97-2、二人きりの夜。俺が初めて浸る、甘い世界のこと。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
様々な困難を乗り越え、ようやく目的地に着いた俺は、「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けることとなる。
その後、自警団の少女ナタリーらとの出会い等を経て、俺はサンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加する。
しかしそこで待ち受けていたのは、五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムからの襲撃であった。
教会騎士団と共に何とか襲撃者が遣わした呪われ竜を倒した後、俺達はジューダムに占領されている都市・テッサロスタの奪還を目指して遠征隊を結成する。
旅はつつがなく進むかに見えたが、俺達はその途上でジューダムからの刺客と遭遇、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。
仲間の必死の交渉の末、かろうじて命は見逃してもらえたものの、ヤガミの騎士と刃を交えたフレイアの傷は深く、俺達は彼女の治療のために近くの村へ逗留せざるを得なくなった。
そこへ現れた味方の魔導師・グレンは、俺達にまだ奪還作戦を諦めるのは早いと説き、自身の家へと招待するのだった。
夕食後、意を決して部屋割りの件についてシスイに切り出したら、ある意味最も妥当な答えが返ってきた。
「それなら、コウさんが部屋を使ったらいい。俺は竜達と一緒に外で寝るから」
聞いた俺は慌てて言った。
「いや、それはさすがに悪いですよ。それでなくとも、旅に出てからずっと迷惑掛けっぱなしなんですし…………」
「気にするな。独りも気楽でいい」
「だけど、やっぱり野宿は疲れますよ。ここ、寒いし、暗いし、危ないでしょうし」
「スレーンと比べたらどれも大したもんじゃないさ。…………というか、君はどうしたいんだ? 君が話すべきは俺でなくて、フレイアさんなんじゃないのか?」
的を射た物言いに、俺は口ごもった。
シスイは小さく一息吐くと、
「ま、決まったら教えてくれ」
と、愛用のキセルを持って、いつものようにフラリと外へ出て行ってしまった。
確かに、彼の言う通りだった。問題は彼の意向ではない。とどのつまり俺がどうすべきかを決めなければ、話はまとまらない。
俺はフレイアが湯浴み(魔術師の家では、お湯を沸かすのなんて朝飯前だそうだ。きっとグレンズ・湯沸し器のおかげだ)から戻るのを待って、彼女と話をすることに決めた。
戻ってきたフレイアは、事のあらましを聞いて上気した顔を俯かせ、こう言った。
「…………そうですね。シスイさんがお外で休まれるのは、私も忍びなく思います。やはり土の上と寝台の上では翌日の身体の具合が全く違います。シスイさんには明日からの派遣団員の探索にも加わって頂きますし、ぜひ屋内で休んで頂くべきでしょう」
フレイアはそれから、下唇をちょっと噛んで恥ずかしそうに続けた。
「…………それに、共力場を編む際には、コウ様とお時間を気にせず過ごしたいとも思っておりました」
俺は彼女につられてもじもじとしつつ、受け入れてくれたことにお礼を言った。
「ありがとう。じゃあ…………本当に、いい?」
「…………」
「はい」と、微かに聞こえた。
俺は照れ隠しに髪を耳に掻き上げる彼女の、遠慮がちな眼差しに見送られつつ、シスイの元へまとまった話を告げにいった。
シスイは暗い空の下でゆったりと紫煙をくゆらせながら「そうか」と短く返事をし、何やら物思いに沈んだ顔で立ち昇った煙が風に消えていく様を見つめていた。
あたかもその中を自分が竜に乗って飛んでいるみたいな横顔に、俺は彼がなぜ旅をしているのかとちょっとだけ尋ねたくなったけれど、あえて何も言わずにおいた。
彼の人柄はこれまでの旅の中で、何となくわかってきている。普段は努めて決断的に振る舞ってはいるが、その実、結構物事を複雑に考え込むタイプだ。いたずらに踏み込めば、適当にはぐらかされて逃げられてしまうに違いない。
今は深くは立ち入らず、自然と距離の近付くタイミングを待とう。
人間関係も、時には風任せが良い。
そんなわけで、その晩から俺とフレイアは天井裏の部屋に泊まることになった。
