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あの花の名前

 ずっと思い出せなかった記憶の蓋が、ぱかりと開く。


 知ってるもなにも。


「それ……僕、です」

「えっ!?」


 男性が驚いた顔をして、呆然とする僕を見つめた。


 新聞やニュースでは、誤って沖に流されたことになっているが、本当は違う。いじめに耐えかねて、死のうとしたのだ。


 その日は夏休みの最終日で、遊泳は既に禁止になっていた。


 夏休みに入った瞬間から、夏休みが明けたときのことが頭から離れなかった。毎日学校でのことを夢に見て、怯えていた。学校に行っているときより、実際には休み中のほうが辛かったかもしれない。


 その夏休みが、いよいよ終わる。


 当時、僕の心はすっかり疲れ切っていて、言うなれば目を開けたまま気絶しているような状態だったように思う。


 足の赴くまま、僕は海へと入った。


 少しづつ、記憶が蘇っていく。


 正直、あのときの海水の冷たさも波の音も、ぜんぜん覚えていない。


 ……だけど途中、だれかに名前を呼ばれた気がして振り返った。


 そうしたら、彼女が――宮野さんがいた。


 宮野さんは、必死に僕を呼んでいた。

 振り返った直後、波に呑まれた僕は意識を失った。気が付くと僕は病院のベッドにいて、両親の泣き顔が見えた。


「あのとき助けてくれたのは、宮野さんだったんだ……」


 思い出した真実に愕然とする。

 僕は、八年前に宮野さんと出会っていた。

 昨夜、僕が会ったのは、記憶の中の宮野さんの姿とそう変わらない。

 ということはつまり、あの頃に彼女は亡くなったということだ。


 ……僕を助けて、彼女は死んだ。

 それなのに、僕は……恩人である彼女のことを忘れて、また死を選ぼうとしていた。


「また……助けてくれたんだ」


 衝撃的な現実に打ちのめされ、言葉を失くしていると、ふと疑問が湧いた。


「……でも、宮野さんはどうして二度も、僕を助けてくれたんだろ……」


 成長していない僕を、見限ったってよかったのに。むしろ、恨んでいたっておかしくないのに。


 ぽつりと零した疑問を男性が拾う。


「彼女ね、昔、小学生の男の子に助けてもらったことがあるんだって言ってたよ」

「助けてもらった……?」


 記憶を辿るが、そんな記憶はまったく思い当たらない。


「当時、彼女は家にいたくなくて毎日図書館にいたらしいんだ。ある日、図書館の庭で暇を潰していたら男の子が話しかけてきたんだって。雑草を見て、『この花、可愛い』って」

「花……?」


 記憶のぜんまいが巻かれていく。


『――この花、可愛い』

『――こんなの、雑草だよ。なんの価値もない』


「それ……覚えてる」


 心が震えた。


「『そんなの、だれかが勝手につけた名前でしょ』」


 声が被る。男性が驚いた顔をして僕を見た。


「そう! 彼女、そう言ってた!」


 ……思い出した。小学生になってすぐの頃、僕は一時期、図書館に通っていたことがあった。


 パートを始めた母親が、仕事が終わって迎えに来るまでの間だけ、学校近くの図書館で待つように言われていたのだ。


 本なんてぜんぜん好きじゃなかった僕は退屈で、いつも館内をふらふらしていた。


 彼女のことを知っていたわけじゃない。

 僕にとっては、記憶の片隅にも残らないほど些細な一コマ。

 庭でひとことふたこと話しただけのひとだ。


 でも、たしかに会っていた。


 あれはたしか……。

「――シロツメクサ」


 白い花がぽんぽんとしていて、大福みたいで可愛いと思ったあの花。


 花を見て、僕は言った。


『この花、可愛い』


 すると、すぐ近くにいた高校生くらいの女の子が、僕を見て言った。


『こんなの、雑草だよ。なんの価値もない』

『違うよ。そんなの、だれかが勝手につけた名前でしょ』


「……そうです。僕、あのときたしかに宮野さんに会っていた。それで……シロツメクサに、名前を付けたんです。彼女が雑草だなんていうから。僕が名前をつける、この花は大福にする、って。その頃僕、ハムスターを飼いたくて仕方がなかったから、この花を一緒に飼おうよ、って彼女に」


 そう言ったら、宮野さんは涙を流して笑ったのだ。なんで泣くんだろう、と不思議だった。悲しくもないのに。

 僕にとっては、なんでもない会話だった。

 だけどもしかしたら、僕の言葉が、死に際だった彼女を生かしたのかもしれない。


「彼女はそれまで、じぶんは雑草だと思っていたって。親にすら愛されない、みんなに踏みつけられる雑草なんだって。……君のことを嬉しそうに話していた。大地くんという男の子が、私を救ってくれたんだって」


 涙をこらえる僕の背中を、男性が優しくさする。


「彼女は心から、君の幸せを願っていたんだろうね」

「嘘……つかれましたけどね」

「でもその嘘が、君を救ったんだろ? というかそもそも、君が彼女を覚えていたら嘘にはならなかったわけだしね」


 痛いところを突かれて、唇を引き結ぶ。

 男性は手に抱いていた花束を彼女に手向けると、振り返って僕を見た。


「……さて。僕はそろそろ行くよ。……君はどうする? 車で来てるから、良かったら送ろうか?」


「…………」


 戻るつもりなどなかった日常に、手招きされて困惑する。

 彼は、今会ったばかりの、名前も知らない男性。僕と同じように人生に絶望して、そして、彼女に救われたひと。


『絶望するってことは、それだけ真面目に人生を生きている証拠じゃん。それだけでじゅうぶん、えらいじゃん』


『他人はじぶんにはないなにかを絶対持ってる』


『いつか本物の死が君の目の前に来たときに死にたくないって思えたら、それがよく生きた証だ』


 本当に、彼女の言うとおりかもしれない。


 ――生きたい。


 彼女と話して、男性と出会って、素直にそう思えた。


「……お願いします」


 小さく返すと、男性は優しく笑った。


「そうだ。帰りに牛丼屋でも寄っていかない? 奢るから」

 なんて、男性が少し砕けた口調で訊いてくるものだから、思わず僕は、

「……あの、さっき人生あんまり上手くいってないって言ってたけど……お金とか大丈夫なんですか?」


 男性が困ったように笑う。


「牛丼くらいなら大丈夫だよ」

「そうですか」

「……まぁ、たしかに僕今一浪中だし、お金はないけどさ……」

 素直に白状した男性に、少し親近感を抱く。

「あの、名前聞いてもいいですか」


 男性はくるりと振り向き、嬉しそうに頷いた。


「――僕の名前は」


 僕たちの背中を、優しい朝日が包んでいた。


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