68-3、ヒマワリの笑顔、再び。俺が彼女のために一肌脱ぐこと。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
様々な困難を乗り越え、ようやく目的地に着いた俺は、「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けることとなる。
折しもサンラインでは、歴史を左右する重要儀式「奉告祭」が開催される時期であった。
俺は「勇者」としてその祭に参加していたのだが、そこで何者かの襲撃に遭い、教会騎士団の精鋭隊と共に戦わざるを得なくなった。
何とか襲撃者が遣わした竜を倒したその翌日、俺は魔術について今少し学ぶために(本当はフレイアに文字を習うつもりだったんだけどな…………)、精鋭隊の宿舎へと足を運んだのだった。
お茶は茶渋のこびりついた大きなカップに入って出てきた。中身はごく普通の紅茶で、俺やフレイアが淹れたのと大差無い雑な味がした。
クラウスは早々にお茶を飲み切るなり、険しい顔で切り出した。
「コウ様。俺、もう嫌です!」
「ハァ?」
俺が問い返すと、クラウスは真顔で続けた。
「もう飽きました。これから、もっと実戦向きの魔法陣とか詠唱とか印とかについても語ろうかと思っていたのですが、こんな良いお天気に、こんな部屋の中でコウ様とだけ顔を突き合わせて延々と過ごすことを考えたら、気が滅入ってきてしまいました」
「それ、本人の前で言うか?」
「コウ様は割とテキト…………寛大なお方なので、許して頂けるに違いないと」
「どうせテキトーだよ。でも、勉強会を止めたところで君と俺しかいないのには変わりないし、どうするんだ? まさか、ここに女の子を呼びつけるってわけにもいかないだろう?」
「えっ、そのまさかですけど?」
「ハァ?」
クラウスは俺を、何か不可解なものでも見るかのようにキョトンと見つめ返していた。何も言えないのか、何も言わないのか、ただぱちくりと瞬きを繰り返している。
俺は仕方なく、先に口を開いた。
「だって、君、さっきフレイアに叱られていたばかりじゃないか。「いけません!」って」
「彼女は潔癖過ぎます。それに、俺は何もすべてをほうり投げて遊ぼうって言っているわけではありません」
「? どういうこと?」
「ですから」
クラウスはおもむろに立ち上がって壁際の棚の前まで行くと、引き出しから一枚の便せんを取り出して言った。
「要は女の子の生徒も必要だってことです! でないと、程なくして可哀想な俺は退屈で干からびて死んでしまうでしょう。さぁ! そうと決まれば早速ラブレターを書きましょう! ナタリーさんを一晩で口説き落としたコウ様のご手腕、ぜひ拝見させて頂きたい!」
3度目の「ハァ?」が口に出かけたその時、折良く玄関の方から、軽快なノックと女性の声が聞こえてきた。
「すみませーん! 誰かいませんか? 自警団の者です!」
聞き覚えのある明るい声に、俺とクラウスは思わず顔を見合わせた。
噂をすれば何とやら。それは紛れもなく、ナタリーの声だった。
「はい、只今!」
急に紳士らしい顔つきになったクラウスが扉を開ける。
ひょっこりとドアの向こうから顔を出した女性は、清々しい笑顔で話した。
「あ、クラウスさん! お久しぶりです。その怪我、どうしたんスか?」
「こんにちは、ナタリーさん。また貴女にお目にかかれて光栄です。怪我は任務中に。見た目は派手ですが大したことありません。…………今日はいかがされましたか?」
「あっ、えっと、隊長さんに頼まれていた書類を持って来たんですけど…………」
俺は首を伸ばして、外で話している美人の顔を見た。キリッと整った顔立ちに、今日も鮮やかなアクセサリーと化粧がよく似合っている。左腕の海獣の刺青が、まるで彼女の魂獣であるレヴィそのものみたいに活き活きとして見えた。
声を掛けようか迷っていると、ナタリーがふとこちらへ視線を向けた。
「あれ、ミナセさん?」
ナタリーがクラウス越しに顔を覗き込ませる。俺は彼女に手を振った。
「やぁ。元気?」
