善悪の彼岸を一通り読んで
]]]]]]]]]]]]]]]喜多は学校に不信任していた。
今日、部屋から出ない。
善悪の彼岸を手に、
布団にもぐりこみ読んでいた。
ふと思うのは、
善悪の彼岸と言う題名の意味すら理解しなくて良いと思うことであった。
ただ読みふけり、
やっとこさ、
読めた善悪の彼岸なのだけど、
理解というものは、
意味を知る、
考えにふける、
後は、
知識を使えばいいじゃないかということなのだった。
何故理解しなくてもいいと考えたのか。
それは、
紆余曲折もせず、
学校に問題があった。
鶴田や木下と話してる間に、
なにげもない会話に、
呆れてきているので、
もう誰も
喋りたくないという欲求が埋まれた。
不登校しながら、考える。
その繰り返しに、
学校とは、
結局、
生徒よりも、
先行のほうの考えで動いている。
ようするに、
学校とは生徒にとっては何のつまらない話を聞いてるだけの話なのだ。
だから思う。
結局、
善悪の彼岸を理解しようとして、
頭が固くなるのは、
先行のやることだ。
不登校を繰り返し、
勉強もろくにせず、
親にもう学校に行きたくないと親に言えば、
高校生になればそういうことも考えるのだろう。
そう親は部屋に閉じこもっているのを由とした。
善悪を理解する。そういうことはしないことに決めた。
理解するのではなくて、ここでいいたい、この世の中は前提が崩れるのが時代なのだ。
ドラゴンボールは古い。じゃあ次は何だ。エヴァンゲリオンか。
そうやって前提が崩れた。じゃあ理解なんてする必要も無く。
もっと他の理解と等式か不等式の、、、、ああどうなんだろう。
喜多は考えた「それを知るために善悪の彼岸を読むのではないのか」
とすると、「読むからこそ、私があるのではないか」