第三話 例えそこにいなくても
これにて『嫌われものなりの』完結になります。
エギルという嫌われものが、初めて自分の手だけで守りたいと思えた存在。ただそれだけのために頑張る男の子の話を書いてみたいと思い、書き連ねたものです。
やっぱりいつだって、男の子が頑張る時は女の子のためと相場が決まってるものでしょう。特にファンタジーでは。
『準備はいいか?』
エギルの左手から響く音に、全員が頷く。各々戦いに赴くための装備を身にまとい、卓に着いていた。
『何よりも優先すべきことはリヴの奪還だ。すでに一度の力の行使でリヴは限界を迎えている。それに、私も再度防護陣を展開する余力などありはしない。力を行使された時点でお終いだということを頭に叩き込め』
尊大な物言いだが、その言葉に込められた重みは真実であるために、騎士二人は何も言い返さずに黙って首肯する。エギルもフェヴニルが防護陣を展開した時のことは記憶にないが、これ以上リヴに力を行使させることは元よりさせないつもりだった。
「叩き込め、なんて今更言われなくたってわかってるわよ」
そう言って、シルファが立ち上がる。それに続いて、イングナルも無言のまま立ち上がった。
「取り戻しに行くわよ。エギル、覚悟は出来てる?」
「……もちろん」
そう、勇ましく返し、エギルも立ち上がる。その瞳は一切逸れることなくシルファに向けられ、迷いなど一片も見当たらない。
これから取り戻すのは、決して反転の女神なんかじゃない。それよりももっと、ずっと、大切な。
「行こう。リヴを……ただの、普通の女の子を助けに」
反転の女神としてのあり方など、彼女には似合わない。ただにこやかに笑って、素直に泣いて、心から喜ぶ。そのどこにでもいる、どこにでもいるはずの普通の女の子としての姿が、一番彼女には相応しい。
……例え、この先にどれだけの苦難が待っていようとも。
それを、これから取り戻す。
エギルの言葉に、誰もが力強く頷いた。
*
「……やっぱり、すごい静かね」
街道に人の姿は誰一人としてなかった。早朝であるとはいえ、街道には屋台が並べられ、売り物の準備をしている商人の姿を多く見られるはずなのに、三人の目の前には残された屋台と商品だけが無造作に置かれている。
「街の人は、どこに行ったのかしら」
「わからん。少なくとも、自力で家へと戻ったとは考えられないが」
強固な防護陣に守られて尚、シルファとイングナルは倒れこみそうになる程の眩暈を覚えた。普段から精神と肉体を鍛え抜いている騎士でさえそうなのだ。何の訓練もしていない街人が、たった一晩で自ら歩ける程に回復出来ているとは考えづらい。
「……けど」
だが現に、街道を歩く三人の姿を、街人は自らの家の窓から見ていた。
「何、なんなの……?」
シルファが怯えた声を出す。だが、それも仕方のないことだった。エギルも、イングナルでさえ街人が自分たちを見る視線の鋭さに、身を竦ませていた。
否、その視線は自分『たち』を見ているわけではなくて。
誰もが、睨みつけるような鋭い目つきで、一人の少年を見ていた。
「おまえか……」
しわがれた、老人のような声色。けどその声を上げたのは、エギルと然程年の変わらない少年だった。
「おまえが、何かしたのか……」
少年は家の二階の窓から身を乗り出している。体の自由さえ取り戻せたら、今すぐにでも跳びかかりそうな程の敵意。
「ふざけるなよ……俺たちが何をした、何をしたって言うんだよぉ……!」
唇を噛み締めて、涙で瞳を濡らしながらも、呪詛染みた言葉をエギルに浴びせかける。
「母さんは体が弱いんだぞ……今にも死にそうで、死に、そうで……! ふざけるな、ふざけるなぁ……!!」
その涙交じりの怒号を皮切りに、どの家々からも怒号が飛び出す。口汚い雑言。嗚咽に塗れた糾弾。言葉にならない、音のような叫び。
誰もが耳を塞ぎたくなるぐらいの負の感情に満ちた共鳴が、街道に立ち尽くすエギルの耳朶へと飛び込んでいく。
「やめ、やめなさいよっ! どうしてエギルが悪いことになってるのよ!!」
シルファの叫びも、罵詈雑言の嵐にかき消される。
「ちょっと!! やめなさい! なんでよ!? エギルは何もしてないでしょ!? やめろっ! やめろぉ!!」
「貴様らっ、今すぐその口を閉じろ! 切り裂かれたいのかっ!?」
謂われない糾弾にイングナルでさえ激昂し、神器を顕現し振りかざす。だが、街人はその凶器に怯えもせずに、口角に泡を滲ませる程口汚くエギルを罵り続ける。
『彼らについては、問題ない。リヴが彼らの力を取り込んでいるだけに過ぎない。逆に、彼らの力を返すことも可能だ。一見死んでいるように見えても、それは仮死状態に過ぎない。私たちが誤らなければ、彼らも助かる』
「……そっか。それなら、よかった」
渦中にいる者たちの心境は、不気味に思える程に静寂していた。平然と、気を病んでしまいそうになる程に凄惨な糾弾を一心に受けている。
「フェヴニルッ!? これはいったいどういうことだ!?」
『……私のせい、だろうな』
イングナルは瞬時に槍の穂先をエギルの持つ生石に向ける。同じように、シルファもボウガンを展開させ、矢を装填して照準を生石に向ける。
返答次第では、このままエギルの左手もろとも貴様を砕く。そう言うかのように。
『私は、この世界のありとあらゆるものに拒絶される。副次的なものではあるが、それが私の持つ特性だ』
嫌われ、疎まれ、避けられる。だからこそこの生石は何物にも触れられず、何物にも触れることが出来ない。
『彼らにとって、今のこの状況は災害に見舞われたようなものだ。人災であることなど知る由もない……原因を作り出さなければ気が済まないのだろう。だからこそ、私と適応したエギルへと、その怒りの矛先は向けられた』
「……ならば、貴様さえなくなれば、エギルはこれ以上謂われない糾弾はされないわけだな」
イングナルの槍が地面へと突き立てられる。石畳に幾筋のひびが入る程の衝撃を、神器は紋様を光らせて吸収する。
「イングナル。やめて」
「だがっ……」
「フェヴニルがいないと、僕は戦えないんだ」
どうしたって、僕たちは一人では無力だから。たった一人では、普通の女の子を取り戻すことなど出来ないぐらいに。
「大丈夫だよ。こんなの慣れてるんだから。謂われない糾弾なんて、これまでずっと受けてきた」
今のこの状況が『懐かしい』と思えるぐらいに、謂われない責任を追及され、疎まれることなど日常茶飯事だった。だからこそ、口汚く悪意をぶつけられようとも、笑顔を浮かべることが出来る。出来て、しまう。
「これで、いいんだ。これで、もっとフェヴニルと近づける」
その時。言葉で罵るだけでは我慢できなかった者が投げつけた皿が、エギルの額に当たり、割れた。
一瞬の静寂。だが、エギルの額から一筋垂れてきた鮮血を見て、他の街人が悪意を爆発させる。次々と投げつけられる食器、本、その他の物。そのどれもがエギルへと向けられ、形ある悪意となって襲い掛かる。
「スーリ―――!!」
「いいんだっ!」
ペンダントを引きちぎろうとしたシルファを、エギルが止める。その間も、街人からの攻撃は止まない。
「何もしなくていいよ。彼らだって、仕方のないことなんだから……」
「違うわよ! こんなのただの八つ当たりじゃない! エギルは何も悪くないのに、それどころかあいつらを救おうとしてるのよ!? それなのに、それなのに……!」
シルファはそうして、唇を噛み締めていた。イングナルも無言でありながら、手に持つ長槍の紋様を更に輝かせる。怒りに震える肉体を、必死に抑えつけて。
「これで、いいんだよ」
そう、自らに言い聞かせるように呟き、エギルは額の傷口に触れる。
「目標はハッキリしてる。僕がやるべきことはもうわかってる。それなら、嫌われようが、疎まれようが構わない。もう、そんなことはどうだっていい」
リヴを助け出す。その結果を得るためなら、何を失おうが構わない。
「この世界が僕たちを拒絶するなら、僕たちだって拒絶してやる」
その決意の言葉に、エギルとフェヴニルを除く、その場にいる誰もが、二人の騎士でさえ息を飲んだ。雑言は止み、誰もが身を竦ませる。怖気が体中を駆け巡り、鳥肌が全身を覆う。
(こいつは、誰だ……?)
イングナルの持つ長槍が震える。否、長槍どころか、全身が恐怖に屈しそうになっていた。震える体を鼓舞し、毅然と目の前に立つ少年を見る。
すでに、少年の額に傷はなく、鮮血は流れない。
(治癒呪文の、詠唱破棄……)
果たして、それを可能としていたのは誰だったか。
(エギル……いや、今はいったい、どっちなんだ……?)
