第二話 勘違いだとしても 1
明日からネット環境がアレな場所に行くので、ドンドコ更新します。
夢を見ているのだろうか。エギルはそう思った。
光の届かない闇の中。誰かが何もせず、ただ座り込んでいた。目には何も見えない。一切の光がないのだ。
ただ、そこに何者かが座り込んでいることだけは理解出来た。
(どうして……ここは、いったい)
「本当にやるのか?」
長い間、誰かは身じろぎ一つせずにいた。ようやく口を開いた時、その言葉の内容は何者かへの問いかけだった。
「うん。だって、それ以外方法はなさそうだし」
問いかけに答える者がいるとは思っていなかったエギルは、心臓が飛び跳ねるかと思う程驚いた。姿は見えない。けれど、どこか母性を感じさせるような柔和な声だけが、暗闇の中響いている。
「……おまえは、それでいいのか?」
「いいも何も、それ以外ないんだってば」
声は沈み、姿の見えない誰かを案じていることが手に取るようにわかる。その気遣いを、もう一方の誰かは慈愛を持って受け止めている。
「あなたがそんなに落ち込むようなことじゃないでしょ? 大丈夫だって、死ぬわけじゃないんだし」
「死ぬようなものだろう」
「そうかもしれないけど。けど、仕方ないじゃない」
仕方ないと、彼女は笑って口にする。
事態の重さを理解出来ていない、その楽観的な思考にエギルは苛立ちを覚えた。
(……苛立ち? 僕は、この人たちの話を何一つ理解していないのに。どうして、僕は苛立っているんだ?)
「笑い事じゃないだろう」
「怒らないでよ。どうせなら、笑っていた方がいいじゃない」
一切のものが見えない暗闇の中でも、エギルには二人の浮かべる表情が、どの感情に彩られているのか理解出来た。
片方は、自責。そして。
「ほら、笑ってよ。あなたが笑ってくれると、きっと頑張れる」
もう片方は、慈愛。
「むしろ、そっちの方が大変かもしれないんだからさ。頼むよ?」
「……ああ、わかっている」
エギルには何一つ理解出来ていない。何も見えていないし、今この場が夢なのか幻なのか、現実なのかすら判断が出来ない。
けれど、この胸が削られていくような痛みは、自責は、決して、確かにどこかであったもの。
(悔しい。どうしてかわからないけど、悔しい。後始末しか出来ない自分が、悔しい)
いったい何の後始末なのだろう。それすらもわからず、知らないくせにエギルの心には締め付けられるように痛む。
「もちろん、全力を尽くすさ」
「うん。あなたにそう言ってもらえると、何だかもっと頑張れそう」
声しか聞こえないのがもどかしい。声だけではなく、もっと。
「失敗してしまうかもしれないけど。でも、頑張るから」
恐怖に震えながらも、気丈に振る舞い、今にも壊れてしまいそうな笑顔もしっかり見ておきたいのに。
「それじゃあ、後はよろしくね。フェヴニル」
フェヴニルと呼ばれた者は、唇を強く噛んだ後。何も言わずに、笑った。
顔は見えなくても、そんな気がした。
*
「エギルー! 朝ごはん出来たって言ってんでしょ!! 早く起きなさいよ!!」
「は、はいっ!?」
突然耳朶に飛び込んできた音に驚き、エギルは目を開けた。眩しい程の陽光が飛び込んでくる。
「あ、あれ? ここは……」
自分を覆っていた毛布を払い、エギルは起き上がる。村の自宅とは程遠い程の柔らかさと心地よい肌触りの良いベット。違う壁紙に、家具。見渡しても何もかもが違う。
「……ああ、そっか」
ようやく、エギルの脳が覚醒していく。
大陸最強を謳う大国家、王都ユグリル。女神、リヴを連れて王都に訪れ、すでに一週間が経った朝だった。
「ちゃちゃっと起きなさいよまったく! せっかく温かいご飯なんだから温かい内に食べなきゃおいしくないでしょ!」
「う、うん。ごめん」
身支度を整え部屋を出て、エギルはリビングへと入った。それを出迎えたのは、フライパンを片手に次々と卓に朝食を並べていくシルファの小言だった。
王都の町に建てられた、大きくも小さくもない屋敷はイングナルとシルファが報酬として貰い受けた屋敷だ。エギルにとって住むには十分すぎる程立派な家で、一週間経った今でも気後れがして落ち着かない。
「なんだ、おまえの作ったものは冷めるとおいしくないのか」
「そういうこと言ってるんじゃないわよっ! 温かい方が数倍うまいって話よ! 何、喧嘩売ってんの!? 買うわよ!?」
「売ってもない物を買うな。生石を出すな。すぐにスーリフを出そうとするのはおまえの悪い癖だぞ」
「ははは……」
毎朝と言っても過言ではない二人の言い合いに、エギルももう乾いた笑いしか出てこない。住み始めた当初はハラハラして心中穏やかではなかったが、今ではもう慣れたものだ。一週間もの間毎日必ず欠かさず起こるイベントに新鮮味はなく、最早毎朝の通過儀礼のようにさえ思える。
(二人とも、昔から喧嘩してばっかりだったからなぁ)
決して仲が悪いわけではなく、ただ単に反りが合わないのだろう。それでも今でも付き合いが続いている。それならば別に然したる問題もないと、エギルはそう思っていた。
「うるさいわね! 文句言わずにパッパと食べなさいよ!」
「文句など一言も口にしてないだろう。そっちが耳障りに喚き散らしているだけだ」
「耳障りって何よ耳障りって! もーいいわ! あんたの分の朝ごはんはなし! 自分で勝手に作りなさい!」
「ああ、別に構わない。おまえの雑な味付けより更に美味な朝食を作ってみせよう」
「雑!? 今あんた雑って言った!? よくもまぁ作ってもらっておいて文句が言えるわねこの無愛想!!」
(……仲、悪くないんだよね?)
