105-2、劇作家・世界のミナセ、衝撃のデビュー。俺が熱いハートを世界にお届けすること。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けた俺は、自警団の少女ナタリーらとの出会い等を経て、サンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加する。
だがそこで俺達は五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムから襲撃を受ける。
辛くも危機を脱した後に、俺達は少数精鋭で、都市・テッサロスタの奪還を目指し遠征を開始する。
旅はつつがなく進むかに見えたが、その途上で俺達はまたもやジューダムからの刺客と遭遇、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。
戦いの最中で仲間とはぐれ、満身創痍の俺達の下に現れたのは魔導師・グレン。彼は俺達に救いの手を差し伸べ、再びテッサロスタの奪還へと挑ませた。
そして今、俺は仲間がジューダム軍を引きつけてくれている間に、ジューダムの支援を行う「太母の護手」の指導者と対決していた。
――――――――…………俺は目を覚ました。
…………どこで?
本の中だ。
あの男が持っていた、革表紙の本の中。
何でそんなことがわかるのかって?
誰にだってわかるさ。全く馬鹿げているが、すぐそこに…………手を伸ばせばすぐの距離に、「ト書き」が見えるんだから。
ト書き。演劇の脚本なんかに添えてある、演出上の但し書き。
遠い昔に学校の学芸会やら文化祭やらでやらされた劇の脚本並みのちゃちさではあったものの、その素っ気ない書きぶりには確かな懐かしさがあった。
そのモノクロの文字列は、まるで水に浮かべた墨の跡のように心許なく中空に漂っていた。
目を凝らせば、こう読める。
『――――サンライン、裁きの主の御世。偽りの蒼の黄昏。
テッサロスタの青い血を継ぐ13歳の少年、いずれ東方区領主となるべく定められているトゥール・ロマネ・スリングは、家庭教師である魔術師、ネイ・スーと共に、様々な国の文化及び地理、魔術体系について学んでいた。
トゥールは覚えが良く、教わったことをスラスラと飲み込んでいく。
ネイは部屋の外の様子をそれとなく探りつつ、隣国の歴史書を読み上げる少年の声に耳を傾けている』
俺が訝しんで(というより、言うべき言葉を見つけられないで)佇んでいると、文字は薄く消えて、また新たに形を変えた。
『やがて、トゥールが資料を読み終える。
彼はそこで初めて、ネイを咎めたのだった』
――――――――…………。
「ネイ。さっきから何を気にしているんだ?」
トゥールが尋ねると、ネイは年老いたマヌーのような表情を彼へ向けた。
ネイの陰鬱な瞳はいつ見ても濁りっぽい、くすんだ灰色をしている。トゥールにはそれがとても不吉なものに思えるのだが、ネイを雇った父と母が一向に気にしないので、耐えるよりなかった。
「いいえ、坊ちゃま。…………なぜそのように思われたのです?」
そう言ってネイが浮かべる笑みもまた、トゥールの気に入るところではなかった。
いっそ下品であるとか、卑屈であるとかであったならばまだ良かった。だが、ネイのそれは邪悪であった。ただ嘲るよりももっとひどい侮蔑が、トゥールにはありありと透けて見えている。
トゥールは内心の嫌悪を悟られぬよう(貴族の子女には慣れた所作である)、答えた。
「絶え間ない観察からだ。お前が常に心掛けろと言っているようにな。…………このところ、お前はずっと部屋の外をばかり気にしている。何かに怯えて耳をそばだてているのか、思いがけない幸運の訪れを待ちわびているのかはわからない。だが、お前はこの部屋の外に有り得るその何かの来訪の瞬間を、意識の中で何度も繰り返している。違うか?」
トゥールの大人びた口調にネイが瞳を大きくする。無論、トゥールはそんな見え透いた演技に対する不快をおくびにも出さない。
ネイは目の前の青白い少年にしばし暗い眼差しを向けた後、また微笑した。
「坊ちゃまは私がお教えした生徒の中でも、一、二を争う賢さであられますな。ジューダム語、スレーン語、古代サンライン語、エルフ語3派、ドワーフ語テッサロスタ方言、地下系言語各種…………どれ一つとして瑕疵が無い上に、各々の種族に対する知識や洞察も、学院の魔導師候補生に劣りません。