すでに街人の姿は見えなかった。誰もが窓を閉め、家へと篭っている。何かに怯えるように。何者かからの、報復に怯えるように。
「行こう。二人とも」
「え、ええ……」
一歩遅れて歩き出すシルファも同じように、イングナルに比べて軽くはあるが、恐怖を顔に滲ませていた。
誰からも嫌われ、誰からも疎まれる。
それは決して、自分たちもその『誰か』に含まれることを、二人は今更理解した。
*
城に至るまでの道程に、エギルたちの行進を妨げる者はいなかった。街は人気どころか生気さえも感じさせない程静寂に満ちており、動くものは何一つない。時折吹いた風が広場の草木を揺らす程度だった。そしてその草木ですら、すでに行き来としていたはずの緑色を失い、枯れ果てていた。
「……本当に、無差別なのね」
茶色く煤けた木の葉を一枚掴んだシルファが呟く。水分を失った枯れ葉は少し指で擦るだけでバラバラになってしまう。
『無差別ではない。リヴ自身が生きていると感じるもの全てから力を取り込むだけだ。もし本当に無差別ならば、すでに大地は崩れている』
リヴが眠りから目覚めてからの生活で学んだ数々のこと。その知識や感情を元に、リヴは力を行使する対象を選定する。短いながらも、エギルと共に過ごした村での生活は物言わぬ木々や草花が人や動物と変わらず生きていることをリヴに教えた。
だからこそ、この国の生きているもの全ては、こうして力を奪われ地に伏している。
「……急ごう」
そんな皮肉のような展開に、エギルは顔をしかめながら歩を進める。反論などあるわけもなく、二人の騎士も同様に歩き出した。
そして辿り着く城門には。
「遅かったではないか。待ちくたびれたぞ」
現存する神の一柱が待ち構えていた。
「バルサルク……騎士団長」
「複雑な気分だ。せっかく救った命だというのに、こうも予想通りに散らしに来るとは」
「……騎士として、おめおめと逃げ出すわけにはいきません」
イングナルの騎士としての言葉に、バルサルクは渋面を少しだけ崩し破顔する。
「騎士としての忠義を語るならば、武器を抜き身で城門を越えることなどするな。獣に跨りながらなど、最早何も言う気がせんわ」
バルサルクと相対した時点で、すでに三人とも自らの装備を展開させていた。シルファは神馬に跨り、バルサルクは長槍を構える。エギルだけが、ただ左手を前に掲げていた。
バルサルクの表情から一切の笑みが消え失せる。強く敵意を含んだ視線は、ただエギルへと向けられていた。
「エギルよ。お主はいったい何者なのだ」
「……女神の、近衛騎士です」
「そのような今更意味のない地位を問うたのではない。誰も目にしたことのない程の力を有する生石を携え、それでいて、あの女神の力に耐え切ったお主はいったい何者だと―――」
『その質問には、私が答えようか』
突然響いた音に、バルサルクの両目が見開かれる。
『バルサルクよ、久しいな。時代を超えても尚、おまえの実直さは変わらなかったか』
「……ハッ。なるほど、なるほどなぁ」
俯いたバルサルクの肩が揺れる。見ようによっては、それは怒りに打ち震える武人の姿に見える。
「ハッ、ハッハッハッ! なるほどっ、あなたが暗躍しておりましたか!」
が、その実ただ笑いを堪えていただけだった。そしてついに爆笑へと変わり、もう完全に破願したバルサルクの、変貌とも言える変わりようにフェヴニル以外の全員が唖然とする。
「なればこそ、全てに納得がいく。まさか、これまでの全てがあなたの思惑通りだとは。さすがは誉れある神代の魔―――」
『残念ながら、全てではない。これから、そのイレギュラーを正しに行くところだ』
先の言葉を遮るように響いた声を聞き、バルサルクは双眸を閉じた。
「……なるほど」
深い、深い嘆息を吐いた後、バルサルクは大剣を抜く。一瞬にして、場には緊張が迸る。だが、それでもバルサルクが浮かべる表情は笑顔だった。
「あなたならばわかっていよう。儂の後ろに控えるは王であることを。なればこそ、儂は全力を持って相対せねばならない」
人間を置き去りにして、神々は会話を続ける。
『ああ、わかってるさ。だからこそ、私はおまえを実直と称した。王たる者に、おまえは逆らうことが出来ない。そんなものは百も承知だ。だからこそ、押し通らせてもらう』
「……儂は本気で蹂躙せよ、としか王に命じられていない。故に、今この場でお主たち全員と相手をする必要などない」
大剣の切っ先をエギル達に向け、バルサルクはそう告げる。それは暗に、一人はこの場に残れと言っていることと同義で。
『……良いのか?』
「儂は忠義を尽くしておる。その結果、三人の内二人にこの場を抜かれようとも仕方あるまい……それに、この場におる者は例え誰が残ったとしても、儂を楽しませてくれるであろう」
ニヤリと笑うバルサルクの言葉を聞き終わる前に、城の壁を刃が深く抉った。
「……行け」
壁を抉った長槍の刃を、今度は床に深々と突き刺す。長槍に刻まれた紋様が淡く輝くのを見て、イングナルは長槍を構え直す。
「い、行けってあんたっ! 一人で騎士団長を相手出来るわけが―――」
「冷静に考えろ。時間がないんだ。今この場で手をこまねいている場合か」
そう言いながら、イングナルは決してバルサルクに向けた視線を逸らさない。長槍の穂先も揺れずに向けられていた。
「でもっ、それは……」
機動力に優れたスーリフを扱うシルファが、エギルを乗せ王の元へと疾走し、その障害となるバルサルクをイングナルが足止めする。シルファにも、イングナルが残ることが今この場において最善の手段であることはわかっていた。だが、それでも同じ騎士として生きてきた者としてのプライドが邪魔をする。
「……任せていいんだね」
「誰に言っている。おまえこそ、任せても構わないのか?」
「もちろん」
「なら、行け」
「だからっ、ちょっと待ちなさいよ!」
一度も目を合わさず交わされる会話に、ついにシルファが声を荒げた。
「イングナルが一度決めたら何言っても動かないの、シルファだってわかってるでしょ?」
「おまえが言うな、エギル」
「……あー、もう!」
いくら言葉を並べようとも、付き合いの長い友人が意見を変えないことなどわかっている。そんなこと、エギルに言われなくたってシルファは理解出来ていた。自分だって、同じようなものなのだから。そういう似た者同士だからこそ、ここまでの関係になったのだから。
「ほらエギルっ、さっさと乗りなさい! もう本っ気でっ、全力で飛ばしてくわよ!」
「う、うん」
急がなければ尻を叩きかねない程の迫力で、シルファは捲くし立てる。エギルはスーリフによじ登り、もう一度イングナルへと向き直った。
「……イングナル」
「どうした。早く行け。これ以上無駄な―――」
「全部終わって、もし僕が戻ってこれたら……一度、本気で喧嘩してみない? もちろん、生石はなしで」
「……そうだな」
少しだけ、イングナルは笑った。エギルやシルファの位置からは見えなかったけど、二人には、彼が苦笑でも何でもなく、ただ笑ったことはわかった。
「それを、楽しみにするとしよう」
「……あんた、死なないでよ」
「……くっ」
シルファの優しさを感じる言葉に、イングナルはつい噴出してしまった。もちろん、そんなデリカシーのない反応にシルファはすぐに怒り出そうとするが。
「承知した。おまえもエギルを……頼んだ」
騎士ではなく、ただイングナルとしての、幼い頃より、ずっと共にいた友人としての言葉を耳にして。
「……任せて」
それだけ言って、スーリフの疾走を開始した。
「……と、いうわけだ。俺は死ぬわけにはいかない」
神馬を駆る友の姿は突風を巻き起こして、すぐに見えなくなる。イングナルはそれを確かめもせずに、縦横無尽に長槍を振り回し、城に爪跡を残していく。次第に強く発光していく紋様。粉塵が舞い上がる中、イングナルは長槍を両手で強く握り締める。
「故に、負けるつもりなど毛頭ない。覚悟はいいか、騎士団長……いや、バルサルク」
「……虚勢にしては、良い気迫だ」
静観していたバルサルクが大剣を構え直す。片手で持っていた柄を、相対する敵と同様、両手で握り締める。
「模擬戦ではないのだぞ?」
「敵と相対し、わざわざ戦意の確認をするのが貴様の本気か?」
「……若造が、良くぞ吠えた」
剣の柄が歪みかねない程、凄まじい膂力で拳が握られる。それでも、イングナルの表情に怯えは生まれない。
今この場において、怯える要素はどこにもない。勝てない戦いだとしても、負けられない戦いなのだ。ならば、相対し、全力を持って相手をするのみ。目の前の相手が、先を行く者達を追わせないために。彼らを、守るために。
(そうだ。俺は、今この時のために、これまで生きてきた)
「ユグリル王国騎士団の長として、全力で迎え撃とう。さぁ来い、小童め」
「――っ!!」
床を穿つ程の力を込め、遥か高みを座す騎士団長に向けて足を踏み込んだ。
*
「……慌しい来客だ」
玉座にて、一人の王が口を開く。
「王の間に獣を持ち込むとはな。まぁ、賊の類に礼儀を求めるのも無理な話であったか」
「ユグリル、王……」
大国ユグリルの頂点。国と同じ名を冠する王、ユグリルは深々と玉座に座り込み、額に指を当て嘆息する。
そして、その傍らにまるで人形のように佇む、一人の少女の姿。
「バルサルクめ、手を抜きおったな。この程度の雑兵、奴ならば一気に相手出来ようものの」
「……あなたが、城の人間に傀儡呪を?」
「いかにも。城の全域に陣を敷き、晩の内に少しずつ浸透させていた。貴様らは城の外に家を持っていた故に陣から逃れたようだが。まさか予の敵に回る事態になるとはな。思いがけぬ伏兵がいたものだ」
「……何も悪くない人たちを操って、傷つけて、王として何も感じないんですか?」
スーリフから降りたエギルが、睨みながら王へと問う。その問いを、王は澄ました様子で聞いていた。
「傷つけるも何も、反転さえしてしまえば人など等しく絶えるであろう。ならば、その前に傷つこうが関係などあるまい」
騎士としての忠義を誓った者が耳にして、聞き流せる言葉ではない。シルファは、身の内に生まれた怒りを我慢しながら、エギルに続いて口を開いた。
「人の世を治める王として、その発言は許されるものではありません」
「……今の貴様の発言は、予に対しての最大級の侮辱に他ならぬ」
王の双眸が細められ、シルファを刺すような目つきで睨みつけた。瞬時に増した王の気迫に、直接睨みつけられたわけでもないエギルにすら怖気が走る。
「人の世を治める王、だと? 違う。予はそのような小さな者を治める王ではない。予は、蟻の王などではないのだ。そのような戯言、二度と口にするな」
人を蟻と称する。称せてしまう位とは、いったいどれ程の高位なのか。
地に這う者を見下せる者は、地よりも遥か高みに至る、天上の存在のみ。
「まさか……同調を?」
人の器から、神の器へと。目の前にいる人の王はその在り方を移行した。
「……いかにも」
王は笑みを浮かべた。彫りの深い、皺の多い顔を歪めて、愉悦に浸る浅ましき者のような。卑しい笑みを。
「名は変わらぬがな。かつて大地の覇者として君臨し、神代の時代を治めた神の王。天上の更に高位に座す者だ。故に、神は予に逆らえはしない」
騎士団長の態度が脳裏に過ぎる。神は神の王に逆らえない。だからこそ、あの騎士団長は不本意ながらも、自分達に立ち塞がっていた。
「……だから、反転をさせようとしたんですか?」
エギルが一歩、玉座へと近づく。
「自分が治める国を取り戻す。そんな、つまらない理由で?」
「……随分恐れのない物言いだな」
王を取り巻く気迫に、凄味が格段に増していく。だが、エギルは尚も口を開く。
「恐れる必要なんてない。本当に、そんなたいしたことのない理由で、彼女を辛い目に合わせたのか」
「……口を慎め」
王の指先が揺れ動く。何か力を行使したかのようには見えない程の、緩慢な動作。だが、その次の瞬間。
「―――っ!?」
壁。床。天上。謁見の間を構成する箇所から、突如『岩の鎖』が飛び出してきた。
「エギルッ!」
「くぅ、ぅ……!」
無機物でありながら、まるで意思ある大蛇のように岩の鎖は次々とエギルへと襲い掛かり、瞬時にエギルの全身に巻き付く。締め上げる力も大蛇の如く、一切の身動きを許さない。
「王に対しそのような物言いが許されると思ったか」
「これ、は……!?」
呻きながらもエギルは拘束を解こうとするが、鎖は更に強く堅く巻き付いてくる。そしてもがくエギルの喉元に、岩の鎖の一本が先を鋭く、針のように形を変えて構えられる。
「先程、予は言ったな。神であるならば、予に逆らえないと。この城は全て、生石を用いて造られている。なればこそ、この城そのものが、予の武器であり、防具だ」
城を構成する全ての素材。その全てが、生石である。生石の研究を生業としている学者が聞いたら卒倒しかねない程の事実を、王は語る。
「そんな……そんな巨大な生石が存在するなんて聞いたことが……」
「貴様らは生石が手に納まる程小さいことに、疑問を持ったことはないのか?」
玉座に座しながら、王は口を開く。
「神にも肉体はある。だが、それにも関わらず生石は人の手に収まる程に小さい。それは生石とは、神の力と意志のみが凝縮されたものだからだ。ならば、その肉体はどこにある」
王の足が床を叩く。
「大地だ。神の肉体は大地となり、貴様ら矮小な人間の足元に敷かれているのだよ。無様であろう。大地を統べた神々が、矮小で価値の薄い人間に踏まれ、加工されていく。そこに意志はなかろうと、これ程無様な帰結はあるまい。だから取り戻すのだ。神としての正しき在り方を、誇り高き生き方を。かつて神の王として君臨し、そしてまた王として蘇った予が」
「……だからって、今生きてる人間を滅ぼしていいってことはないわ」
シルファもすでに、目の前の老人を敬う気持ちなどない。目の前の玉座に座すのは、人間の敵である、神の王なのだから。
