103-3、重なる嘆きの寄る辺。俺がセレヌ川の泥底に沈むこと。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けた俺は、自警団の少女ナタリーらとの出会い等を経て、サンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加する。
だがそこで俺達は五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムから襲撃を受ける。
辛くも危機を脱した後に、俺達は少数精鋭で、都市・テッサロスタの奪還を目指し遠征を開始する。
旅はつつがなく進むかに見えたが、その途上で俺達はまたもやジューダムからの刺客と遭遇、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。
戦いの最中で仲間とはぐれ、満身創痍の俺達の下に現れたのは魔導師・グレン。彼は俺達に救いの手を差し伸べ、再びテッサロスタの奪還へと挑ませた。
そして今、俺達はジューダムの支援を行う「太母の護手」と相対し、死闘を繰り広げていた。
―――――――…………その日、「俺」はエズワースの広場の片隅に座っていた。
何をするでもなく、眺めるでもなく。
膝を抱えて独り蹲っていた。
静かな日だなと思っていた。
眠って起きたばかりなのか、今まさに微睡もうとしていたのか、それすら腹が減り過ぎてよくわからなかった。
ぼやけた時間の長さが自分や、自分を取り巻く人々の衣服や肌にしっかりと茶色く染み付いている。俺達の矮小な身体は日に当たると少しだけ明るく、よりみすぼらしくなる。
ひもじさは眠ると忘れられるが、起きるとすぐにまた蘇ってくる。
隣の家の姉さんは、この世にはもっと辛いことがあると零していたけれど、その姉さんも餓えている時は、やっぱりこれが一番辛いと話す。
空腹はいつだって、俺達の最も近くにいた。
いずれ狩りへ出て行かねばならないのは知っていたが、億劫だった。
森には沢山の魔物が蠢いている。
魔力の無い俺達には、森はまさに地獄だ。
魔物に生きたまま臓腑を食い散らかされた兄弟の悲鳴が、今も俺の耳にこびりついている。
俺は足が震えて動けなくて、彼が俺の名を泣いて叫びながら食われるのを、草陰からただじっと見つめていた。
あの日の後悔は最早、飢餓に食われて虚無と化していたが、それでも悲鳴は呪詛の如く余韻を引いている。
…………この国の人々は、「地獄」は無いという。
全ての命は「魔海」に帰る。豊潤なる魂の海へ溶けて新たな命に繋がるのだと、施しに来た司祭が得意げに俺達に説いていた。
俺の罪も愛情も、やがて新たな魔力の源となると。
「裁きの主」が、全てを見守っているのだと。
「…………」
蠅が一匹、目の前を飛んでいたので捕まえて握り殺した。
掌を舐めて、また小さく蹲る。
隣の家の姉さんが、痩せ細った身体を目一杯惨めに着飾って、ヨロヨロと表通りへと出掛けていくのが見えた。
締まりのない笑顔を浮かべて、よだれを垂らしている。
このところの姉さんは明らかにおかしくなってきていた。
きっともう長くは持たないのだろう。
醜い醜いと罵られながら、姉さんは身を売る。昼も夜も無く。
餓鬼を漁るのは同じ餓鬼だけ。彼女は相手を選べない。
…………俺達の神様は、彼女を地獄に堕とすだろう。
彼女は俺や俺の兄弟にもパンを分けてくれるし、自分の娘達をとても愛しているけれど。
それでも穢れているから、地獄へ行くべきなのだ。
地獄と、彼女を貶めた魂がたっぷりと溶けた「魔海」へ放り込まれるのと、どちらがマシなのか俺にはわからない。
今さっき潰したばかりの蠅の血はもう乾いていて、改めて舐める余地は無かった。
俺は虚ろな気分で、すぐ目の前を走るどぶ川を見つめた。
都中から掻き集めた汚れをたっぷりと孕みながら、川はゆっくりゆっくりと流れていく。
都から来た司祭はこの川を見て、ひどい瘴気だと言って早々に逃げていった。恐らくは二度と来ない。
向かいの家の爺さんが素っ裸同然の格好で出てきて、川端に座った。
服を洗うつもりらしい。
街の外の川に行かないのは、彼もまた魔術が使えないから。
婆さんが疫病に罹っても、慣習を変えるつもりはないようだ。
俺は目を瞑り、夢の中へと逃れた。
……………………
――――――――…………その日は、土砂降りの雨だった。
俺は姉さんの家の軒先で、延々と降り続く雨を眺めていた。
姉さんの葬式が白い鎧を纏った騎士達によって中断させられてしまったので、することがなくなってしまった。
ぐしゃぐしゃにされた花を拾い集める娘達のすすり泣きが雨音に混じって聞こえてくるのが、ひんやりと悲しかった。
白い騎士達は、俺達の葬式のやり方が気に食わなかったらしい。
彼らは俺達の「不信」を正すべく、「正しい」弔いと祈りを捧げて騒々しく去っていった。
花が散らかったのは、俺とアイツらが争ったせい。
殴るより他に、伝える手段が無かった。
彼らに俺達の言葉は通じない。それは俺達が異国の出身だからではなく、彼らが魔術師だからだ。
