ニーチェを知らない子供たち。
この解決方法である「孤独」
喜多は家に帰り、
ただ思考することを求めた。
思考と言っても、
ただ求めるようにだけども。
本を読もうとしてもなかなか手のつけられない喜多は、
善悪の彼岸をイメージするだけしかなかった。
何故、
ニヒリズムという哲学は思考と交差していくのだろう。
喜多は前にある本をぼーと見ながら、
手を取りそうも無くただ本から逃げ延びるばかりであった。
しかし、その分考えることに没頭できる。
しかしそれはまだ高校生レヴェルだった。
中盤以降彼岸は読みづらいと思いながらも、
学校ともう離れて、
と考えるようになってきた。
昨日の誘いを受けて、さっちと木下と鶴田とななこと喜多と
そして酒を飲みに行った。
「ねえねえ喜多君何飲もうか」さっちは言った。
鶴田は苦笑していた。喜多はこう言った。
「帽子かぶるの止めようか。」
「そうだね、いいんじゃない別に脱がなくても。」
店員が来た。
「いらっしゃいませ、ご注文は何にしましょうか。」
彼らは次々と頼んだ。
「乾杯!」木下が先飲み干した。
さっちが言った。
「早く無い?」
鶴田は言った。
「2年の学校も、こんな感じでいいよな。」
喜多は、
「今のままは止めて欲しい。」
「何で。」
喜多は
「いや別に。」
鶴田は言った。
「もういい、喜多落第しないように酒は控えとけよ。」
全員が大爆笑した。
彼らは何を考え生きているのだろうか。「孤独」と言う文字が頭に浮かんだ。
そうか、これがニヒリズムの先なのか。
2010年最後の2000年代に、何故「孤独」と言う空想が生まれたのだろう。
それは一体何だ。
喜多は酒を飲みながら、「孤独」と言う言葉を高校生活に当てはめてみた。
鶴田が言った。
「今日はお開き!」
さっちは「えーもう」
「おあいそおあいそ」と言いながら、吐いたのが誰もいなかったこと誇り持ったのが、木下だった。
「喜多、酒に弱いのに、よくねばった。」
全員から拍手が出た。
「ありがとうございました。」
夜、一人で歩いて、誰もがそう思うである。