「神様がどういうつもりで反転なんてしたのかなんてさっぱりわからないし、わかるつもりもないけど。どちらにせよ、勝手に反転しておいてその末やっぱり戻す、なんて迷惑極まりない行為、許せるわけないわ」
すでにボウガンは展開され、矢も装填されている。それを王に向け射出出来ないのは、ただエギルの喉元に構えられた岩の槍がある故。もう、シルファに迷いはなかった。
「……やっぱり、たいしたことない理由じゃないか」
それに、元より迷いの欠片もなくこの場に来た者もいる。
「あなたの他に、そんな馬鹿みたいなことを望んだ神がいるのかなんて知らない。仮にいたからって、そんなものを許容してあげる必要なんて全くない」
唯一の同調者でもあるバルサルクも、本意ではなかった。彼は自分が騎士団長として生きていることに不満などないように見えた。他の神々を、エギルは知らない。けど、それでも、今生きている人々を滅ぼし、再度大地に君臨しようとすることが、神々の総意だとは思えない。
誰も彼もそれ程までに自分本位に、身勝手に生きてきたのなら、反転など起こる前に世界は崩壊している。
「自分の独りよがりで、ただの女の子を辛い目に合わせて。何が神様だ。何が王様だ。そんなの、ただ傍迷惑なだけじゃないか」
岩の鎖に縛られながらも、岩の槍を喉元に突きつけられながらも、エギルの言葉から熱は消えない。王を睨みつける視界の中、少しも笑わない少女が見えて、更にエギルの怒りは増長していく。
「付き合ってられないんだ。あんたの、勝手な言い分なんて、僕らにはどうでもいい」
「……元より、人間如きに理解されようなどとは考えていない」
癇癪起こす子どもを見るように、呆れて王は嘆息する。
「ならば、ここで先に滅びよ。神の王に逆らった、蛮勇を持つ者よ」
王の指が閉じられる。ただそれだけの動作で、鎖は締め付けを強め、槍はエギルへと突き立てられる。
が、それよりも前に、ある神の名が叫ばれる。
「―――フェヴニルッ!!」
眩い発光と鎖が崩れ落ちるのは同時だった。自由になった体を全力で逸らすが、岩の鋭い槍の切っ先が喉を掠める。その痛みなどに見向きもせず、エギルは玉座に向けて疾走する。そして同時に、シルファの放つ矢が玉座の前で突然現われた岩の壁に阻まれた。
変哲のない刃が付けられた矢は阻まれようとも、エギルの持つ剣に、その壁は通用しない。音もなく割かれた壁の先に用意されていた岩の槍も、エギルの剣は切り割いていく。
そして、玉座までポッカリと空いた空間を滑り込むように現われたのは、戦車の如く力強いスーリフの巨大な肉体―――。
岩の槍がそのスーリフの肉体を貫く前に離脱する。そしてシルファの片腕には、虚ろな目をした少女が抱えられていた。エギルも同じく玉座から遠ざかり、剣を構え直す。
「……今の瞬間、女神を取り戻そうともせず、予を切り伏せればよかったものを」
「僕達の目的は、おまえを倒すことじゃない」
リヴさえ助けられたら、それでいいのだから。そして、玉座の背後に隠された無数の槍に気づかなかったわけでもない。
翻したスーリフが、シルファとリヴを乗せて謁見の間の扉を突き破る。
「―――なっ」
が、その先に空間というものはなく。ただ灰色の岩壁が存在していた。
「言ったであろう。この城そのものが予の武器であり、防具であると」
巨人が手にするような巨大な剣を、王は城の壁からいくつも生み出す。
「今この謁見の間は、全て岩で塞いでおる。お主の持つ奇怪な剣なら開けるだろうが、その前に押し潰してみせよう。それでも、ここから逃げるか?」
王の挑発を受けずに、エギルは静かにもう一度剣を構える。
唇を噛んだシルファの腕の中で、ピクリと少女の指先が動いた。
*
「ふんっ!!」
神の鉄槌。そう表現するのが相応しい程に激烈な衝撃が真上から降り注ぎ、長槍を構えたイングナルへとぶつけられる。
「―――っ!」
吸収、再生。その行程を同時に行うことで、何とかバルサルクの化物染みた威力をそのままバルサルク本人に叩き返す。大剣はそのまま自身の威力によって跳ね返され、その空いた瞬間にイングナルは後ろへ跳ねて距離を開く。
「くっ」
作用と反作用。イングナルの持つ神器の能力故に、イングナル自身その物理法則に関する理解はより深い。衝撃を放つとは、同時に相応の跳ね返りを受けることとなる。すでに何度打ち合われたのかわからない。腕の感覚などとうに鈍り、長槍を握る手の震えが治まらない。城そのものも、何度も発生される衝撃に耐え切れてはいない。
今、二人は地下にある大図書館へと戦いの場を移していた。日の光に乏しく、ランプの明かりは灯されてなどない。暗闇といっても過言ではない空間の中、互いの武器を構える。
「よもや、ここまで耐えうるとは思ってもいなかった」
「……それは、俺のことを過小評価し過ぎじゃないか」
「それは違うな。過小評価などしておらぬよ。儂が強過ぎるから、ここまで耐えうることに驚いている」
傲慢とも取れるその物言いに、イングナルは何も返すことが出来なかった。事実なのだ。バルサルク騎士団長が人智を超えた、天上の存在であることは周知の事実である。だからこそ、そのバルサルクと相対し、未だ五体無事であるイングナルにこそ、賞賛は与えられるべき状況だ。
「儂にとって、おまえの神器は相性が悪い。強く打ち込めば打ち込む程、その分返ってくるのだからな。しかしイングナルよ。そろそろ限界であろう」
神器、グリンスブル。『再現』を意味する紋様を施された、神が用いる人智を超えた武器。
「もしおまえが人の身でなければ、儂に勝ち目などなかっただろうな……イングナル、その右腕、もう満足に動かせないな」
バルサルクの問いかけに言葉で答えず、イングナルは刺突を返答とする。その質量のある返答を、バルサルクはあろうことか手のひらで受け止めた。
「っ!?」
貫かれる手のひら。その凄惨な光景や痛みに眉を潜めさえせず、バルサルクは長槍の刃が貫かれたまま、拳を握り締め、刃を掴み上げ。
長槍ごと、イングナルを本棚へと叩きつけた。
「―――かはっ」
「……ぬるいな。若造よ」
イングナルの手から離れた長槍をバルサルクは無造作に手のひらから抜き去り、倒れこむイングナルへと放る。地面へと当たる前に、適応者の手から離れたことにより力を失った長槍は、小さい小石へと形を変じた。
「戦意は上々、殺気も充分。だが、おまえには勝とうとする気迫が足りない。もしや、この場でなら殺されず、見逃してくれるなどと淡い期待を懐いているのではあるまいな」
「……そんなわけが、あるか」
ただの小石になってしまった自分の武器を掴み、イングナルは立ち上がる。すでに四肢の動きは鈍り、叩きつけられた衝撃からか眩暈すらしている。だが、目線だけは、眼前の脅威から逸らさない。
「死んでもいい、その覚悟ならある。だが、勝ち残ることを諦めたつもりはない」
「それだけでは足りぬと言っているのだよ。おまえが相対する者は誰だ。全身全霊を込めて尚全てを燃やし尽くす気概を持って挑もうとも、届くかすら危うい雲上の存在ぞ」
「……ここで全てを出し切っては、未来がない」
自らの武器の名を呟き、イングナルは再度長槍を構え直す。
「俺が望む結末は、ここで終わることではない。だから、生き残ることを視野に入れずに戦うことなど出来ない」
「……それがぬるいと言っておるのだ。そのようなぬるく、薄い覚悟で儂に届くとでも?」
「届くさ。死の覚悟と生き抜く覚悟は同列ではない」
「……どちらが上だと?」
「無論、生き抜く覚悟だ」
イングナルの持つ長槍の刃が周囲を抉る。加速していく刃に呼応するように輝く紋様。満ちる気迫。
「俺が望む未来は、これから先も、変わらずあいつらを守り続けることだ。俺が俺である限り、この願いは変わらない。だからこそ、生き抜く覚悟は揺らがない」
「……故に、死なない程度に儂と戦う、か。なるほどな……」
戦いの場にありながら、バルサルクの頬が愉快そうに歪む。
「騎士は自らの命を賭してでも、守護するべし。そのような戒律など作ったこともないが、自然と騎士を志す者はそのような決まり事を胸に刻んでおる。だが、おまえはその逆を行くか。面白い……だが、解せぬな」
大剣を肩に背負ったバルサルクの視線が、イングナルを突き刺すように向けられる。その視線すら、イングナルは真正面から受け止めた。
「おまえは気づいていよう。彼の者、エギルの持つ生石の持つ、嫌われ、怯えられ、疎まれ、拒絶される特性についてな。それなのに、どうしておまえは奴を守ろうとする。守ろうとすることが出来る」
これまでエギルと接していく中、彼に恐怖を感じたことは一つや二つではない。いくつも、どんな時でさえ、イングナルはエギルに恐怖していた。ただの村人でありながら、生石を用いた賊を圧倒する技術。生石を手に、イングナルでさえこうして手も足も出ない相手に対し打ち勝ったエギルの姿に、寝る間も惜しんで特訓をせねばならなくなる程の焦燥感に駆られることすらあった。
「……そんなことは、今更だ」
自嘲するように、イングナルは笑った。戦いの場でありながら、自分の浅ましさと矮小さを、嘲笑うように。
「そうだ。俺はずっと、エギルが恐かった。当たり前だ。そんなの、当たり前だろう」
長槍を握る手に込められた力は、決して怒りや苦しみから生まれたものではなくて。
「好きな女が、命を賭して守ろうとしている男なんだ。恐くて、憎くて当然だろう」
戦いの場に相応しくない、呆けた雰囲気が滞留した。
「……ほぉ。好きな女……好きな女ときたか。くっ、ハッ、ハッハッハッハッハッハ!!」
今度こそ完全に破顔したバルサルクは、腹を抱えて笑い出す。あまりにも豪快な爆笑で、持った大剣を落としてしまいそうな程全力で笑っていた。
「なるほど! それは確かに死ぬことは出来んな! 愛に生きようともすれば、命が惜しくなるのも当然だろうて。納得した!」
「……それなら、早いところ始めようか」
確実に、今の手の震えは怒りから生まれたものだろう。
「ふむ、愛か。だからこそ、おまえはその生石と適応したのかもしれぬな。そして、更に先を行けるかもしれん」
イングナルがその意味深な言葉の真意を問い返す前に、騎士団長は大剣を高く、構える。そのまま振り下ろすだけで、あの大剣は衝撃だけで敵を圧倒出来る、立派な飛び道具となるのだから。
「儂に見せてみよ。おまえが、そして、王の元に辿り着いている者達が、神と手を取り合うことで、どこまでの高みに至れるか。すでに道を外れ、夢想するしかない儂に、その頂を見せてみよ」
それが見たいから、ここに在るのだ。
大剣が、振り下ろされる。
*
エギルの持つ剣が及ぼす効果範囲が広がっていることは、シルファの目から見ても明らかだった。
「エギル……」
今まで、エギルの持つ剣の刃が触れる刹那、触れることを嫌がり、避けるように裂けていた数々の物体。それが今では、触れるどころか近づくことすら拒絶されるようだ。直前ではなく、近辺。それも、剣を振るう度にその距離は増していき、その上刀身やエギルの肉体にも影響が出始めている。
(エギルの髪……もうあんなに灰色に)
エギルの白髪は今では目に見えて濁り始め、今では灰色と称しても一切過言ではない程にまで変色していた。
「……埒が明かぬ」
王がそう口にした瞬間、屋上が崩れ落ちる。
「っ!」
意図的な崩落。大量の瓦礫が降り注ぐかと思いきや、瓦礫は落ちながらその形を変え、水流の如く謁見の間の中央にて剣を振るっていたエギルへと叩きつけられる。
「エギルッ!」
衝撃に耐え切れなくなった床石が崩れ、エギルのいた位置に大穴が開けられる。その穴へと向けて次々と岩が流れ込んでいき、岩と岩が削りあう雑音が響き渡る。
……その耳障りな雑音を止めたのは、他ならぬエギルだった。
「……まったく、貴様の生石はいったいなんなのだ」
全て岩で構成された濁流によって階下に追いやられたエギルは、そのまま濁流を切り開いて脱出。そして階下の壁面に剣を走らせ足場を作り、それを利用して玉座の背後へと、床を切り分け現われた。
「……答える必要はない」
すでにエギルは剣を振りかぶっていた。このまま剣を薙ぐだけで王は玉座ごと切り分けられる。詰みの状況でありながら、王はその不適な態度を一切崩さない。
「それで予を討ち取ったつもりか?」
「……死にたくないなら、生石を手放してください」
同調者であろうとも、その本質である生石を手放しては能力を行使出来ない。
「一思いに殺せばよかろうに。それとも、それ程までに凄まじい力を持った生石を持ちながら、殺生は恐ろしいか?」
「っ!」
殺しはしないが、片腕を絶つ。相手を傷つけるという覚悟を決め、エギルは剣を振り下ろす。が。
キィン!
振り下ろされた刃が、甲高い音を立てて止められる。
「なっ……?」
見えない壁に阻まれているような感覚がエギルを襲う。その見えない壁は、玉座を囲むように描かれた紋様から出てきているように見えて。
「防護陣……!? エギル、逃げてっ!」
見覚えのある陣の形にシルファが声を上げる。咄嗟に横に跳ねるエギルの肩を、背後から今まで幾つも切り裂いてきた岩の槍が貫いた。
「ぐぁっ……!」
呻きながらも剣で払い、槍を瓦解させる。だが貫かれた衝撃までは殺しきれず、エギルは玉座から謁見の間の中央まで一気に吹き飛ばされ、床を転がっていく。肩から舞った血飛沫が、乱雑した瓦礫へと降りかかった。
「万物に拒絶される生石、だったか。その異名も誤りであったようだな」
愉快そうに顔を歪めながら、王が笑う。エギルは貫かれた肩に手を当て、治癒呪術を施そうとするが、その隙すら与えず間断なく岩の槍や大剣、大槌が振り下ろされる。傷を負ったまま跳ねるように何とか避け、シルファがリヴを抱えている謁見の間の入り口まで後退する。
「どうやら治癒呪術も使えるようらしいな。まったく、貴様の持つ生石の正体がさっぱりわからぬ。神ではなく神器の類なのであろうが、そのような神器に覚えがない」
(神では、ない……?)