魔術に関しましても、言うまでもなく、非常に良い勘をお持ちです。少々結論を急ぎ過ぎるきらいこそあれ、その才は客観的に見て高く評価せざるを得ない」
「…………御託は良い。何が言いたい?」
「ふふ。次の課題はさしずめ「忍耐」というところでしょうか。
…………坊ちゃま。私のお話をする前に、ジューダムという国について復習いたしましょう。かの国について、知っていることを出来る限り述べてください」
トゥールは迂遠な話しぶりにうんざりとしつつも、耐えて問いに答えた。
「ジューダム。現地における正式名称は、ジューダム聖都王国。実領域を持たず、裏庭領域のみを有する幻島式国家であり、現在のサンラインからは、テッサロスタ東方のブレアナ峠にあるグレンズ・ドアからのみ通じている。
ヤーツハルタ、タカツガハラ、ナーノゼ等の国との親交が深く、我が国とは、先の扉におけるアブノーマル・フローがもたらす時空資源を巡って熾烈な対立関係にある」
ネイは黙って聞いている。
トゥールは一拍置き、再び続けた。
「我が国と同様、「裁きの主」の信仰国でもある。ジューダム王は代々、主の依代として、国民、及び国内の魔力場を一身に束ね、治めている。国民のほぼ全員が魔術師であり、各人の魔力場の大きさは、王との契約に基づき決定される。
ここで言う契約とは、一種の魔術方式だ。より強く王への忠誠を誓ってきた家系の者が…………つまり、王との共力場をより濃く編成してきた者が、より広い魔力場を展開できるという術式を指す。
ジューダムは王を介して国家全体が一つの力場を編んでいると見做せる。故に、王は国民の魔力を意のままに操り戦力とし得る一方で、その戦力を喪失した場合には、自身のみならず国民全体に損害をもたらす」
トゥールは淡々と話し続ける。
ネイもまた、静かに耳を傾け続けていた。
「主要な産業は養竜と魔具加工。つまり、錬金術だ。実体、霊体、錯体、いずれを対象にしても、非常に高い技術水準を保っており、素材の精錬こそタカツガハラのドワーフやオーガ連中に全面的に依存しているとはいえ、その他の技術は我が国の一般的な水準を遥かに凌駕している。
一方で、かつてはスレーンにも並ぶと謳われた竜の育成・飼育技術に関しては、現在は完全に失われていると言えよう。発達した創薬・生体管理技術が、そうした仕事を無用のものとさせたためだ」
そこでトゥールは一度視線を宙へさまよわせ、話題を探った。
ネイが見守る中、程なくして彼は答えを続けた。
「あとは…………政治と歴史か。これについては、全く野蛮な地だ。我が国の悠久の歴史と円熟した魔術基盤に基づく統治体制と比べれば、ジューダムは実に原始的なやり方を今も通している。王を頭とした一つの生体を理想とする彼らは、主の依代である王家の血筋を何よりも重んじている。国民各々が魂の色を厳密に制御し、王とより密な力場を編成するべく、出生の日から絶対的な忠誠を誓わされる。
必然、権力は王家に一極集中している。古い封建的な体制が延々と踏襲され続けている所以だ。時に王家内部での抗争はあれど、大規模な民衆蜂起はこれまでに例が無い。…………当然だがな。
ジューダムの民は元々、当地の実領域に住んでいた原住民であった。サンラインにおける三寵姫より遥か以前の世に、旧アルゼイアからの侵略を受けて幻島式国家と化して以来、霊体と実体を常に分離、保存することによって民族の血を守ってきた。我が国との交流はかの英雄、アルバス・ツイードのヤーツハルタ遠征の折に遡り…………」
そこで、初めてネイが言葉を挟んだ。
「ああ、そこまでで構いません。そこから先は、また後日サンラインの英傑史に絡めて討論いたしましょう。
さて、坊ちゃま。概ね大変よく理解されているとお見受けいたしましたが、お聞かせ頂いた中で一点だけ、今少し詳しく伺いたい箇所がございました。
ジューダムは我が国と同様、「裁きの主」を信仰していると貴方は仰いました。ですが、両国の間には教義への解釈に大きな隔たりがございます。ジューダムにおける「裁きの主」という存在への魔術論的解釈について、また、それが生じた理由について、お聞かせ願えませんか?」
「…………」
