59-5、黒き魔女の時間。俺が初めて彼女と触れ合うこと。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
様々な困難を乗り越え、ようやく目的地に着いた俺は、「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けることとなる。
折しもサンラインでは、歴史を左右する重要儀式「奉告祭」が開催される時期であった。
「奉告祭」では、目前に迫った戦争の行方が、サンライン屈指の重要人物たちによって相談されるという。
俺は「勇者」としてその祭に参加していたのだが、そこで何者かの襲撃に遭い、助けに入った教会騎士団と共に絶体絶命のピンチに陥った。
黒い炎が竜から噴出し、クラウスを飲み込んだ。
…………はずだった。
しかし、今、俺の眼前には、喜ばしくも不可思議な、咄嗟には理解できない光景が広がっていた。
見覚えのある、暗い艶を湛えたシャボン玉がそこら中に浮かんでいる。いつの間にこんなものが出現したのか、俺にはわからない。
シャボン玉はフワフワと優しく宙を漂いながら、クラウスが灯した空色の明かりを浴びて、ほくそ笑むかのように妖艶な虹色を展開させている。
大小入り混じるその魔法の泡が、我が物顔に辺りを練り歩いていく。俺の周りから、メドゥーサの頭上、跪いたままのクラウスの足元に至るまで、シャボン玉は無数に浮かんでいる。
クラウスの周囲には、黒い炎の飛び散った跡とでも言い表せば良いのか、チラチラと揺れる小さな残り火だけが残されていた。炎は次第に勢いを減じて、音も無く闇に溶けていった。
クラウスもメドゥーサも、時が止まったかのようにピタリと動かない。
クラウスの目には強い警戒と、微かな怯懦が宿っていた。俺からの呼びかけにも、一向に応じる気配が無い。
やがて、俺はすぐ近くのシャボン玉の一つに、人影が映り込むのを見た。魚眼レンズのように伸び上がったその影は、彼女の豪奢な黒絹のドレスをより艶やかに、蠱惑的に強調した。
――――パチン、と、頬の近くでシャボン玉が弾ける。
すると、まるで手品のようにヴェルグがそこに姿を現した。彼女は手にしていた扇をサッとたたみ、あどけなさと成熟との中間にあるような、美しいが、どこか危うげな雰囲気のある顔を微笑ませた。
「「池を、凍らせろ」。…………感心したよ。この複雑な魔力場にあって、なかなかどうして良い所に目をつける。凍結という対処法も、実に理にかなったものだ。…………だが、残念なのはその表現だね。僕は別としても、そうした個人的なイメージを礎とした言い方は、かなり濃密な共力場を作った者同士でもなければ伝わるまいよ」
俺は予想だにしない人物の登場にしばらく言葉を失っていたが、すぐに相手を睨み返した。
「お前…………! 何をした!?」
「君と共力場を編んでいる。ついでに力場の構成軸の一つをちょっとばかり弄らせてもらった。ウィラック医師もやっていたろう? 僕の方が長生きな分、上手だけどね」
「…………なんで、俺達を助けたんだ? 俺を殺したいのなら、このまま成り行きに任せていれば良かったじゃないか? …………そもそも、この呪われ竜、お前が仕掛けたものだろう!? トレンデでお前が使った魔法と、瓜二つだ!!」
ヴェルグは眉一つ動かさず俺の怒声を聞き流し、たたんだ扇を少女らしく口元に添えた。
「心外だな。僕がどれだけ君たちのために尽くしたか、わかって貰えてないようだ。確かに、僕の術と見かけが似通っているのは認めるが、魔術と呪術の違いもわきまえておらぬようではね。悲しいよ。
大体…………僕が呼んだというのであれば、これはどう説明するのかな?」
俺はハッとして、ヴェルグが視線を送った先を見やった。
見れば、血潮の迸るような真っ赤な目玉が暗闇に二つ灯っている。呪われ竜の瞳とよく似ていたが、それはもっと陰惨な光を帯びていた。
俺を射抜いた凶悪な眼差しはたちまち、物凄い速さで増殖して辺りを埋め尽くした。
無数の赤い目はじっと俺たちだけを見つめていた。どれもこれも、瞬きもせずにギラギラと怒りを注いでいる。昔読んだ本に、障子一杯に目玉がある妖怪がいたが、今の俺は、まさにそれに一斉に睨まれた心地だった。
「あまり見つめてはいけないよ、オースタンの。…………目を取られてしまうからね。あの内の一組になるなんて嫌だろう?」
ヴェルグの囁きに、俺は急いで目を伏せた。クラウスは平気かと不安になったが、続々と増え続ける目力に抑えつけられ、どうしても顔を上げることができなかった。
咽喉と舌にこびりついてくる目玉たちの魔力は生臭く、ぐっしょりと濡れていた。冷凍の魚が溶け出して、少し饐えてきたような、不快な臭気が粘膜を襲う。痛みこそ無いが、十分に吐き気を催す。
俺は苦労して唾を飲み込み、ヴェルグに突っかかった。
「この赤い目玉だって、お前の仕業じゃないのか? こいつら、全然攻撃してこない。お前はピンピンしてる」
「ああ、オースタンの、伝承の。あまり僕を失望させないでくれたまえ」
ヴェルグはチラと俺を見下すと、スラスラと続けた。
「呪術は、魔術とは異なる力場を用いる体系だ。魔術が物質世界への働きかけを基軸にして展開するのに対し、呪術は純然たる思念的世界だけを基軸に展開する。物に意思を投射するか、意思に意思を投射するかの違いだよ」
ヴェルグはかろうじて目を上げる俺の顔をまじまじと覗き込み、少し笑顔を作った。あまり化粧っ気は無いのに、華やかで大人びた顔立ちがかえって気味悪かった。
「…………わからないという顔をしているね。まぁ無理もない。呪術はサンラインでも、非常に理解が困難とされている。使い手も限られているしね。
そうだな。詳しい話は、もし生き残ればだが、あそこで震えているキツネの友人から聞く方がいいかもしれないね。彼は良い術師だ。今も素晴らしく健闘している。あんな風に、即座に力場の変化に対応できる魔術師は非常に稀だよ。それに何より、人間同士の方が話が合うというものだろう」
「余計なことばかり、よく喋りやがって…………。興味無い、1ミリも」
俺は悪態づいた。自分でも無意味な挑発だと思うが、彼女の冷淡な上から目線が滅茶苦茶気に入らなかった。同じ理屈っぽいにしても、これならツーちゃんの方が明るいだけ、遥かにマシだ。
ヴェルグは黄金色の輝く瞳をパチリと瞬かせると、三日月型の唇をさらに歪めた。
「僕は今日、とても機嫌が良い。…………実はね、オースタンから良い知らせが入ったんだよ。「勇者」のことだ。だから、特別に…………君にも呪術の世界を見せてあげよう。僕が感じている、この愛しい痛みを、君にもね」
言うなりヴェルグは俺の手を強く掴み、自分の間近に引き寄せた。その手は死体のように冷たく、俺は全身を粟立てた。
「やめろ!!! 離せ!!!」
俺は必死に振りほどこうとしたが、ヴェルグは微動だにしなかった。とても少女のものとは思えない、コンクリートにがっちりと掴まれたような絶望的な力だった。
「ようこそ。――――――――僕の世界へ」
俺は目の前に迫った黄金色の瞳と、惑わしい吐息とに魅入られて、瞬く間も無く、彼女の魔力の中へ溶け込んでいった。
宇宙の果てのように暗く冷たく…………そしてなぜだか、少し懐かしい魔力の懐へ。




