12、浮遊する町。俺がアルバイトで学んだ教訓を改めて認識すること。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳、ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
だが魔法に不慣れなフレイアは時空の移動に失敗してしまい、俺たちは誤って別の国へ飛んでしまう。
そうして辿り着いたのは、影の国。
俺はそこで突然の敵襲によって、ドウズルという使い魔と戦わざるを得なくなった。
どうにか窮地を脱した俺は、改めて仲間との合流を目指す。
俺は獣に飛び乗り(止まっていれば割と簡単に跨ることができた)、奥に見える街道へ向かった。
方向感覚はすっかり滅茶苦茶だったが、最早それについては、こだわらなくなっていた。ハッキリ言って、色々考えたり心配したりするには、疲れ過ぎていた。
何よりこのトレンデという場所では、実際の方角だとか距離だとかいった問題は、あまり重要でないように思われた。何というか、ここでは全ては影みたいなもので、常に移ろいでゆくのが普通なのかなって感じがする。
トレンデでは多分、物は「相対的に」存在しているだけなのだ。
民家があれば鉄塔がある。飛行場があれば飛行機と格納庫がある。畑があれば鳥がいる。農地があれば街道がある。そういった具合に、何かがあれば、それに関連して何かが次々と繋がっていくという仕組みで、どれもこれも「絶対的」にどこかに固定されているわけではないのだろう。
世界が、繋がりながら浮遊している。そんな雰囲気。
だから、ここでは地図も、磁石も、時計も、思い切って投げ捨ててしまうべきなのだ。わからないことだらけの時には、時にはそういう判断も大切だ。もちろん諦めずに考え抜くことは大事だが、それで息が詰まって倒れてしまっては元も子もない。何事も適当が一番だ。どうせ、わからんもんはわからん。
…………俺は少々やけっぱちになっているのかもしれなかった。
何にせよ俺は街道に沿って、見覚えのある風車の丘を目指し、ずっと真っ直ぐ走って行った。
…………ああ、そう言えば。
ツーちゃんに直接連絡してみたらいいじゃないかと、ユルギスを大分走らせてから、俺はようやく思い至った。思いの外、疲れが深刻である。
俺は早速、リーザロットを見つけた時の要領でツーちゃんに通信を試みた。
(――――…………ツーちゃん、俺だけど。聞こえる?)
半信半疑の曇った心をサッと吹き飛ばすように、今回は間を置かず返答が届いた。
(俺、とは誰だ)
聞き慣れた響きが、俺の脳をダイレクトに痺れさせた。
ツーちゃんは俺の感動が冷めやらぬうちに、続けて早口で言った。
(そんな阿呆なことを言うのはコウ、貴様一人しかおらんだろうがな。次からは必ず名乗るようにせよ。無論そのようなことをせずとも、私には貴様の気ぐらい感じ取れるが、通信上の規則は守られねばならん)
(本当に通じるとは思わなかった!)
感嘆を漏らす俺の頭の中に、やや怒りのこもったツーちゃんの声…………つまりは普段通りの調子の彼女の声が、ガツンと響いた。
(フン、当然だ! 貴様、ドウズルはどうした?)
(やっつけたよ!)
(よし。怪我はないな?)
(ああ、ない。汚れはしたけども)
(そうか、よくやったぞ)
俺は褒められて嬉しくなり、つい一人で顔を綻ばせた。
思い返してみれば、自分なりに結構な活躍をしたものだった。魔弾はまだ3発も残っているし、その上、教わった以上の使い方までマスターしてしまった。俺は天才かもしれない。
だが、ツーちゃんはどのようにして見透かしたものか、浮かれる俺を流れのまま滑らかに諌めた。
(しかし、油断するでないぞ。その魔弾が貴様にとって生兵法であることは、十二分に心得よ。魔術とは本来、非常に厄介で危険なものだ。理を知らずに大きな力を行使することは、貴様が思っている以上に深い業を貴様にもたらす)
俺はお説教に口を尖らせつつ、
(業?)
と、繰り返した。口にした後すぐ「しまった」と後悔したが、ツーちゃんは間髪入れずに
(そうだ)
と力強く相槌を打ち、滔々と語り出した。
(業の深みについては、例え世の全てが果てるまで話し続けたとしても、とても語り尽くせぬ。この私にも潜りきれぬほどに深い領域がある。それはあらゆる力の源泉であり、帰結するところでもある。業とは魔海の調べ、魔術の本懐だ。
いいか。業の流れ、貴様の行いが世界の深部にもたらす有象無象の影響に関しては、誰にも、どうすることもままならぬということを自覚せよ。いかに愚かな奴も、賢い奴も、弱い奴も、強い奴も、都合よく己だけが業の渦から救われるなどということはない。決してないのだ。
従って、我々が力に対し、尊敬と謙虚さを持つべき理由というのは…………)
俺はそれから一通り、専門用語だらけのプチ講義を聞かされた。
例によって、わかったつもりになって所々合いの手を打っていたが、実のところ、今回も内容は微塵も頭に入ってこなかった。うんざりだったし、走りながらではなおのことだった。
結局、この世の業はマリアナ海溝より遥かに深いという既知の事実が、漠然と再確認されただけで話は終わった。ツーちゃんは最後にこう締めた。
(まぁ、詰まる所、貴様にできることはせいぜい思い上がらぬよう心掛けるぐらいだという話だ)
(うん、そうだね)
俺はしおらしく頷いた。こんなことしている場合なのか? という疑問は、どうして彼女に伝わらないのか。
ツーちゃんはそれから、やっと思い出したかのように、こんなことを言った。
(ああ、そうだ。貴様に伝えねばならないことがあったのだった)
(何?)