王の放った言葉に違和感を持ったのは、エギルだけではなかった。シルファも同様に顔をしかめて疑念を懐いている。
(そういえば、どうしてさっきからフェヴニルは何も言わないんだ?)
「さて、そろそろ茶番も飽いた。貴様らも、充分歯向かえただろう」
岩の水流が、今まで戦いに加わることなくリヴを抱えていたシルファへと襲い掛かる。即座に反応したエギルの剣が一閃する、が。
「―――くっ」
最初から断絶されることを視野に入れていたのだろう。分かたれた岩の水流はすぐに元の流れを取り戻し。
「リヴッ!」
馬上にいたシルファの腕から、反転の女神を奪い取る。抵抗しようにも、シルファには単身で岩の水流に歯向かう力はない。岩は形を変え、リヴを抱える腕のような形を成して王の元へと帰っていく。
「―――っ!」
エギルが疾走しながら剣を素早く薙いでいく。だが、大量の岩で形成された武具が壁の如く立ち塞がる。上下左右どの方向からも襲い来る岩の凶器を、フェヴニルの力を用いて薙ぎ払っていくが、前に進めない。捕らわれ、王の元へと届けられるリヴには届かない。
「一度は取り返せたものを……残念だったな」
「……ごめん、油断した」
歯噛みするシルファに対し、慰めの言葉をかけるだけの余裕もない。同じようにエギルも玉座の傍に横たわる少女の姿を見て、唇を強く噛み締めた。
「予の防護陣の性能は試せた。これならば、女神の反転も受け止められるだろう」
「やめろっ! 今のリヴに、反転させるだけの力はないんだ!」
「何故そのようなことを貴様が知っている? 予を惑わすための妄言にしか聞こえぬぞ」
聞く耳を持たない王には、実力行使しか対応出来はしない。王が口を開くよりも早く岩の凶器の壁を断ち分け、辿り着こうと足を踏み出す前に。
「―――なっ」
巨大な、大砲の如き嘶きを上げて神馬が玉座までの道を駆け抜けた。
耳を劈く破砕音に、飛び散る瓦礫。
そして、飛び散る多量の鮮血。
「……返してもらうわよ」
大量に待ち構えた凶器に飛び込み、破砕していったスーリフの肉体は無惨とも言うべき様相だった。肉が裂け、抉られ、肉体の至るところから血が溢れる。馬上の騎手であったシルファも同様に、無数の裂傷を体に刻まれている。
だが、届いた。
「この子は、エギルの大切な人なんだから」
彼女の手は、確かにリヴへと届き、抱きかかえることが出来ていた。
「―――この蟻がぁっ!」
激昂と共に放たれた岩の槍が、深々と退散しようとするスーリフの横腹へと突き刺さる。
そして。
「シルファ!!」
積み上げられた瓦礫を破砕する程の勢いで、謁見の間の中央へと突き飛ばされる。だがそれでも、シルファの手はリヴを抱えて離さない。馬上から振り落とされ、地面を転がり続けようとも。傷から血が飛び散ろうとも。決して、シルファは腕に抱えた存在を手放さなかった。
エギルがシルファの名を叫びながら駆け寄る。邪魔をする瓦礫は全て薙ぎ払い、倒れ伏す彼女の元へと一直線に走った。
「シルファ! ねぇ、シルファ!」
「……そんな叫ばなくたって、聞こえてるわよ」
いつものような口調。だが負わされた傷の数々は、決して、看過出来るようなものではなく。
「待ってて! 今治すから―――」
「いいから……ほら、ちゃんと取り戻して来たから……」
そう、優しげに笑って。シルファは腕に抱えていた存在をエギルに見せる。
「どうして、そこまでして……」
「……あんたが……あんたが守るって、決めた子なんでしょ……?」
血に濡れた頬を歪めて、笑う。
「なら……守るわよ。あたしが守るって決めた子が、守ってる子なんだから……当然でしょ……?」
年は変わらないくせに、昔から、まるでお姉さんのような立ち振る舞いで。
「ほら……しっかり守りなさい……」
エギルはその言葉に頷くように、シルファの腕に抱えられていた存在を、掻き抱くように受け取る。
「……エ、ギル……?」
腕に抱かれた存在、リヴがゆっくりと目を開き、エギルの名を呼ぶ。
「……うん、そうだよ」
「あのね……すっごく、体が重いの」
「……うん」
誰の責任だ。王か、自分か。原因は、確かに王でも。
守ると、決して傷つけさせないと決めたのは、誰だった。
「なんかね……懐かしいんだぁ……前にも、こんな気持ちになったことある……」
苦しくとも、リヴは笑っていた。どこか儚げに、決して、子どもが浮かべるような笑顔ではなく。
「もう……こんな気持ちになりたくなかったなぁ……」
何かを耐えるような。耐えて、耐えて、耐えて。その苦労や苦痛を、相手に悟らせないための、悲しい、優しい笑顔。
ドクン、と。左手の存在が脈動した気がした。脈動は続き、強く、熱く震える。それに呼応するように、エギルの周囲に浮かび上がる、黒い紋様。
黒く、暗く。複雑に描かれた古代の意志。それは、エギル自身の意志でもあった。
「……フェヴニル」
名を呼ぶ。友は答えない。それでも少年は言葉を紡ぐ。描かれる意志を読み、詠う。
それは、紛れもない強い想い。
そして、詠唱だった。
―――僕は、何もない人間だったんだ。
生石は、適応者を選ぶ。それは時に生き方であったり、思想であったり、見た目であったり。相似性さえあれば、神は人を受け入れてきた。
だが、何よりも。何よりも深く結びつくのは、人の決意。人の想い。
人が懐く、魂の形。
脈動は続く。左手の中から。そして、少年の心臓から。
―――何もないから、何かが欲しかった。手に入れたとき、それを手放したくなかった。
脈動は呼応だった。相槌でもあり、力強い首肯でもあった。
―――大切なものが、欲しかった。
立ち上がる。少年が見下ろすのは、血に塗れた友人と、悲しげに笑う少女。
―――欲しくて、欲しがって、何もない僕でも、大切なものが出来た。
それは者だけではなく、たくさんの物も含まれ。どれもが等しく大切で、どれも、手放すことなど考えたくもなくて。
何もない自分だからこそ、手に入れたものは大切にしたい。何もない自分だからこそ、受け入れてくれた人を大切にしたい。
そんな、当たり前の感情。
握り締めた右手には、今は何もない。けど、この手は確かに。少ないけれど、誰かと繋がったこともあって。
その温もりを、たとえ手放すことになろうとも。
―――その大切なものが、いつまでも笑って、幸せでいられる世界が創れるなら。
その温もりに、二度と触れることが出来なくても。
―――僕はそこにいなくていい。
「リコール! フェヴニル!!」
恐怖が、吹き荒れる。
誰もが息を飲む程の、強烈な寒気と怖気。身も凍らせる恐怖が、謁見の間を駆け巡る。大気すら逃げ惑い、風が舞う。
次いで、エギルの左手の剣が黒く染まる。黒く、暗く。白という無垢の欠片もなく、ただ一片の曇りもない暗闇を宿す。増していく怖気。ついには、エギルの左手の服の袖すら、繊維を分解して弾け飛ぶ。尚黒く、暗く変じていく。白かった髪は灰色を過ぎ、漆黒へと変わる。瞳すら、黒く、暗く。
純白は、漆黒へ。その在り様を「反転」する。
「あ……あ、ああ……」
傍で横になるシルファにも、その恐怖は向けられる。身が竦む程の怖気。もし体に傷などなく、逃げられるだけのまともな肉体さえあればすぐにでも走り出してもおかしくない程に。
(どう、して……なんであたしが、エギルから逃げるのよ……!)
そんな、自分の中で矛盾した感情に憤りを感じる。そして、その憤りすら、目の前に少年にぶつけたくなる。
怖気だけではなく、怒りも、憎しみも。どうしてか、目の前の少年から生まれているような錯覚。
「フェヴ、ニル……?」
リヴの呟きに、少年は答えない。ただ黒く暗く染まった瞳を向けるだけで、口を開こうとはしない。無言のまま、シルファの傍で膝を着いた。
「ひっ……!」
(……今の、あたしの声?)
怯えた声が漏れてから、ようやくシルファは、自分が恐怖に負けて息を飲んだことに気づく。
「違うっ、違うの、全然、恐くなんてなくて、全然、そんなことなくて……」
口にする言葉の至るところに、恐怖で引きつった箇所がある。嘘など口にしてないはずなのに。エギルを恐がることなど、おかしいのに。
少年は、その言葉に何も反応を解さず、無言で右手を伸ばす。
「ぁ、ぁあ……!」
身が引きつる。声が裏返る。鳥肌が全身を覆い、震えが止まらない。守ると誓った少年に対し、どうしてこんなに怯えているのか。シルファには理解出来ない恐怖が、あまりにも腹立たしく、悔しい。
「だ、誰……!?」
その問いに、少年は答えない。ただ黙って、シルファの体に手をかざす。そして、力を行使する。
「あ……」
傷跡は、なくなっていた。残ったのは血の跡だけ。少年は立ち上がり、シルファから離れる。そして、リヴの頭を、その右手でゆっくりと撫でた。
その動作はまるで、見知った友人の動作に似ていて。
「い、行かないで……!」
恐怖は止まない。それでも、シルファは声を上げる。
「行かないで! あんたは戦わなくていいっ! あんたが無理しないために、あたしたちはこれまで頑張ってきたの! 泣き虫のあんたが、これ以上泣かないようにって、あたしとイングナルは頑張ってきたのよ!!」
声が引きつる。まだ寒気も怖気も引かず、体の震えも止まらない。それでも、シルファは震える両足を叩いてでも、立ち上がる。いつまでも震える体を、腕に爪を立てて皮を破こうとも止まらせる。
目の前の存在が、誰なのかわからない。けど、その姿は、やっぱりこれまでずっと守ろうと心に誓った彼にしか見えなくて。
「……ありがとう。すごく、嬉しい」
振り返り、痛みと恐怖を堪えるシルファの姿を見て、少年が笑う。
「だから、君たちを守りたいんだ」
その姿は、黒く暗く染められた容貌にも関わらず、紛れもなくあの少年だった。
「エ、ギル……?」
「それじゃあ、いってくるね」
少年は笑ってそう言い、リヴの頭をまた撫でた。リヴは目を細めて、髪に指が滑る感覚に顔を綻ばす。
「……うん、いってらっしゃい」
その言葉の応酬は、かつて、辛く厳しくも平穏だった小屋で繰り広げられた一幕にも似ていて。
「……さて、覚悟はいいか。王よ」
身を翻し、王のへと向き直った少年の口調は、どこまでも尊大で。
「私を蟻と称するとは、随分と恐れ知らずになったものだな。いつからおまえは、私を前にして玉座にふんぞり返っていられるだけの胆力を身につけた」
相対する敵の突然の変化に、王は狼狽する。エギルの言動は、最早これまでの少年からはかけ離れた、別の何か。
「何を、何を言っておる……? 貴様は何者だ!? 王の御前で、その態度は何様のつもりだ」
「……やはり、な」
目を閉じた少年から、より気迫が強くなる。いつしか王は、玉座に置いた自分の手が震えていることに、ようやく気づく。
「おまえは、同調などしていない」
「なっ……」
「ただの人間の王が、たまたま神の王と適応しただけで、そのものに成り代わったと錯覚しているだけだ。だからこそ、私に無様に怯えるし、再度反転を起こすなどと、あの王なら思いつきもしない下賎な考えに至る」
恐怖から、怒りへ。王が眼前の少年に向ける感情は変化する。
「戯言をっ! 予は王だ! 神代の時代を築いた神の王に違いない! 貴様こそ何様のつもりだっ! 神の王に対しその無礼の数々、万死に値するぞっ!!」
「……そもそも私に何者かと問う時点で、おまえが同調していない何よりの証拠となるというのに。まぁいい。自己紹介は済ませてしまおう」
一歩、少年が前に出る。それだけで、謁見の間を構成する生石は怯え、震える。
「私の名はフェヴニル。表舞台には好んで出てはいないが、神代の時代を支えた呪術師だ。通り名などはないが、『神代の魔女』、などと恐れられたがな」
「……魔、女?」
シルファの呟きが聞こえたのか、フェヴニルはクスリと笑う。
「だからまぁ、何様だという質問に答えるならば、こう答えよう。『女神様』だ、とな」
「女神、だと……?」
王の呆然とした呟きに、再度フェヴニルはクスリと笑った。そうして口を開くと音の響きがまるで違う、本当に少年のような声が聞こえる。
「……だから、君と僕は同調出来なかったんだね」
「まぁ、そういうわけだな」
生き方も、決意も、魂の形も。全てエギルとフェヴニルは相似していた。にも関わらず、決定的に違う部分があった。