魔術師共は見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かない。
全くもって馬鹿馬鹿しいことだが、事の発端はもっと愚かしいことだった。
数か月前、この辺りを見回っている都の自警団の男と、俺達の仲間が諍いを起こした。
元々俺達の存在自体を快く思っていなかった自警団の男は、俺達を邪教徒として都の教会に密告した。
それ以来、白い騎士が度々広場に現れては、俺達の祭壇をぶち壊していく。
昔ここを訪れた司祭と一言一句違わぬ、乾ききって張り付いた文句を唱えながら。
「――――――――汝らに白き雨の恵みが注がれんことを」
俺は強かに打たれた腕をさすり、寒さに身を震わせた。
…………一体いつまで、この雨は降り続くのだろうか。
このまま続けば、どぶ川は間違いなく氾濫する。
そうしたら、何もかもが押し流されてしまう。
命からがら蓄えたわずかな食料も、祈祷のための花も、かけがえのない一族の財産も、全てが魔海の藻屑と消えてしまう。
姉妹のか細いすすり泣きが耳にしみる。
俺は腫れた唇を噛み締め、忌々しい空を睨んだ。
………………………
――――――――…………その年もまた、雨の多い年だった。
注がれ過ぎた恵みはついに都の人間をも苦しめ、広場には家を失った人々が多く流れついていた。
彼らは元々俺達とさして変わらぬ貧しい暮らしを送ってきた、か弱い人々であった。
彼らは辛うじて拾い集めた家財を後生大事に抱えて、脳に杭でも打ち込まれたかのような神妙な顔をして、俺達の広場の傍に粗末な居を構えた。
俺達のことは、まるでいないかのように振る舞っていた。
彼らが話すのを耳にして、俺はどぶ川の名を初めて知った。
セレヌ川というそうだ。
正確には、セレヌ川から分かれた支流の一つ。
単にどぶ川と呼ぶ者の方が遥かに多かったが、それでも「恵みの大河」を都の名残として愛おしむ人間は少なくなかった。
俺達の暮らしは相変わらず…………とはいかなかった。
俺達は故郷を追われて以来――――俺自身は故郷を見たことがないのだが――――ずっと息を潜めて命脈を繋いできた。
なぜこの地にやって来たのかと言えば、遠い昔に大国との戦に敗れたからだが、さまよい辿り着いた先のこの地もまた、魔力を持たぬ俺達には生きづらい土地であった。
人間の棲み処と俺達の棲み処との境には、必ず透明な垣根が編まれていた。
暗黙の内に築き上げられた垣根は、お互いをある程度の範囲で守ってきたように思う。
姉さんのように水際で陰惨に散る者がいたとしても、どんな暴言を浴びせられたとしても、仰ぐ神の像がいかなる色に塗り潰されたとしても、俺達はその垣根の内で、魂を守ってこられた。
だがその境界はここへ来て、無慈悲に踏みしだかれつつあった。
数の増えた人間は、程なく俺達を森へ追いやろうとし始めた。
治水工事という名目で、俺達は立ち退きを迫られた。
俺達は抗った。
小競り合いの際、向かいの家の爺さんが突き飛ばされて頭を打って死んだのを境に、争いはいよいよ激しくなっていった。
俺達は人間よりも小さいが、力は強い。いくら腹が減っていても、同じだけ飢えた人間に劣ることは決してなかった。
分が悪いと見ると、人間は手段を選ばなくなってきた。
魔術無き脆弱な人間達は、己の肉体で成し得る限りの暴虐を尽くすようになった。
彼らは夜中に集団で襲撃してきて、俺達の家の食料を次々とどぶ川へ投げ込んだ。
狩りへ行っている隙に、財産を悉く盗んだ。
育てていた祈りの花や薬草は全て引き抜かれ、水甕には毒が放り込まれた。
俺の恋人が行方をくらましたのは、夕陽の美しい良く晴れた日のことだった。
翌朝、嬲られてどぶ川に捨てられていたのを、俺が見つけた。
隣の家の娘が産んだ赤ん坊が消えた。
獣に食い散らかされてズタズタになった残骸を、俺と娘とで拾い集めた。
向かいの家の呆けた婆さんが自警団に捕まった。
死んだ爺さんを探して徘徊していたのを、「保護」されたのだ。
彼女は自警団の牢の中でも、しきたりに従って、不幸に遭った一族の者を毎晩悼んでいた。
その行為は「邪教崇拝」と見做され、彼女は教会へと連れていかれた。
そして彼女の「不信」告白が、白い騎士を広場へと導いた。
騎士達は一瞬にして広場を焼き払った。
見たことも無い程に鮮やかな火焔が竜巻となって辺り一帯を飲み込み、俺達の築いてきた全てをたちまち灰燼に帰した。
逃げ遅れた子供が大勢死んだ。
娘達はどこかへ攫われていった。
動けぬ老人は見殺しにするしかなかった。
落ち延びた俺と兄弟は皆、酷い火傷を負った。
そうして高熱と壮絶な渇きに数日間悶え苦しんだ後、俺と一番下の弟だけがかろうじて生き延びた。
……………………
――――――――…………目覚めたその日も、雨が降っていた。
俺は森の外れの砂浜で、嗅ぎ慣れたどぶの匂いに包まれて起き上がった。
地獄で永遠の業火に炙られているであろう、姉さんと恋人のことが頭に浮かんだ。
彼女達を罰する神。
彼女達を救わぬ神。
陳腐だ。
死んだら何も無い。
全てを忘れ、魔海の底に沈んでいる?
