婚約解消の話し合いにまで幼馴染を連れてきた婚約者へ。お二人の結婚支度は、ご自分でどうぞ
「リュシアン様が、お連れの方とお着きです」
客間で待っていた私は、取次の使用人へ顔を上げた。
「お連れの方?」
「ラクロワ子爵家のオディル様です。ご一緒にお話ししたいと」
向かいには、まだ誰も座っていない椅子があった。
今日は婚約を解消するための話し合いだった。
私の父とドレ伯爵は、先に書斎で書類を確認している。
リュシアン様は、遅れて自分の馬車で来ると聞いていた。
「こちらへお通ししてください。何のお話か、伺います」
使用人が頷いて出ていく。
膝の上で重ねていた手を、私はそっと離した。
やがて扉が開き、リュシアン様が入ってきた。
その腕に、オディル様が手を添えていた。
「待たせたね、アデルミーヌ。彼女にも関わることだから、一緒に説明したいと思って」
彼女は彼の隣へ座った。
いつもの外出なら、私はそのあとで、残った場所へ座る。
今日は私が先に座っていた。それでも、向かいには二人が並んでいる。
「私も、何も言えないまま悪く思われるのは困りますから」
オディル様はそう言って、私を見た。
「三人でお話しすれば、分かっていただけると思うのです」
私は彼女から、リュシアン様へ目を移した。
「最後の話まで、二人ではできないのですね」
彼が眉を寄せる。
「彼女をここに連れてくるのも駄目なのかい?」
「今日は、私たちの婚約を解消する話です」
「だから、誤解を残したくないんだ」
私は入口に控える使用人へ、父たちを呼んでほしいと頼んだ。
リュシアン様が、口を開きかける。
「正式な話は、父たちと一緒にします。その前に、ご説明は伺います」
今度は、彼も黙った。
◇
二年前、初めて一緒に庭園へ行った日。
リュシアン様は、案内図を私へ見せた。
「温室と噴水、どちらから見よう」
「温室を、先に」
「では、そちらへ」
母が少し後ろから歩いてきた。
私たちは温室で、季節の違う花を見た。
小さな白い花を指して、私が名前を読むと、彼は屈んで覗き込んだ。
「ずいぶん小さい。君が教えてくれなかったら、見落としたよ」
私は、その言葉が嬉しかった。
温室を出てからも、見た花について話した。
彼は次の季節にも来ようと言ってくれた。
両家の紹介で決まった婚約だったけれど、私は彼と会う日を楽しみにするようになった。
彼も私が行きたい場所を尋ね、自分の見たいものを教えてくれた。
オディル様は、その頃から彼の幼馴染だった。
家同士が親しく、子供の頃には互いの家を行き来していたと聞いた。
初めて紹介されたとき、彼女は明るく挨拶をしてくれた。
「これから仲良くしてくださいね」
私も、そのつもりだった。
変わっていったのは、一年ほど前からだ。
約束の日に彼の家へ着くと、オディル様が待っていることが増えた。
「今日は私も行っていいでしょう。一人で待つのは寂しくて」
彼女はリュシアン様へ尋ねる。
彼はすぐに頷き、それから私を見る。
「いいよね、アデルミーヌ」
彼女も私を見ている。
その前で、来ないでほしいとは言いにくかった。
ある日、私は温室で新しく咲いた花を見るつもりでいた。
リュシアン様にも前から話し、彼が見学の日を決めてくれた。
けれど、その朝もオディル様がいた。
「温室は暑くて苦手なの。湖のそばのお店はどう? 冷たいお菓子があるでしょう」
彼は、私が返事をする前に、御者へ行き先を変えるよう告げた。
「花は、また今度見よう」
その日、湖のそばでお菓子を食べた。
オディル様は楽しそうだった。
リュシアン様も、彼女の話によく笑った。
私は帰ってから、見たかった花の開花時期を確かめた。
次に彼と会える頃には、もう終わっていた。
それでも、最初は譲った。
一緒に出かける約束まで、なくしたくなかった。
けれど、同じことが続いた。
私は二人で話す機会に、お願いした。
「オディル様とお会いになるのを、やめてほしいのではありません。私との約束を変える前に、相談してほしいのです」
「彼女も、毎回ではないだろう」
「今日も、私は行く場所が変わると知りませんでした」
彼は少し考えてから、分かったと言った。
二度目には、母へも相談した。