俺はフレイアが先に部屋へ行って背中以外の傷の手当をしている間に、お湯を頂いてきた。
近所に湧いている霊泉から汲んできた水を使っているらしく、さながら温泉気分だった。
久しぶりの極楽に、魂と肉体、どちらも綺麗さっぱり洗われた。冷水も身が引き締まるが、やっぱりお湯は格別だ。
凍えも疲れも、全部溶けて無くなる。
そうして俺は部屋に行き、改めてフレイアと顔を合わせた。
彼女は寝間着替わりの男物の大きなシャツを着て、堆く積まれた大量の書籍をぼんやりと眺めていた。寝台は書籍の山と山の合間にひっそりと沈んでいる。
よくよく見れば書籍の山の底にもう一台寝台らしきものが埋もれているのが窺えたが、掘り出すのはどう考えても至難の業だった。
フレイアは魔法のランプの薄明りの中で俺を振り返ると、無邪気に微笑んで言った。
「こんな小さなお部屋に、すごい蔵書ですね。床が抜けてしまわないか、心配になってしまいます」
俺は寝台に腰を下ろし、肩をすくめた。
「魔法でも掛かっているのかもね。…………どんな本が置いてあるの?」
「大体は琥珀様の研究室にあるものと同じ類です。見るからに貴重そうな古代の書物も一緒になって積まれているのですが…………これですと、かえって防犯にはいいのかもしれません」
「…………『トカゲ化した霊体の速やかな消し方』とかはない?」
「コウ様! またそんなこと仰って…………。だからトカゲさんも、すぐにどこかに行ってしまわれるのですよ」
「え? アイツまた消えたの? いつ?」
「ついさっきです。私が少しお休みを頂いていた隙に、どこかへお出掛けになってしまわれました。一通り部屋の中を探してはみたのですが、残念ながら見つかりませんでした。一体どこへ行ってしまわれたのでしょう?」
「猫にでも食われたんじゃないか?」
「もう! どうしてそんな残酷なことばかり仰るのです?」
怒りと呆れがないまぜになった顔でフレイアが俺に詰め寄る。俺は「冗談だよ」と言って笑って誤魔化し、彼女をなだめた。
フレイアは尖らせた口をそのままに、俺から少し離れた場所に座った。
彼女と二人きりだと改めて意識すると、何となく続ける言葉が見つからない。
「…………」
「…………」
恐らく俺の緊張がフレイアにも伝染してしまったのだろう。フレイアもまた、俺と同様にやけに表情と身を固くしていた。
膝の上に置かれた彼女の細く白い手が、心許なげに指を絡ませたり、解いたりしている。
俺はそんな彼女に、馬鹿丁寧に話しかけた。
「あの…………そろそろ、お薬を塗りましょうか?」
フレイアが頬を赤く染め、俯く。見ていると俺まで火照ってくる。
彼女は組んだ手をいじりながら、小さく点頭した。
「はい…………。お願い、します」
彼女はゆっくりと寝台の上へ乗り、恥ずかしそうにもう一度、俺の前に背中を晒してくれた。
…………今度は、ちゃんと窓を閉めた。
フレイアは「今度こそ我慢してみせます」と意気込んでいたが、実際始めてみれば、昼と全く変わりなかった。むしろ変に声を抑えるせいで、かえって余計に艶めかった。
こんな風に言っていると、俺が至極冷静だったかに見えるだろうが、実際は時空移動のボールプールに飲まれた時と同じくらい混乱していた。
何度かは堪らずに手を引っ込めたし、逆に手を置いたまま固まって動けなくなってしまったりもした。紅玉色の潤んだ瞳で不安げに魅入られると、マジで何も考えられなくなって、心臓が爆発しそうになって、息が詰まった。
傷を撫でる度、いちいち真っ赤になって健気に耐えている彼女が、もうどうしようもなく可愛くて、愛おしかった。
ランプのほのかな明かりが強調する肌の白さも、掌に馴染んでくる温い体温も、とろけるような感触も、丸みを帯びたシルエットも、悶える度に慎ましく揺れる胸も、何もかもが狂おしかった。
触ると小鹿みたいに震える癖に、時折気が緩んだ瞬間には、とても女の子らしい表情を見せる。
あえかに漏れ出る吐息がずっと俺の肌をくすぐっているのを、本人はきっと知らない。
俺はそんな彼女の髪を撫でずにいられなかった。
傷に触れられるとばかり思っていた彼女の目が真ん丸になって、それからちょっと困ったみたいに、細められた。
バラ色に染まった頬に俺の指が掛かると、彼女は胸を押さえていた手をわずかに動かした。
俺の名前を呟く唇はしっとりと濡れていた。
繰り返して名前を呼ばれた時、何かを懇願された気がした。
俺の彼女の名前を呼び返し、自分の身体をゆっくり相手に近付けた。
1センチにも満たない距離を通して、お互いの熱がじんわりと通い合う。
