108-2、ギザギザなハートと世界のマーブル模様。私が生まれて初めて終電を逃すこと。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けた俺は、自警団の少女ナタリーらとの出会い等を経て、サンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加する。
だがそこで俺達は五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムから襲撃を受ける。
辛くも危機を脱した後に、俺達は少数精鋭で、都市・テッサロスタの奪還を目指し遠征を開始する。
旅はつつがなく進むかに見えたが、その途上で俺達はまたもやジューダムからの刺客と遭遇、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。
戦いの最中で仲間とはぐれ、満身創痍の俺達の下に現れたのは魔導師・グレン。彼は俺達に救いの手を差し伸べ、再びテッサロスタの奪還へと挑ませる。
そして無事、ジューダムの支援を行う「太母の護手」の指導者を倒し、奪還まであと一歩という所まで迫った俺達。
しかしジューダムの王はそんな俺達を見逃さず、俺はフレイアと共に、急遽時空の扉を潜り抜け、オースタン……俺の故郷、地球へと舞い戻ることとなった。
そこで待っていたのは、真の「勇者」こと俺の妹・水無瀬朱音と、もう一人のヤガミであった。
――――――――…………その背中を見て、安心した。
ずっと追いかけてきた背中。
いつの間にか、手の届かない場所に行ってしまっていた背中。
私をいつだって守ってくれていた、大きな背中。
変なメイド女と猫の争いに巻き込まれて、「勇者」とか意味がわからなくて、このまま人生終わるんだって、本気で思った。
絶対に死んだと思った。
けど、振り返ったアイツの笑顔は、そんな私の恐怖を一瞬にして取っ払ってしまった。
あの笑顔を見る度に、苛々していたのに。
ずっと大嫌いだったはずなのに。
「ただいま、あーちゃん」
いつもと変わらない声で呼ばれた途端、閉ざしていた想いが一気に決壊した。
私のお兄ちゃん、水無瀬孝は、何の前触れもなく帰ってきた。
当たり前のように優しい目をして、当たり前のように私を守ってくれた。
微かな月明かりの下で見たアイツの横顔は、不思議なくらい精悍だった。寸前まで私に向けていた表情とはうって変わって、襲ってきたイリスを睨む表情は信じられない程に真剣で、思わず身が竦んでしまった。
まるで本物の大人みたいだった。
そしてお兄ちゃんは…………竜に乗ってやって来た。
鮮やかな緋色の鱗に覆われた、美しい竜。冷たくも引き込まれる漆黒の瞳が私を一瞥した時、「ああ、本物なんだ」って悟った。信じられない気持ちよりも、信じたい気持ちが勝った。
生き物に憧れたのは、初めてのことだった。
お兄ちゃんは、騎士の姿をした凛々しい女性を連れていた。
天使か何か、人間じゃないものに出会ったのかもしれない。普段なら人の瞳の色なんて特別見たりはしないのだけど、彼女の紅玉色には、きっと誰だって吸い込まれてしまう。
夜空に映える銀色の髪と、可憐に紅潮した白い頬。華奢でありながらも強い意志を感じさせる、毅然とした佇まい。
彼女の抜き放った細い刃には、赤々と輝く火の蛇が巻き付いていた。
これもまた「生きている」のだと、私は一目で察した。
炎がまるで、息づくように揺れていたから。
私はただ驚いて、見惚れて、何も言えなかった。
何か大きな物語が始まりつつある…………ううん。もうすでに、とんでもないお伽噺の中に放り込まれてしまっているのだという実感が、身も心も震えさせていた。
見知っていたはずの景色がどんどん塗り替えられていく。元の景色を残したまま、全く新しい何かに生まれ変わりつつある。
私のお兄ちゃんは夢と現の境目に、堂々と立っていた。
――――――――…………。
それから、私達は私を追いかけて来てくれたヤガミさんに連れられて、ヤガミさんのあのマンションへと移動した。
あのコンシェルジュを一体どうやってやり過ごすつもりかと内心ハラハラしていたのだが、そこは案外あっさりと解決した。
マンションの駐車場にはエレベーターがあって、直接部屋に行けるようになっていたのだった。
騎士の女性が何かの薬で竜を車の中で寝かしつけた後、私達は揃ってそのエレベーターに乗った。
「すっげ…………。マジでここに住んでんの?」
ぐんぐんと数字を重ねていくエレベーターの中で、兄が溜息を吐いて尋ねると、ヤガミさんは肩を竦めてこう答えた。