俺はそう聞いた後に、すぐに付け加えた。
(ていうか、できれば、先にそっちの状況と、俺がどこに向かったらいいかを教えて欲しいんだけど)
(喧しい。そんなことは貴様に言われるまでもないわ、阿呆。貴様がまだなの、まだなのと、幼児のようにだだをこねるせいで、準備に1秒、余計に手間取ってしまったではないか!)
(…………)
(これから、こちらまで来る際に辿る道順のイメージを貴様に送ってやろう。その景色を追って来れば、うまく合流できるはずだ)
(イメージ?)
俺が尋ね返すや否や、俺の脳裏に一連の風景がふわりと浮かび上がってきた。俺は一瞬のうちに、まるで地元駅から家までの景色をすっかり思い起こせるみたいに、その風景を自在に思い浮かべられるようになっていた。
(何これ!? 便利だね!?)
俺の感嘆にツーちゃんは呆れるでもなく、さらりと解説を添えた。
(まあな。トレンデでは世界の構造上、地図というものを作ろうとすると非常に複雑になる故、そのようにするしかないのだ)
俺はあえて踏み込まず「へぇ」と無難に頷いた。これ以上の講義は勘弁である。
次いでツーちゃんは、彼女たちが置かれている状況に関して、手短に伝えた。
(今のところ、こちらは小康状態に入っている。ちょっと難しい相手でな。今の小さなフレイアだけでは、きりがないのだ)
(フレイアは無事なの?)
(今のところはな)
(良かった)
俺は胸を撫で下ろし、もっと詳しく話してくれるようせがんだ。
(俺も力になりたいんだ。まだ魔弾も余ってるし)
(ほう、まだ残っているのか)
(すごい? えらい?)
(調子に乗るな。…………とにかく、こちらの状況を話そう)
ツーちゃんによると、戦闘は貯水池の近くで行われているとのことだった。トレンデの貯水池には膨大な量の魔力が溜まっており、敵の魔導師が大規模な魔術を使うための、格好の場となってしまっているのだそうだった。
(敵はどんな魔法を使うの?)
(貴様風に言うと、召喚魔法だな)
(召喚魔法! ドウズルが他にもたくさん出て来るってこと?)
(いや、恐らくはドウズルよりも数段手強い魔物を呼ぶだろう)
(マジかよー…………)
俺は頭の中に浮かぶ景色通りにユルギスを走らせながら、ツーちゃんに言った。
(それで、俺はどうしたら良い?)
(そうさね)
ツーちゃんは年寄りじみた言葉で一拍置くと、淀みなく話した。
(召喚魔法というのは、場の条件が大事でな。貴様が場に加わることで、さらに状況は混乱するだろう。よって貴様には、合流した後はなるべく身動きせずに、小さく肩を縮めて、じっと蹲っていてもらいたい)
(えっ?)
(何か文句があるか?)
(いや…………わかった。どこに隠れていればいい?)
俺は自分でも意外なほどあっさりと、ツーちゃんの提案を受け入れた。
残念ではあったけれど、旅立ち以来散々な目に遭い続けて、危険回避の手法に関しては、多少呼吸が掴めてきていた。基本的には言われた通りにして、余計なことは余裕ができた時に、少しずつ着実にやっていくこと。思えばとっくの昔に、アルバイトで学んだはずのことでもあった。
俺は、でしゃばらない自分をこっそりと褒めつつ、慰めつつ、ツーちゃんの次の言葉を待った。
(うむ。それなのだが、実は少々考えあぐねているのだ)
(ええ? 大丈夫なの、それ?)
(生意気言うでない。貴様が着くまでにはどうにかする。頑丈で風通しの良い檻というのは、意外に難しいものだ)
(はぁ。まぁ頑張ってもらいたいよ)
俺が呆れていると、ふいにツーちゃんがトーンを明るくして呟いた。
(それにしても、ほんのちょっと見ないうちに、少し逞しくなったな、貴様は)
(えっ。そう?)
(ほんのわずかにな。阿呆なりに、色々と考えて動くようになったようだ。まぁ、小虫の寝返り程度の変化だが)
(何だ、それ)
俺は自嘲気味に笑って肩をすくめた。誰も見ていないわけだが、電話と同じように、話していると何となくジェスチャーを作ってしまう。
ツーちゃんからの返答はなかったが、そこはかとなく、こそばゆい気分だった。
トレンデの風景は、相変わらずゆったりとした薄闇に包まれていて、のどかな外国の農村らしく、蕩けそうな情緒に浸されていた。
どこかの家の庭を横切った時には、チキンスープみたいな匂いが漂ってきた。まれに影人の姿が俺の視界の端を飛び過ぎて行ったが、どの影も全くこちらを気にしてはいないようだった。
俺は街道から分岐した細い脇道へと獣を曲がらせ、さらにそこから畑間の畦道へと進んで行った。もうすぐ、貯水池の水面が見えてくるはずだった。
両側の畑から芳しいハーブの香りがしていて、俺はその優しく香ばしい匂いに、久しく忘れていた空腹を思い出した。
(…………ツーちゃん)
(ん? 何だ?)
(俺、お腹が空いたよ)
(それは何よりだ。健康な証だな)
俺は黙々と風のように大地を駆けながら、魔弾を射出する時の感覚を確認がてらに何度も思い起こしていた。




