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扉の魔導師<BLUE BLOOD RED EYES>  作者: Cessna
【第10章】枝分かれする我がカントリー・ロード
222/411

111-1、途切れ繋がり絡まる時空のカントリー・ロード。俺が「運命の君」に嫉妬すること。

 ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。

 「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けた俺は、自警団の少女ナタリーらとの出会い等を経て、サンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加する。

 だがそこで俺達は五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムから襲撃を受ける。

 辛くも危機を脱した後に、俺達は少数精鋭で、都市・テッサロスタの奪還を目指し遠征を開始する。

 旅はつつがなく進むかに見えたが、その途上で俺達はまたもやジューダムからの刺客と遭遇、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。

 戦いの最中で仲間とはぐれ、満身創痍の俺達の下に現れたのは魔導師・グレン。彼は俺達に救いの手を差し伸べ、再びテッサロスタの奪還へと挑ませる。

 そして無事、ジューダムの支援を行う「太母の護手」の指導者を倒し、奪還まであと一歩という所まで迫った俺達。

 しかしジューダムの王はそんな俺達を見逃さず、俺はフレイアと共に急遽時空の扉を潜り抜け、オースタン…………俺の故郷、地球へと舞い戻ることとなった。

 そこで待っていたのは、真の「勇者」こと俺の妹・水無瀬朱音と、もう一人のヤガミであった。

 ヤガミの家から俺の実家へと向かう道中は、俺にとって地獄以外の何物でもなかった。


 まず、何よりとにかく真っ先に、二日酔いがヤバかった。

 最後までリバースしなかった俺の根性は、それなりに認められていいものだと思う。


 だって、普通にシートに座っていられたわけじゃないんだぜ?

 海辺の公園から逃げてきた時と同様に、俺とフレイアはずっとセイシュウと車の天井との隙間に埋まっていた。


 さらに言えば、セイシュウが窓の外の景色に刺激されないよう、そして窓の外の人々がセイシュウに驚かないよう、窓には分厚い布が張られていた。(多分、これも違法行為)

 日差しが暑いのでかろうじて少し窓は開けていたものの、あの窮屈さは耐え難いものだった。


 乗り物酔い、プラス二日酔い。

 もう本当に、壮絶な苦しみだった。


 で、窮屈と言えばだが。

 どういうわけかあーちゃんとフレイアが気まずい感じなのも、地味に苦しかった。


 決して険悪な雰囲気ではないし、表面上は仲が上手くいっていないようには見えない。笑顔での柔らかい会話と、ちょっとした親切の応酬を見ていると、むしろ良好な関係を築いているかに見える。


