書生さん
空に浮かぶは夜の森。
あれは雲ではなかった。
夜に沈む空の色が、断層のように折り重なっていた。深みのある空色たちが混ざり合うことなく積み上げられ、一本の大樹を作り上げていた。空に生える大樹はでかでかと、誇らしげに浮かんでいる。色が混ざらないことで、こうも立派な大樹をつくることができるのか。私は、ほぉと感嘆の息を漏らした。
「おやまぁ。書生さんは、また何かを見ていらっしゃる」
隣を歩く娘さんが、私に釣られて空を仰いだ。空には依然として大木がある。たくましい幹に空を覆うように広げていく枝葉。あぁ、今もこうして、大樹は成長しているのだ。
「空に大樹がありますよ」
私は空を指した。
「わたしには、なんにも見えません」
紅を乗せた唇が緩やかに弧を描く。桔梗が描かれた着物を山吹色の帯で締め、束髪にはとんぼ玉がついた簪をさしている。着物は少々手を加えたのだろう。裾が西洋服に似た扇形をしていた。確か、裁縫の教室に通っていたと言っていたか。
「そんなものばかり見ているのですから、変わり者扱いされるのです」
「はぁ、それはたいへんだ」
「だから、先生も気に入ったのですねぇ」
「そうですか」
「ええ、そうです。書生さんは羨ましいです。先生がいて。私もできることなら女学生になりたかった」
春はまだ遠い。夜になればそこら一帯を冷たい風が吹き抜けていく。学生帽を深く被り、外套の釦を閉める。
そちらは寒くないのかと問おうとしたとき、娘さんは立ち止まって空を仰いでいた。あの大樹は見えてはいないようだが、目を凝らしている。月でも見ているのだろうか。
手持ちの洋燈で娘さんをそっと照らしてみた。血脈でも浮き出そうな青白い頬は、寒さのせいか鬼灯の色を帯びている。結った髪の下のうなじの真白さにはっとして、ついと視線を外し、足元を見やる。娘さんの下駄は濡れていた。足袋も水を含んでいるのか、肌の色が透けている。振り返ると、娘さんが歩いた後に点々と水滴がついてきていた。
「娘さん、簪は見つかりましたか」
「いいえ、まだ」
「そうですか」
娘さんはこちらを向き、頭を下げた。
「今晩はありがとうございました。私はここで」
「いえ、私でよければ、またつきあいますよ」
娘さんは顔を上げないまま、動かなかった。
水の香りがどこからか漂ってくる。これは川だ。草木を含み、魚を包容させ、夏には子どもが遊び、冬には粉雪を混じらせながら流れていく川の匂いだ。川の匂いが少しずつ、強さを増してきた。それに合わせて、硬直している娘さんの姿が溶けている。ぽたりぽたりと、娘さんの着物から滴り落ちる水滴。
「娘さん、それでは」
ぱしゃんと娘さんは溶け、その姿をかき消した。娘さんが居た場所から仄かな川の匂いが残る。耳に流れてくるのは川のせせらぎ。ゆるりと体を反転させ、外れた道を歩く。徐々に見えてきたのは、古びた石橋。私は、欄干の下に置かれた花束を見下ろし、息を吐いた。
花束の横には、とんぼ玉がついた簪がひとつ。
「職人に頼んで同じものを作らせましたが、気に入りませんでしたか」
橋の下のごうごうと流れる川に、髪を下ろした女がいる。顔半分を水面から上げて、窪んだ目をして川の中をさまよっていた。
駆け落ちして身投げした娘は、想い人とあの世に逝くことは叶わなかった。想い人を呪っても気持ちが晴れることなく、せめて貰った簪があればと毎夜毎夜探しているそうだ。見つからなければ、成仏はできない。似た物を渡しても納得がいかないときた。
死んでも死ねぬとは難儀なものである。
「あぁ、早く戻らなくては」
先生に怒られてしまう。
私は先を急ぐ。空にはまだ大樹が浮かんでいた。枝が月を掴もうと、枝葉を伸ばしているのが見えた。