…………否、俺達は断じてこの地には与さない。
この地が俺達に力を与えなかったように、俺達もまた、この地に心を閉ざす。
「裁き」
「正義」
所詮、狂った魔術師の妄想に過ぎない。
白き魔物に呪われた悪魔共が練り上げた、唾棄すべき魔の術。
俺は焼け爛れた己の顔を茶色い水鏡に映し、いつまでも消えぬ飢餓と渇きと痛みに縋った。
縋るべきものは、他に一切無かった。
…………俺は力を欲した。
力。
地獄も、純白をも飲み込む、
この雨を晴らす、
純然たる存在を…………。
……………………
――――――――…………長い長い階段の上に、人が立っていた。
「俺」は、自分がどこで何を間違えたのか、時々考える。時々と言わず、ふとした拍子にはいつもそんな自分に気付かされる。
今もそうだった。
それが如何に無駄なことかは知っていても、止められないのだ。
「何なんだよ、今の…………」
俺の呟きに、階段の上の男が答えた。
「「私」の記憶です。白き魔の業の、ほんの一側面」
俺は自分の内に芽吹こうとしているものを、全力で絞め殺そうとしていた。
同情なんてすべきじゃない。
するとしても、タイミングは今じゃない。
俺は、彼らを止めにきたのだ。
俺は顔の見えない男を睨み据え、言った。
「洗脳する気なら、無駄だ。何を見せられたって、俺は…………」
男は俺の言葉を遮り、高圧的に被せてきた。
「洗脳など、とんでもありません。ただ私はこの世界のありのままをご覧に入れただけです。…………何より、まだ本当の絶望は始まってもいないのです」
「何だと…………?」
「ご存知でしょう? 真の絶望は、常に己の内側にのみ存在するのです。…………貴方ご自身の内に」
男は静かに、俺の喉を真綿で埋めるように緩やかに言い継いでいった。
「「私」もそうでした。私はとりわけ昏い境遇に産まれましたが、それ故にかえって母様を見出すまでに時間が掛かりました。
貴方にも…………今少し時と手助けが必要なように見えます。貴方は暗黒に育まれた子ではないようですが、長く目隠しをされて生きてきたようですから」
俺は抑圧を振り切り、怒声を叩きつけた。
「黙れ!! お前らの愚痴に付き合っている暇なんか無いんだよ!! ナタリーとレヴィはどうした!? 2人に何かしたら、本当に容赦しないからな!!」
答えは無く、耳障りな忍び笑いだけが闇に響く。
男は悠然と俺に背を向けて階段の先へと上りつつ、余裕たっぷりに囁いた。
「焦らずとも、ここはすでに母様の胎の中です。
…………すぐに巡り会えるでしょう。互いに、純粋なる魂の姿と相成って」
背筋に寒気が走る。
怯えて振り返ると、そこには無数の白い腕が蠢いていた。
「…………!!!」
群がってきた腕が瞬時に俺へ縋り付いてくる。
俺は階段の先へ向かって叫ぼうとしたが、それより先に沢山の指が咽喉へ詰め込まれた。
無数の手によって両目が無理矢理に見開かれ、眼球に大量の指が迫ってくる。
「…………ッ!!!
…………ッッッ!!!!」
指が目の隙間に捻じ込まれ、血が溢れた。
ブチブチと何かの千切れる音がする。
激痛と高まった心拍が強迫的に共鳴する。
音の無い悲鳴が闇を震わす。
……………………
――――――――……………………。