「大袈裟だよな。もっと普通の部屋で良かったんだけど、新しく借りるのは勿体無いっておじさんが言ってね。…………ちょうど下の階におばあちゃんもいるし、丁度良いってなってさ。おじさんの事務所の一つだったのを譲ってもらったんだ」
兄が草を食む羊のような面で頷く。
まぁ気持ちはわかる。ヤガミさんの住宅事情もある意味ファンタジーだ。
兄は無言で草を飲み込むと、さらりと話を変えた。
「その…………悪いな。いきなり会って、家まで連れて来てもらっちゃって。それに…………」
ヤガミさんが窺うように兄を見る。
彼には兄の考えていることがわかるのだろうか…………この人の察しの良さは、何だか時々、人間離れして見える…………続きを引き取るように、言った。
「全然構わないよ。独り暮らしだし。無駄に広い部屋にも、たまには使い道ができて良かった。好きに使ってくれよ。
それと、コウがもし昔のことを気にしているなら」
さっきまで侍か暗殺者かとばかりに張り詰めていた紅玉色の眼差しが、ふと緩んで兄に寄せられる。
私は何かギザギザしたものが胸に刺さるのを感じたが、堪えて続きに耳を澄ませた。
「それも気にしなくていい。あの時のことは、あの時終わったんだ」
兄が何か言おうと口を開きかける。
丁度その時、到着を告げるベルが鳴った。
「続きは部屋でにしよう。…………もう目と鼻の先とはいえ、他の住人に見つからないよう気を付けて」
そう言われるも、騎士の女性はさっさと兄をエレベーターから引っ張り出した。そう言えば、彼女は乗る時からしてやけに緊張していたようであったが、そんなに不安になるようなことがあっただろうか?
車の中での会話といい、一体この人は何者だろう?
「ちょっと、フレイア。そんなに急がなくても…………」
たじたじとして威厳の無い兄に(いつの間にか元通りの兄だ…………)、女性は真に切迫した顔つきで話していた。
「いいえ! この小さな箱が万が一落下するようなことがあれば、非常に危険です! 幸い箱の壁には物質的な強度しか無いようですから、何とか脱出は可能でしょう。それでも、アカネ様とヤガミ様までとなりますと自信がありません! …………ですから、さぁ、お早く!」
…………アカネ「様」…………?
っていうか、脱出は可能…………?
…………?
深まる謎。すごく可愛らしい人なのに、あれではとてもじゃないが近寄り難い。
私はと言えば、唐突な事態の連続に、誰に何を話しかけられても、未だに「ああ」とか「いえ」とかしか返せていなかった。
混乱がようやく収まってきたのは、ヤガミさんの部屋について、ひとしきりドタバタした後だった。
騎士の女性が「防犯のために」締切りの窓を力づくで開け放そうとしたり、お兄ちゃんが玄関の観葉植物に肘をぶつけて、危うくひっくり返しかけたり、騎士の女性が靴を脱ぐことに難色を示したりなどといった細々としたハプニングはあったものの、私はその傍らで、何とか平静を取り戻すことに成功した。
そうして、簡単な傷の手当をして(よく見れば、私も兄も騎士の女性も生傷だらけだった)、ヤガミさんが人数分のコーヒーを入れてくれて、シンプルながらも洗練されたデザインのモダンなソファに皆を座らせてくれて、ようやく人心地ついたのだった。
ヤガミさんは特段疲労の色を見せるでもなくブラックのコーヒーを悠々と飲み、一座を見回して言った。
「さて…………誰から始めるべきかな?」
言いつつ彼が兄を見ると、兄は私を見た。
どうやら、私が最初らしい。
私は頷き、経緯を話した。話があっちこっちに飛んで、傍から聞いたらさぞ要領を得ない話しぶりだったとは思うが、それでも何とか話しきった。
兄がいなくなった後のこと。
心配している家族のこと。
兄のスマホを見て、ヤガミさんに聞いてみようと思い立ったこと。
途中でイリスとリケに襲われたこと。
アイツらが話していた、「勇者」…………そして、2人の「ヤガミ」さんのこと。
そこからは、知っての通り。
時々相槌を打ちつつ、話を静かに聞いていた兄は、最後に悩ましげに呟いた。
「…………そうかぁ…………。「勇者」…………あーちゃんが…………」
その表情の語るところは難しかったが、どことなくガッカリしているように見えなくもなかった。
彼の隣にいる騎士の女性、フレイアという名の彼女は、しょんぼりと肩を縮めた。
「申し訳ございません。事前調査にて最も可能性の高い場にお迎えに上がったのですが…………お隣のお部屋にお住まいのコウ様を、誤ってサンラインへお連れしてしまったようです。…………コウ様は強いお力をお持ちでしたから…………これまで、全く疑いを持たずにおりました」
