かってだけ、思いを投げていた」
スイコクが夜を滑らかに切って滑っていく。
どこかから獣の遠吠えが聞こえた。闇に吸い込まれて消えていく。
シスイは続けた。
「…………何も考えずに飛ぶのが好きなんだ。どこまでも、それこそ魔海ギリギリの果ての果てまで、飛んでいく。何の目的も無く。立ちはだかるものを夢中で潜り抜けて。…………そうして、ようやく竜と一つになった時、俺は誰でもなくなるんだ。
目の前がスッと開けて、透き通る。…………美しい景色だ」
独り言のようでありながら、言葉は確かに誰かへ向かって放たれていた。それが俺なのかどうか、気にするべきではないのだろう。
彼は切実に求めている。魂で感じられる、触れられる何かを。
だがそれは、今は空と竜では足りない。思いを漂わすだけでは、彼はこの夜に溶けられない。言葉を受け止める「誰か」が要る。
できるだけ名前の無い、「誰か」。
シスイは淡々と話した。
「…………刹那の自由。…………針の穴を通すような極限の飛行の最中に、その瞬間は訪れる。
…………だがな、それはあっけないものだ」
俺は相槌すら打たない。
向こうも求めていないだろう。
竜乗りはこぼれ落ちた星の欠片でも拾い集めるみたいに、言葉を繋いだ。
「地上に帰ってくると、途端に色褪せる。あの景色が夢幻だったならばまだ良い。砕けて跡形も無くなるものなら、諦めもつく。
…………だが、あれは確かにあるんだ。俺の魂は覚えている。むしろあれだけが真実だと…………そう叫びたくなる程に」
シスイの飛行は安定していた。
かなりの速さで飛んでいるのが、着物のはためきでわかる。時々スイコクが翼を打つ音が快く山間に響き渡る。
遥かに横たわる銀河が不思議と懐かしい。
獣の遠吠えがまた、細く長く夜を貫いた。返る声は無い。
シスイはなおも思いを紡ぐ。
「…………わかっているんだ。一瞬をどれほど積み重ねても、永遠にはならない。俺は名付けられた生き物だ。大地の上で生まれ、育てられた。竜がかろうじて俺を空に繋ぎ留めてくれているに過ぎない。
例え己が頭領の血筋でなかったとしても、あの空の向こうへ行くことはできない」
全部ぶっちぎってしまえばいいのに…………なんて、言ってみても始まるまい。
それができるならもうとっくにしているはずだ。
そうだろう?
彼はまるで聞こえたみたいに頷いた。
「そう、できないんだ。俺は里を愛している。どんなに煩わしく絡みついてくる糸だとしても、この地の織りなす全てが、どうしようもなく愛おしい。
皆、俺と同じなんだ。ほんの幼子から、年寄りまで。誰もがこの空と大地を深く愛している。…………俺は竜の子らの空を紡ぎたい。あの刹那の自由を、この里に永く刻んでいきたい。
加護の外までも。
…………でも、ダメだ。独りきりで飛び出したところで、それは」
――――幻だ。
オパールのきらめきが、星の瞬きに紛れる。
スイコクはゆっくりと旋回しつつあった。緩やかで落ち着いた翼のしなりに、いつも惚れ惚れとする。
景色がするすると回る。微かな遠心力に、俺は少しだけ強く手綱を握った。
ほのかに眠気すら覚える、寛いだ飛行。スイコクの魔力はややしょっぱくて苦くて、海の味に似ていた。
俺はシスイに何と声を掛けようか考えていた。
というより、声を掛けるべきか否か悩んでいた。
里を愛する気持ちは誰もが同じだ。
竜と生まれ、空を翔け、大地で眠る。
この地を守り、織り上げる、竜王の加護。
今の俺は誰でもない。時空の向こうから流れてきた、ただの旅人だ。
連綿と紡がれてきた糸の端にほんの指先で触れているばかり。
何か言えることがあるだろうか?
しばらく夜風の中を飛んでから、シスイがポツリと言った。
「…………悪いな、コウさん。付き合わせて」
シスイが振り返る。
まどろむ竜のように穏やかな表情だった。
「いいですよ。…………飛ぶのは、楽しいです」
「そうか。それなら良かった。俺はまた、途中で眠らせて落としてしまったらどうしようかと心配だったんだが」
「その時は拾ってくれるんじゃないんですか?」
「出来ない時もある」
「そんなぁ」
くっくと笑い合う。
どこかで獣が吠えている。
耳を澄ませていたら、今度は遠吠えが返ってきた。
無数の星が踊っている。
月が高い。
シスイが、また振り返って話した。
「ところで、君の友人のヤガミ君はどこに連れ去られていったんだ? この周辺は裂け目の影響で、深夜は相当にヤバいぞ」
「あー…………まぁ、それはきっと大丈夫でしょう。一行の中で一番強い人間がすでに2人、ついてます」
「それもそうか。…………何だっけか、修行?」
「そうですね。修行です」
「…………哀れになぁ」
「まったく…………」
俺はしみじみ頷いた。
攫われ際のヤガミの叫び声がふと耳に蘇る。できることなら、いつかアイツにもこの空を見せてやりたいものだが。
俺のリクエストで、もう一巡りしてもらってから俺達は里へと帰った。




