126-2、キリンジ兄妹と偉大なる先代頭領。俺が見守るべき竜のさだめのこと。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けた俺は、自警団の少女ナタリーらとの出会い等を経て、サンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加する。
そこで俺達は五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムから襲撃を受け、危機感を募らせる。
その後、リーザロットの悲願であり、「勇者」の使命でもある戦の和平を実現するため、俺達は少数精鋭で、都市・テッサロスタの奪還を目指して遠征を行った。
旅はつつがなく進むかに見えたが、その途上で俺達はまたもやジューダムからの刺客と遭遇、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。
魔導師・グレンの助けにより、何とか奪還の望みを繋ぐも、ジューダムの支援を行う「太母の護手」の指導者を倒して、目標達成まであと一歩まで迫ったという時、再びヤガミが俺達の前に立ちはだかった。
大混戦の中、俺とフレイアは急遽時空の扉を潜り抜け、オースタン…………俺の故郷、地球へと逃れた。
そこで待っていた真の「勇者」こと俺の妹・水無瀬朱音と、もう一人のヤガミ……ジューダム王の肉体を連れてサンラインへと戻ってきた俺は、最終決戦に挑むため、中立国・スレーンへ同盟を持ちかけに向かうのだった。
白竜の間があった本宮の片隅に、先代頭領の部屋はあった。
普段彼が暮らしているという居室とは御簾で区切られただけの応接間のような空間へと通され(役目を終えると、使者は煙となって消えた)、俺とリーザロットは腰を下ろした。
そこではすでにシスイが待っていた。
俺達と同じく、先代に呼ばれたのだという。
「久しぶり」
シスイが力無く微笑んで言う。
リーザロットは苦笑して「ご無沙汰しております」と返し、俺は早速尋ねた。
「大丈夫でしたか? あの後」
シスイは肩と首を叩く仕草をし、軽く息を吐いて答えた。
「まぁ、何とかな…………。そっちこそ、何ともないか?」
心底不憫といった面持ちでシスイが俺を見る。
彼は俺の頭のてっぺんから爪の先まで、神隠しにあってふいに帰ってきた子供を調べるようにくまなく視線を巡らせ、こぼした。
「…………ひとまず無事のようだな」
「あの…………皆にそんな風に言われるんですけど、特にひどいことは何もされていませんよ? あんまりあの子を乱暴者みたいに言うのは、ちょっと気が引けます」
実際、俺が見ている限りで言えば、アオイは身内にはとても親切だった。
そもそも人権ガン無視な扱いをされていることにさえ目を瞑れば、俺にだって優しい。
ここの里の人達は少々彼女を恐がり過ぎているのではないかと思う。
シスイはやれやれと口には出さず首を横に振り、諦め混じりの淡々とした口調で言った。
「乱暴者、か。それだけだったならどれだけマシか…………」
俺が真意を質そうとした時、折良くというか悪しくというか、まさに当人が入ってきた。
「ミナセ!!! この馬鹿者が!!!」
開口一番の罵倒に続いて、突撃してしてきたアオイは持ち前の力技で俺の胸倉を掴み上げた。
「うっ、ぐ、ぐるじい…………はなじで…………」
「離すものか、離すものか!! どうして逃げた!? どうしてわらわから逃げた!? おぬしは言うたはずじゃ、わらわといると!! この大嘘吐きめ!! 裏切り者め!!」
「ちがっ…………あでは、うぞじゃ、なぐで…………」
「抜かすな! 嘘だったであろうが!!」
より強く、アオイが俺を締め上げる。
マジで息ができなくなって何も答えられずにいると、彼女の手をシスイが掴んだ。
「やめろ、アオイ」
「兄上には関係無かろう! 下がっておれ!」
「離すんだ」
シスイが強引にアオイから俺を引き剥がす。解放された俺は咳き込みつつ、険悪に睨み合う二人を仰いだ。リーザロットが近くに寄ってきて背中を撫でてくれる。下手に口を出せば余計に刺激しそうなので、俺達はどちらも黙っている。
アオイは般若の如く顔を歪ませ、シスイを怒鳴りつけた。
「兄上! そもそもなぜこやつらがここにおるのじゃ!? よもや兄上が連れてきたのではあるまいな!? 父上がどのような状態か、知らぬとは言わせぬぞ!」
シスイは顔を顰め、抑えた調子で話した。
「違う。父上ご自身がお呼びになった」
「何じゃと!? 父上は一体何をお考えなのじゃ!? こやつらに聞かせる話など何も無い! 何一つ無い! 全て我らだけの問題じゃ!」
「こやつら」とひとまとめにされて、若干寂しいのはどうしたことか。
仕方が無いこととはいえ、アオイを幻滅させるのはやはり忍びない。口は悪いが、決して根っから悪い子ではないのだ。きっとどこかの大魔導師みたいに、あるいは俺の可愛い妹みたいに、素直になれないだけなのに。
アオイはリーザロットを見下ろし、これ見よがしな溜息を吐いた。
「そちも、よくもまぁのこのことやって来たものじゃ。三寵姫だか何だか知らぬが、そちのような恥知らずの言葉になど誰も耳を傾けはせぬぞ!