ほんの少しの間だけ、兄とフレイアさんが視線を交わす。
互いへの気遣い以上に、何か感情のこもった眼差しが語り合う。頬を赤らめるフレイアさんに、兄が微笑んで短い言葉を掛けた。フレイアさんがホッとしたように微笑み返す。
大したやり取りじゃない。
じゃないのに、何だか胸がギザギザする。
ヤガミさんはそこそこ冷めてきたコーヒーを黙ってまた飲み、話した。
「その…………もう一人の俺の話は、よくわからないな。つまり、アカネさんが探していた「八神誠」と俺は別人ということ…………なのかな? 「全く同じ人間だけど、世界が変わったから、全く別の人になっちゃった」。アカネさんを襲った喋る猫…………聞く限り、おばあちゃんが最近可愛がっていたミケのことだと思うんだけど…………は、そう言っていたんですよね?」
ヤガミさんに尋ねられ、私は頷いた。
「正確な言い回しは覚えていないんです。でもリケが、誰かが世界を…………私と兄の写真を撮ってくれた「八神誠」さんのいる世界を壊して、そしてその後に新しくできた世界が今の世界だ、みたいなことを話していたのは覚えてます。…………意味は、私も全くわからないんですけれど」
兄は話の間、何も言わずに考え込んでいた。
思い当たることがある時のアイツはいつもあんな感じだ。言いたくないのでも言えないのでもなく、ただ一人で思うところを噛みしめて、味がしなくなるのを待っている。
こうなると家族の誰が何を言っても聞かないのだが、ヤガミさんに問いかけられた彼は違っていた。
「…………コウ。そろそろ君達の話をしてくれないか?
…………大丈夫だよ。今更、どんな話でも驚かない」
兄がおずおずとヤガミさんを見る。
ヤガミさんはその不思議な色の瞳を瞬かせ、あんまり大人っぽくはない仕草で頬杖をついて相手を見返した。
兄が僅かに眉間を寄せ、さらにまじまじと眺め返す。
一切動じないヤガミさんに、兄はついに折れた。
「…………わかった。確かに君「も」ヤガミだって、見ていれば見ている程に思えてくる。
そしたらきっと、君もこの冒険と無関係では無いんだろうな。
俺もまだ全てを吸収しきれてはいないんだけれど、話すよ。長い話になると思う。
良かったら、もう一杯コーヒーをもらえないか? 久しぶりで、すごく美味しいんだ」
ヤガミさんは「もちろん」と笑顔で言い、席を立った。そのついでに彼は「ごめん、忘れていた」と、ブラックが飲めない私のために砂糖とミルクも持ってきてくれた。やっぱり、この人は良い人だ。
飲めないと言えば、フレイアさんは私よりさらにコーヒーに手を付けられないでいた。 出された時に香りを嗅いで、じっと険しい顔で見つめたきり、全く手を触れようとしない。
「大丈夫だから、飲んでみなよ」
兄に囁かれて、彼女はやっとカップを持ち、中の液体を仰いだ。
「…………っ、苦い…………!」
涙目で訴えられた兄が笑う。
フレイアさんは不満そうに唇を結び、私の前にある砂糖とミルクに目を留めた。私がコーヒーに入れているのを、不思議そうに観察している。
彼女は兄を振り返り、首を傾げた。
「あの…………アカネ様が使っていらっしゃるのは、何でしょうか?」
「ああ、あれ? あれは牛乳…………マヌーのミルクみたいなのと、砂糖だよ」
「お砂糖…………。貴重なものでは?」
「ここではそうでもないよ。苦いのが苦手だったら、試してみる? ああしても美味しいよ」
フレイアさんの視線がこちらへ向いたので、ドキリとする。
彼女はにっこりと可愛らしい笑みを浮かべて、屈託なく私に聞いてきた。
「あの、そちらを取っていただけませんか?」
「あ…………はい…………」
渡すと、「ありがとうございます」とまた笑顔が綻ぶ。
私はやり取りを続ける兄と彼女から目を逸らし、作ったばかりのカフェオレに口を付けた。
何だろう。
美味しいのに、ギザギザする…………。
その後に始まった兄の話は壮絶だった。
フレイアさんの自己紹介から始まり、兄の異世界・サンラインへの旅立ち。兄…………「勇者」が異世界・サンラインに呼ばれたわけ。サンラインと戦争中のジューダムを巡る複雑な事情。彼らが連れてきた竜、セイシュウとの出会い。もう一人のヤガミさん…………ジューダムの王のこと。大混戦の中、この地球へと帰ってきた経緯…………。
内容もさることながら、とにかく兄の語りぶりが凄まじかった。
「で、その時俺は咄嗟にセイシュウに跨って…………!!!」