ナタリーの顔がもう一段、ぱぁっと明るくなる。彼女は片手で髪を掻き上げると、ちょっとおとなしめに返事した。
「うん、元気だよ。ミナセさんは、どうしてここに?」
「色々あってね。今日はここで過ごしている」
「そうなんだ」
クラウスはさりげなくナタリーの肩に手を回し、話を進めた。
「そうだ。折角ですから、資料の確認がてら貴女も寄っていきませんか? お茶でもお淹れします」
「え? えっと、じゃあ……………ぜひお言葉に甘えさせていただきます。今日は、これを届けたらお休みなんです」
「それは素晴らしい」
さっきまでラブレターがどうのとか言っていたアホとは別人のような優雅な対応で、クラウスはナタリーに椅子を勧めた。ついでにさりげなく小汚い2つのカップを回収する。俺の方にはまだお茶が残っていたのだが、彼は俺の無言の訴えをサラリと受け流した。
「少々お待ちください」
俺は意気揚々と台所へ向かうクラウスを見送り、ナタリーに目を向けた。彼女は今日もツヤツヤと健康的で、若葉のように溌剌としている。エメラルドグリーンの澄んだ綺麗な瞳に、小さな俺がちょこんと映っていた。
ナタリーは軽やかに話した。
「こんにちはミナセさん。あれから変わりない? もう痴漢はしてない?」
「ああ、おかげさまでね」
苦笑する俺に合わせて、ナタリーも笑みを漏らす。次いで彼女は、机の上のボードに目を留めた。
「これ、何?」
「これはね、クラウスが魔術を教えてくれた時のメモだよ」
「魔術を? ミナセさんが?」
「うん。本当は文字でも学ぼうかと思ってたんだけど…………ホラ、痴漢騒ぎのこともあるから、最低限知っておいた方がいいこともあるかなって思ってさ。…………でも、そんなことより魔術の方が役に立つって話になって」
「そうだったんだね。どんな魔術を教わってたの?」
「えっとねー…………」
俺がまとめ方を悩んでいると、先にナタリーがボードの上の魔法陣を指差した。
「あっ、もしかしてこれ? 火の基本型・ワルサー」
「あっ、そう、それ。そんな名前が付いてたんだ」
「懐かしい~。いや、いつも使ってるんスけど、改めて見るとそう思っちゃう。これ、初等学校で最初に教わる魔法陣の一つなんスよ!」
「へぇ、学校で教わるんだ。ちなみにその初等学校ってとこでは、他にはどんな魔法陣を教わるの?」
「それはもう色々。たくさんあり過ぎて、とても一辺には説明できないよ」
「たくさんって、どのくらい?」
「どのくらい? そんなの数えたこともないけど…………ううん、一学年、大体100個ぐらいとして、400個…………あ、でも、学年が上がるともっと増えた気もするし、700個ぐらいかな?」
「700!?」
「…………聞くほど壮絶ではないですよ」
穏やかに口を挟んだのは、綺麗な来客用のティーカップを手にしたクラウスだった。彼は俺達の前に淑やかにお茶を置くと、柔らかな所作で席について話し始めた。
「数ある魔法陣の中でも、基本型と呼ばれるものはたった5つしかありません。その他はどれもそれらの派生ですから、パターンさえ覚えられれば、あとは案外簡単に習得できるんですよ」
「えぇ? それって、できる人限定の話じゃないスか?」
口を尖らせるナタリーに、クラウスはちょっと困ったように微笑んで付け足した。
「まぁ…………確かに、一度に身に付けようとすると苦労するでしょう。普通は、幼い頃から時間を掛けて、徐々に難易度を上げて学んでいくものですからね」
ナタリーはうんうんと頷き、さらに言い添えた。
「それにさ、学年が上がると、詠唱や印とかと合わせなきゃいけないものも出てきて、もう訳わかんなくなるんスよ! 私も、卒業試験があるから一応は一通り勉強したッスけど、もうあんまり覚えてないよ」
「はぁ。大変なんだな、どこも…………」
俺が腕を組んで溜息を吐くと、ナタリーも同じようにポーズを組んで言った。
「そう。大変なんスよ、どこも…………」
クラウスはそんな俺達を愉快そうに眺めつつ、ナタリーが持ってきた「資料」とやらを紐解き、確認し始めた。心なしか顔色に影が差したように思えたが、彼はすぐにいつもの涼やかな笑顔を繕った。