時折不安にもなるが、今のところ関係は良好ではあった。はず、だよね、とエギルは無理矢理結論づける。
「い、いただきます」
「ええじゃんじゃん食べなさい! ほらっ、この無愛想の分もあるわよ」
「う、うん」
騎士という体が資本という職に就いている故か、この家の朝食は量が非常に多い。とてもじゃないが、二人分の量を胃に収められる程空腹に困っているわけでもなかった。
(お腹一杯でいられるっていうのは、それだけでも十分幸せなんだけど……)
何事も程々が一番なんだな、とまた一つ賢くなっていく。
「おいしい? ねぇおいしいわよね? 味付けも雑じゃないわよね?」
「うん、とってもおいしいよ」
もちろん今の言葉に嘘は一つもない。村で暮らしていた頃は味付けなど森で取れた香草が基本で、雑も何もなかったぐらいだ。
「ふふん」
エギルの言葉に、シルファは勝ち誇ったような笑みをイングナルに向けた。
「……エギル」
(ほ、褒めちゃいけなかったのかな……)
「な、何?」
目つきを鋭く、眉間に皺を作ったイングナルがエギルを睨みつけ立ち上がった。その重圧に気圧されながらも、エギルは口を開く。
「これから俺も調理に入る。審判を頼む」
「……え?」
「あら、あたしに勝てるのかしら? 訓練時代補給隊として培った調理技術を舐めるんじゃないわよ」
「騎士団仕込の味付けだから雑だと言っているんだ。王都の格式高い調理術を見せてやるから黙って座っていろ」
「いや、あの、二人とも……?」
視線が火花に変じたかのように、実際にバチバチと音が鳴っている錯覚を覚える程、二人は睨みあう。エギルは慌てふためきながらも二人を止めようと立ち上がる。
「えっと、どっちの料理がうまいか決めるのはまた今度にしようよ。ほら、今日はこれからお城に行くんでしょ?」
急いで捻り出した宥めの言葉に、料理の腕前を測る対決なのに何故か生石を取り出していた二人は動きを止める。
今日は、エギルが待ちに待った約束の日。
一週間ぶりの、リヴとの再会の日だった。
*
「ね、ねぇ。おかしくないかな?」
高く聳え立つ城門を前にして、エギルが不安気に声を上げた。自分が着ているまるで貴族のような煌びやかな礼服を、指先で摘みながらシルファを見る。
「おかしくないってば。さっきから何回同じ事聞くのよ」
嘆息しながら、すでに何度言っているかわからない答えを返すシルファ。
実際、おかしな点などどこにもなかった。礼服はちゃんとこの日のために仕立て上げた新品で、あまり華美過ぎない程の修飾に彩られている。確かに、シルファやイングナルなど昔からエギルのことを知る者から見たら、少しばかり豪奢に見えなくもないが、これまでのエギルを知らない、初めてエギルを見た者からしたら然したる問題はないだろう。
「だって、こんな立派な服初めて着るから」
「正式に王に謁見するんだから相応の服がいるでしょ。それ、高かったんだからね。汚さないでよ」
「高かったといっても、おまえが払ったわけではないだろう。全額エギルが王からいただいた褒美で払ったものだろうが」
神代の英雄を見つけ出し、保護していた功労者としてエギルは多額の褒美を王から貰い受けていた。聞くものが聞けば思わず卒倒してしまう程の高額な褒美なのだが、ずっと閉鎖された村の中で、かつその中でも交流の少なかったエギルにとって金銭の価値などわかるはずがなく。全額、シルファに預けていた。
「だからって汚していいってわけじゃないでしょ。せっかくこんなに綺麗な服なんだから大事にして欲しいじゃない」
「もちろん、積極的に汚すつもりはないけど……」
汚すつもりがあろうとなかろうと、エギルのいた村では関係なく服は汚れていた。農作業で自ら汚すこともあれば、村の者から泥を投げつけられて汚されることもあった。だが、この王都ではそのようなことなどありえない。エギルはこの一週間で、そのことをよく理解していた。外を歩いていても謂れのない糾弾を受けることもない。近くを歩かれるのが不快だからと水や泥をかけられることもない。
自分さえ気をつけていれば、この煌びやかな礼服が汚れることはないのだ。
たったそれだけの当たり前のことが、エギルには想像もしてなかった事実だ。
「開門っ!」
門番の声の後、ゴゴゴと低く響く音を立てて城門が開かれていく。開かれた先には大陸最強を誇る王国騎士団に守護されし、難攻不落の城が聳え立つ。森に囲まれて生きてきたエギルはその城の威厳に身震いしながらも、先に歩き出した二人に付いて行き、広大かつ整然な中庭を抜け、入城する。
城の中は豪奢な明かりや修飾に彩られ、謁見の間への道しるべとして一直線に赤絨毯が長く伸びていた。その華美な様相に目を奪われながら、エギルは歩を進める。時間を忘れ、エギルは辺りを呆けた顔で見渡していた。
「少年よ、よく来てくれた」
気づけば赤絨毯は終わり、その先には玉座に座る老年の男の姿があった。まず目に付いたのは光り輝く黄金の王冠。老化による皺が多くも、目に持つ光は衰えず、力強い。そして胸元まで伸びた白い髭を擦りながら、声を上げて笑っていた。
首都ユグリルと同じ名を冠する、稀代の王、ユグリル王の前に立っていることに、今更気づく。
「え、あ、あ」
(しまった。ここはもう、謁見の間だ……!)
