102-1、「太母の護手」との決戦。俺が呪いせめぎ合う館へと踏み込むこと。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
様々な困難を乗り越え、ようやく目的地に着いた俺は、「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けることとなる。
その後、俺は自警団の少女ナタリーらとの出会い等を経て、サンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加。そこで五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムから襲撃を受ける。
辛くも危機を切り抜けた俺達は、ジューダムに占領されている都市・テッサロスタの奪還を目指して少数精鋭の遠征隊を結成する。
遠征はつつがなく進むかに見えたが、その途上で俺達はまたもやジューダムからの刺客と遭遇し、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。
仲間とはぐれ、満身創痍の俺達の下に現れたのは魔導師・グレン。彼は俺達に救いの手を差し伸べ、再びテッサロスタの奪還へと挑ませるのであった。
小汚い路地裏。
廃墟となった家の庭。
枯れた井戸を囲う集会場。
暗い林を縫う、細く長い獣道。
俺達は人気の無い空間を途切れずすり抜けて、東方区領主の館へと辿り着いた。
今までに比べるとあまりにあっけない到着で、俺は思わず拍子抜けした。
「本当に、ここ…………?」
尋ねるまでもなく、目の前の建物の威容が間違いなくそうだと物語っていた。
白い石造りの壮麗な館には、装飾の宝石が漁られぬまま残っている。門前に鎮座している2体の竜の彫像は紡ノ宮で見たものとよく似ていた。冷たいその瞳にはあの大像と同じく、凛と澄んだ水晶が嵌まっている。水晶は静かに陽光を反射して、何を見つめるでもなく、安らかに瞬いていた。
だだっ広い前庭を有する館は、ゾッとする程に閑寂としていた。辺りに警護の人影は無く、ともすると、あのエルフの地下宮殿が現実に蘇ったかのような、奇妙な不安に囚われた。
杉と同じ香のする背の高い樹の陰で、タリスカが言った。
「この館は冷泉の水を張った堀の内にある。歪穴は冷泉の結界を貫き、市内と館とを繋いでいた。だが、これよりは表立って進撃せざるを得ぬ。心せよ」
「歪穴って…………いつの間に通ったんですか?」
「歪穴は人の意識の間隙に穿たれる。ある種の亜人、あるいは未だ世に染まらぬ幼児であれば見え得るが、多くの者には不可視だ。…………偶さかに潜った者も大概は己の思い違い、単なる道迷いと見做す」
「世俗に浸りきっているアナタには、何でわかるんスか?」
どこか棘のあるナタリーの問いに、タリスカは涼やかに答えた。
「古き土地と同様、永き生もまた歪を育むもの。滲出した夢現の境界は、互いを誘う」
「…………」
…………つまり、「何となくわかる」ってことか。
俺とナタリーは顔を見合わせ、小さく息を吐いて館に目を移した。
ナタリーは、少なくとも表向きはなんて事のない表情で、じっと館を睨んでいた。
俺ともう一度目が合うと、「なぁに?」と真っ直ぐな瞳で尋ね返してくる。
俺は改めて彼女の美貌に気付き、ふと言葉を見失った。フレイアともリーザロットとも違う、溌剌とした自然な目と頬の血色。健康な輝き溢れるスタイルは、きっとどこの誰から見ても魅力的だ。
こんな子が俺のことを想ってくれているだなんて、この期に及んでさえ信じられなかった。きっと一時の気の迷い…………吊り橋効果的なものに過ぎないんだろうけど、それにしたって、そんなことがこの甲斐性無しのニートにあり得ていいものなのか?
誰でも人生にモテ期は3回来るというが、何も今、こんな特殊な状況で一遍にやって来ることないじゃないか? 色んな意味で泣けてくる。
俺は首の後ろを掻き、彼女を見つめ返して言った。
「いよいよだね。…………今回も、よろしくね」
ナタリーは力強く頷き、答えてくれた。
「もちろん! このために遥々来たんだから、気合いれなくちゃね。…………アナタと私なら、どんなことだってやれるよ!」
「ありがとう」と答えて、俺は彼女に微笑んだ。もっと伝えたいことは沢山あったけれど、余計な感情が邪魔をした。
ハッキリと話した方がいいのかもしれない。でも、今はその時じゃない。
フレイアの憤った顔や寂しそうな目が浮かんでくる。リーザロットに気持ちを打ち明けられた時よりももっと、もどかしくて歯痒かった。
リーザロットの信じるものを、力の限り支えてあげたい。
ナタリーと一緒に戦って、彼女の笑顔を守りたい。
フレイアの抱えるあの途方もない虚無を、この手で抱き締めて、一杯に満たしてあげたい。
誰の悲しむ顔も見たくない。
なのに…………。
「…………」
俺はタリスカを仰ぎ、渦巻く雑念をぐっと押し殺して彼の合図を待った。
タリスカは微かに視線を鋭くさせ、決然と二刀を抜いて正面へ掲げた。
「では、参ろう。…………館の主は待ちわびている」
俺達は館の正面玄関から、真っ直ぐに突撃した。