父がドレ伯爵へ事情を伝え、リュシアン様からも謝罪があった。
「次は、先に君へ聞くよ」
その約束を、私は信じたかった。
結婚式まで、あと三か月という頃。
料理と花の打ち合わせに、彼はオディル様を連れてきた。
披露宴は私の実家で開く予定だった。
両家の招待客を迎えるため、父たちが費用を分担している。
私は自分の衣装や装花を選び、我が家から招く方々を母と確認していた。
オディル様は、料理の案を見て言った。
「このお魚より、前にいただいたお肉のほうが好きだわ。ねえ、変えられない?」
彼は頷いた。
「料理人に聞いてみよう」
「それから、私のお友達も呼んでいいでしょう。三人ほど」
私は母の隣で、膝に置いた紙を握った。
「今日は、私たちの結婚式の打ち合わせです」
彼女は顔を上げ、きょとんとした。
「ええ。だから、私も楽しみにしています」
リュシアン様は、困ったように私を見た。
「彼女も大切な客になるんだ。少しぐらい、希望を聞いてあげても」
母が、客の追加も料理の変更も、その場では決めないと告げた。
その日の打ち合わせは、そこまでになった。
夜、父へ婚約を解消したいと話した。
「前に申し入れたことを、まだ覚えているはずだが」
父はそう言ってから、私の返事を待った。
「覚えていらっしゃいます。でも、私が譲れば済むと思っているのです」
父は静かに頷いた。
「分かった。解消の希望を、正式に伝える」
◇
客間へ入ってきたドレ伯爵は、オディル様を見て足を止めた。
「なぜ、君がここに?」
彼女は椅子から立ち上がった。
リュシアン様が、父へ説明する。
「彼女のことを誤解されたままでは困るから、僕が誘いました」
ドレ伯爵は息子を見たあと、私と父へ頭を下げた。
「予定にない同伴で、失礼しました」
父は椅子に座り、オディル様へ尋ねた。
「説明したいこととは?」
彼女はリュシアン様を見た。
彼が頷く。
「私たち、結婚したいと思っています」
私は膝の上の紙へ目を落とした。
それは今日確認する事項を書いた、父から渡された紙だった。
解消することは、もう決めていた。
それでも、すぐに顔を上げることができなかった。
「申し入れをいただいてから、二人で話したんだ」
リュシアン様が言った。
「僕がまた誰かと婚約したら、彼女は今のようには会えなくなる。それは、僕も嫌だった。ようやく、自分たちの気持ちに気づいたんだ」
私は、顔を上げた。
「私との約束を変えてまで、彼女には会いたかったのですね」
彼の返事が止まった。
オディル様が、急いで口を開く。
「気持ちが変わるのは、仕方がないでしょう。誰かが悪いということではなくて」
「それを、お伝えに?」
「ええ。円満に解消したと、皆様へ説明していただければ」
リュシアン様も、私へ頷いた。
「君に悪く思われたまま、結婚したくはないんだ」
私が苦しかったことをなくせば、二人は気持ちよく結婚できる。
そのためにも、私は譲るのだろうか。
「お二人が結婚することを、私が妨げるつもりはありません」
彼女の表情が明るくなる。
私は、続けた。
「でも、私が解消をお願いした理由は変わりません。相談もなく約束を変えられ、やめてほしいとお伝えしても繰り返されたからです」
リュシアン様が私を見る。
「それを、なかったことにはできません」
ドレ伯爵が、息子の横へ座った。
「オディル様。ご意向は伺いました。ただ、あなたはこの婚約の当事者ではありません。これからの条件確認には、席を外してください」
彼女は彼の顔を見た。
リュシアン様は何も言わなかった。
使用人が別室へ案内すると、彼女は手にしたバッグを持ち直して出ていった。
父が、机へ書類を置いた。
婚約は両家の合意で解消する。
贈答品を返し、各家が出した注文を整理する。
父の声を聞きながら、私は一つずつ確認した。
その途中で、ドレ伯爵が別の契約書を取り出した。
「これは、息子が追加したものです。こちらの負担で処理します」
遠方の楽団と、特別に取り寄せる酒の注文だった。
私は、どちらも見たことがなかった。
「通常の支度とは別に注文していました。清算のために全て提出させて、私も初めて知りました」
伯爵が息子へ顔を向ける。
「承認した予算に含まれていないと、分かっていたな」