今更ながら慌てて跪くエギル。その慌て様に王は更に高らかに笑い、幼馴染二人は顔をしかめて溜息を吐いた。
「そう硬くならずともよい。お主はこの国の、いやこの世界の英雄を見つけ出し、匿っていてくれたのだ。感謝するぞ」
「いえ、そんなっ。僕はただ、当然のことをしただけで」
褒められることに慣れてないエギルは、緊張で声が裏返りながらも謙遜する。実際は、謙遜でも何でもない。エギルはただ、友人との約束を守ろうとしただけ。
「はっはっは。謙遜などせんでもよいというのに。そこの騎士二人もよくやってくれた。どうだ? 褒美はあれだけでいいのか? 望むものがあるならば予の力が及ぶ範囲であるならば何でもくれてやるぞ」
あたふたと慌てるエギルに代わり、イングナルが一歩前に出て御前に跪く。
「いえ、我々はすでに褒美をいただいておりますゆえ」
「そうかそうか、はっはっはっ!」
イングナルの答えを聞いてまた声を上げて笑う王。富を求めて騎士になったわけではない二人にとって、エギルを王都に迎え、住むための住居を手に入れるということはもはや最終目的を果たしたと言っても過言ではない。シルファも、これ以上の褒美は望むべくもなかった。
「……一つ、聞いていただきたい願いがあります」
膝をついたまま、エギルは一歩、王の下へとにじり寄る。破顔して大笑いをしていた王はピタリと笑みをやめ、エギルを真剣な眼差しで見下ろした。
「なんだ。何でも言ってみるがいい。お主は予の、いやこの国の恩人だ。予に出来ることであらば何でも実現してみせよう。さぁ、願いを言え」
尊大な態度でエギルの願いを聞く姿勢を示す王。傍にいた騎士二人は、突然自分の意思を口にしだしたエギルに驚き、目を見開いて見ている。
(ごめん。けど、言ったら絶対に反対されるから)
ずっと頭の中で考えていた。どこにでもある農村の、その中でも異端に位置するエギルが、神話の英雄と称される少女の傍にいるための方法。
「僕を、王国騎士……いや、女神の近衛騎士として置いてはいただけないでしょうか」
そんなもの、彼女の傍に相応しい地位に登り詰める以外にない。
「ちょっと、エギル!?」
まず最初に声を上げたのはシルファだった。その怒声を予想していたエギルは自分の名が呼ばれ終わる前にシルファへと向き直っていた。
「ごめん、リヴの傍にいるにはこれしか」
「何言ってるのよ! そんなの、会おうと思えばきっといつでも会えるわよ。あんたが騎士になる必要なんてどこにも」
「違うんだ。会えるだけじゃ駄目なんだ」
王都で暮らし始めたこの一週間。ずっと胸の内に燻り続けていた感情。このまま、今も尚左手に握り締められている友人と、リヴと交わした約束が守れなくなるかもしれない。そう少しでも考えるだけで心は焦り、居ても立ってもいられなくなる。
「守りたいんだ。そのためには、騎士になるしかない」
「あたしとイングナルがいるでしょ!? あんたも女神様も、あたしたちが守るから心配いらない!」
王を前にしながら、シルファは癇癪を上げる子供のようにエギルの出した答えを否定する。今までシルファは何のために努力をしてきたのか。エギルをこれ以上苦しませないためだ。一切の苦難から遠ざけ、守る。これまで苦しく、辛い人生だったのだから、これからは幸せに生きるべきだ。そんな、母が子に、姉が弟に向けるような慈愛を胸に研鑽を重ねてきたのだ。
「イングナルも何とか言ってよ! エギルが戦場に立つようなことがあっていいの!?」
「……俺は」
「生石は持っておるのか」
言葉を選ぼうとしているイングナルよりも早く、王がエギルのみを見て問う。
「……ここに」
左手に巻かれていた包帯を解く。開かれた手のひらには、どこにでも転がっていそうな変哲もない小石。名は、フェヴニル。それ以外は知らない。
それでも、エギルにとってはかけがえのない友人の一人。
「……一つでも多いに越したことはないな」
独り言のような声量で王は呟き、玉座から立ち上がる。側近の兵士を招き、命令を下した。命を受けた兵士は謁見の間から走り去った。
「よかろう。それではこれより入団試験を始める。よいな、エギルよ」
「ユグリル王!!」
一国の王に向けて鋭く叫ぶシルファ。その叫びには緊張も恐れもない。そんなものは簡単になくなってしまう程に、エギルに対する情は深く、厚い。
「黙れ、予は今、エギルと話しをしているのだ」
「ですがっ!」
射抜くような鋭い眼光を持って、王はシルファを睨みつけた。何十万という民の上に立つ者の威厳さえも、シルファは真っ向から受け止めてまだ口を開こうとする。口だけではなく体までも前に出る勢いを、手を掴んで止める者がいた。
「……やらせてやれ」
「イングナル!? あんた何考えてるのよ!」
激昂しながらイングナルの手を振り払おうと、シルファはもがく。
「……ありがとう」
イングナルの渋面を向けて、エギルは礼を言った。その礼に対しても、イングナルは冷たく返す。
「賛成しているわけじゃない。むしろ、反対だ」
「うん、それでもいいんだ」
イングナルの抱いている感情は、シルファとそう大差ない。それでも、イングナルはシルファを止め、エギルの選択を受け入れようとしてくれている。その無言の後押しを、無駄にはしたくない。
「お呼びですか、王よ」
謁見の間の扉が開かれる。重厚な鎧をガシャガシャと鳴らし入ってきたのは、王国騎士団隊長、バルサルク・セルスフォード。その大柄な肉体が見えた瞬間、シルファとイングナルは最早脊髄反射の速度で互いの手を離し、姿勢を正した。