あくまで慇懃な態度のネイに、トゥールが心底うんざりしたように肩を竦める。
本題から逸らされている、と感じていた。
何より、トゥールは「裁きの主」を巡る議論が大の苦手だった。根本的に自分には馴染まないとさえ考えていることを、彼は物心ついた頃からずっと、誰に対してもひた隠しにしてきた。
ジューダムでの解釈どころか、そもそもサンラインでの解釈ですらあまり語りたくない所をわざわざ拾われて、彼は苛立ちを隠せなかったのだった。
トゥールは怜悧な眼差しを鋭くし、ぶっきらぼうに答えた。
「…………奴らは「裁きの主」を、魔海そのものと同一視している。サンラインでは、それらは別物だ。「裁きの主」は我々の意識の平野を超越して存在し、我々に裁きと恵みを与える。…………「裁きの主」は、魔海をも包括して君臨しているとされる」
他人事めいた調子で話すトゥールを眺めるネイの視線は、相変わらず仄暗い。トゥールは凍結した大地にでも話しかけている気分だった。
「こうした解釈の差異は…………「裁きの主」の民衆への影響度に由来しているという。サンラインでは奉告書にも記されている通り、しばしば裁きや恵みの奇跡が起こる。だが、ジューダムの国書録にはそうした記述が一切無い。彼らは裁きを受けぬ代わりに、恵みをも受け取らない。「裁きの主」の力は、ただ王の力としてのみ顕現する。
そのため王は常に民に力を示し続けなければならず、臣下は王に尽くし続けねばならない…………」
トゥールが結ぶと、ネイはゆっくりと頷いた。
「うむ。実によく私の教えを消化してくださっているようだ。こうした生徒は得てして、「不信」の兆候を抱きがちだが、坊ちゃまもまさにそのようでありますな」
聞いたトゥールの眉と頬が微かに引き攣る。ネイは薄紫色の唇を歪ませ、語っていった。
「隠せはしませんよ。それは必ず不調和となって、貴方の魂を苛むでしょう。ああ…………ふふ。怯えなくてよろしい。そのような裁きの薄氷の上を歩む貴方であればこそ、私は真実をお伝えしようと考えたのですからね」
「…………真実、だと」
「ジューダムの国書録を如何にしてサンラインの人間が知り得るか? 聡い貴方になら、わかっているはずです」
「…………貴様、間諜か!」
トゥールが俄かに立ち上がり、身構える。しかし詠唱を行うべきその唇はわなわなと震えて、およそまともに文句を諳んじることはできそうもなかった。印を組むべき指に至っては、蝋で固められたようにピクリとも動かない。
トゥールに魔術を教えたのは他でもない、今まさに彼の眼前にいる男なのだった。トゥールにはその意味がわかり過ぎる程にわかっていたし、ネイもまた、優秀な教え子がそれを弁えない性分でないことを、よくよく理解していた。
ネイは臆面もなくトゥールの前へ歩み寄り、彼の血の気の失せた頬に両手で触れた。
氷のように冷たい感触が、トゥールの最後の反抗心を急激に冷まし、意識の奥底の、さらに深くへと沈めていく。
「…………や、め、ろ…………」
呟きたかったはずの言葉は、ネイの言葉によってあえなく塗り潰されていった。
「貴方はもう知っているはずだ。もう全て遅い。貴方の父君も母君も、姉君も妹君も、皆、こうして新たなる世界への一歩を踏み出した。
私が何を待っているのか? それは、ごく身近な話であれば、朋友の来訪です。ジューダム、サンライン、人間、エルフ、ドワーフ…………ありとあらゆる垣根を越えた魂の同胞です。
そしてもっと遠いお話をするのであれば、私達は大いなる「母様」の到来を待ち望んでいます」
「母…………さ…………ま…………?」
「坊ちゃま。ゆっくりと語らいましょう。貴方はもう「不信」を…………あの白き魔物の「裁き」を恐れることはないのです。…………ゆっくりと軛を解きしましょう。我が祖国・ジューダムと、崇高なる我々「太母の護手」の力で、貴方は貴方の血を越えるのです…………」
男の青白い瞳へ引きずり込まれるように、トゥールの意識が遠退いていった。
そこに少年自身の意思が少しも無かったわけではなかった。彼は見透かされたことに安堵を覚えていた。例えそれが自身の最も厭う人物によってではあっても、彼は救われたと…………青い血の束縛からようやく解放されると期待していた。
トゥールは見知らぬ暗闇に向かって、目を見開いていた。