「あとで相談すれば、何とかなると思っていました」
「誰に?」
彼は父の顔を見て、それから私の父を見た。
私の父は、黙っていた。
「オディルが、その楽団を好きだと言って。それに、酒も、彼女の家で飲んだものがよかったから」
私は契約書の端にある署名を見た。
予約金は、彼自身が払っていた。
残額の支払日と、取り消す場合の費用が書かれている。
「アデルミーヌとの支度でも、私が追加分を支払う約束はしていない」
ドレ伯爵は、契約書を息子の前へ置いた。
「残すか、取り消すかを、費用を確かめて決めなさい。支払いが必要な分は私が立て替える。ただし、お前の手当から返してもらう」
「手当から、ですか」
「お前が自分で署名した注文だ。お前が判断した費用として扱う。今後の支度の発注は、署名前に私が確認する」
リュシアン様は、紙を見つめていた。
私の父は、我が家が契約した分はこちらで清算すると伝えた。
「会場の提供と、予定した接遇も、この解消によって終了します」
彼が、顔を上げた。
「あの日は、空けていただいているのですよね」
「私の娘の結婚式のために、空けた日です」
父の返事は、短かった。
彼はそれ以上尋ねなかった。
書類の確認が終わった。
私たちは必要な署名をし、父たちが今後の清算について話した。
その間、私は彼の次の予定を尋ねなかった。
オディル様を待たせているから急ごうとも、言わなかった。
◇
婚約を解消して二か月後、伯母に誘われ、郊外の庭園へ行った。
伯母はルノー子爵夫人と待ち合わせていた。
子爵夫人は息子のシルヴァン様と一緒に来ていた。
以前、伯母の家で挨拶を交わした方だった。
「お久しぶりです」
彼は挨拶をして、脇に抱えた小さな画帳を持ち直した。
伯母が、それを指して言う。
「今日は、何を描くつもり?」
「西の回廊を。以前は工事で入れなかったので」
入口の案内図で、私も回廊を探した。
温室とは、反対側にある。
「アデルミーヌ様は、どちらをご覧に?」
聞かれて、私は一瞬迷った。
「温室を、少し。でも、回廊でも」
「僕は、そちらをゆっくり見たいのですが……」
彼は案内図を見たまま、考えた。
私は、回廊でよいと言おうとした。
先に彼が顔を上げる。
「温室は、昼から見学できる時間が短くなるのですね。先にそちらを見てから、回廊へ行きませんか」
子爵夫人が帰りの馬車の時間を確かめ、伯母が頷いた。
私は、もう一度聞いた。
「回廊で、描く時間はありますか」
「今日は建物を見て、簡単に形を取れれば十分です。全部仕上げるには、どちらにしても何度か通いたいので」
彼は画帳を軽く叩いた。
「あなたは、温室で何をご覧になりたいですか」
私は、見たい花の名前を言った。
彼は首を傾げた。
「すみません。分からないので、教えていただけますか」
温室の中で、私は目当ての花を見つけた。
淡い黄色の、小さな花だった。
彼は近づいて、鉢の札を読んだ。
「この葉の大きさに比べると、花はずいぶん小さいのですね」
「はい。前に見たものは、まだ咲いていなかったんです」
私が屈むと、彼は横へよけた。
日差しを遮っていたことに気づいたらしい。
花の奥まで見えて、私は少し顔を近づけた。
「見えました」
「僕も、こちらからなら」
後ろで伯母と子爵夫人が話していた。
私は急いで立ち上がらず、もうしばらく花を見た。
回廊へ行くと、今度は彼が柱を見上げた。
私も、隣で見上げる。
「ここは、どうして描きたいのですか」
「奥へ行くほど柱が細く見えるでしょう。絵にすると、ただ細く描いただけになってしまって」
彼が画帳を開いた。
何本も線を描き直した柱があった。
「これは、以前、門の外から見て描いたものです」
「今度は、ここから?」
「はい。うまく描けるかは、分かりませんが」
彼はそう言って、鉛筆を取り出した。
私は壁際の長椅子へ座り、柱を見た。
花を見たあとなので、回廊の涼しい風が心地よかった。
彼が時折、紙から顔を上げる。
それにつられて、私も奥を見る。
同じ場所にいるのに、私は建物より、その人が何を見ているのかを知りたくなった。
◇
その週、オディル様から面会の申し入れがあった。
リュシアン様と一緒に、会場について話したいという。
