予感
奈々子は八神の中に存在する。もう一つの人格であった。
いつの間にか八神の精神の中に生まれ、その時期がいつなのか生まれた当の本人である奈々子にもわからなかった。
時々自分は八神のもう一つの人格なのではなく、亡霊か何かでただ単に乗り移っただけの存在なのではないかと奈々子は思うことが多々あった。
男性に女性の人格が生まれるなんて不自然にしか思えなかった。
それでも、八神の気付かない無意識に存在し、彼の思っていること、目にしている風景、そして感情などが伝わってくる。重要な事に人格の入れ替わりは奈々子が主導権を握っていた。
自分が動きたい時は奈々子は思い通りに八神の体を使う事ができた。
その間は彼が意識という名の海の底に沈み赤子のように眠っている。目が覚めれば不自然な事に気付く。
仕事が休みの日に趣味である釣りをしようと思っているにも関わらず気が付けば、休日は街の雑踏の見知らぬ人々のように、いつの間にか通り過ぎていった。
奈々子はその間自分の趣味である読書などを図書館で満喫し、満足したら家に帰り八神に体を返したりした。
八神は自分が若年性のアルツハイマーになったのかと思い、病院などを回ったが特に異常はないと医者には言われた。八神には疑問が深まるばかりだった。
だが、それでも仕事には支障が無くそのまま気にしないようにすることにしていた。
最初は、それでうまく行っていた。奈々子は八神に生まれる前の記憶はなく、彼の目にする光景や考えに新鮮な気持ちを覚えた。明るくさわやかで優しい性格と裏表のない純粋な心。
そんな八神のフィルターから見える世界は、鮮やかに彩られた美しい西洋の印象派の絵画のようであった。
見たことのない光景、暖かい心に包まれた奈々子は八神に惹かれいつしか奈々子は愛情を抱く事になった。
それからが問題であった。
八神は人当たりも良く、友人も多く、女性にも恵まれていた。
好意を持つ女性は多く、八神はそんな彼女らと交際することがしばしばあった。
そんな事は、奈々子にとって絶えられなかった。
近づく女には、様々な嫌がらせをした。
八神の人格を乗っ取り、別れるように仕向けることをしていた。
相手の女性に不快な言葉を投げかけたり、時には暴力を振るう事もあった。
それに耐えられなくなった女性は自然と八神の元を離れていった。
そして、それを哀しむ八神を見て、奈々子は心の底から喜びを感じた。
彼は私の物なのだ、と独占欲を満たしていた。
無口な奈々子の無口な愛を一方的に浴びせられる八神。
ただ、気にいらない事に彼は奈々子の愛には気付く事ができない。
それでも、八神の内側に存在し、彼の心を直に感じられるだけでも十分幸せであった。
そして、今日も八神に近づく女が現れる。
「遅れてすまない。三越さん。少し仕事が延びて……」
八神は心の底からすまなさそうに謝っている。
「いいのよ。あらかじめ遅れるかもしれないって連絡をくれていたし……。それに遅れたり、ドタキャンされたりするのは毎回の事じゃない」
ボブカットにふんわりパーマのかかった亜麻色の髪型。細身で小柄な容姿。そして女である奈々子でも好印象な太陽のように明るく愛嬌のある笑顔。
この三越と八神はこれまでにはなく長く交際をしていた。
八神が三越に惹かれていることは間違いなく伝わってきて、奈々子はそのことに苛立ちを覚えている。
そして、彼に別の肉体として触れられる彼女に嫉妬してしまう。
今夜は八神が行き慣れた洒落たレストランに三越は誘われていた。
二人の和んだ会話のやり取りが聞き取れる。
明らかに三越は八神に好意を持っていたし、八神の方も今までの誰よりも彼女に心を奪われていた。
もちろん奈々子は様々な嫌がらせを三越にしてきたが、それでも彼女は八神の元を離れずむしろ彼の二面性みたいな物を受け入れ、苦悩する八神を見守ってきた。
奈々子の行動により二人の絆はより深くなっていた。
どうしようもないな。
そんな諦めにも似た感情を奈々子は持つようになった。
レストランを出た二人は八神の自宅に行き、時間を共にしていた。
そして、ソファでくつろいでいる時に八神は信じられない言葉を口にした。
「三越さん。こんなよくわからない僕に付き合っている君には本当に感謝しているんだ。まだまだこれから迷惑をかけるかもしれないけど、良かったら……僕と結婚して欲しいんだ」
思いも寄らない言葉に奈々子は驚いた。
八神の意識は把握しているはずなのに、そんな決断をしているという事に気付けなかった。
奈々子はひどく動揺した。八神の意識に気付けなかった事、三越に奪われてしまうという恐怖感。
「……最初は驚いたけど、それに悩んでいる貴方と触れ合う中で私はそんな貴方の色々な部分を知れて嬉しかった。私の方こそこれから貴方を支えられていけるかわからない。けど、できることなら貴方の側にいたい。八神さん。こんな私で良ければ……よろしくお願いします」
奈々子は耐えられなくなった。体を奪い三越の首を憎しみを込めて絞め上げる。
ソファの上で馬乗りになり、さらに力を込め喉を圧迫していく。
三越が苦しみ、歪む顔が見える。
こいつを殺せば八神は私だけの物になる。奈々子はそう思った。
『もうやめにしませんか?』
どこからともなく声が聞こえてくる。それが八神の声だということにすぐに気が付いた。
『どうして、貴方が私に話しかけられるの?』
『大分前から気付いていましたよ。あなたに。でも僕は何も言い出せず無口にあなたの事を見ていました』
私の存在に気付かれたのは何故だろうかと考えた。もしかしたら私が諦めかけていて弱っていたからかもしれないと奈々子は悟った。
『なら、今までどうして止めなかったの?』
『それは……どうしても憎めなかったからです。あなたはどこか幼い子供のようにただ愛を求めているだけなんじゃないかと思ったんです。だから、どうしてもあなたの事を止める事に抵抗があったんです』
それが本心だという事は、奈々子には手に取るようにわかった。
今、二人は初めて意識を共有している。
『でも、名前のわからないあなたには、もうこれ以上誰かを傷つけて欲しくありません。僕はあなたの事も大事に思っています。あなたは僕の事を心の底から愛していてくれました。それはすごく嬉しかったです。ありがとう』
八神の嘘偽りのない言葉に、涙にならない涙を奈々子は零した。
そして、八神に抱きしめられるような暖かい気持ちになれた。
『私もちゃんと体を持っていれば貴方に抱きしめられたのかな?』
『そうですね……できれば、あなたとも普通に出会って絆を育んでいけたらと良かったと思いますよ』
奈々子は涙を流し続けていた。何故なのかわからない。受け入れてくれたからなのか、それとも彼の優しさに触れられたからなのか。
『そういってくれて、ありがとうございます。私はもう貴方にそう言っていただけただけで十分です』
奈々子はもう良いと思った。八神の心の奥底で側にいて、優しいまどろみの中で眠れられたらそれで満足だと思った。
『もう、私は貴方の邪魔はしません。色々と疲れましたし、貴方に気付いてもらえて、こうやって話できて良かったです』
『ありがとうございます』
『そして……さよなら』
奈々子は心海の奥底で眠りに付こうとした。まだ少し眠り付くには時間がかかるかもしれないが、それまで彼の言葉を噛み締めて静かに横になろう。
幸せの中で眠る。それが私の望んでいたのかもしれないな、と奈々子は最後にそう思った。