押愛
タイトルは「おしあい」と読みます。
吹雪く雪山。
視界は最低で、自分の足元すらまともに見えやしない。
雪に足を掬われないように、ふらついた体を奮い立たせながら、少しずつ前に歩みを進めているが、ほぼ惰性に近い状態である。
僕の今の状況は、遭難に他ならなかった。
もう何時間も歩いているが、一向に人里に戻れる気配はない。
止まっては進み、止まっては進み、を繰り返している。
凍てつくような風と氷の粒が、僕から生気を貪るように吸いとっていた。
「コッチニ、キテ」
その奇妙な声はまるで脳に直接響くように聞こえてきた。
ついに幻聴まで聞こえるようになったのかと自分の耳を疑ったが、どうやらそれは確かに声らしきものであった。
甲高い、人間の少女のような声。
人が、いるのだろうか。
真っ暗だった世界に一筋の明かりが灯った。
止まっていた僕の足が、不思議とその声に吊られて動き出す。
何も見えない視界の中を、声だけを頼りに僕は歩きはじめた。
不確定な希望にしがみついて、僕は一歩一歩ゆっくりながらも進んでいく。
ただひたすらに歩いていただけだったさっきよりは、いくらか心持ちも楽であった。
しばらく歩いていると、大きな土の壁に阻まれた。
そして、そこにポッカリと開いた大きな穴。声はどうやらその中から聞こえてくるらしかった。
「ふふふ、あはは、ふふふふふ」
洞窟の奥の暗闇から聞こえてくる怪しげな笑い声。
僕はありったけの声を振り絞って闇に問いかけた。
「誰か、誰かいらっしゃいますか?」
返答はない。
高らかな笑い声だけがこだましているだけだ。
吹雪から逃れるように僕はその洞窟へと入った。
奥から吹く風に肌を撫でられる。
妙に生暖かい。
そして、美味しそうだ。
…、美味しそう?
風に運ばれてきた匂いは、鼻腔と本能を同時に刺激する。
僕の体は途端に前のめりになった。
地面に手をついてふらふらと立ち上がりながら、足がさっきよりも早い勢いで前に出る。
意識していないのに、自然と地面を蹴る力が強くなった。まるで、自動で動いているみたいだ。
黒い闇の中を、左右に大きく動きながらも必死で駆ける。
びちゃ、びちゃ、と水溜まりに足が何度もつっこむが、そんなことは全然気にならない。
僕の脳は、一つのことしか考えられなくなっていた。
はー、はー、と息をあげる僕の前に、ポツンと現れたのは小さな光だ。
壁にかけられた蝋燭に、橙色の火が灯っている。
その蝋燭の火は壁に沿って奥まで続いているようだった。
明かりと匂いに誘われて、僕の体はどんどん奥へと進む。
蝋燭が途切れて、洞窟の行き止まりとなっていたところには、一際大きな光が燃え盛っていた。
「ふふふ、ふふふふふふ」
その光の前にいるのは、皿に乗った料理を堪能して、愉悦に浸っている銀髪の少女。そして、
「ああ、アーノルド、あなたのお肉、ほどよく引き締まっていて最高だわ。頭の中がとろけてクリームチーズにでもなっちゃいそう」
アーノルドと彼女に呼び掛けられる、骨格標本のように規則正しく並べられた白骨死体であった。
思わず後ずさりをする僕。
立てた音に彼女が気がついてこっちを振り向いた。
「あら?お客さん?」
目の前の事態が飲み込めずにいる僕に、彼女は透き通るような声で話し掛ける。
「来ていただいたところ悪いのだけれど、私、今は彼とちょっと早いディナーを楽しんでいるところなの」
ふふっ、と楽しそうに笑う少女。そして、また白骨の「彼」の方に向き直り談笑し始める。
なんとも奇怪な光景だ。
普通の人間であったら発狂して逃げ出すだろう。
でも僕の頭の中では、白骨死体も、その隣で笑う彼女も今はどうでもよくなっていた。
ただ一つの欲望が、口から出るのを押さえられなくなっていたのだ。
「あの…」
震えた声で僕は言葉を発した。
「ご飯を…、ください」
言って、その場で倒れ込む僕。
辛うじて保っていられた意識が段々と霞んでくる。
彼女は僕の異変に気づいたらしく、少し驚いた様子でこっちを見た。
「あなた、お腹が空いているの?」