 しかし、俺にはわかる。長年同じ屋根の下で暮らしてきた俺には、我が妹の、何か腹に据えかねている時の不機嫌な気配が、ひしひしと感じられた。

 露骨に何かを拒否している時の、微かな目つきの変化。俺はそれを見逃さない…………というより、習慣的に見逃せない。


 助手席のあーちゃんはバックミラー越しに観察している俺に目敏く気付き、


「…………何?」


 と、低い声で振り向きもせず尋ねてきた。

 俺はその声で、最後の確信に至った。

 ダメだ。これ、本当にダメなやつだ…………と。



 俺の家の前の道にヤガミの馬鹿でかい外車が入り込めなかったため、仕方なく俺達は裏手の神社の方へと車を回した。


「この神社の境内を抜けて行こう。ここ、滅多に人は通らないから、大丈夫なはず」


 俺がヘロヘロの状態で言うと、フレイアが首を傾げた。


「人は…………と申しますと、他に何が通るのでしょうか?」

「ネコ。タヌキ。ハト。リス。テン。ハクビシン。そんなところかな」

「魔物ですか?」

「動物です」


 言いつつ、俺は車が止まるなり真っ先に降りて、辺りを見回した。

 高台から見下ろす、懐かしい街の景色。自然豊かな多摩の風。吐き気と頭痛がなければ最高に味わい深いのに。

 一緒に降りてきたヤガミが、俺の隣に来て言った。


「結構変わったな、この街。昔はこんなに沢山の家は立っていなかったのに」

「そんなに変わったか? ずっと暮らしていると、そこまででもない気がするけど」

「綺麗になった。道も、建物も。でも名残はある。昔を思い出すよ」

「…………お前は二日酔い、平気なの?」

「…………正直、早く車を降りたくて堪らなかった」

「顔に出ないのな」

「色々と損しているよ、それで」


 雑談しながら、フレイアとセイシュウを恐る恐る境内へと導く。フレイアはヤガミから借りた登山用コートのフードを被り、セイシュウはもうほとんど気休めにしかならないものの、ヤガミの家にあった使っていない大きなカーテンを纏っていた。

 あーちゃんには、助手席で見張りをお願いしている。


 俺達はフレイアとセイシュウを先導し、神社へと続く小道へ入った。

 ここまで来れば、後は林に隠れて行ける。


「それじゃあ、後は任せた。俺は車を駐車場に置いてくるよ」

「場所、わかるか?」


 俺が聞くと、ヤガミが片手を上げて答えた。


「ああ、心配無い。来る途中に目星を付けといた。というか、そっちこそ大丈夫か? ここの神主さん、見つかると結構怖かった覚えがあるんだが」

「ハハ、伊達に何年も抜けてないさ。それにここのジイさん、夏からずっと入院しているんだ」

「もうそんな齢か?」

「10年は長い。…………まぁ、入院しているのはいたずらした小学生を追いかけ回して、階段から落ちたせいなんだけど」


 ヤガミが肩を竦め、車に戻る。

 俺はフレイア達の方へ向き直って、言った。


「じゃ、行こうか」



 柔らかく、しっとりと湿った土を踏んで歩き出す。境内を覆う緑の香りが、胸やけにスッと染みて心地良かった。

 フレイアは俺の後からついてきながら、小声で話した。


「コウ様。アカネ様は?」

「あーちゃんは後でヤガミを家に連れてくる。まぁ、アイツは俺の家を覚えていると思うけど、念のためにね」

「あの…………実は、私…………」


 何か言いたそうにして、フレイアが俯く。

 本来なら彼女には大き過ぎるヤガミのコートは、鎧の上から着るには丁度良いらしい。サラサラと流れる彼女の髪から漂う女の子らしい香りが、さりげなく俺の鼻腔をくすぐる。

 セイシュウは慣れない土地を警戒しているのか、それとも彼女のシャンプーの香りが気に入らないのか、ずっと目と鼻をひくつかせていた。


「どうしたの? もしかして、トイレ?」


 トイレの意味は聞いて知っているフレイアが、眉間を険しくして俺を睨む。

 彼女は目を瞑って首を振り、歩みを止めずに話した。


「申し訳ございません。実は、フレイアはどうやらアカネ様のご機嫌を損ねてしまったようなのです。大変心苦しいのですが、何がいけなかったのかすら、今はわかっておりません。

 …………コウ様、アカネ様のことは、これからどうなさるおつもりなのですか? このままでは、とてもサンラインへお越し頂けるとは思えません」


 俺は注意深く周りを探りつつ(太ったトラ猫が1匹、悠々と木々の合間を抜けていった。セイシュウに気付かないのかな?)、振り返って答えた。


「それは、後で俺から話すよ。あの子が真の「勇者」なら、どうにかして協力してもらわなくちゃならない。…………もうここに残しておく方が危険だろうし。

 フレイアは、気にしなくていいよ。あーちゃんの人見知りは昔からなんだ。多分、知らない人や物事が一遍にいっぱいやって来て、混乱しているんだと思う。しばらくしたら、勝手に機嫌を直すよ。君のせいじゃない」

「そうでしょうか…………?」


 フレイアが納得いかないといった顔を俺に向ける。

 実のところ、俺としてもそんなに簡単にはいかないと思っている。だが、それをここで口にしてもどうにもなるまい。

 今までと若干毛色は違うが、結局今回もやるしかない。


 俺達は黙々と林の中を歩いていった。

 森の動物達は、不思議なくらいセイシュウに反応を示さなかった。あたかもずっと前から存在する生き物であるかのように、ごく平然と振る舞っている。


 当のセイシュウを見やると、クシュン! といきなり大きなくしゃみを浴びせられた。涎まみれになって目を剥く俺をよそに、森はシンとしている。セイシュウ自身も、特に不安な様子は見せていなかった。