「ナタリーさん。よくまとまった事件記録で、大変参考になります。…………昨年の大型魔獣の襲来に関する記録も、これで全てでしょうか?」
ナタリーは顔を上げ、小さく頷いた。
「はい。言われた通り、父の手記も同封しました」
「ご協力に深く感謝いたします。お父様の日記は用が済み次第、必ずお返しに参りますのでご安心ください。
それと、念のために今一度お伺いしたいのですが、こちらにまとめて頂いた事案以外に、「太母の護手」関連と思われる事件は残っていませんか? 現時点では関連が明確でなくとも構いません。ほんの些細な噂でも、お聞かせ願えるとありがたいのですが」
クラウスの問いに、ナタリーは首を横に振った。
「いえ、今のところはそこに記載したことが全てです。噂は…………あるにはあるんですが、いちいち挙げていたらキリがないッス。近頃じゃ、不都合は何だって「護手」達の陰謀ッスからね」
「…………わかりました。重ねて、ご協力ありがとうございます」
俺がアイコンタクトを向けると、クラウスは鋭い視線を返してきた。「今は黙っていてくれ」。そういう意味に違いない。
そりゃあ、敵国と異教徒が繋がっていて、街に戦禍の危険が迫っているかもだなんて、おくびにも出すわけにいかないだろう。
俺は我関せずを気取り、静かにティーカップに口を付けた。わざとなのか偶々なのかは知れないが、先に飲んだお茶よりも格段に美味い。
クラウスは資料をざっとチェックし終えた後、書類をまとめて立ち上がった。
「少し上へ行ってきます。あと確か、受領に関するサインが要りましたよね? それもついでに書いてきてしまいますので、もしあれば書式を頂けませんか?」
「あっ、はい。これ、お願いします」
「承りました。では、失礼します」
ナタリーから見るからに面倒そうな書類一式を受け取ったクラウスは、手前の階段から颯爽と去っていった。
クラウスが姿を消すと、ナタリーはいきなり俺に詰め寄ってきた。
「ちょっと、ミナセさん!!」
「えっ? な、何?」
「ヒドイよ! 一緒に勉強しようねって約束したのに、誘ってくれないなんてさ!」
「えぇ…………? でも、急なことだったし、駐在所に顔を出す暇も無かったし、そもそも、君が暇かどうかもわからないし…………」
「言い訳ばっかりだ! モテないよ!」
「そんな無茶な…………」
辟易する俺に、彼女は容赦無くたたみかけてきた。
「じゃあ、代わりに今日は私のお願いを一つ、聞いてくださいッス!」
「いぃ? 理不尽じゃない?」
「…………私といるの、嫌ッスか?」
「えぇ…………? そんな、無茶苦茶だよ…………」
俯いた彼女が、上目遣いに俺を見ている。透き通るような翠玉の瞳が淡く滲んでいて、凛々しい眉がしおらしく斜めに下がっていて、ああ、このままでは、せっかく咲いたヒマワリのような笑顔が萎れてしまう…………。
俺は慌てて言った。
「い、いやっ、ど、どうしてそうなるんだよ? 嫌なんて一言も言ってないし、そんなわけないし…………、その、わかったよ。…………いいよ、聞くよ」
「わぁ、ありがとうミナセさん!!」
笑顔がまた清々しく晴れ渡る。何だか調子良く乗せられた気がしないでもないが、ともかくは悲しませないで済んで良かったということにしておこう。
ナタリーは満足そうにお茶を飲むと、目を輝かせて話しかけてきた。
「そしたらね、ミナセさん」
「うん、何?」
「教えてほしいことがあるんだけど」
「またアレなこと?」
「違うよ! アレはもういいの! …………今日聞きたいのは、さっき私がクラウスさんに渡した資料のことだよ」
俺は内心では危うく飲んだお茶を噴き出すところだったが、何とか無表情を貫き通した。
「…………俺は、よく知らないな」
シラを切る俺に、ナタリーが厳しい眼差しを向ける。俺は今度はたじろがず、黙り続けた。これも十分怪しいと言えば怪しい態度だが、下手に口走るよりずっと良い。
ナタリーはキッと眉を上げ、さらに俺を問い詰めた。