小さくうなずく。
「死んじゃいそうなの?」
また、小さくうなずく。
彼女は「そう」と呟くと、手元の食器から今まで食べていた「何か」を僕の前に差し出した。
嗅いだことのない、しかし香ばしい香りがする。
「食べてみて」
彼女は僕の口にゆっくりそれを押し込んだ。
口の中で、それがじんわりと溶けていくのが分かる。噛んだところから旨味が広がって、僕の食欲をちょっとだけ満たす。
「もっと欲しい?」
今度は少しだけ強く頷いた。
彼女は何故か少し楽しそうに皿にさっきの「何か」をごそっとよそった。
「たくさん食べていいわよ」
そう言って、僕の顔の前に皿を置く。
僕の手が自然に皿へとのび、その上のフォークを持った。
欲望が満たされていく。薄れていた意識も腹とともに回復していった。
胃の中がいっぱいになる頃には、結構な量が盛られていた皿の上には何も残っていなかった。
「気に入ってもらえたかしら?」
僕が一気に平らげるのを見ていた彼女は、満足そうに微笑みながら僕に感想を求めてきた。
「あっ…」
彼女の言葉に僕は我に返る。
戻ってきた理性は僕が一体何をしたのかをはっきりと伝えてきた。
「ああ、あああああ!」
湿った土の上に崩れ落ちて泣き叫ぶ。自分のした罪の重さに、ただそうすることしかできない。
僕は。
人の肉を焼く匂いにつられた。
そして、その肉を食べてしまったのか。
腹が減っていたんだ。
死にそうだったんだ。
仕方がない。
でも食ったのは人間の肉だぞ?
何の躊躇もせずに食べてしまった。
罪だ。
罪だ。罪だ。罪だ。罪だ。罪だ。
「どうして泣いているの?」
彼女はけろりとそう言った。
皮肉でも何でもなく、ただ単純に僕の行動を疑問に感じている様子で。
まじまじと見つめる瞳は、明るいコバルトの色をしている。
その目をじっと見つめ返して、僕は彼女に諭すようにゆっくり口を開いた。
「…、僕は人を食ったんだろ?」
「それが?」
「僕の村では食人は死罪に値する。それに何より、倫理の上で考えたら最低の行動だ」
「ふぅん、それで?」
それで? それ以上でもそれ以下でもないだろう。
僕は人間として最低のことをした。そういうことだ。他にどう言えと言うのか。
僕が戸惑う様子を見て、彼女はおかしそうにクスッと笑う。
そして、右手を僕の前に出すとその指で口をぎゅむっと押さえた。
「それで、あなたの命は救われたのでしょう? なら良かったじゃない。それにあなた、そんなこと言ってるけど、食べてるときはとても美味しそうだったわよ」
「!」
彼女の指が閉じた口をなぞる。
口の中に、まだ仄かに残る刺激的な旨味。
それがまた舌の上で静かに暴れだす。
「さっきの答え、聞いてないわ」
口から手を離すと、彼女はまた僕の目を覗きこんできた。
純粋に光りをたたえる目。見ていると、薄暗い中にいるのに眩しさを感じてしまうくらいだ。
「気に入った?」
グイグイくる彼女に思わず目を背け、口を紡ごうとするが、答えはもう出ているようなものだ。
言うな、それは罪なのだ。
理性は答え(それ)を押さえようとするが無駄であった。
「旨い…」
気がつくと、僕の口は勝手に勝手なことを喋ってしまっていた。
「そう!」
「やった!」と言うかのように、少女は傍らに転がる頭蓋骨を持ち上げると、それを高く掲げ、その場でくるくると回り始めた。
「やっと見つけた! 私の『好き』を分かってくれる人! 私の愛を分かち合える人!」
人肉を好む猟奇的な殺人者の顔などとはほど遠い、普通の少女のように無邪気な表情をする少女。
先程の目といい、彼女からは何故か恐ろしいほどに「悪」を感じない。
そのことが逆に、僕に恐怖となって襲いかかった。
「君は人を殺すのは好きなのか?」
頭の中にすっと浮かんだ疑問を疑問そのまま口にする。
言ってから、何を言っているんだ、と自分の失言を悔やんだ。
殺人者に、殺しは好きか? なんて尋ねるほど馬鹿なことはないだろう。
彼女の返答は決まっているのに、僕は何を期待したんだ。
悶々とする僕の前で、しかし彼女は意外な答えを返してきた。