それは、性別。男か、女か。明確に分かたれた性差が、二人を同調させることなく、同じ肉体を解し、二つの人格が内在するという状況下を作り出した。
肉体は一つであろうとも、二つの精神が混同している。一つの家屋に同居しているようなもの。その在り様は、決して単一ではない。
「一応、おまえが本当に同調している可能性も考え、あまり表に出ないようにはしていたが、それも杞憂だったようだな。おまえはただの、たまたま神王と符合する点があった人間でしかなかった」
玉座に座り込む勘違いの道化に向けて、魔女は淡々と告げる。
「おまえの言葉を借りれば、なんだったか……そう、『蟻の王』だ」
「き、貴様ぁぁぁぁっっ!!」
最大級の侮蔑を受け、王の力が縦横無尽に展開される。ありとあらゆる方向から射出される岩の凶器。その切っ先は、全て謁見の間の中央に立つ無礼者に向けられていた。
「ほらエギル、おまえの出番だ」
「え? はっ?」
凛とした佇まいから一転、あどけない顔立ちへと変わった少年が慌てて剣を振るい、凶器の波を断つことで生まれた空間へと体を滑らせた。耳を劈く破砕音を立てて、岩の凶器は粉砕する。
「剣を扱うのはおまえだ。私は剣など一度も持ったことがないからな」
「そういうことはもう少し早く言おうよ!」
同じ声でありながら違う口調。だが、発する大本は同じであるため、傍から見れば一人二役の滑稽な芸にしか見えない。だがそれでも、エギルから感じられる恐怖も、怒りも、負の感情と称される全ての感情は次々と生まれ、王とシルファは身震いが止まらない。
「まぁ、こういうことなら出来るがな」
エギルの右手が、エギルの意志ではなく勝手に振るわれる。その軌道には複雑な紋様が生まれる。
―――灼熱。
呟かれた詠唱は、ただの一節。
「なっ」
だが、その一節の詠唱によって生まれでた火球は優に玉座をまるごと包み込める程に、王からは生み出した術者本人の姿も見えない程に、巨大。
「嘘……」
そのあまりの巨大さに、シルファは思わず声を上げる。
炎の古代呪使いの数は多い。戦闘以外にも用途は多く、もちろん戦闘においてもその威力は絶大である。だがそれでも、たった一節の詠唱だけでここまで巨大な火球を生み出す術者など存在しない。
神代の魔女、フェヴニル。その力の一端を知ったその瞬間、またしても体に付き纏う恐怖の色合いは濃くなる。
「しっかり防げよ。焼け死にたくなければな」
その巨大な火球は、ただ右手を振るうだけで放たれた。轟音を上げて近づく火球は、防護陣に守られた王には本来ならば恐れるに足らないもの。
「ひ、あぁっ!」
だがそれでも、王は力を行使して防がずにはいられなかった。何重にも重ねられた岩の壁を玉座の前に展開し、火球を防ぐ。爆音が轟き、散った熱波と火の粉が舞うのが壁の脇から見えて王は嘆息を零す。
が、音もなくその岩の壁が切り開かれたその瞬間、吐いた息をすぐに飲んだ。
「っ!」
音もない気合と共に、エギルは剣を振るう。刃が走ったのは、玉座を囲むように描かれた陣。複雑な術式によって構成された、拒絶する防護陣。
それに、守られていたものはなんだったのか。
「これで、あなたを守るものは何もない」
ただ剣を振り下ろせば当たる。それ程までに近しい位置に、エギルは王に肉薄している。故に、王が感じる恐怖は、すでに正気を保ってはいられない程に濃く、篤い。
「あ、ああああぁぁっっ!!」
形成された何かではない、ただの岩が城の至るところより王の元へと集積されていく。大気が唸りを上げ吹き荒れ、肌が粟立つ程の力。その力の奔流の中心である王の傍に立つエギルは、即座にその身を引いた。
「な、何が……」
「寄るなっ、寄るなっ、寄るなぁっ!! 予の傍に近寄るなぁぁっっ!!」
謁見の間を構成していた生石だけではない。城を構成していた全ての生石が、王の元へと集積されていく。天上も、壁も、床も。ありとあらゆる城を構成する要素がただの岩塊となり王へと集まる。
「……頑固で、一度決めると人の話を聞こうとしないところも適応していた、か。おい、リヴを連れて下に行け」
「っ!」
声をかけられたこと事態がおぞましく思いつつも、シルファはリヴを抱えて走り出す。その間にエギルは剣の切っ先を円状に走らせ、巨大な穴を作り出した。その穴から繰り返し、降りていく。そうして、全ての生石が王の元へと集積された。
「何……あれ」
シルファが呆然として、上を見上げる。城の形はすでになく、城があった土地にはただ平野だけが広がり。
その平野に立つ、目を疑う程に高く聳える「巨人」の姿があった。
雲にすら届きかねない。高く、遠く形成された巨大な建造物。
「中途半端な、根っこ以外の表面的な部分だけの適応のくせに、中々じゃないか、蟻の王」
冷静に愚弄するフェヴニルへと、巨人の足が振り下ろされる。
「エギル。頼んだぞ」
「っ!」
左手に握り締めた剣を振りかざし、エギルはその巨大な岩の塊を受けた。
大地を砕きかねない程の振動が起こる。だが、それでもエギルには届かない。巨人の足が地面に届くまでに、剣を振るいただの岩塊へと分解し、すでに場所を移動し離脱。だが、いくら分解しようとも、岩塊はすぐに元の位置へと帰っていく。そしてまた形成された足を振り下ろす。
「っ、きりがない……」
分断させようが、燃やし尽くそうが、岩塊は止まらない。粉々にしようとも生石は即座に収束し、元の形へと戻ってしまう。
「……大本を断たねば終わらないな」
そう言い、王の座る玉座が収められて入るであろう巨人の胸、心臓部分を睨む。
「おそらくあの玉座が奴の生石だろう。あれさえ破壊出来れば、この巨人も瓦解する」
見上げる程の巨体。そしてその心臓部分。人としての高さしかないエギルには、それこそ天に届こうとしなければ届かない程の、高み。
「……駆け上るしかないかな」
「落ちたとして、衝撃を和らげることは出来る。恐れず行け」
「あ、やっぱり動くのは僕なんだ……」
「ま、待ちなさいよっ」
一人の人間から発せられる一つの声による会話。珍妙に繰り広げられる意思疎通にシルファはようやく、尚も降りかかる恐怖の圧力に耐えながら声を上げる。
「……待ったところで、今のおまえに何が出来る」
フェヴニルの意識が前面に出ている。そのため、顔も瞳も全てエギルのものだというのに、その視線は恐ろしく冷たく、恐い。
「ここから先は、神代の戦いだ。地を走る馬を駆るだけしか出来ないおまえが、いったいこの先でどう戦える」
「それは―――」
シルファが言葉を吐き終えるよりも前に、それを断ち切るように落とされた巨人の足。だが、その巨岩ですら、エギルの持つ剣によって届かない。断ち切られ、分断され、触れることを恐れて自壊していく。
「これに立ち向かえるのか?」
「それ、は……」
「……シルファには、リヴを守っていてもらいたいんだ。お願いして、いいかな?」
頼まれているはずなのに、今のシルファには脅迫されているようにすら感じられた。恐れが消えない。相対するだけで冷や汗が止まらず、断ったその瞬間、自分の体が分かたれているかのような錯覚すら覚える。そんなことはありえないと理解していながらも、肌が粟立つことを止められない。
(なんで、あたしは……!)
イングナルと交わした決意。エギルを守るための数年間。その全てが、神の威光の前ではなかったこととされていく。力が足りずとも、否定し、矢面に立つことすら覚悟していた。だが、それでもシルファは地に着いた両手を伸ばすことが出来なかった。立ち上がり、守ろうとしていた対象に近づくことも出来ない。
唇を噛んで、頼まれた少女を抱え、戦いに赴く少年を見送ることしか出来ない。
「エ、ギル……?」
リヴが薄っすらと目を開き、目の前の少年の名前を呼ぶ。
「……うん、そうだよ」
「それと……フェヴニルもいる……?」
「……ああ」
声色は然程変わらない。だが、それでもリヴには目の前にいる者が誰なのか、はっきりとわかった。
顔色は依然として変わらない。それでも、リヴは笑う。苦しくとも、辛くとも、今感じる幸せを笑顔で表す。
「ボク、がんばったよね……がんばって、辛いけど、反転したんだよ」
「ああ、知っている。おまえはよくやってくれた」
「もう……がんばらなくても、いいの……?」
「……うん」
交互に、フェヴニルとエギルは答える。人格は違えど、その想いに違いはない。
「もう、君が辛い思いをする必要なんてないから」
「だから、ここで待っていろ」
優しさの込められた言葉を受け、リヴはもう一度目を瞑る。それを見届けて、少年は立ち上がる。渦巻く怖気が増す。
「それじゃあ、頼んだよ、シルファ」
全てに嫌われた少年は、それでも笑顔を崩さずに、自分に怯えるシルファに向けて言い、駆け出した。
「っ……」
その想いに答えられない自分が、何よりも情けなかった。
震えて立ち上がれない足が、憎たらしかった。
ただシルファは、唇を噛み締めて、体を休める少女を抱き締める。
(……足が欲しい。あいつにまで届くための、足が)
未だ無様に震える足を見て、シルファは願う。
手から離れ、ただの小石と成り果てたスーリフの、劈くような嘶きが聞こえた。
*
長槍と大剣がぶつかり合う余波で、土で出来た天上からパラパラと砂粒が落ちてくる。
「ふむ……ここも、いつか崩れかねないな」
肩で息をするイングナルとは対称的に、バルサルクは平然としている。すでに打ち合いは百を優に超え、イングナルの手は限界を超えていた。何度武器を取りこぼそうとしたかわからない上に、指の感覚はない。動かそうにも、神経が麻痺しているのか動く気配すらなかった。
だがそれでも、イングナルは長槍を構え続ける。
「……いくつか、聞きたいことがある」
「なんだ、今更命乞いでもするのか?」
「村を襲った賊、あれを派遣させたのは貴様だな?」
「……なぜそう思う」
「タイミングが良過ぎる。熟練の古代呪使いがいたこともそうだが、小屋に火を点けたことにも違和感がある」
バルサルクの目を見据えながら、イングナルは言葉を続ける。
「ただ女神を奪うだけなら、小屋に火を点ける必要などなかった。それなのに小屋に火を点けたのは、俺たちに賊の存在を気づかせ、討伐に向かわせるためだ。ただ逃げ切るだけではなく、王国騎士が敗北する事実を作り出すために。そして、俺たちが賊に敗れることに期待した。そうすればおまえの背信ではなく、俺たちの力量不足故の任務失敗となる。大方、おまえは賊に対しこう伝言させたのではないか? 『食料ついでに、見目麗しい少女もいるぞ』、と」
「……ふむ。まぁ、概ねその通りだ」
「だが誤算があった。まさか、俺たち以外にも、生石を持った賊に対抗出来る人間がいるとは思わなかった」
「……今となっては、嬉しい誤算となったがな」
「他にもある。街で倒れていた街人全員を、家々へと運んだのも貴様だな」
「何故そう思う」
「貴様以外に、一晩で街の人間全てを運び終える奴などいない。そして、城にいた人間全てもだ」
「……聞きたいことはそれで終わりか?」
「王の命令に従うことは、本当に貴様が望んでいることなのか?」
その問いに、バルサルクは即答することが出来なかった。そしてそれは、イングナルが聞きたかった、答えの証明でもある。
「……やはり、あなたは最高の騎士だ」
イングナルの言葉に、敬意が戻る。
「これが最後の質問です。この時のために、あなたは他の騎士たちを育て上げた。自分を止められる、王を止められる騎士を求めた……違いますか?」
「……だとしたらどうだというのだ」
騎士団長の双眸が細められる。そして、向けられる敵意も、殺意も、より鋭利に、凄味を増していく。
「だからといって、儂は手心など加えぬぞ。超えられぬのならば意味がないのだからな」
イングナルも同様に、手に持った武具に力を込める。が、五指に感覚などなく、力が込められているのかすらわからない。度重なる衝撃により腕の感覚すら消失し、自分でもどうして長槍を持てているのかすらわからなかった。
イングナルは、自身の役目が今この場で目の前の武人の足止めであることはわかっている。勝つことなど考えなくてもいい。ただ、負けなければいいのだ。
(……だが、それでいいのか?)