 フレイアが寄り添って背を撫でると、セイシュウはもう一度くしゃみをした。


「…………シャンプーのせい、なのかな?」

「そのようです。この清めのお薬はとても素敵な香りなのですが、セイシュウには少々刺激が強過ぎるようです。

 …………コウ様、こちらでお顔をお拭きください。このようなこともあろうかと、ヤガミ様に頼んで余った布を頂いてきたのです」

「あ、ありがとう」


 俺はフレイアが手渡してくれたハンカチ(見たことのある高級ブランドのロゴが、これでもかと布中に敷き詰められている…………)を使い、顔を拭った。

 フレイアは俺からハンカチを受け取ると、満足げにまたコートのポケットにしまった。ヤガミのキャンプ用品の一つであるこの服を、彼女はなぜか痛く気に入っているようだった。


「そうだ、ヤガミと言えばなんだけど」


 話のついでだからと、俺はそこでヤガミの正体、つまりは彼がジューダムの王であるヤガミの肉体なのではという見解をフレイアに語った。

 フレイアは大きく頷くと、真剣な顔つきでこう答えた。


「実は、フレイアも同じく考えておりました。最初にヤガミ様にお会いしました時、然るべき魔力の気配がありませんでしたから。ジューダム王の遣いか密偵かとも疑ったのですが、どうやらそれもなさそうです。

 ジューダムの王族及び貴族は、そもそも霊体と肉体とを分離して生涯を送ります。魔術の争いで霊体を喪っても血が途切れぬようにと、特別な守護の術を施して」


 俺は「太母の護手」との戦いの最中で見た、ジューダムのあの霊廟のような大寝室を思い浮かべた。東方区領主の家庭教師に扮していた魔術師・ネイも、幼いヤガミも、あそこに横たわっていた。


 そしてヤガミの弟、ソラ君が見せたあの記憶によれば、確かヤガミはあそこから起き出して、王妃であったユイおばさんと共に政権闘争? から逃げ出したのだった。


 であるとすれば、あの時ヤガミの霊体はどこにいたのだろう?

 俺と友達だった「ヤガミ」は、肉体、霊体、一体どちらなのか?


 フレイアは坂を上りながら、さらに続けていった。


「その肉体が、何故このオースタンにあるのかはわかりません。王位継承にまつわる内紛が関係していると見るのが妥当ですが、正確には何とも申せません。

 それと、他にも気になることがございます。…………アカネ様がリケから聞いたというお話です。「誰かが世界を壊し、新しく作った世界がここ」という…………」


 俺が視線を送ると、フレイアはさらに眉間の皺を深くした。

 セイシュウがまたくしゃみをする。

 近くにいた小鳥の群れがパタパタと羽ばたいて去っていく中、フレイアは話を再開した。


「以前、琥珀様がコウ様の邪の芽を検査なさった時に語られたお話を覚えておいででしょうか? オースタンは過去に一度、崩壊しているというお話です」


 セイシュウが続けざまにくしゃみを響かせる。

 フレイアは一歩だけ彼から離れ、話を継いだ。


「あの時、琥珀様は何が理由か、それがいつのことであったのかは仰いませんでした。ですが、もしヤガミ様もまたその破壊と再生の影響下にあったとしましたら、現在の状況に筋が通るような気がいたしませんか?」