――――…………いつの間にか、フレイアの魔力が俺を包んでいた。
とろりと舌の上で解けていく、クリームに似た甘く温かな魔力。ふんわりとしたスズランの香が、初夏の夕風みたいに切なく、儚く過ぎ去っていった。
彼女は俺をどんな風に見ていただろう。
眼差しを見る限りでは、とても気持ち良さそうに、幸せそうにしてくれていたけれど。
お互いの魔力が混ざり合っていく、夢心地。
こんな風に共力場を編んだのは初めてだった。
誰かに流されるままではなく、
何かと戦うためではなく、
ただ、お互いのために、紡ぎ合う。
…………いつまでも浸っていたい。
…………もっと深く、濃く、溶け合いたい。
鮮やかに濡れた紅玉色の瞳が、じっと俺だけを映していた。
どんな言葉も追いつけない感情が、波となって寄せてくる。
俺は思い切って彼女を抱き寄せ、その華奢な肩に頭を埋めた。
夢中で肌にキスすると、小声で彼女が呻いた。
「…………んっ」
俺は彼女を離さずに、尋ねた。
「フレイア。
…………いい?」
「…………っ」
フレイアの顔は窺えない。
掠れた返事だけ、聞こえた。
「…………はい…………」
波が砕けて、たちまちきめ細やかな泡になる。
熱っぽいクリームが俺の力場にとろりと溶け込んで、俺をじんわりと熱していく。
俺の色…………それがどんな色なのか、自分ではわからないけれど…………がほの白く変わっていくのがわかった。
――――…………フレイアを今までで一番、近くに感じた。
彼女の底知れない不安や寂しさ、虚しさが、まるで自分の物のように胸にぽかんと浮かんできた。
悲しくてほろ苦い。
決して美しい感情じゃない。
心地良い感傷なんかじゃない。
それでも確かな、核たる彼女の一部が魂へ沁みてきた。
…………同時に俺の内の鈍色も、彼女の奥深くへ滲んでいった。
自分よりずっと優秀で強かったヤガミ。
優しくて、誇り高くて、賢かった。
アイツを刺したのは、間違いなく俺の弱さで。
自分勝手で。
後悔すべきことだった。
…………だけど、あの日。
俺の世界にようやく色が差した。
あの血を浴びて初めて、自分が生きていると思い知った。
あの色だけが、魂に届いた。
俺はあの目の覚めるような赤に、「救われた」。
…………後に続いたのは晴れやかな日々じゃなかった。
相変わらず自己肯定感は死んでいたし、刃が肉に沈む嫌な感触は、何度も何度も何度も何度も夢で繰り返された。
悔いと救いの狭間で、少しだけ色づいたモノクロもどきの世界で。
俺は頼りない紙飛行機にまだ見ぬ夢を託して、等身大のジオラマの中を漂って、何となく生きていた。
…………フレイアに、会うまでは――――…………。
――――…………俺は彼女を抱く腕に力を込めた。
君を守るという決意。
俺を見捨てないでという哀願。
ああ、どちらも伝わってしまっている。
フレイアが胸を隠す手を解いて、俺を抱き返してくれた。
「…………コウ様」
彼女の優しい抱擁が俺の力んだ肩を落ち着かせる。
邪の芽は満たされていた。
何の言葉も無いが、だからこそ俺達の内を滔々と通うヤツの力の充実がひしと知れた。
フレイアが俺の耳元で、柔らかく囁いた。
「コウ様。…………フレイアが、貴方の色になります」
彼女はぎゅっと膨らんだ胸を押し付け、言い継いだ。
「だから、どうか、もうこれ以上ご自分をお責めにならないでください。貴方は私の、大切な…………」
フレイアはそこで言葉を切って、身を離して俺を仰いだ。
初めて出会った夜に見たのと同じ瞳がそこにあった。
俺は何度目とも知れず、彼女に焦がれていた。
彼女の瞳に、俺がいる。
彼女はいつだって、真っ直ぐに俺を見てくれる。
俺は彼女に唇を寄せた。
フレイアが目を瞑る。
俺も瞳を閉じ、彼女に自分を重ねた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………?」
俺が唇を離すと、フレイアがキョトンとした顔でこちらを見つめていた。
ぱちくりと美しい紅の瞳を瞬かせ、不思議そうに今しがた俺がキスしたばかりの自分の額に指を当てている。
俺は無防備な彼女にシャツを羽織らせてあげながら、首を傾げた。
「…………どうしたの、フレイア?」
フレイアは額の手を自分の唇に持っていき、ほんの少し眉を八の字に下げて呟いた。
「あの…………、これでおしまい…………ですか?」
「え? …………うん。これだけ共力場が編めれば、十分だと思う。蛇の芽も文句無いみたいだし。…………何事も無くて良かった」