畢竟、困っておるのはサンラインだけじゃ。我らは我らのみでどうとでもできる。それを…………そちのその目は何じゃ? その、自分以外の何もかもを憐れむような、慈しんでやるのだとでも言いたげなその目は!? どうせ己のみが主の眷属に能うと、甚だしく思い上がっておるであろう? ふん、たかが下界の小娘風情が! 見られておるだけで虫唾が走るわ! …………」
アオイの視線が寸時、俺へと移る。
だが何も言わず、すぐに目を逸らした。
大方、俺以外を罵るなと頼んだことがまだ頭に残っていて気まずいのだろうが、気にするぐらいなら言わなければいいのにな、全く。
「アオイちゃん、俺達は…………」
堪り兼ねて俺が話しかけた時、部屋の奥の御簾が静かに上がった。
「父上」
シスイが即座に頭を下げる。次いでアオイとリーザロットが、最後に俺が何秒か遅れて下げた。
空気を読みつつ周りと合わせて顔を上げると、そこには着流し姿の、よく日に焼けた中年の男性がいた。
白髪交じりの黒髪は年老いてやや薄くなっているが、それでも颯爽と整えられている。シスイやアオイと同じ、黒く奥ゆかしい光を灯した眼差しが、穏やかな顔貌の中で一際鋭く冴えている。目尻に湛えられた皺が、どことなく竜の首筋のひだに似ていた。
この人とは一度会ったことがある。奉告祭の時、紡ノ宮でだ。
男性は丁寧な口調で、俺とリーザロットに言った。
「やぁ、よくぞお越しくださいました。どうぞ、座ってください」
形こそ俺達に向けられたものだったが、それは実質、シスイとアオイに向けられた命令でもあった。
兄妹はすぐさま腰を下ろすと、居住まいを正して先代頭領と向き合った。
俺とリーザロットはそんな二人の隣に座り直し、改めて挨拶をした。
「蒼の主、リーザロットでございます」
「…………ミナセ・コウです」
自分で「勇者」を名乗るのは勇気がいることな上、今となっては、それは嘘ですらある。できなかった俺をどうか責めないでくれ。
先代は礼儀正しく自分も頭を下げ、微笑を浮かべた。
「奉告祭以来ですか。お二人とこうして直接に言葉を交わせることを、光栄に思います」
そんな大層なもんじゃないと謙遜したくなるが、今は茶々を入れるのはよそう。それに俺はともかく、リーザロットはれっきとした一国の姫君なのである。むしろこれまでがおかしかったのであって、こういう対応の方が自然だ。
先代は昼下がりの陽光のような眼差しを俺達へ向け、話し始めた。
「…………改めまして、私はユースイ・キリンジです。先年まで、里の頭領を務めておりました」
あれ? だとしたら、どうしてこの間の奉告祭に?
疑問が顔に出ていたのか、先代は言葉を付け加えた。
「と言いましても、実はまだ正式な代替わり…………竜王様への奉告は致しておりません。里ではすでに倅のシスイが頭領として動いておりますが、外に対しては、未だ私が役を担っているという次第です。………つまりまぁ、名ばかりの隠居ですよ、私は」
シスイの横顔をそれとなく覗き見てみると、何やら気難しい、複雑な表情をしていた。隣のアオイはいつになく楚々としてしおらしく、別人のようですらある。
一族会議で耳に挟んだ誰かの囁きがふと頭に浮かんだ。
「つまり、正当な頭領は…………」…………「いや待て、早計だ」…………「しかし」…………。
リーザロットが物腰柔らかに、だが直球で尋ねた。
「なぜ奉告をなさらないのですか?」
先代は意外なぐらいアッサリと答えた。
「引継ぎの奉告は、必ず里の民と共になされなければならないのです。竜王様の加護は、それだけ強大なお力ですので」
「…………わかります」
リーザロットが神妙に頷く。
要するに、やはり里の内部で未だに揉めているからという話か。
もう一度シスイを見やると、今度は目が合った。彼は一瞬何か言いたそうにして、結局また煮詰まった面持ちで俯く。
それにしても、こうして比べてみるとシスイは先代とそっくりだった。瞳や髪の色もそうだが、身体つきまで瓜二つである。先代にはさすがに年齢の翳りが見えるものの、それでもなお、長年数々の竜を乗りこなしてきたであろう逞しい腕と、空の強烈な日差しを浴びてきた肌には、これぞスレーン人という、からりとした清々しさがある。
シスイは視線を先代の方へと向け直すと、沈んだ声で言った。
「…………父上、そろそろ本題に入られては」
「ああ…………そうだな」
先代はシスイがよくするように、わずかに顎を引いて頷くと、俺達全員を見つめて話を切り出した。
「今宵集まっていただいたのは、貴方がたにこの里の行く末についてお話するためです」
アオイが冷たく燃える瞳を大きくする。膝に置いた手に強く力がこもるのが、横目に見えた。
先代は露を置くように、丁寧に言葉を継いだ。