「バルサルクよ。お主に一つ頼みがある」
豪奢な玉座に腰を戻し、長く伸ばした髭を撫でながら王はエギルを指差す。
「そこの少年と全力で戦え。もしおまえが負けたら、彼を女神の近衛騎士とする」
『ユグリル王!!』
今度はシルファだけではなく、エギルの味方だったはずのイングナルまでもが王の名を叫んだ。二人とも顔面を蒼白とし、唇をワナワナと震わせている。
「無礼を承知で言わせていただきます! 王よっ、あなたは無辜の民をみすみす死なせるつもりかっ!?」
「イ、イングナル?」
いつも寡黙に物静かな彼に似つかわしくない、腹から声を出した物言いにエギルは動揺を隠せず思わず名前を呼ぶ。
「はっはっは。女神の近衛なのだぞ。生半可な実力で任に就かせるわけにはいかんだろう」
「だからといって騎士団長と戦わせるのは無茶です!」
「無謀にも程があります! 考え直してください!」
先程とは打って変わって、意見を統一したまま王に物申す二人。二人の必死の嘆願にも、王は朗らかに笑うのみで聞き入れようとはしない。
「手加減はせんでよいのですな、王よ」
「うむ。全力でやるがよい」
重々しく頷き、バルサルクは歩き出す。エギルも今更、近づいてくるにつれて強くなる重圧に気づく。
(これが、王国騎士団の、隊長……)
「お初にお目にかかる。儂は王国騎士団隊長、バルサルク・セルスフォードだ」
ぬぅっと出てきた丸太の様な腕に一瞬身構えそうになる。握手を求められていることに遅れて気づいたエギルは、おずおずと自分も手を差し出す。
「え、あ、はい。僕は、エギル・アヌミノンです。えっと、近衛騎士希望、です」
鋼鉄のようだ、とエギルはバルサルクの手を握って思った。そもそも指を目一杯開いても握ることさえ出来ない程に大きく太い。それでいて、手のひらには切傷や裂傷、剣ダコが無数にあり、まともな肌の部分がわからない。少しでも握られたら指の骨が全て砕けてしまうのではないかという、恐ろしい想像が頭を駆け巡る。その想像を表情から読み取られたのか、触れられるだけの握手だけでバルサルクは手を離した。
「坊主。儂は本気でいいのか?」
「……はい、お願いします」
背後で友二人が頭を抱えている図が目に浮かぶが、エギルはそう素直に返すことにした。
(確かに怖いけど……)
もしエギル一人だったら立ち向かおうという意志さえも抱かなかっただろう。何の特別な力も持たない村人たちからも虐げられていたのだから。
今は、一人ではない。左手の手にひらに感じる感触。そして、目の前の障害に打ち勝った先にある、望む未来。
何もかもから守ると誓った。それならば、恐怖に負けてなどいられない。
「場所はここでいい。動くのが面倒だ」
玉座に座りながら王が口を開く。肘をついて見下ろす双眸は細められ、その眼光は、鋭い。
「さぁ。予に見せてみろ。お主はどれだけ、神を使いこなせるのか」
互いに距離を置く。謁見の間の端から端。遠く離れた位置にて、二人は身構える。
(使いこなす、じゃない。一緒に、戦うんだ)
「……フェヴニル」
そっと、友の名を口にする。呼応するように手のひらには熱が生まれる。
「力を、貸して」
瞬間、エギルの左手から光が溢れる。指の隙間から零れた光は次第に収束し、一つの形へと変貌していく。他者を拒絶し、人に対して死の恐怖を抱かせる。肉を切り裂く刃物の武器。
「……神器。いや、そんな形の神器など見たことがない」
生石を解し神へと成り上がった者、同調者であるバルサルクの表情が曇る。
神器の見た目は神の武具ということもあり、装飾が豪奢だったり、刀身に古代呪が刻まれていたりと普通の武具とは一線を引く様相をしている。だが、エギルの持つ剣にはどの要素も持たない。一兵が持つ何の変哲もない剣にしか見えなかった。
「その生石はどこで手に入れた」
「……そんなこと、今関係ありますか?」
剣を構え、バルサルクを睨みながら言葉を吐く。バルサルクから発せられる驚異的なまでの殺気に怯むことのないエギルに、シルファは違和感を覚える。
「ね、ねぇ。なんかエギル、様子がおかしくない?」
「……生石を、特に神器を扱う者はそれに見合うだけに生石が適応者を引き上げると聞く」
神の武具である神器を人間の身で扱うことは出来ないために、生石は適応者の身体能力を引き上げる。神の如き、とまではいかなくとも、充分常人とはかけ離れた膂力を適応者は神器を扱うことによって得ることとなる。
「でもそれって、身体能力だけでしょ? なんであの子、性格まで変わってるのよ」
「……俺が知るか」
吐き捨てるようにイングナルが口にする。シルファも「そうよね」と小声で呟き、相対する二人へと視線を戻した。
「ほぉ、これは中々。思わぬ些事かと辟易していたが、存外楽しめそうだ」
真剣での戦いを前にして、バルサルクはあろうことか笑みを浮かべながら、腰につけた剣を抜く。エギルの身の丈程あろう大剣のはずが、バルサルクが持つとただの小振りな剣にしか見えない。
「……行きます」
臆したら負ける。そう考えたエギルは体重を前足にかけ、跳ぶように前方へ強く出る。先手を取るべく駆け出した特攻に、バルサルクは手に持つ大剣を振りかざすだけ。待つつもりでいるのだ。
ならば、この勝敗は決した。
「っ!」
下段から振り上げるような軌道に、バルサルクは難なく自らの大剣を合わせる。鋼がぶつかり合う甲高い音が鳴るかと思いきや。
「……ほぉ」
「これは……」
王と騎士団長は揃って声を上げた。その感嘆の息が漏れ終わるまでの間に、エギルの持つ剣によって『分かたれた』刃が、床へと突き刺さる。
