93-3、この先へ続く道は何処。俺が旅の行方を決めること。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
様々な困難を乗り越え、ようやく目的地に着いた俺は、「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けることとなる。
その後、自警団の少女ナタリーらとの出会い等を経て、俺はサンラインの歴史を左右する重要儀式「奉告祭」に参加する。
しかしそこで待ち受けていたのは、五大貴族の一人、及び異教徒「太母の護手」を手引きとした、敵国・ジューダムからの襲撃であった。
教会騎士団と共に何とか襲撃者が遣わした呪われ竜を倒した後、俺達はジューダムに占領されている都市・テッサロスタの奪還を目指して遠征隊を結成する。
旅はつつがなく進むかに見えたが、俺達はその途上でジューダムからの刺客と遭遇、ついにはジューダムの王…………俺のかつての親友、ヤガミと対峙する事態にまで陥った。
仲間の必死の交渉の末、かろうじて命は見逃してもらえたものの、ヤガミの騎士と刃を交えたフレイアの傷は深く、俺達は彼女の治療のために近くの村へ逗留せざるを得なくなった。
水を被り、口をすすぎ、宿の奥さんに頭を下げてシーツを交換してもらい、俺は部屋へと戻った。
シスイは帰ってきた俺を地図の前へ座らせるや、早速話を始めた。
「今いるのがここ、エレナ村だ」
彼はメモ書きだらけの地図の一点を指差し、言った。
「フィリカ洞穴を抜けてきたせいで実感が湧かないかもしれないが、見ての通り、サン・ツイードからはもうかなりの距離に来ている。テッサロスタまではあと1日もあれば届くだろう。ちなみに、元々の集合地点であったレヤンソン郷はこの村の東北にある。ツェルタンの森を抜けて街道に出れば、歩いてでも半日掛からない。
まぁ…………ジューダムから魔力追跡を受けている以上、魔術無しで魔物だらけの森を通らねばならないので、断崖絶壁に阻まれているのと等しいわけだが」
シスイは腕を組んで渋面を作り、俺を見た。
「それで…………この状況を踏まえて、コウさんは今後、どう動くつもりだ? 隊長さんもフレイアさんもいない今、君は俺の唯一の雇い主だ。意向を聞かせてもらいたい」
俺は溜息を吐き、答えた。
「そう言われましても…………。俺も、どうしたらいいのか…………。シスイさんだったら、どうします?」
シスイは同じく深い溜息を吐き、窓の外へ視線を投げた。
「悩ましいが…………。
もし、どうしても仲間の安否を確認したいなら、無理をしてでもレヤンソン郷に向かうのが一番だとは思う。あそこは陸路でテッサロスタに入る場合の要所だから、最悪当人達とは会えずとも、何らかの情報は手に入るだろう。だが先にも言った通り、その「無理」ってヤツが本当に無理だ。魔術を使わずに魔物と戦う腕は、俺にも君にも無い。頼みの綱のフレイアさんは、絶対安静が望ましい。
俺だけが竜に乗って確かめてくるという手も考えた。しかし、竜を飛ばすためには共力場は編まざるを得ないから、結局追跡に引っかかってしまう。「仲間を集めて帰るから、ちょっとだけ見逃してくれ」。そんな言い訳が通る相手ではない」
彼はさらに淡々と話し継いだ。
「さらに言うなれば、ジューダムの王は一刻も早い俺達のサン・ツイードへの帰還を望んでいる。あまり長くこの場に留まること自体が好ましくない。
それと…………当然ながら、俺ならテッサロスタの奪還計画は諦める。仮にどうにか現地に潜り込めたところで、俺達は非常に高度な追跡を受けている。…………魔術の戦は、相手に己を知られないことが第一だ。俺達は戦う前から負けているに等しい」