「好きなわけないじゃない。私はお肉をとるために必要だから仕方無く殺してるだけよ」
続けて指をびしっと前に突きつけられたので、僕は思わずびくっとなってしまう。
「あなたは豚や牛の肉を食べるでしょうけど、だからって、あなたが牛や豚を殺すのが好きって訳でもないでしょう? 私はそれが人間になっただけ。それだけのことよ」
「それだけ…」
「そう、ただの殺し好きと一緒にしないで欲しいわ」
勘違いされたのが気にくわないらしく、少女は不満そうにため息をついた。
驚愕。
その二文字が僕の頭を支配する。
彼女が人肉を食べているのは、殺人の延長行為でしかないと思っていた。
だが違った。
彼女の場合は食人が先立つのだ。
殺人はあくまでそれについてくるだけのものであり、彼女はそれをあまり良しとしていないという。
人殺しが嫌いだからと言っても、実際に行動は起こしている訳だし、その上その肉を食べてしまっているのだ。
普通なら彼女を蔑み、その行動の愚かさを説いていることだろう。
でも、何故だろうか。
彼女にその類いの感情は全く沸かなかった。
「君は、あくまで人の肉が好きなだけなのか?」
「だからそうだって言ってるじゃないの」
少女の返答は僕の考えを確信へと変えさせる。
同じだ。
彼女は僕らと何ら変わらない。
好きな食べ物を食べているだけの、普通の少女だ。
僕らにとっての牛や豚が、人間に変わっただけなのだ。
「あなたたちが何でそんなに人の肉を拒むのか、いつも不思議でしょうがないの。人間にとって一番理にかなった食べ物って人間でしょ? それにこんなに美味しいのに、何で許されないの?」
頭蓋骨を掲げ、彼女は本当に心底不思議そうにそれに向かって語りかける。それは間接に的に僕に尋ねているようにも感じられた。
何か言おうとして、僕は言葉をひっこめる。
何も言えない。言い返せない。
価値観の違いだ、と言えばそれで終わってしまうだろう。
僕は人間を殺すのも食べるのもダメなことだと思っているし、彼女は好きなものを食べているだけだと思っている。
だが、それはお互い平等な立場であったときの話だ。
世の中の大抵の人は、食人を人道に反するものだと思っている。そう教育されている。
なぜなら、僕らが平和に生きるためには、食人はもちろん、人を傷つける行為は「悪」だとする必要があるからだ。
そうやって、彼女の食人に対する小さな「愛」は、僕らの平和に対する大きな「愛」に押し潰されたのだ。
彼女がこんな寒い洞窟の中で、一人孤独に生活をしている理由はそれだろう。
彼女は僕らの「愛」に適合できなかった。だから居場所を追われてしまったのだ。
「皆、私の言ってることを分かってくれなかったわ。嫌って、蔑んで。だから私はここに逃げてくるしかなかった…」
何かを思い出したように、少女は物悲しげな表情を見せた。
頭蓋の二つの穴とじっと目を合わせる少女。
だが、彼女はくるっとその視線をこちらに向けたかと思うと、また明るい表情で僕に語りはじめた。
「でも、私はもう一人じゃないわ! 私の『愛』を分かってくれる人が、今はここにいるのだもの!」
「……」
彼女のキラキラした目を僕は直視できずに、また視線をそらしてしまう。
それはさっきみたいな恥ずかしさからではなく、同情と後ろめたさからくるものだった。
彼女は可哀想だ。
きっとこのまま「誰にも」自分の愛を理解されずに少女は生きていくことになるのだから。
「ねぇ、そうよね? あなたは私の愛を分かってくれるわよね? 美味しいって、言ってくれたものね?」
僕が返事をしないことが不安なのか、彼女は焦るように僕の返事を促す。
「……」
返事はしなかった。
少しの沈黙は、彼女に更なる焦りを与える。
「ねぇ…」
彼女がそう口を開いたところで、僕は深く息を吐いてから、その言葉を遮るように言い放った。
「ああ、そうだな」
「じゃあ…!」
冷たい目で。低い声で。
僕らの愛は、またしても彼女の愛を遮ることになったのだった。
「君は間違っているよ」