「私はある病に身体を蝕まれております。若き日に裂け目の魔物と戦った時の古傷です。今ではもう日の下を歩くことも叶わず、竜に跨ることさえできません。かつては千里先をも見通すと誇ったこの目も、最早我が掌の皺さえ覚束ないものとなり果てました」
リーザロットが労しげに長い睫毛を伏せる。
シスイとアオイも我が事の如く、先代の運命を悲しんでいる。
深い同情の中、先代は淡々と話を続けていった。
「太古より我々スレーン人は、北の裂け目の魔物と闘争を続けてまいりました。それは我らを鍛え、我らの竜を磨き上げました。…………幾度もの過酷な試練が、この小国を大国同士の戦から守ってきたとすら言えるでしょう」
スレーンの竜と魔術は、良くも悪くもこの大地が育んだもの。
美麗な織物やあの澄んだお酒やお茶も、ただただ恵みとして与えられたわけではない。豊かな気脈は色々なものを息づかせている。人も、魔物も、そのどのどちらとも言えないものも。
里の人々は生き抜いてきた。そして同時に、生かされてもいる。
何となくしみじみとした気分でいると、先代にふいに話を振られた。
「「勇者」殿」
「はっ」
顔を上げると、つくづくシスイそっくりの遠慮がちな微笑がそこにあった。
「そのように驚かれずとも、私はどこへも攫いはしませんよ。貴方のことは倅達から詳しく聞いております。特殊な魔力の使い手で…………「扉の魔術師」」
「ああ、いや…………魔術師なんて大層なものでは、決して…………」
「いいや。此度の戦では、貴方の存在こそが世界の鍵となる。サンラインの伝承には、そう綴られているのでしょう」
ごめんなさい。俺、「勇者」じゃないんです。
今更白状できるわけもなく、俺はぎこちなく笑った。
先代は真面目な顔で、諭すように語った。
「しかも貴方は、竜の縁者だ。竜の因果を持つ者は、この里ではただの客人ではない。貴方は訪れが約束された旅人です」
「えっと、すみません。それはどういう…………」
「スレーンの言い伝えです。「国乱れ、天地裂ける時、遥か遠方より旅人が訪れる。竜の縁者を迎えよ」という」
「…………俺が、その旅人だと?」
「少なくとも、貴方は竜と縁がある。そして今まさに、スレーンとサンラインの大地には空前の危機が迫っている」
「…………」
信じられない、という思いと、白竜の間で耳にしたお告げとが入り混じる。
あるいは、本当のことかもしれない。
その時アオイが初めて、発言した。
「父上、お話を遮り申し訳ございません。ですが、そのような伝承は、わらわは聞いたことがございません。いずれの文献に記されているのでしょうか?」
先代はアオイの方を向くと、優しい声音で言った。
「アオイ。これは頭領にのみ伝わる口伝だ。誰よりもこの地の物語に詳しいお前でも、知らなくても無理はない。シスイにもまだ伝えていないことなのだ」
「そうなのですか…………」
アオイがションボリと俯く。
父や兄とは対照的な、初雪のように真っ白な肌が一層不憫さを増した。俺が見ていることに、彼女は全く気付いていない。ついさっきまではおとなしくしていれば素敵なのにと思っていたけれど、実際にそうなってみると物凄く不安だ。
先代は労わりの眼差しを少しアオイに残しつつ、また話を始めた。
「そうしたわけで、「勇者」殿を蒼姫様と一緒にお呼びいたしました。
今も、里は裂け目の魔物・黒矢蜂の脅威にさらされております。魔物は気脈から力を吸い上げ、遠からず里に深刻な飢饉をもたらすでしょう。…………だが、激しい戦の迫る今、魔物の討伐に人と竜を割くことは困難です」
先代が一度口を噤む。
黒くゆかしい、真珠のような不思議な眼差しが瞬き、また開かれる。
彼ははっきりと、揺るがない口調で告げた。
「私の寿命はもう長くありません。夜毎、光や音の遠退くのが速まっていくのがわかります。このままであれば、私は戦の到来を待たずして竜王様の御許へ参るやもしれません」
「父上! そのような弱気は…………っ」
「アオイ、聞きなさい」
立ち上がりかけたアオイを、先代が制する。
シスイは父を、それこそ睨み付けるような表情で見つめていた。悲しみ、怒り、悔しさ、戸惑い。様々な感情が入り乱れた彼の表情は、見る者を竦ませるのに十分だった。
先代はシスイとアオイに向かって――――間違いなく、彼らに向かって話していた――――こう言った。
「それまでに、正式な引継ぎの儀を行わねばなりません。こればかりは、絶対にやり残すわけにはいかぬ仕事です。
…………明日、代替わりの奉告を行います。蒼姫様、「勇者」殿も、どうかご了承頂きたい。その時に里と竜王様に認められた正式な頭領が、これからのスレーンの道を選びます」
兄妹の視線は交わらない。
眼差しは黒く熱く、濃く重たい霧となってたゆたっていた。




