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丘の上、降る

作者: 朔夜 祐

「黒髪眼鏡男子企画」参加作品です。

 彼の姿は特に目にとまりやすいようなものではなかった。どちらかというと、風景に埋もれて消えてしまいそうな。そんなトランスルーセントのような彼はしかし、春のある時だけは別だった。入学式の頃。彼が部活の勧誘に立っているとき、誰もがその姿に目を奪われる。大きな桜の木の下で、花吹雪を背負って。彼の黒髪はそれによく映えた。

 それだから、どこか昔。桜がたくさん生えていたという『国』の言葉で桜を表す発音を使って、彼は『サクラ先輩』と呼ばれているのだ。


 サクラ先輩の年齢がいくつなのかは誰も知らなかった。五年制のこの学校で、一番上の先輩が入ってきた時にはもう居たというし、それでいて彼は頭が悪いわけではないのだった。しかも、誰から見ても年上という感じはしない。黒い髪は艶やかに長く、ひとつにまとめられている。目元は鋭く切れ長ですっきりとしており、紅を引いたように鮮やかな唇は、まるで昔の物語に出てくる姫のようだった。そして、そんな美しい顔つきを銀フレームの眼鏡が少し落ち着いたものにしている。勉強のできる、謎の留年生。それなのに部活外で話題が出ることは人並みに少なく、彼はきっと何か術を心得てるに違いないと部活の中では噂されていた。


「先輩、」

スウは彼に声をかけた。彼女がこの部活に入ってからしばらくが経つ。あの大きな桜の下で、他の誰もと同じように目を惹きつけられてサクラ先輩に勧誘された。しかし部活の人数は多いわけではない。

 器楽部。それが、スウとサクラ先輩の所属する部活だった。声を使った技術を磨くこの学校において、器楽部はとても異質な存在だ。将来この『星都市(ステラルム)』で召喚士になることを期待されている彼等学生は、授業でも課外活動でも声を使ったり、その助けとなる陣を描くための練習をしたりすることが一般的である。器楽部は、その名の通り楽器を使って合奏をする部活であるから、入部する人数も当然少なくなった。現在新入生から五年生まで含めて、20人。それが器楽部の部員全てであった。

「どうしたの、スウくん。」

サクラ先輩は誰のことも名前にくんをつけて呼んだ。偉そうでもなく、馴れ合う雰囲気もない。それはサクラ先輩の雰囲気にぴったりとあっていた。

「これを見ていただきたくて、」

スウは彼に自作の譜面を渡した。八月に、部活の定期演奏会がある。その演奏会では、毎年学生の作った曲を一曲演奏する習わしだった。ほとんど全員が参加するコンペだったが、しかしサクラ先輩は参加したことがないらしい。彼は入学した当時からずっと学生指揮をしていて、そのため授業以外で作曲する時間が取れないのだという。部活の時間中は、いろんな人の曲を見ている。そして、容赦のない駄目出しと、愛のあるアドバイスを丁寧に送っていた。スウも何度も彼に挑んで、何度もダメ出しをされて。今年のコンペには間に合わないのではないか、と今では思っていた。今年の春のあの邂逅を、今作りたいのに。祈るような気持ちでスウはサクラ先輩に楽譜を渡した。

 サクラ先輩は譜面を受け取ると、眼鏡を一度外してかけ直した。それは彼が譜面を見るときの癖であった。目を瞑って、息を吐く。それから眼鏡をかけると、その美しい碧色の瞳をゆっくりと開ける。譜面の深淵に下りていく。それを眺めるのが、スウの一番の楽しみだった。彼がそのレンズの向こう側に見ているのは、どんな風景なのだろう。

 サクラ先輩は、譜面に一通り目を通したあと、再び目を瞑ってゆっくりと息を吐いた。まるまる一曲分目を瞑っていたように感じられた。それからスウに目を向けると、薄い唇を少し横に引っ張って小さく微笑んだ。

「とても、いいと思う。」

何度も何度もダメ出しをされたことが嘘のように、彼は春の日差しのように笑った。ほっとして、スウもつられて微笑む。彼の笑顔は、知性的で、穏やかで、ハッとするような不思議な感覚がある。サクラ先輩の笑顔を見られるなら、いくらだっていい曲が作れるし、いくらだって素敵な音楽を紡ぎ出せる。そんな、気がした。


 コンペは、結果的に落ちた。

 スウの曲もとても良くて最終選考まで残ったのだが、少し情緒的すぎる、難易度が楽器によって違いすぎる、という理由で振り分けられてしまった。もちろん、落ち込んだ。それでも、決まった曲を、そしてそれ以外の曲もしっかりと奏でようと気持ちを切り替えることに、したのだ。したのだが。

 それでも、コンペに落ちた日だけはホルンに触る気が起きなくて。ホルンを膝の上において、ゆっくりとため息をつく。スウはホルン奏者だ。ホルンは深く豊かな音色で、ロングトーンをしている時ですら詩的だ、とスウは思っていた。スウはホルンが大好きだった。だから、こんな事態になるとは全く思わなかった。自分の中のどんな感情よりも、彼の指揮で、彼への思いを奏でてもらえなくて残念だった、という声が勝っている。

 彼の美しさと、彼への憧れは、生まれてきて初めてスウに自発的で積極的な意思を与えたのだ。あのレンズの向こうから覗く美しい青に。風に揺れる美しい黒髪に。そして何よりその深い音楽への愛に。スウはきっと恋をしているのだ、と思った。それは、身を焦がすようなものではなかった。なりふり構わず向かわせるものでもなかった。ただそれはゆっくりと彼女の胸の中に落ちて、些細なコンプレックスや、自信のない何もかもに勇気をくれるのだ。もう一度ため息をついて、スウはホルンに手を置いた。今日はもう練習をやめてしまおう。明日から、しっかり切り替えればそれでいい。そう思った。しかし、次の瞬間。

「スウくん!!」

突然、大声がスウの練習所の隣の丘に響いた。はっとスウがそちらに目を向けると、眼鏡が陽の光に反射してきらりと光るのが見えた。誰かが、いやサクラ先輩が楽器を持ってスウを呼んでいる。スウはホルンを持って立ち上がった。すると。

 その音色は、あまりに甘くて優しくて。この五月の陽気に溶け込んでいってしまいそうなほどだった。クラリネットは元々大きい音が得意な楽器ではない。野外演奏に向いてはいない楽器だ。それでも、彼の音は丘の下まで真っ直ぐに届いた。そして、この曲は、スウの作った曲だった。

 光の降り注ぐ丘で、桜の花のないサクラ先輩はやはりトランスルーセントだった。手を伸ばしたら危うそうなほどの繊細な透明感。しかし、それなのに音色は誰よりも遠くへ、自分へ。音の手が伸びる。彼がレンズの向こうから、遠く碧い目で見つめていたのはきっと。もうすでに懐かしくなってしまったあの春の日すら飛び越して、スウは恋に落ちた。サクラ先輩が喜んでくれるなら、じゃなくて。自分でなくては、彼を幸せにすることができないのだ。きっと。


 後日、スウがサクラ先輩にあの楽譜の風景がわかったのか尋ねたところ、彼は「スウくんは音楽が大好きなんだ、ってことを身体中で感じたよ」と笑顔で話していた。鈍いわけじゃきっとない。彼は自分への好意を受け入れるつもりは全くないのだ。しかし、それでいてその感想は的確だった。サクラ先輩は、スウの音楽だった。彼の全てが、音楽なのだ。スウは音楽が大好きだ。そして、サクラ先輩のことも同じだけ愛している。それは、言ってしまわずともいいのだ。少なくとも今は。


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