自問の答えは、すぐには出てこない。どちらにせよ、このままでは押し切られることがはっきりとしている。耐えなければならない。耐えうるだけの力がなければならない。
すでに痺れきり、満足にも動かせない腕で、どれだけ太刀打ち出来るというのか。
「っ!」
瞬時に肉薄してきたバルサルクの大剣を、イングナルは咄嗟に、反射に近い速度で受け止める。衝撃を吸収。そして、そのまま相手へと突き返す。バルサルクの大剣が押し返される。それだけの威力を返した故の反動が、イングナルの腕と指に襲い掛かる。
「くっ……」
遂に、イングナルの手から長槍が零れ落ちた。音を立てて地に落ちた長槍は、すぐに形をなくしただの小石へと変じてしまう。
「……どうやら限界らしいな。イングナルよ」
口では肯定せずとも、騎士が武器を手放してしまうこと自体が何よりも雄弁だった。バルサルクを睨みつける眼光は鋭くとも、すでにイングナルの両腕に力は入らない。
「儂の剣が折れるか、お主の腕が耐え切れずに終わるか。勝敗を決するのはそのどちらかとは思っていたが……まぁ、これも仕方あるまいか」
バルサルクの持つ大剣も、限界は近かった。神造の武具と、人造の武具の違いは天と地の差がある。それでもバルサルクの大剣が打ち勝った理由は、バルサルクの放つ拳そのものが充分に凶器と成り得ていたからである。その恐るべき威力を持って放たれる攻撃を、イングナルは自身の長槍を持って受けきった。
そして訪れた、限界。
「さぁ……ここいらで終いとするか。一人の雄々しき騎士よ」
バルサルクの大剣が上段に構えられる。対して、イングナルはその脅威を受け止めるものは自身の肉体以外にはない。
バルサルクの足が床を踏み砕く勢いで踏み出される瞬間。
上の方で何かが、巨大な何かが踏み立ったような音と衝撃が、地下へと響き渡った。
「むっ」
(うご……けっ)
光の乏しい地下に砂埃が舞う。地鳴りは大きく、近い。その衝撃を警戒したバルサルクが特攻を止めた瞬間を衝き、イングナルは地に転がった生石を掴み取る。
「……王はだいぶ追い詰められているようだ」
「加勢に行かなくていいのですか、騎士団長」
「なぁに、満身創痍の騎士一人を片付けた後でも、充分間に合おう」
イングナルの手の震えを一瞥して、バルサルクは自信ありげに告げる。現にイングナルの指には力など感じられず、今にも生石が零れ落ちそうだった。
「もう限界だな、イングナルよ。闘志は枯れてはいないようだが、それに体がついていかない。そうだろう?」
「……だからといって、ここで負けを認めるわけにはいかない」
「……それも、愛故か」
「それだけじゃあ、ない……!」
答えるも、腕に力は入らない。闘志は消えず、未だ燃え盛っている。だが、神器を扱おうにも、肉体は人間に過ぎない。長槍を顕現させようともすでにそれを振るうだけの腕力など残っていなかった。
(こんな、ところで……本当に終わっていいのか……?)
今度こそ、イングナルは自問に対し否と答える。いいわけがない。今も尚、戦いを続ける者がいるというのに。
(まだ、あいつらは戦ってるというのに……俺だけが、ここで負けるわけにはいかない……!)
震える腕を上げ、生石を掲げる。
(手が欲しい……!)
限界を迎えて尚、自身の手を酷使する。
(神器を扱える手が、この場を制するための手が。あいつに、あいつらに届くための、手が欲しい……!)
似たような願いを、強く望んだ者がいた。
「スーリフ……?」
その願いを、受け止めようとする何かがいた。
シルファの傍に転がる生石が、淡く光り出す。
「……グリンスブル」
同様に、イングナルが手にする生石も輝き出す。
「……うん。わかった」
頷き、シルファは片手を伸ばし、ただの小石と化した愛馬を手に取る。
「……そうだったな」
イングナルは手に収めた愛器を、更に強く握り締める。浮かび上がる紋様。それに目を向けずとも、何が書かれているのか理解出来ていた。
時を同じくして、二人は口を開く。
―――守ると誓った者がいる。
それは、二人のよく知る言語ではない。それでも、どこからか湧き出てくる言葉を口にしていく。
―――そのために生きてきた、そのために抗ってきた。
同じ決意。同じ想い。そこに辿り着くまでの道程は違えど、想いは、変わらない。
―――その誓いに届かないのならば、その虚しさすら受け入れよう。
神代の争いに、人の身として抗うこと。
―――全ての矜持を投げ捨て、その誓いを果たすため、ただ一つ願う。
天上の戦いに赴くあいつの、少しでも助けになるために。
―――この身に、彼の者に届くための騎士の誇りを!
生石が光を放つ。目が眩む程の輝きであろうと、二人の騎士は目を逸らすことなく、燦然と輝く生石を見つめる。
光は収束し、形を成す。生石の顕現。神代の神器、その具現。
人の手に余る奇跡が、イングナルの手に、シルファの目の前に現れる。
「スー……リフ?」
神馬スーリフは適応者へと向けて嘶く。大気を震わす振動も、その巨体も依然変わりない。だが、シルファには理解出来ていた。目の前の愛馬は、今までのスーリフではないことを。
「グリンスブル……」
同様にイングナルも、手に持つ長槍から今までとは違う力の胎動を感じていた。施された文様も、形も変わらない。だが、違う。握り締めた手のひらから伝わる、今までにない力の形。その、使い方。言語化されるわけでもなく、直接それを識り得ていく。
「シルファ……?」
リヴが薄っすらと目を開き、愛馬を撫でるシルファを見て呟く。
「待っててね。ちょっと、行ってくる」
「……ううん、ボクも、連れて行って」
力の滞留に苦しみつつも、リヴがその身を起こし、立ち上がる。ふらつきながらも、瞳に揺らめきはない。
「よく覚えてないけど……ボクが、何かしちゃったんだよね? ボクが何かしちゃったから、こんなことになってるんだよね……?」
「……そうね」
リヴに非があるわけではない。だが、シルファはリヴの言葉を否定しなかった。目の前の少女が、否定を望んでいるようには見えなかった。
「なら、ボクも何かしたい。もう、フェヴニルに置いてかれるのはやだ……エギルと、離れたくないよ……」
「それなら、一緒に行こっか」
シルファはリヴを抱きかかえ、スーリフに跨る。手綱も鞍もない馬上でありながら、絶対に振り落とされることなどないかのように思える安心感が、柔らかな毛並みから伝わってくる。
「……いいの?」
「いいに決まってるでしょ。あいつの傍にいたいって子は、いつだって大歓迎なんだから」
そういうものを守ろうとして、手に入れた力なのだから。
「……さぁ、行くわよ」
シルファの言葉に呼応するように、スーリフが嘶きを上げる。大地を踏みつける蹄から、『灰色の炎』が巻き上がる。
それこそが、シルファがエギルの傍に行くために望んだ『足』だった。
そして、『手』を望んだイングナルは、長槍を振りかぶる。
「……それが、望んだ力か?」
「ああ。あなたを、超えるための力だ」
そう言い放ち、イングナルは長槍を『投げつけた』。
「っ!」
適応者の手から離れた瞬間力を失うはずの神器。だが、その長槍は空気を切り裂き、唸りを上げてバルサルクへと向かう。
バルサルクが構えた大剣の腹に、長槍の刃が突き立てられる。そして、浮かび上がる紋様。
長槍の紋様は更に輝きを増し、衝撃を『再現』する。
「ぬぅ!」
バルサルクは即座に大剣を逸らし、威力の増す長槍の一撃を受け流す。そのまま後方へと飛んでいく長槍。
その長槍が、空中でピタリと静止することなど、バルサルクは予想出来なかった。
「――っ!」
長槍が反転し、切っ先をバルサルクへと向ける。そして、再度唸りを上げてバルサルクの腕へと突き立てられた。
「ぬぅっ!」
刃が深く食い込み、血飛沫を上げる。即座にバルサルクは長槍を掴みかかるが、それよりも早く、長槍は独りでに抜き去られ、持ち主の下へと帰っていく。
「……遠隔操作か」
手を触れずとも意志だけで扱えることが可能となった長槍は、反作用の衝撃を受けることはない。満足に武器を振るう腕がなくとも、神器グリンスブルはイングナルの意志を読み取り、『再現』する。
「……これで、ようやく対等だ」
「早まるなよ小僧。壁を越えたところで、それを扱える技量がお主にはあるのか?」
「……今、この場をもって学ばせていただく」
伸ばす『手』を携えて、イングナルは神に逆らう。
長槍が、放たれた。
*
独りで戦っている。そんな感覚は、もうエギルの中に存在しなかった。
「大丈夫か、エギル」
「うん。問題ないよ」
すでに何度振るわれたかわからない剣を、再度振るう。それだけで、巨人の拳は真っ二つに分断される。伸ばされた腕に飛び移り、斜面を駆けるエギルに無数の岩の凶器が襲い掛かる。だが、その全てはエギルに届くことはない。
最早、エギルの身は人の器ではなかった。神を同じ肉体に宿すことにより飛躍的に向上した身体能力は、巨人の体を駆け上ることすら可能にしている。そして、別意識として内在するフェヴニルの古代呪の援護。左手は全てを分かつ剣を振るい、右手は数々の古代呪を放つ。
だが、その圧倒的な力を持ってしても、聳え立つ巨人を破壊することは叶わない。
「くっ!」
巨人の腰の位置まで駆け上ったところで、突然その足場が砕ける。足場を失ったエギルの体は揺らめき、落下していく。当然その落下を易々と見過ごされるわけがなく、岩の凶器や巨人の拳が振るわれる。
「フェヴニルッ!」
「―――わかっている!」
それを切り裂きながらも、エギルの体は地面へと近づいていく。地面へと叩きつけられるその瞬間、フェヴニルの放った古代呪がその衝撃を和らげた。
「……そう易々と届かせてはくれないか」
顔を歪ませフェヴニルが呟く。何度も巨人の体を駆け、胸の位置に座しているであろう王の下まで辿り着こうとするが、足場さえ王の思うままなのだ。踏み込もうとした足場が次の瞬間には崩れ去ってしまうことすらある。
「ねぇ、古代呪って飛ぶことって出来ないの?」
「しっかりと式を創り、陣を練れば出来ないことはない、が」
巨人の足が振る下ろされるよりも前に、エギルは駆け出している。数瞬まではエギルがいた位置に、地面を陥没させる程の衝撃と共に、巨人の踵が落ちた。
「そんな悠長にはさせてくれないだろう」
「……みたいだね」
次々と襲い掛かる巨人の猛攻を、エギルは避けていく。だが、避け続けるだけでは、巨人を止めることなど出来はしない。
『……何故だ』
しわがれた、掠れた声が上空から響き渡る。
『なぜ、反転を望まぬ。貴様が神であるならば、なぜ格下の人間に隷属されることを良しとする。なぜだ、なぜなのだ』
「隷属なんてしていない」
王の問いかけに、人であるエギルが答える。
「僕たちは、互いが望んでここに立っている」
『それは貴様らだけの話であろう!?』
巨人が、吠える。大気を震わせ、怒りを露わにしながら地に立つエギルに向けて拳を振り下ろした。だが、それもエギルには届かない。届く前に、分けられる。
『予には聞こえる! 下賎な人間に隷属され、誇りを汚され嘆く神々の声が! もう一度大地の覇者として君臨し、栄誉を取り戻したいという願いが!!』
「……どうやら、神の声を解せる程度には、適応しているらしい」
王の叫びを聞き、フェヴニルが表に出る。
「そうだ。確かに、神々はそう望んでいるだろう。奴らは元よりそういう者たちだ。放っておけば世界を滅ぼすまで戦いを続けているような奴らだからな。自らの覇を示すことに、何ら躊躇いもないだろう」
『ならばこそ―――』
「だがな、それを良しとしなかったのは、他でもない。おまえなんだよ、神王ユグリル」
人の王ではなく、神の王へと向けて、フェヴニルは言葉を放つ。
「神王が望んだ反転だ。それを否定し、なかったことにしようとする貴様が、あいつと同調など出来るわけがない。あいつの器と、同等の価値を持ちえるはずがないんだよ。身の程を知れ、蟻の王」