父は、無理に会う必要はないと言った。
「お父様も、ご一緒にお願いします」
私は、依頼内容を聞く一度だけと決めた。
今回は、二人で来ることを知っていた。
オディル様は客間の机へ、畳んだ紙を広げた。
花と料理と、呼びたい人の名前が書かれている。
「元の予定の日に結婚するなら、場所は空いているでしょう。貸していただくだけでいいのです」
隣のリュシアン様は、膝へ封筒を置いていた。
父が尋ねる。
「こちらの申し入れは、ご両親も承知ですか」
「今回のお願いは、私たちで考えました。父には、自分たちの予算で準備するように言われています。でも、費用を増やさずに済めばと思って」
私は紙を見た。
書かれた人数は、二十人や三十人ではなかった。
「会場を整える人と、お料理を出す人は、どなたが用意するのですか」
「前と同じ方にお願いできれば。もう、お仕事をご存じでしょう?」
私は父を見た。
父は、オディル様へ答えた。
「我が家の使用人は、我が家の客を迎えるために準備していました。お二人の婚礼のために働かせる約束はありません。会場も提供しません」
彼女の手が、紙の上で止まる。
「でも、準備は途中まで進めていらしたのでしょう」
「必要な取り消しと精算は、済ませています」
父は静かに答えた。
私は彼女を見た。
「私との結婚のために用意したものです。お二人の結婚支度は、お二人の家でお願いします」
オディル様は、リュシアン様へ向き直った。
「あなたが、私の望む式にしてくれると言ったでしょう」
彼は封筒から紙を取り出した。
「今ある予算では、ここに書いた人数は呼べない」
「楽団も、もうやめてしまったのに?」
「取り消しても、既にかかった費用は残る。予定どおり呼べば、さらにかかるんだ」
彼の前に、返済の計画があった。
楽団の取り消しには、手配済みの旅程の費用もかかった。支払済みの予約金を充てても、追加の支払いが残ったという。
酒は未手配の分を取り消し、調達済みの分はドレ伯爵家が引き取った。酒の代金は伯爵家が負担し、独断の注文で生じた取り消しや手配の費用は、彼の負担になった。
父が立て替えたその分を、彼は一年半かけて返す。
その間、毎月の手当の半分が返済に充てられる。
「こんなに長く?」
オディル様が、紙を覗き込んだ。
「あの日のあと、説明しただろう。僕の父は、もう追加で出さないと言っている。これ以上は出せない。今ある予算で選んでほしい」
彼女は、私へ顔を戻した。
「あなたなら、お父様にうまくお願いしてくださるでしょう。前にも、いろいろ準備を進めていらしたのだから」
「私の家が断ったことを、私から覆すつもりはありません」
「場所を貸してくださるだけでも、違うのに」
今度は、返事を重ねなかった。
彼女も、しばらく黙った。
リュシアン様が、私の名を呼んだ。
「君なら、助けてくれると思った」
私は、彼を見た。
以前と同じ声だった。
いいよね、アデルミーヌ。
そう尋ねるときにも、彼はこの声を使った。
「温室へ行く約束を、湖のお店に変えた日を覚えていますか」
彼は眉を寄せた。
オディル様が、小さく言う。
「私が、暑いところは嫌だと……」
「私は、前から花を見たいとお伝えしていました。でも、あの日は譲りました。あなたとの約束を、なくしたくなかったので」
リュシアン様が、視線を落とした。
「それは、申し訳なかったと思っている」
「私が譲ったから、皆が納得していたわけではありません」
オディル様の紙には、私が選んだものとは違う花が書かれていた。
あのとき断れなかった私が、また席を空ければ、二人はそこで結婚できる。
けれど、そのために私はここに座っているのではない。
「もう、同じことはしません。私は、お二人の結婚には関わりません」
父が、彼らの紙へ目を向けた。
「その支度は、決められた予算で、ご両家と相談なさってください」
オディル様はリュシアン様を見た。
彼は返事をしなかった。
彼女は、広げた紙の端を揃えた。
一度、まだ何か言いたそうに私を見たあと、自分で紙を畳んだ。
「お願いは、取り下げます」
リュシアン様が言った。
封筒へ紙を戻す手が、なかなか揃わなかった。
「今後の清算に関する連絡は、お父上と私の間で行います。娘へ支度の相談を持ち込むことは、お控えください」