「なに、あれ……」
静寂を破ったのはシルファの呟きだった。エギルの持つ生石の能力を知らなかったシルファは、目の前で起きた一連の流れを信じることが出来ず、ただ呆然としている。
「これで勝負あり、ですよね」
騎士の模擬戦において、相手の武器を破壊した場合はその時点で終了とし、破壊した側の勝利となる。それは確かに騎士団での方式であり、必要以上の危険を減らすためのルールだった。
「……ふむ、納得いかんな」
「え?」
バルサルクは膝を曲げ、落ちて床に突き刺さった刃を見てながら顎に手を当て、何やら思案する。
「切れた。ようには思えんな。『必ず切る』神器はまた別にあった、様相もだいぶ違う。なる程。切り分けたわけではないのか。と、なるとだっ」
「ええっ!?」
立ち上がり、バルサルクは丸太のような腕の膂力を持って、渾身の拳をエギルへと放つ。勝敗は決したものだと油断していたエギルは慌てて剣の腹で受ける。
「ぬぅ!」
呻きを上げ、バルサルクが拳を引く。その引っ込められた拳は、『縮んでいた』。
「……触れたわけではない。ふむ、分けるだけかと思いきや、触れることすら出来ぬのか」
「あの……大丈夫、ですか?」
生身の肉体でエギルの生石に触れようとしたのだ。万物を拒み、また万物に拒まれる生石を前に猛然と振るわれた拳は、バルサルクの膂力によって押し出され、またそれとは反対に拒み、拒まれたため引き返された。結果、バルサルクの屈強な拳はその双方の力を受け、骨や肉ごと圧迫され、縮むこととなった。想像するのにも怖気が走る痛みがあるにも関わらず、バルサルクは淡々と今起きた事象について考えを巡らせている。
「大丈夫なわけがなかろう。これは痛い。さすがの儂でも涙が出そうだ」
「す、すすすみませんっ」
模擬戦が始まった時の凄然とした様子とは打って変わり、ヘコヘコと頭を下げるエギルに、涙が出そうだと嘯いたバルサルクは豪快に笑い出す。
「謝ることはない。模擬戦ではあるが、武人としての戦いに損傷は付き物じゃ。傷を恐れぬ者の誉れであり、お主にとっては勲章として胸にしまっておくがいい」
「でもそれでは、もう何も握れないのでは――――」
エギルの言葉が途中で途切れる。
「いらぬ心配だ」
信じられないことに、バルサルクが笑顔のまま振る手は、先程まで骨格を歪ませる程収縮していた拳は、いつのまにか元の形へと戻っている。無骨な、武人の手へと。
「儂はすでに半神の身じゃ。命を絶たれぬ限り、儂の肉体は不変。この程度の怪我、何てことないわい」
ユグリル王国騎士団長、バルサルク・セルスフォード。最強の肉体と最高の知識力を兼ね備え、唯一の神との同調者。故にその身はすでに人の器に収まらず、神に近づいている。
「……だから化物なのよね」
「声がでかい」
シルファの呟きを否定せず、イングナルは注意を促すだけ。二人は過去、幾度となくバルサルクの規格外の力に振り回されるという、特訓と称される何かに蹂躙されて、今の位まで這い上がってきたのだ。その過去の軌跡を思い出し、二人揃って身を震わせている。
「王よ。もう一度、この者との手合わせを願いたい」
「勝敗は決していたであろう」
「ああ、確かに完敗でありました。だが、あまりにも不完全燃焼なのです。この者の力量を侮っていた。所詮、偶然生石を手にしたただの凡夫かと思いきや、中身は立派な武人であった」
笑いながら、バルサルクは先程まで全治に何ヶ月もかかるはずの重傷だった手でエギルの頭をポンポンと叩く。動作自体は非常に軽快なのだが、それをバルサルクのような大男がやるとその威力も段違いだ。エギルは、これは最早攻撃の範疇じゃないかと思いながら、今自分がどんな状況にいるのか必死になって思いを巡らせている。
今、間違いなく、自分は命の危機に瀕している。
「このまま終わってしまっては、武人として名折れ。そして、この者に対しての侮辱に他ならない。今一度、全力でやらせていただきたい」
全力。そうバルサルクが口にした瞬間。騎士二人の体が目に見えて震え始める。そして、その口にした者の一番傍にいるエギルの身にも、一瞬にして緊張と恐怖が駆け巡る。
いつのまにか、バルサルクの表情から笑みが消えている。あるのはただ、武人としての凄然とした雰囲気。殺す覚悟と、殺される覚悟を併せ持つ瞳。騎士団長としての、プライド。
「……よかろう。だが、殺すなよ。その者は、すでに予の元で力を振るうことを約束された身だ」
「だ、そうだ。坊主……いやエギル・アヌミノン。貴殿と再度、手合わせを願いたい」
断ったらこのまま頭を握り潰される。そんな予感、というより最早予知に近い光景が頭に浮かび、エギルは半ば涙目のまま頷く。
「うむ。次こそは儂も全力で応じさせてもらおう。ははははっ、これは楽しみだ」
部下に代わりの大剣を運ばせ、それを受け取る。感覚を掴むために二度三度振るわれた大剣からは、突風に似た衝撃が迸る。片手での素振りで、その威力でありながら。
「さぁエギル。構えるがいい。貴殿の腕前、その生石と共に剣を持って儂に示してみよ」
両手で柄を握り、正眼の構えでエギルと相対する。
「エギルッ、無理だからやめなさい! 早いとこ頭を下げて帰ってきなさい! 死ぬから! 本当に死ぬから!!」
シルファの叫びの信憑性が、目の前の騎士団長から痛い程伝わってくる。今まで感じたことのない、敵意とも蔑視とも違う、殺意という意志を一身に感じ、エギルの身は竦む。
(あれに、勝つ? いや、それよりも、生き残れるのか……?)