そして少年は一瞬のうちに、広大な世界を知った。
本にも、彼の一族が何代にもわたって治めてきた街にもあり得なかった極彩色の希望と嘆きが、彼の魂を貫き、駆け抜けていく。
それは彼が声なき悲鳴を上げて待ち焦がれていた、革命であった。
男の瞳が次第に、青白い銀から元の濁った灰色へと落ち着いていく。
黒い衣装を纏った大勢の人々が部屋に乗り込んできたのがわかったが、トゥールは全く口が利けなかった。感動のあまり、一言だって漏らす気になれなかった。
ネイは床に突っ伏しているトゥールを支え、柔らかく囁きかけた。
「さぁ、常夜の始まりです。
多少の「忍耐」はこれからも必要となりましょうが、貴方はきっと真実の道を見出し、良い護手になるでしょう。「母様の良き息子」に…………」
『こうしてテッサロスタに一縷の闇の川が注がれた。
トゥールが葬られた古い信仰に染まるのに、時間は掛からなかった』
――――――――…………。
『――――サンライン、白露の刻、テッサロスタ東方区領主の館、トゥールの自室。
ネイは同胞となったトゥールの啓蒙を続けていた。
トゥールは魔法陣の内側に座り、敬虔に目を瞑っている。
周囲には太母の護手の同胞が数人、腕を組んで立っており――――…………』
「…………っと、ちょっと待て!!!」
我に返った時、俺は大声で自分に突っ込んでいた。
声は膨大な暗闇に虚しく飲まれて、余韻すら残さずに消え失せたが、俺はやっとこさ戻ってきた意識を意地でも手放したくなかった。
次いで俺は、半ば自分を殴りつけるつもりで怒鳴った。
「何だ、今の!? こんなよく知らない奴らの三文芝居読んでも…………っつぅか、見ても…………? 楽しくも何ともねぇよ!! いつまで続ける気だ、これ!? まさかこっちが死ぬまでやる気じゃねぇだろうな!? 勘弁してくれ!!! いつまで経っても、可愛い女の子の一人も出て来やしねぇ!! 何考えてやがる、このクソ脚本め!!」
叫んでも叫んでも、暗闇はだんまりを決め込んでいる。
そうこうしているうちにも、またもや劇の幕が上がろうとしている気配がト書きから漂ってきた。魔術の流れもへったくれもない黒文字空間で、俺にはまた観客となる以外に選択肢は無いのだろうか。
耐えかねた俺は、やぶれかぶれな行動に出た。
「畜生!!! こうなったら!!」
俺はゆらめく文字列に、全身で突っ込んでいった。
「うぉぉぉぉぉぉ――――――――ッッッ!!!」
『…………トゥールがネイの詠唱を繰り返す。
「大いなる母よ。我は歌う御使いの導きに従い――――〇×△××△●★〇×△☆ふぁhじょいえwhfwりあくぁwせdrftgyふじこlp』
腕をぶん回し、力の限りト書きをかき混ぜる。ぐちゃぐちゃになった文字が殺虫剤を浴びせられた小虫の如く宙を舞った。
俺は目を血走らせたまま、その一つを強引に掴んで――――ゴムみたいな感触だった――――新たに目の前に引っ張ってきた。
さらに1つ、2つ、3つ、…………パズルのピースを嵌めていくみたいに、次から次へと文字を並べていく。
あんな三文芝居を延々と続けられるぐらいなら、いっそ自分で書いた方がマシだった。
ヤツらには、そう、熱が足りない。
だからあんな鬱屈したジメジメした話になるんだ。
ああ、畜生! クソ野郎め!
見せてやる、世界のミナセの実力を!
――――――――…………。
『「ダメだ、ダメだ!」
トゥールの力の無い詠唱に、赤いハチマキをしたネイが喝を入れる。
そうだ。こんなものでは、国対抗合唱コンクールで輝けるはずがないのだ!
ネイは張りのある声を音楽室に轟かせた。
「もっと腹から声を出せぇ!! いつもの元気がないぞッ!! そんなんでお前のハートが世界に伝わると思うのかぁ!!」
トゥールは俯き、唇を噛んだ。
色々あって参加することになった合唱コンクール。海を越え山を越え、ついに仲間達と一緒に見つけ出した、歌という道。
不毛な争いはもう止めよう。歌で皆の心を繋ぐんだと、トゥールは固く決心したつもりだった。
だが、歌は決して甘くなかった。
頑張れば頑張る程に、相手の技術や輝きが羨ましくって、自分が憎くなってしまう。時には相手すら恨んでしまう始末。
人は生まれもって競いたがるもの。だからこそ争いは避けられない。
けれど、血を流さずに心をぶつけ合うことは、できるはずなんだ!