「…………何事も、無く…………」
「…………まだ、何か不安?」
「不安、と申しますか…………」
フレイアが急に、熟れたトマトみたいな顔になってシャツの襟を握り寄せる。腕に押し潰された胸が俄かに豊かに盛り上がって、ランプの光を白く反射した。
俺は魅惑的な谷間から慌てて目を逸らし、彼女から半歩離れた。
「えっと、ごめんね。とりあえずは傷の手当てだけのつもりだったんだけど…………。その、つい雰囲気に流されて。
でも…………ありがとう、フレイア。…………とても素敵な時間だったよ」
フレイアは何も言わず、ただ泣き出しそうな上目遣いで俺を仰いでいた。
物凄く何か言いたそうでもあり、一切何も言いたくないようでもあり、子供っぽくも、逆に妙に大人びても見えた。ギュッと噛み締めた唇と真っ赤な頬は、こんな時の彼女にはよくあること過ぎて、怒っているのか、困惑しているのか判断がつかなかった。
俺が困惑しているうちに、彼女は掠れ声で精一杯に言葉を絞り出した。
「…………どうして…………」
「ん?」
「どっ、どうして…………、ここではなくて、おでこなのですか?」
「ここ」と言って彼女が躊躇いがちに指し示したのは、桜色の艶やかな唇だった。
俺は彼女の幼気な、だが熱い眼差しを浴びながら口ごもった。
「それは…………だって、まだ…………」
「まだ…………?」
「ちゃんと返事も貰ってないのに…………俺の気持ちばっかり、ぶつけるわけにはいかないよ」
「…………」
フレイアが唇だけで何か零し、またクシャクシャなトマトの顔になって俯いた。今度はさっきよりも遥かに赤みが増していて、シャツを握る手にも一層力がこもっていた。
彼女は聞こえるか聞こえないかの震え声で、かろうじて言った。
「…………コウ様は、お優し過ぎます」
俺は気持ちだけフレイアの方に近寄って、彼女の顔を覗き込んだ。
フレイアは拾われた子犬みたいな一途な目で俺を見返し、俺のすぐ隣に身を寄せてきた。
怯む俺に、彼女はこう言った。
「コウ様、もうお休みしましょう。…………まさか、ご自分は床でなどとは、仰いませんよね?」
有無を言わさぬ静かな気迫に、俺は思わず言葉を飲んだ。当然そのつもりだったのだが、こうして詰められては言い出し難い。
フレイアはシャツの前ボタンを閉じないまま、前のめりになり、いつもより強い調子で続けた。
「いけませんよ! フレイアは、コウ様がご一緒でなければ今夜は絶対に…………絶対に、寝台では眠りません!」
俺はシャツの隙間から覗く白い双丘に戸惑い、ほとんどロクな抵抗も出来ずに押し切られた。
「わ、わかった。…………えっと、だから…………まずはシャツを…………落ち着いて…………」
「フレイアはすでに十分に落ち着いております! おかしくなられているのはコウ様です! フレイアは決して、いつだって、取り乱したりなど…………!!」
「わ、わかったってば。一緒に寝よう。…………ね?」
言うと目の前の紅玉色が可哀想なぐらいに潤みだし、トマトがまさに爆発寸前になり、俺は完全に途方に暮れた。
どうすればいいんだ?
どうしてこんなに怒っちゃったんだ?
彼女は俺をほぼ力づくで寝台へ寝かせると、ふわりと優しく…………ではなく、竜巻の如く荒々しく乱暴に、俺を丸ごと覆うように毛布を掛けた。
「――――…………おやすみなさい、コウ様!」
そう言って彼女がランプを消してまもなく、隣に温かい気配が寄り添ってきた。
俺は乱れた彼女の吐息を耳にして、心配になって寝返りを打とうとし、すんでところで思い留まった。
流石にこれ以上刺激してはいけない。
「…………」
「…………」
「あの…………フレイア?」
「…………何です?」
「…………おやすみ」
「…………おやすみなさい」
ぶっきらぼうな返事が返ってくる。
俺は、その後はおとなしく天井の闇だけを見つめて過ごした。
時々何かがカサカサと壁を這い回っているのが耳障りだったけれど、気付けばちゃっかり微睡んでいる自分がいた。
ドキドキしてるのに、ウトウトしている。共力場を編んだ感覚がまだ薄っすらと身体に残っていて、心地良い。
俺はまもなく、深い眠りに落ちた。
翌朝に襲い来る大混乱のことなど、露知らず…………。
2018/8/12の活動報告に夏な感じのナタリーを、そして2018/8/19のにツーちゃんを描きました。
よろしければご覧ください。
…………そう、海に行きたいんです、私。
西伊豆でシュノーケルがしたい…………。