臆病と謗りを受けることも畑違いにさえ思える程の、圧倒的な力量の差を感じ、剣を構えることが出来ない。殺されることは……恐らくない。だからといって、それで恐怖が薄れることはなく、相対するだけで体の震えが止まらない。
(これが、王国騎士団。僕が、入り込もうとしたもの……)
身の程知らずだと自らを罵りたくなる。力量を正しく測れず、自滅の途を辿るなど愚の骨頂だ。
だけど。
『臆するな』
声が聞こえる。耳朶に飛び込む音ではなく、もっと傍から、直接心に語りかけてくるような。
『おまえが手にしているものは私だ。ならば、おまえが怯える道理などない』
「フェヴニル……」
『私を手にしている限り、常に怯えるのはおまえではない』
確証のない言葉。だが、それを誰が発しているのか。
「……わかったよ」
最愛の友が口にする言葉を、信じずにいるなどありえない。
怯みのない、決意のこもる瞳を持ってエギルは半神の騎士団長を見つめる。その睨みを受け、バルサルクは更に深みの増した笑顔を浮かべる。
それでこそ、儂の全力に相応しい。そう語るように。
「ユグリル王国騎士団長、バルサルク・セルスフォード」
「ユグリル王国、女神近衛騎士……希望。エギル・アヌミノン」
互いに口上を述べ、構えを取る。
「行くぞっ!」
爆発音に似た打撃音がバルサルクの足元から響く。一発の巨大な弾丸と化した、猛然の特攻。先手を取ろうとしたエギルと同じ動作ながら、その威力と速度は段違いに強く、速い。
特攻の勢いのまま、バルサルクは大剣を振るう。だが、間合いはまだ遠く、応対しエギルが剣を振ろうとも刃は交戦しない。
――が。
「うぁっ!」
刃は触れてさえいないのに、その振るわれた大剣から迸る剣圧の凄まじさ。その衝撃は、距離を隔てていたはずのエギルの身に突風として吹き荒ぶ。人として規格外の膂力を持って放たれた剣の軌道は、風を生み出し、半ばそれが駿馬の突進のごとき威力を持つ。体勢を崩すどころか、後方へ吹き飛ばされるエギルに、バルサルクは猛然と特攻を仕掛ける。エギルは苦し紛れに斬撃を放つが。
「おっと。触れるのはいかんのだったな」
足で床を穿つような衝撃を地面に叩きつけ、バルサルクの巨体が急停止する。エギルの斬撃は空を切り、その隙を逃さずバルサルクの大剣が振り下ろされる。再度吹き荒れる突風。
「くっ」
目に見えない暴力に蹂躙されたエギルの体は枯葉のごとく飛ばされ、城の壁へと叩きつけられる。だが、一度の追撃で済むわけがなく、今度は形ある暴力、大剣の刃が頭上から壁を背にし咳き込むエギルへと振り下ろされる。
「――っああ!!」
渾身の力を込め、エギルは剣を上方へ向けて振る。大剣に触れさえすれば勝てるという確信を込めて放たれた斬撃は、今度こそ確実にバルサルクの大剣を捉えたかように見えたが。
「ぬんっ!」
またしても、規格外の筋力と、自らの肉体を傷つける覚悟を持った気力で、バルサルクはエギルの剣が届かぬ位置で無理矢理大剣を止める。超重量の大剣の勢いを無理に止めた筋繊維は軋み、ブチブチと断裂する音が聞こえてくる程。だが、バルサルクはその痛みに一切顔を歪めることはない。
そして、止められたのは大剣という物体のみであり、形のない突風はそのまま下方へと水流のごとく叩きつけられる。
「あぁぁ!!」
滝を浴びるような、重力が増したような。そんな感覚に近い圧迫感。エギルの骨格が軋みを上げ、体が潰される寸前、何とか剣をバルサルクの足元へと突き刺す。
「ぬぉ!」
触れるだけで断絶される。そのことが頭に入っている以上、エギルの放つ斬撃を避けなけばならない。バルサルクはその場から飛び去り、距離を取る。その間に、エギルも何とか姿勢を戻し、剣を構える。
「一筋縄ではいかぬな。結構結構。すぐに決着が着いては、せっかく情けで始めた試合も割に合わん」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
最早殺し合いに近い戦いだというのに、軽口を叩けるバルサルクの神経に空恐ろしさを感じる。大熊と相対した時よりも濃厚な命の危機を前に、エギルは言葉を発することも出来ず、ただ息を整えることに尽力する。
「貴殿の生石は恐ろしいが、触れなければどうということはないな。だが、貴殿の場合、生石だけではなく、本人の能力の高さも恐ろしい。いったい、どのような訓練を積んできたのだ」
「えっと、森で狩りとかしてました……」
「ほほぉ、実戦を繰り返すときたか。なる程、それはおもしろい。数をこなすことは何よりも大事な訓練方法じゃ。良き師がいたものだ。その師を狩って生きてきたわけだな」
「無駄話はせずに、早々に終わらせよ。バルサルク、おまえは謁見の間を完膚なきまで破壊するつもりか」
バルサルクの剣圧から放たれる突風はもちろん、壁ごと切り裂いたりと謁見の間は様相をひどく凄惨なものとしていた。調度品の数々は風で追いやられ、ほぼ壊滅状態に近い。王自身にはイングナルが生石を顕現させ、その威力を吸収することで抑えてはいたが、玉座以外は一度改装を余儀なくさせる程だ。
「予としては非常に心躍る見世物ではあるが、何事も限度があろう。そこいらで終いとせよ」
「……無粋ではあるが、致し方あるまいか」
王の言葉を無粋と称する騎士団長も、この王国にしかいないだろう。無礼な物言いに対しても、王はただ笑みを浮かべているだけで特に言及もしない。いったいこの騎士団長は何者なんだろうと、毎回騎士二人は謎に思う。
「エギル。残念ながら次で終いだ。互いに全力を持って、この決戦を誉れあるものにしようではないか」
「……はい」
またしても、バルサルクは正眼の構えを取る。向けられた剣先から発せられる殺気に、身が竦む程の恐怖を感じる。だが、その恐怖を振り払うように、エギルもまた同じ構えを取った。
「ほぉ、面白い」
互いに同じ構えのまま、相対す。バルサルクの武器は巨大で広いリーチと、規格外の膂力。そして騎士としての剣技。狩りで鍛えた腕前があろうと、その差は大きい。だが、そんなことはすでに理解出来ているし、理解した上で始めた戦いだ。今更、そのことで思い悩むべきことでもない。