父の言葉に、彼は頷いた。
使用人が扉を開けた。
二人は立ち上がり、それぞれ自分の紙を持って出ていった。
私は席に残った。
机に、引き受けた仕事はなかった。
◇
二度目の庭園見学では、私から回廊へ行こうと言った。
伯母と子爵夫人は、途中の休憩所でお茶を飲んでいた。
私とシルヴァン様は、二人から見える回廊の入口にいた。
「今日は、温室はよろしいのですか」
「まだ時間があります。先に描きませんか」
彼は私を見て、それから鉛筆を取り出した。
「では、少しだけ。長くなりそうなら、声をかけてください」
私は隣の長椅子で、柱の影を見ていた。
前に来たときより、床に落ちる影が長い。
「お昼前と、違うのですね」
彼が紙から顔を上げる。
「本当だ。前は柱ばかり見ていました」
画帳を傾けて、私にも見せてくれた。
さっきまでは白かった床へ、彼が影を描き足す。
「ここも入れると、どこに立っているのか、分かりやすくなりますね」
「私が見ていたのは、そちらからです」
長椅子から少し身をずらすと、彼も隣へ来た。
私が座っていた場所から、回廊を覗く。
「こちらのほうが、奥まで見える」
彼は一度私を見た。
「次は、ここから描こうかな」
私は、次もこの場所に来るつもりになっていた。
彼がまた紙から顔を上げるのを、隣で待ちたいと思った。
その帰り、彼は見学の日程について相談した。
家の仕事で領地へ戻るため、次に予定していた日は王都にいないという。
「先に決めていたのに、申し訳ありません」
「お仕事でしたら」
「その次の週はいかがですか。木曜か、土曜なら戻れます」
木曜には、母の親族を迎える予定があった。
土曜には、別の花の見学を伯母と約束していた。
「木曜でも……」
言いかけて、止めた。
約束を変える前に相談してほしいと、私は言ってきた。
私も、母へ何も言わずに予定を変えてよいわけではない。
「木曜は、家にお客様が来ます。土曜は伯母と、別の庭園へ」
彼は、少し残念そうな顔をした。
胸が落ち着かなくなったけれど、待った。
「では、さらに次の週なら」
伯母にも予定を尋ねて、私たちは日を決め直した。
そのあと、彼は言った。
「木曜に決まったと思いかけました。言い直してくださって、よかった」
私も、頷いた。
「少し、言いにくくて」
「僕も、仕事で先の約束を変えていただいたのに?」
その通りだった。
私は笑って、彼を見た。
「次は、初めから言います」
「僕も、返事を最後まで聞きます」
彼は伯母へ次の日を確かめ、私にも、これでよいかと尋ねた。
私は、今度は迷わず頷いた。
◇
夏の終わり、ドレ伯爵から父へ、婚姻の通知が届いた。
リュシアン様とオディル様が結婚した。
旧婚約に関する業者への清算は完了し、我が家への未処理の依頼や費用はないという報告も添えられていた。
「息子の返済は、決めた通り続けるそうだ」
父が言った。
私は頷いた。
二人の式へ、我が家からは誰も行っていない。
どんな花が飾られたのかは、知らない。
知るために、誰かへ尋ねるつもりもなかった。
私の机には、別の庭園の案内が載っていた。
次はシルヴァン様と、伯母たちと一緒に行く。
私は道順を確かめ、回廊と温室の場所へ、印をつけた。
◇
秋には、庭園以外の場所でも、彼と会うようになった。
伯母の家でお茶を飲み、母が招いた小さな集まりでは、彼と踊った。
踊りの前、彼は手を差し出して尋ねた。
「一曲、お願いできますか」
私は頷いた。
彼の手に、自分の手を重ねる。
「僕は、絵よりこちらのほうが不得意です」
「絵も、毎回描き直していらっしゃいますね」
「ええ。でも、踊りは描き直せないので」
笑ってしまった。
彼も笑い、最初の一歩を踏み出す。
一度、方向を迷ったけれど、止まらずに最後まで踊れた。
曲が終わると、彼が小さく息を吐いた。
「あなたが笑ってくださったので、助かりました」
「私は、楽しかったので笑ったんです」
彼は、その返事にも笑った。
私はもう一曲誘いたかった。
ほかの方との挨拶があるのを知っていたので、今夜は一曲にした。
それでも、次に会う日を尋ねることはできた。
冬が来る前に、私たちはまた最初の温室へ行った。