俺はシスイの険しい横顔を眺め、唇を噛んだ。
わかってはいたものの、やはり状況は最悪だった。何の成果も残せなかったどころか、味方を失い、敵の大将に首輪を付けられて戻るだなんて…………。
俺はダメ元で、シスイに提案した。
「その…………魔力追跡を振り切ることって、できないんでしょうか? 戦いの最中にグラーゼイがやっていたみたいに、ものすごく気配を抑えて動くとか。逆に、あえて滅茶苦茶に魔術を使って目眩ましにするとか」
シスイは小さく肩をすくめ、首を左右に振った。
「無理だ。一流の魔術師に追跡を受けたら、いかに些細な痕跡線さえ誤魔化せない。もっとも、琥珀氏がいればその限りでは無かっただろうが…………」
「ツーちゃんか…………」
俺は去っていく彼女の小さな背中を思い出し、ガックリと項垂れた。
確かに、こんな時に彼女がいればどんなに頼もしかったことだろう。今となっては、あの居丈高な振る舞いさえ恋しい。
俺は溜息を堪えて再び地図に目を落とし、考えた。
ううむ…………。遠回りでもいいから、何とか魔物に遭遇せずレヤンソン郷まで辿り着く道はないものか。あるいは、どこか旅人の噂が集まるような、丁度良い要所がレヤンソン郷の他にないものか。
しかしいくら目を凝らしても、急に道や辻や村が増えるわけは無い。
シスイはもう地図なぞ見飽きたのか、つまらなそうに長閑な日差しに目を細めていた。「良い天気だ。こんな日は気ままにどこかへ飛んでいって、パイプでも燻らすに限るんだが…………」そんな心の声が聞こえてきそうである。
ヤガミに直接頼んでみる…………なんてのは、あまりにも馬鹿げた話だった。何より、アイツ自身がまた俺の前に出てくるとは思えない。
サッとレヤンソン郷まで行ってサッと帰ってくるにしても、昨日の今日でジューダムの目が俺達から離れるなんてことは、まずあり得ないだろう。
俺は結局、シスイに倣って青空へと視線を送った。
「…………フレイアが治ったら、サン・ツイードへ帰りましょう」
俺の答えにシスイがわずかに顔を向ける。
俺は千切れ雲のゆっくりとした歩みを追いつつ、続けた。
「皆の捜索は、蒼姫様とか、エレノアさんとか、霊ノ宮の宮司さんとか…………街にいる力のある魔術師さん達の力を借ります」
シスイは黒真珠そっくりの瞳を細め、「わかった」と頷いた。
外の空気を吸ってくると言ってシスイがフラリと出掛けた後、俺はフレイアの部屋へ赴いた。
ノックしても返事が無いので、恐る恐る扉を開いてみると、中はもぬけの殻だった。
「あれ…………? フレイア?」
毛布もシーツも綺麗に整え直されていたが、荷物はそのままである。獣医からもらったエルフの軟膏も、枕元に置かれっぱなしであった。使われた形跡もない。
俺は何となく、開け放たれていた窓から首を伸ばした。
そよ風に乗って野菜畑から土と肥料の匂いが漂ってくる。それに交じって、宿の洗い場からほんのりと優しい石鹸の香りが運ばれてきた。宿の奥さんが洗い物をしているらしい。
頭を引っ込めたところで、折よくフレイアが帰ってきた。
「あっ、コウ様…………」
言ってすぐ、彼女は頬を赤らめた。
俺は彼女から流れてくる清潔な香に思わずドキリとした。爽やかな石鹸の香り。いつもは一つにまとめている髪をしっとりと湿らせて下ろしている彼女は、朝露を湛えたスズランの妖精みたいに可憐だった。
薄着のワンピースの下にうっすらと透けて見える、華奢な割にそこそこ膨らんだ胸が否応無しに視線を惹きつける。
俺は努めて紳士を気取り、彼女に微笑みかけた。
「おはよう。…………と言っても、もう遅いけど。
勝手に入っちゃってごめんね。また熱が出たって聞いたから、心配で…………。もう起きて大丈夫なのかい?」