一人で戦っているわけではなく、友を手にして戦っている。エギルにあるアドバンテージは、たった一つ。たったそれだけで充分だからこそ、エギルはここで剣を構えられる。
「では、参る」
バルサルクが構えを上段に変える。ただ振り下ろすことした出来ない構え。だが、そのただ振り下ろすという行為はバルサルクの膂力を持ってすれば、目に見えない風の大砲とも言うべき、恐るべき飛び道具へと変わる。
「ぬぅん!!」
裂帛の気合の元、大剣が振り下ろされる。その剣圧によって放たれる風の大砲。そして、その見えない砲弾に追いつきかねない速度を持って、バルサルク自身も自らを砲弾のごとき勢いで肉薄してくる。
その激烈さすら、恐れる必要はない。そう友は言った。なら、その言葉通り、エギルが恐れる道理などないのだろう。剣を上段に構え、目を閉じ、自らの深層に語りかけるような感覚で。
「――フェヴニル!」
エギルは、確信を持って、友の名を叫んだ。途端、この場にいる全ての者に『怖気』が走る。名を呼ばれた友は様相を暗く変える。
刀身を仄かに黒く、灰色に変じた剣を、エギルは目の前の衝撃に叩きつけた。
目に見えない砲弾であった突風は、自ら裂けるように、剣の切っ先を避ける。そして、その後を猛然と突進してきた目に見える砲弾に向けて、エギルは返す刃で切りかかる。バルサルクは目を見開き、目の前で起きた事象に対し驚きを露わにするが、それでも大剣を振りかぶる。
だが、忘れてはならない。何故、エギルに恐れる道理がないのか。恐怖を覚える必要がないのか。
自らを害せない、触れられない物に怯えるなど、愚の骨頂に過ぎない。
「あー!! エギルだーーー!!」
決戦の場に響き渡る。聞き覚えのある間抜けな声。
「リ、リヴ……?」
エギルの友は悠然とバルサルクの大剣を切り分け、そして、バルサルク本人の肉体に届こうとしていた。その光景を見て、どうしたわけか、リヴは更に笑顔の輝きを増していく。
「エギルにシルファ、イングナル。そして団長のおじちゃんもいる! わー! みんないるー!」
一週間という短い期間ではありながら、やはり傍にいないことで不安も大きく、苦しい日々が続いていた。だが、こうして会うことが出来て、エギルの心に安堵が広がる。生石の剣の形から、ただの石の形に戻し、リヴに向き直――
「え、えっと。久しぶり、リヴ。元気にしてた――」
「遊ぶならボクも仲間に入れてーーー!!」
――ったところで、バルサルクの特攻にも勝る勢いで突貫してきたリヴの突撃を受け、後頭部から謁見の間の高級感溢れる絨毯に落ちていった。
「~~~~~~っ!!」
絨毯があるためゴン、という鈍い音はしなかったものの、後頭部への高所からの叩きつけは激痛である。悶絶するエギルに気づかぬまま、リヴは自分の額を彼の胸に擦りつける。
「わぁ~! 久しぶりのエギルだ~! ねぇねぇ、何して遊んでたの!? ボクも仲間に入れてよ~!」
「はっはっはっは、なる程。確かに英雄の近衛騎士に、そなた程の逸材はおらぬな」
玉座から聞こえる笑い声に、ようやくエギルの意識が正常の状態に回帰してくる。
「良かろう。今この場をもって、そなたを幼英雄の近衛騎士に任命する」
「同じ騎士となったのだ。また後日、再戦を願うぞ。風をも分けるとは思わなんだ。またしても不完全燃焼だからな」
ギラギラと熱意に燃えた瞳のまま、バルサルクはエギルに向け手を差し出す。どうやら、決着は着いたと考えていないようだ。確かに、彼の場合、あのまま切られようがお構いなしに戦いを続けてもおかしくない。
「……はい」
二度と剣を交えたくないと思いながらも、バルサルクの血気盛んな瞳に何も言うことが出来ず、エギルは差し出された手を取る。
その向こうで幼馴染の騎士二人は、ようやく、長く重く強い溜め息を吐いた。
*
夜の帳がすでに落ちた夜半。月の明かりだけを光源とした謁見の間には、玉座に座る王、ユグリルだけがいた。彫りの深い厳格な顔つきを歪め、身じろぎ一つせずに双眸を堅く閉じている。物音はなく、ただ荘厳な雰囲気だけが漂う空間。王は一人、ただ黙していた。
后を娶ることなく、跡継ぎさえもいない。孤高でありながら、王は多くの家臣を従え、この国を動かす手腕を持ち合わせていた。人の器でありながら、同じ人の頂点に立つ者は、頂点故に孤高で在り続けなければならない。理解されず、理解することもしない。単一であることを是とし、一番身の危機に気を配るべきこの夜半の時間帯でさえ、近衛騎士を迷いなく下がらせている。
王は常に単独でなければならない。ユグリルはそう考えている。否、『いた』。最早その認識さえも過去のものとなった。
その思考は、すでに人の器ではなく。
「王よ」
「……バルサルクか」
いつのまにか、一番の忠臣が謁見の間に現われていた。巨躯を器用に操り、物音を一つ立てずに歩くことを平然とこなし、王座の前に跪く。
「これから口にする無礼をお許しください、王よ」
「構わぬ、話せ」
「なぜ、あの少年を近衛騎士としたのですか」
バルサルクの双眸が鋭く細められる。家臣としての忠義はもちろんその視線には込められている。が、如何せん王の考えが読み取れない。故に家臣の眼差しは、多少なりとも疑惑の念が混じっている。
「なぜ、か。そんなこと、些事に過ぎぬではないか」
だが家臣の疑惑の念を、王は羽虫を払うような素振りで邪険に扱う。王の粗暴な態度など日常茶飯事で慣れていた家臣は、更に問う。
「ですが、今は大事な時期でありましょう。それなのに異分子を抱き込む余裕などありませぬぞ」
「些事に過ぎん。たかが人と神一匹ずつだ。度の過ぎない頼みであるならば、受け入れるのも王の器だ。それに、あの女神の喜びようを見よ。さぞや歓喜してくれたであろう」
バルサルクの脳裏に、昼間の女神の喜びようが目に浮かぶ。まるで、親に縋る子どものようなはしゃぎ方に、バルサルクは違和感を感じていた。
「……ですが、いらぬ希望を懐かせます」
「多いにけっこう。歓喜に満ちてくれるのであるならば、予の行いにも多少の目を瞑ってくれよう。何せ、予の計らいで得た幸福なのだから、予の計らいで奪おうとも良いではないか」
圧倒的な上位からの物言い。与えたのだから奪うのも良しとする考え方に、バルサルクは渋面を作り上げるが、王にそれを向けずただ豪奢な赤絨毯を見るように俯く。この赤絨毯の上で死闘を繰り広げた少年の、誠の決意を込めた熱い瞳を思い出す。