最初のうちは案外冷静だったのが、進むにつれてどんどん盛り上がってきてしまった。「いや、それは今はいいから…………」とそれとなく口を挟んでも、一向に止まらない。
加えて、止せばいいのに、ヤガミさんが理解不能な単語に「ワンダって何?」とか、いちいちツッコミを入れるせいで話がさらに脱線し、長引いていった。
そもそも、兄の活躍は多分に盛られている気がしてならなかった。
お前にそんな身体能力は無かっただろと、言いたいのに言えないもどかしさ。フレイアさんが気を遣ってなのかマジなのかは知らないが、調子良く相槌を打つせいで、さらにバカ兄貴が調子に乗っていく。
粗方話し終えたその時には、もうすっかり夜が更けていた。もう電車も無い。
兄はさすがに語り疲れたとみえ、最後にはこう零していた。
「まぁ…………そんなこんなだったけれど、あーちゃん達オースタンに残してきた人のことは、正直ちっとも考えられていなかったなって、ほとほと思うよ。毎日色んな事が起こり過ぎてね…………。…………」
どうやら、少しぐらいは罪悪感があるようだった。
そう。コイツには、十二分に反省してもらわなければならない。
それどころじゃないので辛うじてメッセージだけを返しているが、今だって本当はお母さんから絶えず電話がかかってきているのだ。
こりゃあ、帰ったら怒られるどころじゃない。というか、兄のことをどう話したものか。今のところは出会ったこと自体を伏せているのだけど…………。
兄は点滅を繰り返す私のスマホにチラと視線をやり、ぼそりと呟いた。
「…………母さんだよな、その電話」
私はようやく気付いたかと呆れ、ぶっきらぼうに答えた。
「そう。…………お、お兄ちゃんのこと、すごく心配してるんだから」
「だよな」
聞いて、ムカついた。
何が「だよな」だ。やっぱり、ちっとも反省なんてしてないじゃないか。
お母さんが、私が、お父さんも、この2週間どれだけ心配したと思っているのか。どうせたかが2週間だとか思っているのだろうが、何も言わずに姿を消したら、それだって大事だ。
コイツは、こうやって、いつだって私の神経を逆撫でする。
どうして、どうして、どうして、コイツはこんなにわからず屋なんだ!
案の定、兄は怒りに震える私のことなんてお構いなしに、フレイアさんへ話しかけた。
「ところで、フレイア。この後サンラインへ戻る手筈なんだけど、君はどうするのが良いと思う?」
フレイアさんは兄の方だけを見て、すぐに答えた。
「コウ様のお宅に向かうのが最良かと存じます。あの付近には気脈が強く通っておりますから、扉を安全に開くことができるでしょう。…………コウ様、どうかそのような目でご覧にならないでください! 次は決して失敗いたしません。
それに…………セイシュウの体調のことを考えましても、なるべく早くここを移動するべきでしょう。先ほども申し上げましたが、竜には気脈からの魔力供給が必須なのです」
意見に兄が唸る。
彼はしばしの思案の後、ヤガミさんに話を振った。
「ヤガミ。物凄く申し訳無いんだけど…………ひとつ、頼み事をきいてくれないか?」
ヤガミさんが小さく首を傾げ、兄に続きを促す。
久しぶりに会った…………というか、話を聞いた限りでは、ほとんど初めて会ったみたいな2人のはずなのに、どうしてか彼は私よりもずっと兄に信頼されているようだった。
兄は私の方を少し見て、言い継いだ。
「もしよければ、明日俺達を俺の実家まで車で送ってくれないか? ここまで世話になっておいて、図々しい頼みでごめん。けど、他に頼める相手がいないんだ」
ヤガミさんは、
「なんだ、そんなことか」
とばかりに灰青色の瞳を細めると、手にしていたカップをテーブルに置き、組んだ長い足をゆったりと下ろした。
そうして両手を組んで、何度目ともなく一同を見回す。何か考えているというよりは、どこか面白がっている風な悪戯っぽい目つきが妙によく似合っていた。
だが、彼の口から次に出た言葉は、私にとって…………否、この場の全員にとって、遥かに予想の上を行くものであった。
「OK。もちろん構わないよ。俺もコウと同じで、こんな面白そうな機会を逃す気はない。例え仕事を休んでも、これは見届けるべきだ。
でも、代わりにと言ってはなんだけど、俺の方からも一つ聞いてほしいことがある。
…………その、サンラインとやら。俺も一緒について行っていいかな?」
兄の驚いた顔と言ったら。
私は私で、規格外の度胸(というか、無鉄砲?)の持ち主を前にして、またもや自分を見失っていた。
だって、そんな…………。
そんな、例え何を言われたって、私は異世界も、「勇者」も、絶対にお断りだ!!!