今や巨人たる王から見て、文字通り蟻程の大きさしかない者から向けられる蔑称と、蔑視。
『貴、様っ……何を言うか……!』
「反転を可能とした神造の女神。それがあの娘、リヴであり、そしてそれを作り出した神代の魔女が私だ。だがな、全ては神王が私に望んだからこそ、実現した大反転だ」
魔女の言葉を遮ろうと、無数の岩の凶器が巨人の体から生まれ、襲い掛かる。だが、エギルはそれら全てを切り伏せる。一太刀二太刀と薙ぐだけで、岩の凶器は自らの在り様を瓦解させていく。
友の言葉を、邪魔などさせなかった。
「あいつはいつも嘆いていたよ。もう後戻りは出来なくなってしまった、と。全てをなかったことにするしか、止める術はない、と……いつも屈託なく笑っていたあいつが、顔を歪ませて、世界の崩壊を防ぐために、神代の崩壊を望んだ」
それは、どれだけ苦渋の選択だっただろう。どれだけ、恨まれる計画だっただろう。
それでも、神代の王は選択した。選択し、望んだのだ。
神代の時代を終わらせ、何も力を持たない。世界を破壊し得る力を持たない人間が生きる時代を始めようと。
「だからこそ起きた大反転だ。それを、あいつと適応している貴様が反故にするなど許せるわけがない。許容出来るわけがない!」
フェヴニルの怒気と共に、怖気が空気を震わせる。大気すら逃げ惑うような風の渦巻きの中、少年の姿がただ一人、眼前に聳える巨人を見据える。
「……僕には、フェヴニル程高尚な理由なんてない。けどあなたが、リヴをひどい目に合わせた。僕にはそれだけで充分だ」
それだけで、村の嫌われ者に過ぎなかった少年が、剣を取り、人の世を統べる王に立ち向かえる理由に成りえた。
「反転の女神とか、神造とか、そんなのは関係ない。リヴは、普通に笑って、普通に泣くことが出来る、ただの女の子なんだ」
エギルはこれまで、怒りを持つことがなかった。持ってはいけなかった。それが許される状況ではなかっただけではなく、自らの意志で、怒りを覚えることをしなかった。
自分は決して、怒らない。理不尽に対して憤らない。自らの不幸に対し、その理由があるのならば受け入れることが出来た。出来てしまうよう、生きてきてしまった。
だから、だからこそ。理由のない、納得のいかない理不尽に対しては、それまで全ての怒りを束ねたかのような、深く強い感情を持ちえる。それが彼の行動理念であり、生きる目的であり、強さだった。
そんな少年に普通の、苦しむ理由のない女の子が理不尽に苛まれ苦しめられることなど、許容出来るわけがない。
「神々の意志だとか、街の人たちを救うためだとか、そんなこと、本当はどうでもいい。あなたがこれ以上リヴを求めないなら、僕にはあなたに剣を向ける理由もない。けど、あなたがどうしても引かないと言うのなら、僕も絶対に引かない」
自らを拒絶する人々すら守りきる。それ程までに慈愛に満ちた行いが出来る程、エギルは善人ではない。理由なく誰もを救える程、人間が出来ているわけでもない。
理不尽に苦しむ少女を救いたい。こんな自分を、助けてくれようとする友の優しさに答えたい。
今まで、物言わぬこそ、良き理解者となってくれた、親代わりの神様に報いたい。
ただそれだけの理由で、少年は剣を手にこの場に立っている。
ただそれだけの理由で、少年は命を賭して戦っている。
「だからもう二度と、僕たちに関わるな」
ただそれだけの理由で、少年は王に剣を向けられる。
『……黙って聞いておれば、好き勝手言いおって』
巨人の体が震える。岩が擦れ合い、崩れて砂となって落ちる。だが、それさえもすぐに巨人へと戻り、肉と化す。
『予は神の王だ。神々の怨嗟の声に応える、神王ユグリルなのだ……貴様ら如き蟻の言いなりになってたまるものか。そのような、無様な在り様を晒せるか……!』
「……言葉が通じないなら、仕方がない」
「そう、だね」
エギルは剣を構え、走り出す。巨人の体から無数の凶器が襲い掛かり、巨大な拳までもが振り下ろされる中、その全てを掻い潜り、巨人の足元へと辿り着く。
「―――フェヴニル!」
「―――行くぞっ!」
エギルの右手が自らの意志ではなく、フェヴニルによって動かされる。手のひらを地に向け放たれる古代呪。意図的に風を起こす古代呪によって、エギルの肉体は高く高く跳び上がる。王の玉座がある、巨人の胸元まで。
「ようやくっ、届いた!」
エギルが剣を薙ぐ。避けるように、遠ざかるように岩が裂け、王の玉座が見える。恐怖に顔を引きつらせる王に向け、エギルは再度剣を薙ぐ。
キィィン!
「なっ」
だが、剣の刃は王へと届かない。見えない壁に阻まれた刃。
「……やはり、また陣を引き直したか」
『残念だったな、蟻よ』
勝ち誇った王の顔が一瞬見え、すぐに遠ざかる。王の意志一つで如何様にも変化する岩の巨人。エギルの足場であった岩がなくなり、体が宙に浮かぶ。身動きの出来ない空中で襲い来る岩の凶器を、フェヴニルの火炎が吹き飛ばす。が、それだけでは足りない程の、豪雨のような岩の矢がエギルへと降り注ぐ。剣を握る力を込め、振るう。が、次から次へと岩の矢は生成されていく。岩の猛威は治まることなく、次々とエギルに向け振るわれる。
そこに、灰色の炎が一筋の軌跡となって現われる。
「……うちの大事な弟を、蟻呼ばわりなんて、良い度胸してるじゃない」
灰色の炎が灯る蹄を持つ神馬を駆る騎手は、王を睨みつけ笑う。
「シル、ファ……?」
エギルの問いかけに答えるよりも前に、神馬に跨るもう一人の者が、落ち行くエギルの左手を握った。その瞬間、風を切る神速の速さでエギルの体は宙を舞う。
少年の持つ生石は、左手にある。そして、その生石に触れられる者は。
「お、重いよ……」
「リ、リヴ!?」
驚くエギルを、スーリフは構わず中空で引きずり回す。しかし、神馬の背に跨った瞬間、吹き荒れる風を感じることはなくなった。
「あんたのその、一度決めたら突っ走るとこ。嫌いじゃないけど、今回ばかりは認めないわよ」
三人を乗せたまま、灰色の炎が灯った蹄は目に見えない『何か』を踏みしめ、文字通り宙を駆ける。大地であろうと、空であろうと、どこへでも駆け往くことが出来る。それが、神馬スーリフの持つ本来の力。
「……なぜ、私たちを乗せられる。おまえは私たちが恐ろしくないのか」
「恐ろしくなんてないわ。ただ、ムカつくだけよ」
そして、それを引き出すことの出来た、シルファの意志。
「あたしたちが頑張るって言ってるのに、全部自分一人で背負おうとするところとか。無理してるのが丸わかりなのに、それがバレてないと思ってひた隠しにしてるとことかも。そして何よりフェヴニル!」
「な、なんだ」
神を呼び捨てにし、シルファはエギルの中に同住する神を指差す。その予想だにしかなった剣幕に、フェヴニルも少したじろいだ。
「一人で勝手にエギルのお姉さん面してるんじゃないわよ! あんたより先にあたしの方が、ずっと前からエギルのお姉さんなんだからね! わかった!?」
戦場でありながら、顔を赤くしてどちらがより姉らしいか張り合うシルファに、エギルもフェヴニルも数瞬何も言えなかった。そしてゆっくりと、肩を震わせ笑い出す。それはエギルによるものではなく、同住する神によるもので。
「くっ、ふふ。なる程、私にかけられた呪法など、その程度で張り合えたのか」
「……何よ、なんかおかしいところでもあんの?」
「いや、さすがはエギルの自慢の姉だと思っただけだ」
「……うん、自慢のお姉ちゃんだよ」
同住する二人は笑う。これ程までに、想われている。命を賭して、守ろうとしてくれている者がいる。
「ねぇ、ボクは?」
こうして腕の中に納まる、守るべき者もいる。
「……もちろん、大切な人だよ」
エギルはそう言って、リヴの蒼白の髪の毛を撫でる。この子を守るために、戦ってきた。その想いを再確認する。そして、それが今も尚揺らぐことのない、確固たる決意であることを確信する。
何者から嫌われようとも、それだけは、決して違えることの出来ない誓い。
「……リヴ。おまえにやって欲しいことがある」
フェヴニルは、少女の問いかけに答えなかった。
「うん。なんでもやるよ」
それでも、リヴは笑顔で頷いた。未だ、その体の内には制御しきれない程膨大な力が渦巻いていながらも。
「なら、一人還したい。出来るか?」
「うん、やれるよ。お母さん」
その健気な言葉に、心に、フェヴニルは頭を撫でていた手をリヴの頬へと動かし、そっと撫でた。
「それでこそ、私の自慢の娘だ」
笑い、同住する二人は巨人を見据えた。すでに岩の巨人からはいくつもの凶器が、切っ先を向けて待ち構えている。その殺意を、二人は正面から迎える。
「蟻の王よ、覚悟はいいか」
『……予は何千、何万という神々の意志を背負っておる。ここで、貴様らに手折られるわけにはいかん』
王の決意を受け、それでも少年は剣を向ける。
「そんなもの、僕たちには関係ない」
そう。関係などないのだ。どれだけの願いがあろうと、どれだけの祈りがあろうと。剣を握る少年には関係ない。
「誰が望んでいようとどうだっていい。僕たちに、そんなものを叶える義理なんてどこにもない」
違えることの出来ない誓いは、すでにこの胸にある。
「この世界から嫌われている僕らには、そんなものを考慮する必要なんてないんだ」
嫌われ者なりに、嫌われ物なりの決意を持って。
自分みたいな嫌われものを大事に想ってくれる人を、守りたいだけだ。
「そこを退け! 蟻の王!!」
蹄に灯る炎が更に燃え上がり、神馬の巨体が加速する。流星の如き軌跡を描き、数々の岩の凶器を粉砕していく。岩で模された武具など、本来の形を取り戻した神馬には通じない。
『神を舐めるな、蟻どもがああぁぁぁぁぁぁ!!』
振るわれる巨人の拳。だが、その岩の拳は神馬よりも前に飛び出した少年の持つ剣を恐れ、避ける。
そして開けた玉座までの空間を、後方より生み出された風に後押しされ、一瞬で埋める。すでに振りかぶられる、全てに嫌われても、それすら受け入れる強さを持ちえた者。
その刃は玉座を覆う陣を、音もなく切り伏せた。
『くっ、あああぁぁぁぁ!!!』
恐怖に駆られた王が苦し紛れに放った拳は、空を舞う神馬へと向けられる。強大な質量を持つ一撃は、神馬であろうとも受け切れないかもしれない。
だがそれすら、地下より飛び出した神器により打ち砕かれる。
驚愕に目を見開く王には、地面に開かれた巨大な穴の向こうに満身創痍ながらも笑みを浮かべる臣下の姿が見えた。そして、勝鬨を上げるように、拳を振り上げる一人の騎士の姿。
『バ、バルサルクッ! 貴様ああぁぁぁぁぁぁ!!』
頼っていた臣下の名を叫ぶ王の視界に、馬上にて手を広げる反転の女神が入り込む。
「……あなた、だいっきらい。ボクたちにひどいことするんだもん」
涙目の少女に、可視化される程の膨大な力が渦巻く。少女の小さく細い腕が、それを束ね、一筋の線へとする。その線は、次々と変容していき、やがて複雑な術式を組み込まれた陣へと至る。
神造の兵器、反転の女神リヴは、まるでどこにでもいる女の子のように瞳を涙で滲ませ、時折裏返ってしまう声色で。
「だからっ、ひっくり返っちゃえ!」
反転の術式を機動した。
王の頬を、風が凪ぐ。その風は王の元へ留まり、滞留し、渦巻く。
『やめ、やめろっ! 予は神の王だ! 神王ユグリルだっ! 神々の願いを背負った予が、このようなところで潰えて―――』
「―――そんなもの、僕が知るか」
エギルの持つ剣の刃が、王の座る玉座を切り伏せる。そして、座を失った王は飛び退き、地に伏せる。その無様な姿を覆い隠してくれるかのように、風が急速に渦巻き、縮小していく。
『予はっ、神々を救うのだ! 下賎な人間から大地を取り戻す、それが神王の唯一の願いなのだっ!!』
「……違うよ」
力の供給が絶たれ、崩れ行く岩の巨人。その降り注ぐ瓦礫の中、縮小され、凝縮されていく王を悲しげに見つめながら、フェヴニルが呟く。