ここまで来たら、俺達も敵も逃げ隠れはできない。真っ向から勝負を挑むのが、どちらにとっても最も確実な、そして唯一のやり方だった。
竜に護られた豪奢な門を抜け、勢いよく館の扉を開けたら、そこにはすでにサモワールも真っ青の大人数が出迎えに揃っていた。
天井の高い吹き抜けのホールに、見事な水晶のシャンデリアがぶら下がっている。目の覚めるような緋色の、濃い歴史を感じさせるカーペットの上に、真っ黒なローブとフードを身に纏った陰気なヤツらがズラリと行儀良く並んでいた。
完璧な左右対称に作られた正面階段の前には、とりわけ偉そうな佇まいの男が一人、青白く光り輝く魔法陣を敷いて胡坐を掻いている。
男はあたかも家族の墓前にでも語り掛けるように、穏やかに俺達を迎えた。
「ようこそ、我らが巫女様。またお会いできる日を心待ちにしておりました。…………そして呪われし骸の騎士、伝承の「勇者」。禍々しき蒼の魔女に魅入られし、哀れな愚者たちよ。我々「太母の護手」は、貴方がたをも歓迎いたします。…………よくぞいらしてくださった」
彼の煙じみた魔力が、虚ろな声に乗って身に染みてくる。彼はまさしく、竜の交渉をしにサモワールへ行った時にナタリーと戦っていた一団のリーダーであった。
男は乾いた笑みを漏らし、肩を揺すった。
「…………フフ、ほんのわずか見ないうちに、巫女様はさらにお力を強められたようだ。これも母様のお導きでしょうか。これ程の御徴を前にいたしますと、喜ばしいのを通り越し、最早恐ろしい心地がいたします」
男の声の抑揚に合わせて、魔法陣が妖しく燃えるようにチラついている。俺はナタリーの傍に寄り、すぐにでも彼女と力場を編めるよう視線を交わした。
男はそんな俺達へ冷ややかな眼差しを注ぎながら、さらに話を続けた。
「さても、さても…………下らぬ戦ですな。我々の目には、全てがあの裁きの魔物の邪悪な暴力、その顕現に見える。
…………まぁ、それもあとほんの少しの間のことです。いまに母様の無が、全てを包み込み、一なる所へと還してくださる。始まりの胎内から、我らはあるべき姿へと孵る…………」
ナタリーが翠玉色の瞳が真夏の日差しの如くギラついていた。彼女は刺青の左腕に力を込め、叫んだ。
「アナタ達…………一体、何を企んでいるの!? 下らない戦だって? アナタ達だって、他人事じゃないでしょう!? ジューダムに手を貸して、この戦争を余計に焚き付けているのはアナタ達だって、わかってるんだから!!」
男は薄い唇を不気味に歪め、緩やかに首を左右に振った。
「あの無知蒙昧な愚民共は単なる触媒に過ぎません。偉大なる母上を再びこの地上へとお招きすることこそ、我らが本望。人の戦の行方になど、我らは微塵も興味が無い。
世界はもうすぐ生まれ変わる。あるべき唯一の姿へと、回帰する」
「意味がわからない。…………アナタ達は、私のお父さんを殺した。サンラインの街中で暴れて、大勢の人を傷付けた。今だって、テッサロスタの人を苦しめている。アナタ達は自分達以外の人のことを何とも思っちゃいない。アナタ達こそ大馬鹿だよ! 私はアナタ達の巫女なんかじゃない。二度とそんな風に呼ばないで!」
「…………巫女様は強くなられたが、まだ世界の真実をご存知無い。裁きの魔物と、それに媚びへつらう人間共に毒されていらっしゃる…………。
…………とりわけ、そこの伝承の「勇者」に、ひどく魂を穢されておられるようだ。その穢れが「無色の魂」を貫き、尊き貴女の根源へと染みつくより前に、一刻も早く浄化して差し上げねばなりません」
男の暗い藍色の眼差しが俺を射る。
魔法陣が蒼い火焔を噴き上げ、ホール中を炎で包み込んだ。激しく踊る火の明かりを浴びたシャンデリアが散乱させた光が、「太母の護手」の信徒達へ硬く尖った青色を投げかける。
浮かび上がった信徒達の顔は、どれも人間のものではなかった。
「…………アナタたち!」
サモワールの前にいた双子のドワーフと蜘蛛男が、俺達のすぐ目の前に控えていた。
彼らの背後には、墓から這い出てきたばかりのゾンビとでも呼ぶべき生物がぞろりと腐った顔を並べていた。さらにその奥には、角を生やした鬼の容貌をした大男と、能面の如き無表情を気取る四つ腕の女が、見たことも無い異様な形の刃の数々を手にして佇んでいる。
男は「牙の魚」を彫った自らの腕を高々と掲げ、今までに無く快活な調子で宣言した。
「さぁ、此度はつまらぬ戦のことなどは忘れて、共に踊ろうではありませんか! 真実の世界で、母様の無限の愛に酔い痴れましょう! 母様の美しき混沌を「魔海」などと偽る、忌まわしき蒼の魔女の束縛から、今、解放して差し上げます!
――――我が同胞、「母の良き息子」達よ! 裁きの魔物の呪いを、今こそ打ち破るのです!!!」
合図と同時に、一斉に信徒がこちらへ飛び掛かってくる。
タリスカは黙って剣の切っ先を彼らへ向け、冷たく言い放った。
「勇者、水先人の娘。情けは不要。
…………一人残らず、やれ」
蜘蛛男の腕が執念の鞭となって、ドワーフ達の憤怒がフルスイングの鉄槌に乗って、俺とナタリーへと襲いくる。
俺達は呼吸を合わせ、一瞬のずれもなく意識を重ねた。
(――――…………行こう、ミナセさん!!!)
(――――…………ああ!!!)