フレイアははにかみを隠し切れない様子で、紅玉色の瞳を瞬かせて小さく答えた。
「いえ…………ご心配ありがとうございます。…………実を申しますと、まだ少し熱は残っているのですが、どうしても髪の汚れを落としたくて、無理を言ってお水を使わせて頂きました」
「そうだったんだ。…………冷えるといけないから、はやく温かくして休んで」
「はい…………」
言いつつ、フレイアはもじもじとその場に立ち尽くしている。俺に遠慮して寝台に戻れないでいるのかもしれない。
俺は壁際へ退きつつ、もう一度彼女に寝台へ戻るよう促した。
「…………こっち、戻りなよ」
「はい。…………では、失礼いたします」
ようやく歩んできたフレイアが、しおらしく寝台に腰を下ろした。舞い上がった微かな埃が陽を浴びてきらめく。
俺は枕元の椅子に腰を下ろし、会話の糸口を探った。
熱のせいなのか、フレイアの顔はずっと赤く染まりっぱなしだった。濡れた灰銀色の髪が、彼女をいつもより格段に艶っぽく見せている。潤んだ唇を品良く引き締めている様子が、何だかいじましくて、少しあどけない。
邪ノ芽との会話が蘇ってくる。
アイツは俺に「どうせできやしまい」と言った。俺はそれに抗してヤツの扉の鍵となり、彼女と共力場を編む約束をした。
我ながら、どうしてあんな提案を切り出せたのか疑問だった。いつだって俺のために命を賭けてくれたこの子を、こんなに綺麗で健気なこの子を、どうして傷付けようだなんて考えたのだろう。
本気で手を汚すつもりなんて無い、とは言わない。邪ノ芽の出方次第では、俺は本当に彼女の命を奪うことになる…………。
フレイアはやや上目遣いに俺を見、いかにも精一杯に気を遣った、和やかな調子で先に話しだした。
「コウ様。昨晩はよくお休みになられましたか?」
彼女は膝に置いた手を緩く組み、にっこりと笑った。
「私は、熱が下がらずあまり寝付けませんでしたが、それでもやはり寝台の上というのは気持ちが良かったです。今朝見た限りでは、傷の治りも順調そうでしたし…………この分でしたら、もう1日もお待ち頂ければ、またすぐに旅に復帰できるかと思います。
今でも全く動けない程ではないのですけれど…………できることなら、万全を期したいのです」
「もちろんだよ」
俺はおずおず彼女と目を合わせ、言った。
「…………というか、もう急ぐ必要は無くなったんだ。
実は、さっきシスイさんとも話したんだけど、テッサロスタ行きは中止しようと思っていてさ。色々考えたんだけど、ジューダムの王から魔力追跡を受けている今の状態では、他の皆と合流するのも難しいし…………、悔しいけれど、一旦サン・ツイードに戻ろうってことにしたんだ」
俺は無表情で聞いているフレイアに、頭を下げた。
「ごめんね。でも…………これ以上、君や皆に無理をさせたくないんだ」
フレイアはこくりと頷き、静かに答えた。
「わかりました。…………それでは、安全な帰路のために休ませて頂きます。コウ様のお心遣い、フレイアはいつも嬉しく思っております」
「…………ごめん」
「コウ様がお謝りになることなど…………。全ては私の力が至らぬ故。あのジューダムの騎士との斬り合いは、返す返すも不覚でした。次に相見える時には、必ずや討ち取ってご覧にいれます」
俺は何も言わずにフレイアを見返した。
何というか…………もう呆れもしない。
こうして話していると、彼女に死の影が迫っているだなんてとても信じられなかった。本人が言う通り、明日か明後日にはケロリとして竜と剣を操っているような気がする。
邪ノ芽の話はやはり嘘だったのだろうか? だが、そうだとしたらヤツはなぜ俺の話に乗ったのだろう。やはり、俺に殺せるわけがないと高を括っているのか?