「私が愛したあいつは、そんなことを望んでいなかった」
その言葉が届くよりも前に、鈍色の小石へと変じた王は、瓦礫の崩落に巻き込まれ、落ちていった。その様を横目に見て、少年は馬上で手を差し伸べて待つ少女の下へと跳んだ。
少女の手は、すでに小石へと変じた生石持つ少年の左手を、しっかりと握り締めた。
握る手と手の間にある、小さな家族の存在を、強く感じていた。
閑話 愛したものなりの
昔、神代の時代。誰もが羨む程に美しき女神がいた。
高い力を持ち、博識な知識を有し、それでも尚、その余りある能力を他の者のために惜しみなく発揮する、誰もが敬う女神がいた。
自分が苦しむことすら厭わず、悲しむことすら受け入れ、それでも、その女神が数々の救いをもたらした。自己を犠牲にすることなど、一切躊躇することなどなかった。どこまでも博愛に満ちた、最良の女神だった。
その女神が嫌われる場合、それは決してその女神に責任があるわけではなく、嫌う方が絶対の悪である程に。
だが、羨望は少なからず妬みを生み出す。その羨望が強ければ強い程。深ければ深い程。生み出される嫉妬は強く、深い。
やがて、その女神にある呪いをかけられた。それは、反転の呪い。「自らの成すこと全てが、反転した結果として返る」という呪い。女神が救いをもたらす程、愛を振りまく程。結果は無惨に、滑稽に、悲惨なものへと変わった。
救いは破滅に、愛は拒絶に。女神の願いは、悉く惨劇に塗り替えられた。
女神は、全てに嫌われることとなった。女神の救いは争いを生み出し、愛は憎しみを生んだ。良かれと思ってした行動の一つが、万の不幸を生んだ。女神の持つ力の強大さは、神代の時代の在り様を反転させる程に凄まじいものだった。女神がようやく呪法を解除出来た後にも、怨嗟は続き、止むことはなかった。
女神の愛は、決して受け入れられなかった。自らが愛した神も、その愛を受け入れることが出来なかった。故に、ある神は決意する。戦乱が巻き起こるこの時代を、終わらせようと。全てを、なかったことにしようと。
正しき者の愛が、正しく伝わる世界を。その実現を邪魔する、無粋な力などない時代を。
その世界の実現を、女神は望んだ。自らの苦労が報われる世界を。万物を愛する女神は、万物が愛される世界を創り出した。そして、その秩序を、今度こそは違えることなく、自らの手で守ろうと。自らもその在り様を変え、移り変えた時代を、ただ黙し生きてきた。
その世界を壊そうとする輩が現われるその時まで。全てを愛し、全てに嫌われた女神は、ただ待ち続けた。
そうして、少年と出会った。
これは、ただそれだけの話。
嫌われものが、嫌われものなりに世界を守ろうとする。そんな、お話。
エピローグ
ユグリル王の失脚は、たちまち大陸全土へと広げられる程の大訃報となった。大陸最強を誇る国家、その主である王と、その城の崩落は大陸全土へと響き渡り、近隣各国を震撼させた。主なき今、覇者の座から大国ユグリルを引きずり落とす絶好の機会だ、と。
「まぁ、王国騎士団は変わらずあるのにね」
各地の戦果の報告書を、屋敷の長机に広げながらシルファが呟く。騎士団宿舎すら崩壊してしまった現状、それらを建て直すまでの期間、広大な敷地を持つシルファとイングナルの屋敷が仮の宿舎として解放されていた。もちろん、騎士団全員を収容出来る程に広大なわけでは決してなく、かなり敷き詰められた無理のある部屋割りとなっている。当然、家主であるシルファとイングナルは一人部屋を維持。反感を買おうとも、王国設立以来未曾有の大被害を食い止めた一派なのだから、誰も表立って文句を言うことは出来なかった。
「それもねじ伏せていけばいいだろう。幸い、俺たちには被害を最小に食い止められるだけの力がある」
同じようにイングナルも、報告書を眺めていた。どこの戦果も然したる違いはない。一度戦いが始まりさえすれば、その圧倒的な力を持って、誰も殺すことなく場を治めることなど神々の力の一端を担う者の揃った騎士団にとって容易なのだ。単身で大地を割り、陥没させてみれば相手はすぐに白旗を振る。
「でも、それでも懲りないものなのね。どこもかしこも宣戦布告してくるし、うちの暫定城主を暗殺しようと画策するのも後が絶たないじゃない」
「……まぁ騎士団長、バルサルク殿が毒や暗器で失脚するとは思えないがな」
「……そうね」
よくもまぁ、あの化物と相対して無事だったものだと、イングナル自身を褒めたくなる。どう考えても勝ちを譲ってもらったようなものだ。情けなくもあるが、譲ってもらわなければエギルの助太刀も不可能だったことを思うと、受け入れるべき情けなのだろう。
「……ねぇ、このまま、神様の力を使い続けるのって正しいのかな」
「わからん。正しいことではないが、使わなければ、戦いを無血で治めることは出来ない」
いや、使おうとも流れてしまう血はありうる。だが、使わなければより多くの血が流れることなどわかりきっている。それでは、人の力だけで世界を治めるとは言えないとわかりきっていながらも。人は神の力を手放せない。
「誰もを納得させる世界を作ることなど、出来はしないのかもしれない」
「……そうやって諦めるのは、癪だけどね」
嘆息しながら、シルファは書類を捲る手を動かし始める。長い休暇を得るべく、今の内に仕事を終わらせなければならない。
「エギル、元気にしてるかしら」
「それを確かめに行くために、今こうして仕事をしてるのだろう。俺はもう終わってるがな」
椅子に座って腕を組んでいるイングナルを、シルファは横目で苛立たしげに見つめる。
「……だったら手伝いなさいよ」
「おまえの仕事のノルマだろう。とっととやれ。そもそもおまえは手際が悪過ぎるんだ」
「うるっさいわね! あーはいはいやりますよ! 速攻で終わらせてやるんだからっ!」
シルファのムキになった物言いに、部屋から出てきた他の騎士がビクつく。気にするな、いつものことだと目線だけでイングナルはその騎士に言い、嘆息する。
(エギルはいなくなったが、こうも屋敷に人が増えるとはな……中々うまくはいかないものだ)
「……何、何その目。また無言で喧嘩売ってる?」
「……何も売ってない。いいからさっさと終わらせてくれ。日中に出なければ間に合わんぞ」
「私のスーリフを舐めんじゃないわよ。あんたが瞬きする暇もなく着いてみせるわバーカ。あーもー、なんでエギルったら、この国を出てくのよ……」
「仕方のないことだろう」
シルファにだって、エギルがその選択をした意味は良く理解出来ていた。万物に嫌われる神をその身に有したエギルに、たった一言で生き物の在り様を反転させてしまう神造兵器、リヴ。その二人は、とてもじゃないが人の多く住む街で暮らしていくことは難しい。二人は、人里離れた森の中に小屋を建て暮らしている。そして、その様子を見に行くためにシルファとイングナルは仕事を数日分まとめて消化している。
「俺たちに出来ることは、あいつがこれ以上戦うことのないよう、あいつの力を必要としない環境を作り上げていくだけだ」
神々の意向は一つではない。ユグリル王が最後まで口にしたように、自らの在り様を取り戻そうと画策する神々は未だどこかにいるだろう。それを未然に排し、エギルと、その身に住む神の力を借りないように。それが、新しく生まれた騎士二人の目標。
「わか……ってる、っての。よしっ、お終い!」
書類の束を長机に叩くようにして置き、シルファが立ち上がる。
「さぁ飛んでくわよ! しっかり捕まってなさいよね!」
「……あの格好も、中々に情けないのだがな」
「は? 何か言った?」
「何でもない。だから室内で生石を解放しようとするな。屋敷を壊すつもりか」
イングナルは複雑な心境のまま、先に外に出て行ったシルファを追いかけ屋敷を出る。
エギルに会い、約束していた生石なしでの喧嘩をして、勝ったらいよいよ想いを告げてみるか、などと考えながら。すでに街中だというのに生石を解放し神馬に跨るシルファの顔を見て、嘆息する。
*
「ねぇエギルー見て見てー。取れたよー、ミミズ」
「だから、ミミズを取ることが目的ではないからね?」
小屋の傍に耕した畑の土を掘り返しながら、エギルが嘆息する。その様子を見て、フェヴニルも同じように嘆息したので二重に息を吐くこととなった。
「少しは、大人っぽくなったかなって思ったんだけど……」
「見た目も中身も、基本は人間なのだから順応性を期待するしかない」
同じ口で同じ声でありながら、違う口調。傍から見れば一人二役を演じているような滑稽な光景。
「わかってるよー。お芋ー、お芋ー」
妙な調子で歌いながら、リヴは次々と土を掘り返していく。また服を汚して……洗濯が大変だなと思いながらも、エギルの表情には笑みが浮かぶ。
浮かんで、しまう。
「……すまないな」
だから、フェヴニルの突然の謝罪の意味も理解は出来なかった。
「何が?」
「……私は、おまえの人生を決め付けてしまったのかもしれない」
こうして人里離れ、人の輪の中に入らず、入れず過ごしていく。
「……そうかもね。けど、これでいいんだ」
そのことを、不幸だと思ったことはない。
「これが、いいんだ」
嫌われることを、良しと思ったことは一度もない。不幸な身の内を、辛いと思わなかったと言えば確実に嘘になる。
けど、決して、今を不幸だとは思わなかった。
「これが、いいんだよ」
それどころか、本心で、心の底から笑っていられる。
「おっきいミミズ取れたよー! エギルー! フェヴニルー!」
土に塗れて笑う女の子。その姿を守れたことが。これからも守っていく生活は、決して不幸なんかじゃないと。幸せなことなんだとわかっているから。
「目的が変わっちゃってるよ、リヴ!」
「……まぁ、これでこそ、これからの成長が楽しみだ」
同居人の言葉に心の底から同意しながら、エギルは笑ってリヴへと近づいていく。
これこそが、嫌われものなりの幸せなのだと確信しながら。
物と者。その同じ音でありながらまるで違う意味の言葉から産まれた話でした。ですので作中でもできる限り「嫌われもの」とどっち付かずの表記にするよう心がけてます。できて、ますよね。うん、たぶん。私の目が節穴にビー玉が詰まってるだけのものじゃなければ。
ファンタジー物の設定は考え込めば考え込むほど深く凝ってしまうので、初めはあまり深くない、言ってしまえばあまり凝ってない設定にしようとした結果、なんだかとっても浅い設定になりました。「神様が石になってそれを人間が……」なんてどっかで聞いたことありそうで戦々恐々してます。自分がこれまで触れたことのあるファンタジー物の作品とか必死に思い返した結果該当する作品はなかったので、たぶん大丈夫だとは思いますが。被ってたらごめんなさい。パクリじゃないですうわーん。
さて、例として例の如く、主人公の生い立ちは不幸ではありますが、どうしてもそこから奮起し頑張る話を書きたい身としては致し方ないといいますか。そろそろ主人公ズから刺されたり裂かれたりされても文句言えない立場になってもいます。幸せな結末にはしてるんで許してもらいたいものです。
現状、この続きの展開というのも用意はしてますが、それを今後書くかは微妙なところではあります。彼は今回すごく頑張りましたし、当分は芋とミミズと土に塗れた生活を自身の手で守り切った少女と共に過ごしてもらいましょう。……その子の母親とシンクロしつつという、冷静に考えれば胃に穴がボコボコ開きそうな生活ですら、まぁきっと彼は幸せに過ごすでしょう。そういうことができる、できてしまう彼だからこそ掴んだ幸せでしょうから。
きっとその日の夕食のスープの中にミミズがプカリと浮かんで来ようと、きっと彼は笑って済ませてしまうのでしょう。そういう幸せもある、って話でした。
読んでいただき、本当にありがとうございました。