(そのはず、なのに…………)
トゥールが胸の内で呟く。
歌うことは、どうしてこんなにも辛いのか。
トゥールのバラ色の頬に、涙が一筋、伝った。
塩辛いダイヤモンドが、床にポタリと落ちて弾ける。
「うっ、歌えません…………僕なんかには!!!」
「弱気になるなぁッ!!!」
ネイがトゥールを思いきり平手打ちする。
トゥールは呻き声を上げ、床に崩れ落ちた。
一年前とは別人のようになったネイ。
彼の瞳は今や、磨きたてのコンクリートのようにツヤツヤと輝いている。完璧な歌の伴奏をするために一から鍛え直した屈強な肉体が、今のトゥールには眩し過ぎる光を爆発させていた。
そんなネイもまた、滝のように涙を流していた。
「確かに、聖サンライン学園やジューダム工業高校の生徒には、素晴らしい技術がある! だが、お前には誰にも負けないものがあるじゃないかッ!!」
「誰にも…………負けないもの…………?」
「それは…………!!!」
ネイが舞台前方へ走り出て、両腕をバッ! と広げる。
彼は煩わしい教員用のスーツをかなぐり捨て、真っ赤なブリーフ姿になって叫んだ。
「己のハートを伝えたいという、熱い想い…………情熱だッッッ!!!」
~♪
(ネイの歌とダンス)
(かつてトゥールの歌で心を動かされた自分の経験と感動を、ダイナミックに伝える)
~♪
(トゥールの歌に突き動かされた他の太母の護手の朋友達が、どんどんと混ざってきて一緒に踊り始める)
~♪
(可愛くて可憐な女の子が登場)
「負けないで、トゥール! 私は貴方の声で、あの腐った沼地じみたスランプから立ち直ったの!」
~♪
(セクシーで上品な女の子が登場)
「そうよ、トゥール! 俯かないで! 私は貴方のダンスで、ようやく自分の気持ちと向き合えるようになったの!」
~♪
(健康的で溌剌とした女の子が登場)
「さぁ歌って、トゥール! 私達の心に、ホットでスウィートでスパイシーでラブリーでハンサムでドラマチックな火を点けて!」
仲間達の温かい励ましで元気を取り戻すトゥール。
「みんな…………! ありがとう…………!! ありがとう!!!」
袖口で涙を拭い、トゥールが笑顔で歌い始める。
~♪
(全員で大合唱)
合唱が終わると、朋友達が後ろへ退き、トゥールとネイにスポットライトが当たる。
「ネイ先生!!!」
「トゥール!!!」
「先生、僕、頑張ります!!」
「ああ、そうだ、その意気だ!!!
よぅし、そうと決まれば、あの夕陽までダッシュだ!!!」
「はい!!!」
素晴らしい茜色の光に向かって駆けていく二人。
その後を追う…………』
「うわああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!
――――――――もうやめてくれ!!!!!!」
ノリノリで筆を走らせていた最中、ふいに雷鳴の如く中年女性の声が轟いた。
驚いて辺りを見渡すと、上空にモヤモヤとした赤紫色の雲が湧き起こっていた。
雲はギラギラとしたラメのようなものを撒き散らしながら、急にぐわっと巨大な目を見開いた。
ガラス玉じみた眼球が無数に集合した、蠅の目に似た禍々しい瞳であった。
「うっ、うわっ!? 何だお前!? 気持ち悪っ!!」
俺が思わず叫ぶと、雲はヒステリックに答えた。
「私は書庫の王…………この本の主だ!!! おい貴様、直ちにその作業を止めろ!! 未だかつて初めてだ、そのような陳腐な物語をこの身に刻まれたのは!! むず痒いわ!!」
俺は呆然としつつ、雲の複眼を見返していた。
何だ? 本が喋っただと?
雲は畳みかけるように、俺を叱りつけた。
「そもそもなぜ干渉できる!? …………扉の力? あの忌々しいリリシスの阿呆と同じだというのか!?
何たることか!! それではもう消せないではないか!? 今の知性の欠片もない寸劇が、永久の記憶として刻まれたのというのか!? 馬鹿な!!!」
何を言っているのかはサッパリわからないが、彼女の存在が俺にとって、暗闇に差したわずかな希望であるのには違いなかった。
千載一遇のチャンス。
どうする?
何をどう頼めば良い?
悩んでいると、俺の元にまた一人、ひたひたと不気味な足音が近づいてきた。
俺はこれでもかと眉を顰めて、ソイツを睨んだ。
悪趣味なことに、また中学生の俺の姿をしてやがる。今まで不審なぐらい傍観を決め込んでいたくせに、今更何をしにきたのか。
彼は俺の隣までやって来て馴れ馴れしく肩に手を置くと、ニヤリと口の端を上げて言った。
「よう、文豪」
それから彼は、雲を仰いだ。
「ご機嫌麗しゅう、書庫の王。同じまつろわぬ者と巡り合うは、実に久方ぶりだ。
…………この男は俺の苗床だ。少し、話をしないか?」
黒光りする複眼が、全く感情の読めない眼差しを俺達へ下ろす。
満を持して現れた邪の芽は、不敵な笑みを浮かべて真っ向からそれを見据えていた。




