ニーチェまたは厭世観。
僕はニーチェを語った後、ニーチェは今年の夏にでも日々にでも、車の中で、少し読んだ
だけで、読んでさえいなかった。夏、エリコはなんかあったと聞いてきた。今年、冬の時代と言われる不況の中、ニーチェを読んで、蓄群だと罵っている人々は、対して哲学的でも無いなと思う。それよりも、脱構築、死ね!
ただ毎日を過ごす喜多にとっては、世の中のことなんかどうでもよかった。喜多は哲学が好きな割りに読書から逃げ上していた。彼の読んだ哲学書は「善悪の彼岸」だけだった。彼はニーチェの解説を調べるため、ネットをしたがほとんど無意味に近いプロパガンダの一種にしか見えなかった。
喜多はエリコのほかに女友達を持っていた。複数に及ぶその数にほかの友達は爆笑していた。その友達である一人の鶴田は、「お前、友達に女ばかりでもいいけど、全員にふられている状況じゃ、お前のはげ頭も、立派に見えないぜ。」喜多はそのことに関して無口だった。エリコの他にさっち、ななこ、色々と数え上げられるのだが、一回も進むことは無かった。ただ、彼の周りが騒がしいだけであった。そしてはげ頭は存在感を増していた。
「えー僕ね。高校になって、はげになったのだけど、髪の毛いつ無くなったのか覚えていない。」喜多がそう言うと、周りから苦笑が出てきた。受けを取ろうとしたのかよくわからない発言だった。
喜多はクラスメートの木下に文句を言った。「毎日こんなんじゃかったるいよ。変わってくれ。」木下は「もう」「登校拒否気味のお前にとっちゃ、2年を落第しかねないんだから、勉強しろ。」喜多は「俺は勉強が苦手なんだ。」木下は「嘘つけ、哲学好きの偽文系だろ。」「いまじゃ。」喜多は、「もう俺帰るわ。」
そうして喜多はさっちに今度酒を飲みに行こうと言葉をかけた。そしてさっちは言った。「じゃあ喜多君の友達もいれて遊ぼうよ。」「木下君どう。」木下はOKの合図を取った。
喜多は家に帰った。母親の顔も見ず部屋に入った。
えーと、ニーチェは何故蓄群と読んだのか、文章体も適当だし、哲学って本当に面白いな。いや適当に書いてるわけじゃないぞ。適当に書いてるって、どういう話なんだ。文体が面白すぎる。この問題は、置いといて。数学は苦手だ、何故あれだけ参考書がいっぱいあるのか分からない。世の中なんて、考え事の1%の喜びしか味わえない。読書から逃げている自分はいかにしてここから成り上がるか。ニーチェ、適当な文章ありがとう、それでもやっていけると思った。それがニヒリズムってやつだろう。まあ、これからだ。