「現在の状況って、こっちのヤガミが異世界について何も知らないこととか?」

「ええ。再生の折に生じた若干の変異の一つと考えられます。それに、イリスやリケが彼の存在を知りながら、手を出そうとしないことにも説明がつきます」

「ああ、確かに。考えてみれば、ジューダム王にとってアイツがそんなに重要なものなら、とっくに襲われているはずだもんな」


 フレイアがもう一度頷く。

 彼女は俺の後から坂を上りきり、言った。


「イリスやリケにとって、ひいてはジューダム王にとって、ヤガミ様は何の利益にも脅威にもなり得ないのでしょう。構成する物質は同じでも、別人だからです。

 この世界は、本当のコウ様の故郷とは似て非なる場所なのでしょう。気脈の感触は、フレイアが以前に訪れた時と変わらないように思えますが…………。

 …………っ!」


 言葉の途中で、ふいにフレイアが深紅の瞳を大きくした。

 まるで突然何かに射られたみたいに、驚きの表情を浮かべている。

 彼女は急に神社のお社の方を振り向くと、セイシュウの手綱も離して一目散に駆けていった。


「えっ、フレイア!?」


 俺は慌ててフレイアを追い、セイシュウと共にお社の方へと走った。



 フレイアは寂れたお社の前で、呆然と立ち尽くしていた。見惚れるように辺りの大樹を仰ぎ、耳を澄ませている。


 一瞬、彼女の背中が幼い少女のものに見えた。

 一見すると少年のようにも見える、少し汚れた灰銀色のショートヘア。

 それは瞬きの後、すぐに明るみのある銀に変わった。目の前の背中はもう、大人の女性のものだ。片側に一つに纏められたヘアスタイルも、いつも通り。


 …………今の子は?

 フレイアそっくりの美しい紅玉色の眼差しが、見えたわけでもないのに記憶に残っている。


 俺達が立っている場所は、子供の頃、俺とヤガミがよく遊んでいた場所だった。今は秋らしい青空の下、掃除する者が無いせいで、すっかり枯葉に覆われている。

 フレイアは心許なさそうに胸に片手を添え、落ち葉を踏んでゆっくりとこちらを振り返った。

 その麗しい瞳には微かに、でも確かに、涙が湛えられていた。


「どうしたの、いきなり?」


 俺は彼女の傍へ寄り、言った。


「ここ、たまに子供が遊びに来るんだよ。この時間ならまだ学校があるから大丈夫だろうけど…………早く林の中へ戻ろう」


 フレイアは手を取った俺を見上げ、紅玉色の眼差しを熱っぽく注いだ。

 戸惑い以上に強い感情が、その奥で激しく燃えている。

 彼女は確かめるようにそっと俺の手を握り返し、呟いた。


「本当に…………コウ様、だったのですね…………」


 俺はたじろぎ、ちょっと微笑んで返した。


「俺は、いつも俺だよ。…………一体どうしたんだよ、フレイア? そんな顔して」


 紅葉よりも鮮やかに染まった頬は、彼女の白い滑らかな肌を一層際立たせる。

 流れる銀色の髪から香る清らかな花の匂いに、俺までくすぐったくなった。

 フレイアは俺を見つめたまま、目元に涙を滲ませて笑顔を作った。


「この祠を中心として、この森には非常に良い気脈が行き渡っております。セイシュウも、ここでしたら健康に過ごせるかと存じます。森の動物達も魔力に慣れているようですし…………いずれサンラインへ戻る時には、ここで時空の扉を開くべきでしょう。…………」


 彼女はそれからやや間を置き、長い睫毛を伏せて俯き加減になった。

 上目遣いに俺を見る目がどこかあどけなく、いじらしい。


「…………それだけじゃないだろう? 言ってほしいな」


 話しかけると、フレイアは目線を下げた。

 言いたくないのかと諦めかけたその矢先、彼女はポツリと言葉をこぼした。


「…………たった今、思い出したことがあるのです」


 フレイアは真っ直ぐに俺を見上げ、瞳を細めた。


「フレイアは小さい頃にも、この場所を訪れたことがあります。お師匠様とはぐれて、その上、失くし物をしてしまって、途方に暮れていたんです」


 冷たく透き通った風が樹々を揺らす。

 枯葉が小さな旋風に巻き上げられて、俺達の足下を駆け抜けた。

 セイシュウが鼻を鳴らす。くしゃみが出そうで出ない。

 フレイアは柔らかい声で、話し継いだ。


「…………その時、私を助けてくださった方がおりました。大変親切な方で、修行で荒んでいた未熟な私に、優しい言葉と心強い魔術を授けてくださいました。私の、一番大切な思い出の一つです。