伯母と子爵夫人が、入口の花を見ていた。
シルヴァン様は、奥の鉢を指した。
「この花、あなたが前に探していたものですね」
同じ種類の、別の鉢だった。
春に咲いていたものを、温度を変えて育てていると札に書かれていた。
「覚えていらしたんですね」
「名前は、まだ少し自信がありません。でも、あなたが屈んで見ていたのは覚えています」
私が近づくと、彼はまた光を遮らない場所へ立った。
私は花を見て、それから彼を見た。
「回廊の絵は、どうなりましたか」
「影を直しています。あなたと見たところから描いたものです」
彼が画帳を見せてくれた。
あの長椅子から見た回廊が、紙の上にあった。
柱の奥が、前よりも遠く見えた。
「ここ、私も覚えています」
影の端を指で示す。
彼はその指先を見て、頷いた。
「お見せしたかったんです」
私は画帳から顔を上げた。
彼は、いつもより静かな声で続けた。
「次に会うときは、この続きを。そう考えながら描いていました」
温室の出口まで歩くと、伯母たちは先の長椅子で待っていた。
彼はそちらを確かめてから、立ち止まった。
「アデルミーヌ様。あなたに、正式にお付き合いを申し込みたいのです」
私は、頷こうとして、彼の次の言葉を待った。
「初めは、一緒に庭園を見られたら嬉しいと思っていました。でも、今は、見学の予定がなくても会いたい。あなたが今日は何を見たのか、何をしていたのか、聞きたいんです」
私は彼の手にある画帳を見た。
見せてほしい絵は、ほかにもあった。
けれど、絵がなくても会いたかった。
踊りの前に少し困った顔をしたことも、仕事から戻る日を相談したことも、覚えていた。
「私も、あなたと会う日を楽しみにしています」
彼が、じっと私を見た。
「行きたい場所を考えると、あなたと行きたいと思うんです。でも……お茶だけの日も、帰るのが惜しくなります」
彼の顔が、ゆっくり明るくなった。
「それなら、次は、お茶の日も増やしてよいですか」
「はい。私からも、お誘いします」
そう答えると、彼は画帳を落としかけた。
慌てて抱え直すのを見て、笑ってしまった。
「ご両親へ伺う日を、相談させてください」
彼は、今度はしっかり画帳を持って言った。
私は頷いて、伯母のところへ一緒に歩いた。
◇
春、私たちは婚約した。
父たちは暮らす場所と支度の費用を話し合い、私も領地での生活について、子爵夫人から聞いた。
彼の家では、すぐに父親から全ての仕事を任されるわけではない。
私も、知らないことを一度に覚えなくてよいと、子爵夫人は言ってくれた。
父は、私が望んでいることを確かめ、二人で相談を重ねる様子を見て、この縁を喜んでくれた。
婚約して初めての庭園散策で、シルヴァン様は回廊の絵を仕上げたいと言った。
私は温室へ行きたかった。
先にそう伝えると、彼は案内図を開いた。
「帰りは、三時でしたね」
母が頷いた。
今日は母が付き添っている。
「温室を見てからでも、描く時間はありそうです」
「私は、今日はゆっくり見たいんです。先に回廊へ行って、お昼のあとに温室はどうでしょう」
彼は少し考えた。
「そのほうが、回廊へ光が入る時間にも合いますね」
私も案内図を覗いた。
母に道順を確かめ、彼へ頷く。
「では、そちらから」
回廊で、彼が最後の線を描いた。
私はその隣で、紙の上の柱と本物の柱を見比べた。
描き終えると、彼は少し迷ってから、私へ画帳を見せた。
「この一枚を、受け取っていただけますか。最初の頃から、あなたと見てきた場所なので」
私が頷くと、彼は紙を切り離して差し出した。
私は丁寧に受け取り、持ってきた本の間へ挟んだ。
「大切にします」
彼は嬉しそうに頷いた。
母がお昼の時間を知らせて、私たちは回廊を出た。
食事のあと、温室へ続く道に立った。
私はシルヴァン様へ手を差し出した。
「次は、あちらへ一緒に行きましょう」
彼が私の手を取った。
歩き出す前に、私の持つ本を見て尋ねる。
「重くありませんか」
「いいえ。今日は、私が持ちたいので」
彼は笑って、頷いた。
私は本を抱え直し、彼と温室へ向かった。
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