「さっき二人が意味深に目を合わせてたの、ちゃんと見てたんス! それでなくとも、あの精鋭隊員があんな大怪我をしていたり、「勇者」であるアナタがこんな場所にいる時点で十分に怪しいんスから、とぼけても無駄ッスよ!」
ナタリーはわずかに睫毛を伏せ、声を落とした。
「不安なんだよ…………。これまで、騎士団から自警団への協力願いなんて滅多に無かったことだしさ。しかも、それが父さんを殺した「太母の護手」にまつわることだなんて…………」
「…………」
「それに、ここに来る途中、かなりの数の騎士が中央教会に集まっているのを見たんだよ。まるで戦にでも行くみたいな重装備で、あんなの、たかが異教徒の捜索にしては明らかに行き過ぎてる。
だから…………もし、ミナセさんが何か知っているなら、どうか一言だけでも教えてほしいの。「太母の護手」達は、何をしたんスか? これから、何をしようとしているんスか?」
俺はティーカップを持ったまま、沈黙を重ねた。きっと彼女の不安は、この街の市民みんなの不安でもあるだろう。
だが、いくら気持ちはわかるとは言え、今いたずらに大勢の人の不安を煽れば、街が混乱に陥るのは目に見えている。
俺はティーカップを置き、言った。
「…………悪い。そればっかりは、勘弁してくれ」
「どうしても?」
「どうしても、だよ。この街のためを思えばこそ、言えない」
「…………ミナセさんは、平気なの?」
「俺?」
飲み込めずに聞き返すと、ナタリーは真摯に俺を見つめて言い継いだ。
「ミナセさんは、何か困ったことはないんスか?」
「いや、俺は別に…………」
「でも、「勇者」様って言ったって、竜ですら行けないような遠い国から来たんでしょう? ワルサーのことさえ知らなかったってことは…………信じられないけれど、本当にこの国の魔術なんて何もできないんじゃないの? だとしたら、怖くないんスか? こんな大事になって」
あまりに今更な気遣いに、俺はつい呆気に取られた。これまで散々説明してきたことがようやく伝わった感動と、今になって心配されてもという戸惑いが入り混じっていた。
ナタリーは椅子ごと身体を俺の近くに寄せると、真心の込もった熱っぽい口ぶりで言った。
「何か困っているなら、私が助けになるからね! サモワールでの恩もあるし、基本型くらいなら、さすがの私だって覚えているし。もう痴漢だなんて思ってないし。安心して何でも頼って!」
「…………あ、ありがとう」
俺は照れ隠しに頬を掻き、言葉を返した。
「その…………君みたいに親切な人に囲まれているから、実のところ、あんまり怖くはないんだ。だけど、助けになってくれるのはすごく嬉しい。何と言うか…………言葉にもできないぐらいだ」
じっと耳を傾けるナタリーに、俺は切々と語った。
「…………「太母の護手」のことは、実際俺もまだ本当によくわかってないんだ。昨日、ある場所で大きな事件があって、その時に初めて名前を知ったぐらいで。
でも、騎士団の人達が自警団と同じように、本気でこの街を守るために動いているってことだけは間違いないことなんだ。だから、今しばらくは信じて見守っていてくれないかな? 君と…………君の街のために、俺からもお願いする」
ナタリーが少し俯き、それから何か飲み込むようにして顔を上げた。
俺を見つめる彼女の瞳は、南国の海のように大らかだった。
「…………わかった。ミナセさんがそう言うなら、もう聞かない。アナタを、信じるよ」
「ごめん、ナタリー。別の頼みなら、何でも聞くから」
「ううん…………。こっちこそ、無茶言ってごめん」
俺が笑顔を向けると、ナタリーはかえってさらに俯いてしまった。やっぱり女の子って難しい。
何か俺に出来ることはないかと考えた結果、俺はお茶汲みに再挑戦するというアイデアに至った。そうだな。こんな時はお茶でも飲んでリラックスするに限る。
「ナタリー。俺、お茶淹れてくるよ。もっと飲むだろう?」
「いいの?」
「ああ、ちょっと待っててね」
今なら、俺にもできる気がした。
点火術の魔法陣も覚えたし、「扉」の力もある。
新たな進化の予感に、俺は勇んで竈の方へと足を運んだ。
それが悲劇への第一歩だとも知らずに…………。