俺は隣の棚に置かれているエルフの軟膏を見やり、手に取った。
どうにも邪ノ芽を信じる気にはなれなくなってきた。それなら、先にこれでも試して彼女の様子を見守ってみるのもありだろう。
何であれ、自分の目で確かめてみるのは重要だ。
俺は不思議そうにこちらを見ているフレイアに、獣医からもらった軟膏のことを話した。
「これ、君の傷を縫ってくれた人から貰った薬なんだ。エルフの軟膏で、すごく傷の治りが良くなるらしい。後で塗ってあげてって頼まれていたんだけど…………どうしたらいいかな? 背中の方とか、塗りにくい部分だけ…………もし嫌でなければ…………俺、手伝おうか?」
フレイアは目をぱちくりとさせ、ただでさえ熱のこもった頬をますます赤くした。
「エルフの…………ですか? それは…………確かに…………大変効能のあるお薬ですが…………」
「知っているの?」
「…………エルフが育てる樹木からのみ精製される、とても古くからあるお薬なのです。それを真似て、これまで数々のお薬がサンラインで作られてきましたが…………今もってなお、どんな品もそのお薬の効き目には及ばないという…………非常に貴重なお薬です」
「そうだったんだ。よくそんなものをくれたな。
でも、それなら丁度いいや。折角の好意に甘えて、ぜひ使わせてもらおうよ。傷跡も残りにくくなるって言うし」
「…………」
フレイアが紅い眼差しをゆっくりと伏せる。
俺はちょっと積極的が過ぎたかと反省し、急いで取り繕った。
「あっ、いや、でも、俺が必要無かったら、全然それでも構わないから! そのー…………あー…………もし困っていたら、少しでも何か手伝いが出来ればと思っただけで…………その、決して下心なんて…………」
全く無いと言えば、嘘になるけれど。
だが、あくまで俺は紳士だ。今はそれどころじゃないこともよく弁えている。それに、後で共力場を編むことになった時に備えて、信頼を揺るがすような真似は絶対にすべきでない。
とはいえど、俺はフレイアの返事が無いことに耐え切れず、さらに余計な弁明を続けた。
「あー、その、下心っていうか…………確かに、君のことは放っておけない気持ちではあるんだ。君はいつも無理するから、なるべく独りにしたくなくて…………傷のことも、俺も一応知っておきたくはあるんだ。
もちろん、君を信用していないってわけじゃない。君は俺より遥かに強くて、自立していて、人に面倒を見てもらう必要なんて無いっていうのは、よくわかっている。けど、だからこそ、なんていうか…………」
「コウ様」
要領を得ない俺の言葉を遮って、フレイアが呟いた。彼女はじっと紅玉色の瞳で俺を見つめ返し、大人っぽい微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。そのように仰って頂かなくとも、コウ様のお気持ちはちゃんと承知しております。下心などと疑ったことは一度もございません」
彼女はそれから、膝の上に組んだ手を解いて続けた。
「…………昨日の、ことも…………もし…………熱に浮かされた私の妄想ではないのだとしましたら…………本気で、仰ってくださったのだと、信じております…………」
「…………っ!」
彼女の手が心許なげに胸の前で組み直される。俺は跳ね上がった心臓をどうにか飲み込もうとして、息を詰まらせた。
フレイアはちょっとだけ唇を噛み、いつになく無防備な、少女らしい表情を見せた。丸く張った二つの胸の間に沈んだ両手が、ぎゅっと固く握り締められていく。
彼女は何か言おうとして唇を開き、真っ赤になって息を吸い、ついに何も言わずにまた口を噤んだ。
彼女はそのまま円らな瞳を滲ませ、やがてあえかに言葉を零した。
「あ、あの…………、…………ごめんなさい。もう少しだけ…………お返事は、待って頂けますか?」
俺は頷き、優しく返した。
「いつまでだって待つよ。むしろ、永遠に返さなくたっていいぐらいだ。俺の気持ちは変わらないから」
「…………」
俯いたフレイアの表情は複雑だったけれど、苦しそうでは無かった。困惑と安心と、心細さと、勘違いでなければ、ほんの少しの喜び。そういったものが案外すんなりと溶け合っている。
彼女はそっと顔をもたげると、ようやく胸の手を緩くして言った。
「コウ様。お願いしたいことがございます」
「何だい?」
「…………お薬、お背中に塗るのを手伝って頂けませんか? 流転の王との戦いで負ってしまった傷がいくつかあるんです。背後の傷など、お恥ずかしい限りなのですが…………」
俺は信頼を得た喜びをぐっと腹の底に押し込め、あくまで紳士的に返事した。
「うん、任せて」
2018/7/2、登場人物紹介にヤガミとシスイの項を追加しました。イラストもあるので、よろしければご覧ください。




