僕が冬眠を始めた日
バレンタインデーが、昔から苦手だった。
というより、あの日が来るたびに、僕は自分がこの世界のどこにも
属していないような気がしていた。教室のざわめき、甘ったるい空気
そわそわと落ち着かないクラスメイトたちの様子。
それらすべてが、僕に「お前はここにいない」と告げているようだった。
中学三年の冬。受験を目前に控えた教室には、独特の緊張感が漂っていた。
けれど、その空気をかき乱すように、バレンタインという行事が近づいていた。
女の子たちは、まるで秘密の任務でも遂行するかのように
こそこそと動き回っていた。手提げ袋の中に隠された小さな箱や包み紙。
それを誰に渡すか、いつ渡すか、そんなことをひそひそと話し合っていた。
男の子たちは、何気ないふりをしながらも、心のどこかで期待していた。
もちろん、僕もその一人だった。けれど、僕の机の中には何もなかった。
下駄箱にも、ポケットにも、奇跡は起きなかった。義理チョコすら
僕の前を素通りしていった。
誰かが誰かに手渡す瞬間を、何度も目の端で捉えたけれど
その手が僕に向かうことは一度もなかった。まるで
僕だけが教室の空気から切り離されているようだった。
僕はただ、いつも通りの顔をして、いつも通りの帰り道を歩いた。
誰にも気づかれないように、心の中でそっとため息をつきながら。
途中の公園で、缶コーヒーを買った。自販機のボタンを押す指先が
少しだけ震えていた。ベンチに腰を下ろし、缶を開けると
ふわりと立ちのぼる甘い香り。二月の風は冷たくて
缶の温かさがやけに頼もしく感じられた。
そのぬるい甘さが、胸の奥にじんわりと沁みていった。
クラスで一番人気のある男子は、チョコレートを五つもらっていた。
彼はそれを机の上に並べて、まるで戦利品でも
見せびらかすように笑っていた。周りの男子たちは
羨望の眼差しを向け、女の子たちは照れくさそうに笑っていた。
僕はその光景を、窓際の席からぼんやりと眺めていた。
特に羨ましいわけじゃなかった。ただ、何かが自分の中で静かに
欠けていく音がした。それは、誰にも気づかれずに崩れていく
雪の結晶のようだった。
家に帰ると、母が「チョコ、もらったの?」と聞いた。
僕は「いや、別に」と答えた。母はそれ以上何も言わず
台所で味噌汁を温め直していた。その背中を見ながら
僕は何も言えなかった。テレビではプロ野球の
キャンプ情報が流れていたけれど、僕の頭の中では
誰かが遠くでピアノを弾いているような音がしていた。
それは、どこか懐かしくて、少しだけ切ない旋律だった。
あの日から、バレンタインデーは僕にとって特別な意味を
持つようになった。誰かに何かをもらえなかったことが
悲しかったわけじゃない。ただ、自分がこの世界のどこにも
属していないような感覚。その孤独が、静かに心の奥に根を張ったのだ。
それから何年も経った。高校、大学、社会人と
いくつものバレンタインデーを通り過ぎてきた。
義理チョコ、本命チョコ、友チョコ、逆チョコ。
いろんな形のチョコレートが行き交うたびに
あの中学三年の冬を思い出す。あのときの缶コーヒーのぬるい甘さと
空っぽの机の引き出しの感触。それは
僕の中の何かが静かに冬眠を始めた日だったのかもしれない。
今でも、二月十四日になると、あの公園のベンチに座っている
自分を思い出す。冷たい風に吹かれながら
缶コーヒーを握りしめていた少年。彼はきっと
何かを待っていたのだろう。誰かに見つけてもらうことを
心のどこかで願っていたのかもしれない。
でも、今ならわかる。あの冬眠は、終わりじゃなくて
始まりだった。自分の居場所を探す旅の、最初の一歩だったのだ。
あの静かな孤独があったからこそ、僕は今
誰かの孤独に気づけるようになったのかもしれない。
そして、今年もまた、バレンタインデーがやってくる。
僕はあのベンチに座り、缶コーヒーを片手に
あの頃の自分にそっと語りかける。
「大丈夫。君はちゃんと、ここにいるよ」と。