あの少年は、何を成す為に儂に牙を向いたのか。報告の上ではただの農村の村人に過ぎない少年が、騎士の長たる者に猛然と剣を震える覚悟。その重みを察せられない王ではなかろう。……否、察せられても尚、その願いを踏み躙ることが出来るということだろうか。
―――ああ、我が王は、ここまで堕したか。
王は笑う。顔を逸らし、腹から声を上げて笑う。だが決して、その在り様は毅然さも気高さも失わずに。
「長らく、長らく待った。先住の者達にはもう充分過ぎる程に敬意を払ったであろう。よい、もうよい。予は予の願いを、予と志を共に持つであろう臣民のために叶えようぞ」
謁見の間に朗々と響きたる笑い声。それはまるで、勝ち鬨を挙げているかの如く、勇ましい。
「取り戻すのだ。土地を、富を。万物を余さず我らの手中へと。奪われたのだから、取り返すのが道理であろう」
王たる威厳などそこにはなく、狂人の様相を持って歓喜に震えていた。
*
旋風と呼ぶに相応しき風が唸りを上げて吹き荒れる。長槍の穂先がその風を切り刻み、その上また更に強くうねる様な突風を生み出す。イングナルの額から飛び散った汗が、その風に巻かれ霧散する。二重三重の連なりとなった風の壁とも言うべき圧力を全身に感じる中、長槍に刻まれた文様が妖しく光る。その発光を目に収め、イングナルは動きを静止し。
「――はっ!」
裂帛の気合と同時に、長槍の刃で巨大な弧を描いた。その軌跡から、先程まで吹き荒れていた旋風がそよ風に思える程の衝撃を伴う突風が『解放』された。
「……この真夜中になんて傍迷惑な特訓してんのよ、あんたは」
欠伸を噛み殺しながら、寝巻き姿のままシルファが家の裏門を開けて出てくる。エギルのために買い取った屋敷の裏庭から放たれた突風は近隣の家々を轟かせ、驚いた住民が部屋に明かりを灯していくのが目に見える。時間にして宵の刻。安眠妨害以外の何物でもなかった。
「……落ち着かず、つい、な」
「あんたの心の平静のために、近隣住民の安静が犠牲になってるわよ」
幸い、実体の伴わない風による衝撃に過ぎない故、目に見えて被害は少なく、また証拠も残らない。だが、連日連夜続くようでは異常気象として調査が始められかねない。
「一応、気を使って制御はしている。本気でやったら家を根こそぎ吹き飛ばすぐらい出来るからな」
「そういう問題でもないでしょうに……」
考え方が堅いくせにどこか一つ螺子が間違えて付けられているような友人に辟易するシルファ。そういった変り種の部分があるからこそ、村の中でも気の置ける友人として成り立っていたのだろう。シルファ自身もイングナルの性格は嫌いではなかった。むしろ、それはそれで面白い性格だ、などと無体なことすら考えている。
「それで、どうしたのよ。自主特訓はそりゃ、あたしだってしてるけど。ここ数日のあんたの特訓量は異常よ?」
エギルと女神を連れて王国へ帰還し、この屋敷を買い取ってから一週間。イングナルは連夜、裏庭にて自主的な特訓をしている。元より勤勉で騎士としての在り様のモデルとさえ評される程の訓練量を誇っていたイングナルではあるが、ここ連日の様子は異常に思えた。鬼気迫る様子。そういった表現が当てはまる程の形相と熱意で長槍を振り回している。
「あんた、何を焦ってるのよ」
そう聞きながら、シルファにはその理由に思い辺りがあった。
「逆に聞くが、どうしておまえは焦らずにいられるんだ」
イングナルは服の袖で額の汗を拭いながら、刺すような視線でシルファに問いを返す。
「……やっぱり、エギルのこと?」
「おまえも見ただろう。今日のあいつの戦いを。あの戦いを見て、どうして平静でいられる。少しも、焦りはないのか?」
謁見の間で繰り広げられていた死闘を、再度シルファは脳裏に蘇らせる。騎士団の騎士にとって、バルサルクと一対一にという状況はすでに『詰み』と評しても誰もが首を縦に振る程の共通認識だ。そもそも、騎士団員総がかりで挑んだところで勝機を見出すことが出来るか、などと弱気なことさえ考えられてしまう程、騎士団の団長の強さは常軌という人間の枠を逸している。何せ、嘘偽りなく『神』なのだから。大陸唯一の同調者の伝説は近隣各国にまで響き渡っている。
だからこそ、その大陸最強と謳われしバルサルクに肉薄し、戦いきったエギルに対しての驚きは尋常ではない。それどころか、もしあそこで女神の突然の乱入がなければ、エギルの持つ刃はバルサルクの肉体を切り裂いたかもしれない。模擬戦において、それは間違うことなく『勝利』だ。
村では忌み嫌われ、迫害されていた少年が、大陸最強の戦士に打ち勝つ。それが二人の友人にとって、どれだけの衝撃だったか。
そして、それを可能にした、彼の持つ生石の能力。イングナルと違い、初見であったシルファの衝撃は更に大きく、尾を引いていた。
「重ねて聞くが。おまえは、今のあいつに勝てるか?」
「……正直、わかんないわね」
苦々しい気持ちが表に出て、シルファは思わず嘘をついた。シルファ自身、確信を持って言える。あたしはあいつに勝てないだろう、と。そしてそれは、同じように渋面を更に濃くしたイングナルも同様の見解だった。
「情けない話だが。俺は、あいつが恐ろしくてしょうがない」
「……ほんとに情けない話ね」
嘲るシルファも、心の中では同じように思っていた。エギルを守るために力をつけ、騎士となった。それも、二人の共通の認識である。だが今、彼の持つ生石、そしてそれを扱える彼の技量の高さをこの目で目の当たりにして、その認識が瓦解している。
「……なぁ、本当にあいつは、俺たちの知ってるエギルなのか」
馬鹿なことを。そう、イングナルの疑問を一蹴することは出来なかった。その疑問を払拭出来るだけの材料が、今の二人には足りていない。
望んでいたはずの、三人で楽しく暮らしていた一週間だけでは、胸の内に巣食う正体不明の不安と恐怖を拭い去ることが出来なくて。
「……模擬戦、やる?」
「……ああ」
普段は喧嘩ばかりで馬の合わない二人だが、根っこの部分は相違ない。迷いを払拭するためには、迷いなく体を動かすことを選択した。