 その方は一緒に失くし物を探してくださり、私は無事、それを使ってお師匠様の下へ帰ることができました。あの方の深く大らかな眼差しは、それからもずっと私の心の支えとなっております。

 …………後に、自分の迷い込んだ土地の名がオースタンだということを知りました。ですから、「勇者」様をオースタンへお迎えに上がる任務を賜った時には、私はその方にまた出会えるような気がして、とても嬉しく思ったのです。

 …………もちろん、そんな偶然があるわけはないと、頭では分かっておりました。けれど、コウ様を一目伺った時、貴方の瞳があんまりにあの方とそっくりでしたので…………ああ、私はまた「運命の君」に巡り合えたのだと、深く感じ入りました」

「…………そうなんだ」


 猛烈に妬けるが、黙っている。

 フレイアは何を察したのか、一度瞬きをして、大きく目を見開いて俺を見た。


「でも…………違ったのです!」


 二日酔いと失望にまみれた俺は、尋ね返すだけの気力もない。

 フレイアは構わず話し続けた。


「これまでにも時々、貴方の魔力を懐かしく感じることはございました。共力場を編むと、とりわけその気配が強まるような…………。

 ですが…………それは私がそう思い込みたいばかりに感じるものだと、わずかでも気が緩むと貴方に甘えたくなる脆弱な自分への戒めも兼ねて、言い聞かせておりました。

 けれど…………ここへ来て、今、ハッキリとあの日の記憶が蘇りました」


 フレイアのもう片方の手が、俺の手を包む。いつになく熱い。

 彼女はフードの下の赤い顔をさらに赤らめ、口調を強くした。


「あの方は…………貴方です! 貴方が、本当に、私の…………「運命の君」…………」


 段々とフレイアの勢いが窄んでいく。

 やがて彼女は石膏像の如く固まり、何も言わなくなってしまった。ただただ、頬だけがひたすらに赤くなっていく。

 自分の口にしたことの意味が、今更になって身体中に染み渡っているようだった。


 俺は俺で、彼女に中てられて、身体が異様な熱を帯びるのを止められなかった。


 もしかすると、彼女の記憶は、俺のあの大事な記憶と一緒のものなのではないか。


 いつだったかの夕暮れに、俺もこの場所でかけがえのないものに巡り合ったことがある。

 不思議な思い出だ。

 俺はあの日、誰に出会ったのか全く覚えていないのに、その子の笑顔の幸せそうな印象だけはまざまざと胸に蘇らせることができる。


 あの出会いで、何かが劇的に変わったわけじゃない。

 それでも俺はあの子の笑顔が咲いた時、一生この気持ちを抱いていけるんだって、この世でまたとない贈り物を受け取った気がした。


(あの子が、フレイアだったとしたら…………)


 そんな偶然って、ありうるだろうか。

 でも、俺は彼女の昔の姿をなぜか知っている。


 それに…………彼女から、「運命の君」だなんて…………。

 これって、最早…………。


 わだかまる熱く濃い沈黙を、ガサッという無粋な音が破った。


「…………っ!」


 俺とフレイアが同時に音のした方を振り返ると、そこには先程の太っちょ猫がいた。


「…………ンナウ」


 猫は低い声で太々しく鳴くと、のしのしとセイシュウの隣を抜けて、お社の暗い縁の下へと去っていった。


 俺とフレイアは再び顔を見合わせ、笑って肩を竦め合った。


「…………ハハ、びっくりした」

「私もです。…………申し訳ございません。完全に油断しておりました。ただの動物で良かったです」

「…………。そろそろ、家に行こうか」

「…………はい」


 フレイアの頬はまだ紅潮している。

 俺もまた、勇ましいのとは程遠い顔をしているだろう。


 繋いだ手はそのまま、その先は俺がセイシュウの手綱を引いて歩いた。

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